第163話 正解

 僕には兄がいるはずだった、その趣旨を皮切りに母は僕がまだ産まれる前についての話をし始める。


「最初、私のお腹には二人の小さな赤ちゃんがいた。順調に何事もなくすくすくと育っていって、私のお腹もそれに従ってどんどん大きくなってきたの」


 母はその時を思い出すかのようにそれはそれは優しい手つきでお腹をさする。その仕草に僕と、僕の兄になるはずだったもう一人の子は産まれる前からもすでに深く愛されていたのだと、嬉しく思うのと同時に、母の優しい表情の中にあるわずかな悲しみに僕は気付いた。


 優しく温かな白い絵の具の海に、一滴黒の絵の具を落としたような一縷いちるの僅かな悲しみはやがて温かいはずだった白を次々と飲み込んでいき、母の表情をグレー色に鈍よりと曇らせた。


「でもある日の検査の時、一人の影がパッと何事もなかったかのように……綺麗さっぱりいなくなっちゃったの」


 母は感情を押し殺そうと必死に我慢しているように見えるが、声は大きく震え、両手は力強く握りしめ、目からは大粒の涙がまるで豪雨のように溢れ出ていた。


「――――」


 自分のお腹にいた子どもが原因も分からず、突然姿を消した。その悲しみや苦しみ、やるせなさや不甲斐なさなどは僕には想像もつかないほど苛烈なのだろう。そこでいくら血が繋がっている母親だろうとも、気持ちが理解できるなどそのような言葉を簡単に口になど出来るはずもないし、してはいけないだろう。


「――――」


 しかし、完全には理解出来なくても、完璧には想像出来なくても、少なくとも同じような経験はしたことはあった。それはさくらがガンダに連れ去られたときのことだ。

 その時に感じた目の前が暗転したように真っ暗になるような、全身の血が一気に抜かれたような、そんな生きた心地がしなかったのを今でも鮮明にこの身体に、心に刻まれ覚えている。


 比較するわけではないが、大事な人が自分の元に戻ってきたのと、いくら手を伸ばしても届かない場所に行ってしまった場合では、心へのダメージは後者の方が大きいだろう。


「――――」


 その時負ってしまった負の感情の質は分かれど、大きさまでは計り知れない。なので僕は母に掛けるべき言葉の正解を見つけることが出来なかった。


 候補はいくらでも思いついている。だが、母の気持ちを完璧に理解もしていないのにそれらをどれほど口に出そうとも、気休め程度にもならないだろう。あまりにもそれらは薄っぺらで、味がしなくて、無意味だからで、例えるなら辞書にある言葉を記されている通りの意味で書き綴られた小説のようなものだろう。


「――――」


 これぞと言う正解が見つからなく何も言葉が出てこなかった僕は、何かに怯える子どものように震えている母の肩を優しく腕で包み込んだ。子どもの時の記憶よりもやけに小さく感じるその身体をさすりながら、僕は思う。


 ――母もやはり僕と同じ人間なのだ、と。


 母は昔から何でも出来た。


 料理や洗濯、掃除などテキパキと動いては、やらなくちゃいけないことを片っ端からものすごい勢いで片付けていた。父もやってはいたものの、いつの間にか手に持っていた干し終わった洋服などは無くなりタンスに綺麗に整理されていたり、トイレの掃除を終え他の場所を掃除しようかと意気込むけれどその時には全て完璧に掃除されていたりなど……家事の能力を比べたら右に出る者はいないほどに、母は家事が得意だ。


 家事については圧倒的に母に劣ってはいるものの、家電や機械類に対しては父がすごかった。少しぐらいの故障であれば、パソコンからテレビ、洗濯機など日常で使う物なら大体はあっという間に治せていた。

 それだけでは飽き足らず、より良く改良までしてしまうような開発者泣かせの始末だった。


 そんな完璧な二人を間近で見ていたため、父と母は悪い部分や弱い部分など一切無いと思っていた。それは人は皆大なり小なり悲しみを抱えていると知った時でも、心の何処かではその考えは僅かに残っていたのだろう。


「――――」


 しかし、昔よりも少し小さく感じる母の身体は、僕が昔感じていた完璧などではなくてちゃんと人間らしく思えた。


「――――」


 掛けるべき正解は今も見つからない、でもそれで良いんだ。僕の腕の中で負の感情を露わにし、僕が産まれる前からずっと抱えている悲しみを涙に変え、少しでも吐き出している母の姿を見て、僕はそう思えた。

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