閑話 弱い私と強い君。

 真冬家とは住居が近く、親同士が同級生で特別仲が良かったということもあり、私たちが産まれる前から付き合いを持っていたらしい。そして、私たちが同年に産まれてからは、子育てについての悩みや相談を話し合っていたため、より近しくなったという。

 そのため物心ついたときから、休みの日には、どちらかの家でお茶会や集まりなどが頻繁に行われていた。しかし、まだ小さかった私たちが親同士の世間話についていける訳もなく、暇を持て余していた私と真冬が仲良くなることは、自然だったと言えるだろう。


 その頃の真冬は、男の子だというのにも関わらず、そこら辺の女の子よりも女の子っぽい顔つきで、体つきもえらく華奢で、何かあったらすぐ折れそうな子だった。それに対して私は、向こう見ずな性格でその自由奔放さのせいで真冬をよく振り回していた。どちらの両親からも、性格が逆だったら良かったのに、と嘆かれる始末だ。もっとも、私はそんなこと気にもしていなかったが。


 そんな女の子っぽい真冬に、男勝りで正反対の私が恋に落ちたのは、小学校2年生のときだ。


 今でも目を閉じてみると、あのときの清らかな川の流れる様子や来訪者を優しく抱くようにそびえ立つ山の佇まい、自由そのものを表わしている空に行く先など決めずに悠々と身を任せる雲の一つ一つの形でさえも、鮮明に浮かんでくる。

 さらにその想い出は、ただ瞼の裏に浮かぶだけにはとどまらず、感情までもが想い出されるほど私の目にも、耳にも、鼻にも、舌にも、神経にも、果てには魂や心にまでも刻まれていることだろう。


 一切合切の誇張抜きでそう言えるほど、何が何でも絶対に守るべき大切なもので、誰にも渡したくないし渡さない大事なもの、だと思っている。


 ――言うなれば、宝物と形容しても良いだろう。



 夏真っ盛りで炎暑が身も心も焼き尽くす頃、私の両親と真冬の両親の粋な計らいにより計画された、川でバーベキューをしたときの話になる。


「あとは大人たちで片付けするから、真冬くんと目の届くところで遊んでて。――分かってるとは思うけど、危ないから川に近づいちゃダメよ」


 母たちは、使い終わったコンロや炭などバーベキューに使った物を、忙しなく片付けていた。片付けを手伝おうとしたところ、満場一致で止められた私は、他にやることもなく手持ち無沙汰になってしまい、見ている他なかったが、その言葉で自由を得た。

 母が最後の一言を放った時の面持ちは、酷暑だというのにもかかわらず、さくらの肌は粟立つほど寒気が駆け巡った。鬼も金棒を投げ、無い尻尾を巻いて逃げるほどの形相だった。

 いつもは優しく温厚なのに、怒ったときは火山が噴火した程度では形容できないほどの憤怒っぷりを知っている私は、これはまだ大丈夫なレベルだなと軽く考え、その軽さで了解の意を返す。


「はい、ママ!」


 私とは違い、片付けを手伝えるだけの器量がある真冬は、少し離れたところで出たゴミを袋にまとめていた。それを見つけた私は、これ幸いと思い元気に声をかける。


「真冬くん!遊ぼー?」


 早く遊びたくて仕方ないのを伝えるほど元気いっぱいに誘ったが、真冬の表情は対照的に曇った様子になる。


「ごめんね……僕、ゴミの片付けをしないといけないんだ」


 まさか自分の誘いを断られると思ってもみなかったさくらは、その断りの返答に少しだけ――周りから見たら相当なほどムキになってしまい、逆ギレ、傲慢、無責任と最低な三拍子そろい踏みのお転婆娘っぷりを遺憾なく発揮した。


「そんなの大人に任せて良いから、私と遊ぶの!!」


 そんなやりたい放題のさくらに、まだ幼く傍若無人に対する対処法を有してない真冬は、困った顔をより一層深めるだけだった。どんな言葉なら丸く収められるか考え、処理不可能と脳が判断するギリギリで話に出ていた件の大人――真冬父から、鶴の一声が発せられた。


「遊びたいなら遊びに行っても良いぞ!」


「でも……任された仕事は最後までやらないと……」


 そこまで言われてもまだ渋る真冬に、さくらは暴君よろしくムッとした顔で睨み付ける。その表情を受け真冬はすごすごと黙るしかなかったが、そんな仲むつまじい二人を見て、真冬父は快活に笑いながら、


「じゃあ、真冬に別の仕事をやる。ゴミ捨てよりも大事な仕事だ――俺らが片付け終わるまで、さくらちゃんとどっかで遊んでろ」


 真冬のお父さんは笑いながら、私の頭をその大きな手で乱暴に撫でる。淑女たるもの綺麗に整えた髪がぐしゃぐしゃになるも、不思議と嫌な気持ちにはならない。

 私と遊ぶという大事な、それはもうとってもとっても大事な仕事を与えられた真冬は、諦めたような表情になり、それを見た真冬のお父さんは、ゴミ袋を受け取り「あとは若い2人に任せて」とニヤニヤしながら、どこかへ歩いて行った。


「はぁ、分かったよ……じゃあ、なにする?」


「じゃあー……川に行こ!」


「え!僕、父さんとお母さんに今日の川は特別危ないから絶対に近づくな、って言われてるんだけど……」


 この頃にはもうすでに、母の絶対零度を放つほどの表情と、釘を何本も刺すような忠言のことは、頭の中から銀河の彼方へと吹き飛んでおり、胸を張り手で叩きながら真冬に向かって、


「大丈夫だよ、私がいるんだし!」


 そんなさくらの自由気ままな振る舞いに、一度言い出したら最後、もう誰の言葉にも耳を傾けないことが決して短くない付き合いから分っている真冬は、その年に似合わない疲れた表情になり、長い長いため息を吐いた。せめて見るだけにして、決して川辺まで近付くことがないようにしよう。


 ――その願いが叶うことは無かった。



「あ!お魚さんが泳いでるよ!!」


 さくらは真冬の願いを悉く裏切り、川辺の小高くなっている岩の上で魚を眺めている。小高くなっていると言っても、さくらが座り込み腕を伸ばせば手が水に着くくらいの高さなので、変な気を起こして危ないことをしなければ良いと、新作の願いを入荷させているのが誰かは、言うまでも無いだろう。


 街中に設けられている居住区に住居を構えているため、こうして自然の美しさに直接触れ合える機会がそうそうないさくらは羽を伸ばすが如く元気溌剌としていた。先ほども一応自然の中に居たと言えば居たのだが、危ないからと自由にさせて貰えず遠くから眺めるしかなかったのだ。

 そんなさくらとは対照的に真冬は、自身が思っていたよりも川の流れが急になっており、遠目からでも分かる決して浅くない水深に、さくらが臆せず近づいていくのを見て落ちたらどうしようと、パニックに陥っていた。それ故、まだ幼い真冬は近づいていくこともできず、出来ることと言えば、川に落ちないでと天に願うことと、なんとか早く離れて貰おうと涙ながらに懇願するだけだ。


「危ないよぉー。早く戻ろうよぉ」


 真冬は、川に近付くことを躊躇うようにもじもじしながら、私に向かって注意を促していた。その目から涙が落ちていたのは、あとでいじる材料にしちゃおう。

 と、心の中で悪戯な笑みを浮かべながら考えていたとき、見たこともないほど大きな魚が、さくらの手元にその貫禄を示すようにゆっくりと、近付いて来ているのが分かった。


 ――これは多分、ぬしってやつだ。


 この魚を捕まえることが出来れば、忘れていた母の忠告(今さっき思いだした)を破って叱られるときの保険用と、今も後ろで涙を流しながら震えている真冬を驚かす用と、私はこんな大きくて立派な魚を素手で捕まえられる、と自慢する用の、三鳥も捕まえられる一石になる、と考え、捕まえるべくして、さくらはおもむろにまだ伸びきっていない手を遠くに伸ばす。


 腕が限界まで伸びきったところで、魚の尾ひれをどうにか掴むことが出来たが、その魚は思ったよりも大きい上に逃げようとする力が強く、文字通りさくらの手には負えないのが分かってしまった。

 単独で捕まえないと名誉は手伝って貰った人と折半になってしまうが、捕まえられずに逃がしてしまうのは元も子もないと、変なところで頭の良さを発揮し、大変不服ながらも後ろを振り返り、真冬に手伝って、と声を掛けようとする。


「真冬くん、手伝って――ぇ?」


 さくらは後ろを向き、真冬を視界に入れようとした瞬間――逃げようとする主を、逃がさんと岩を支えに堪えていた左手が、魚が暴れることで知らぬ間に跳ねていた水で滑り、主に引きずられるようにして、頭から真っ逆さまに荒れ狂う川に落ちてしまった。


 まだ小学2年生のさくらの身長は130cmにも満たなく、他の川よりも少しばかり深く、主を守るように暴れる川では、呼吸を確保したまま足を川底に着けることは到底出来なかった。それに加えて、準備もせず急に落ちたことからさくらはパニックに陥り、喘ぐようにして酸素を求めたとき、口から大量の水の進入を許してしまった。


 何が起きたか微塵も理解できず、その中で唯一人間の本能的に理解できたことと言えば、もう自分は永くない、という絶望だけだった。


 もう助かることはない、と抗うのも藻掻くのも止め、朦朧と薄れゆく意識の中で、生きることを半ば諦めかけていたとき――


 遠くの方から、バシャーン!!!と水が飛沫を上げるような音が鼓膜を揺すり、背中では水温とは比べようもないほど温かく、優しい何かが感じられた。

 このままこの温もりに包まれながら死ぬなら……、と最期に一筋の希望を見出していると、肺が、細胞が、脳が――身体が、まだ生きたいと主張するように呼吸をした。


 ――私、まだ生きたかったんだ。


「――さくらちゃん、大丈夫?大丈夫?」


 大丈夫?大丈夫?と何度も何度も泣きながら声を掛けてくれる真冬の顔は、下手をすると命が危なかった私よりも青白く、それだけ心配してくれているのが伝わってきた。そんないつも通りとは言い難いが、真冬の顔を見て安心したのか、抑圧されていた恐怖が堰を切られたかのように一気に溢れだし、目からは恐怖と同じぐらい滂沱の涙が溢れてきた。


 時間にしたら10分ぐらいだろうか。それぐらいが経ったときには、私は落ち着きを取り戻していた。徐々に落ち着きを取り戻しつつあるときには全くといって良いほど気が付きもしなかったが、私は恐怖心からかどうやら赤子のように真冬の背中まで手を回ししっかりと抱きついていたみたいだ……――っ!!


「きゃっ!!」


「――うぐっ」


 自分のしていることを理解していくと同時に、じわじわと顔に熱が集まってきて赤くなってくるのも分かった私は、背中まで回していた自分の両腕を解き、抱きついていた対象――真冬を思いっきり突き飛ばした。

 恥ずかしさから何も考えずに力一杯突き飛ばしてしまい、申し訳ない気持ちはあるのだが、顔を見られたらまずいと本能が訴えかけているので、「さくらちゃん、大丈夫?」と、こっちの気も知らずに顔を覗き込んでくる真冬から、必死に顔を背け続けた。


 その結果、真冬は諦めたようにため息を吐き、


「今度からは危ないことは絶対にしちゃダメだよ!」


 と、優しさで造形されたと言っても過言ではないほど普段は温厚な真冬からは考えられないほど、怒気に包まれた声音で言ってきた。だが、それはただ怒っているのではなく、心の底から私のことを心配してくれていて、私のことを考えてくれていることからくる、叱りだということも伝わった。

 真冬は、きちんとさくらという人間を真っ正面から見てくれて、向き合ってくれているのにも関わらず、自分は無意識とはいえ抱きついていた恥ずかしさから介抱してくれた相手を突き飛ばし、謝るどころか、目も、顔さえも合わさないという体たらく。そんな自分をなんとも浅ましく自分本位で――なんたる傲慢だろう、と紆余曲折を経て、やっとのことで周囲の人間が思っていたことに思い至ったさくらは、


「わがまま言って……自分勝手で……心配を掛けて……。――ごめんなさい」


 と、今までの言動や態度のことを含めて、ありったけの謝辞の思いを言葉に込め、誠心誠意恭しく頭を下げた。


 そんなさくらの姿を幼なじみという立場からひいき目に見たとしても、傲岸不遜の権化かつやりたい放題を地で行くさくらが、人に頭を下げている姿に真冬は、二の句が継げずしばらくの間、開いた口が塞がらなかった。


 ぼーっとしている真冬の顔を、頭を下げているせいで見えないさくらは、まだ許して貰えてないと思い、引き続き頭を下げることに徹していたが、不意に頭に乗せられた温かい感触に思わず、顔を上げる。


「確かにさくらは、ちょっとだけ驕ってて、少しだけ自己中心的で、いくらか好き勝手にやるところに思うところが無いわけじゃないけど、僕としてはそういう過去の事を“ごめんなさい”って謝られるよりも、現在進行形で元気に生きて“ありがとう”ってお礼を言われる方が、すごく嬉しいよ」


 真冬の底の見えない果てしない優しさに、さくらは目から大瀑布のように溢れる涙を拭うことなく、鼻水と涙の区別も付かないほどぐしゃぐしゃの顔で、


「だ、助げでぐれで……ありがどう゛っ」


 と、笑いながら感謝の言葉を口にした。


 それを聴き受けた真冬は、さくらの頭に置いた手を撫でるようにそっと動かし、柔らかく笑った。


「どういたしまして」


 その姿は、いつもは腰巾着のように四六時中私のすぐ後ろに着いて「さくらちゃん、さくらちゃん」と、なにかあるごとに泣き縋る真冬とは似ても似つかなく、この時だけは、頼もしく、そしてかっこいいと思った。

 そしてその精悍な顔立ちを見て、その優しさで出来たような在り方を見て、私はこの人になら自分の一生を捧げても構わないと、まだ子どもながらも感じたのだ。





 そしてしばらく経ち、片付けを終えたであろう母たちが帰るために私たちを呼びに来た。私たちを見つけ声を掛けようとした時、髪も服も水でびっしょり濡れていることに気付き、眦をつり上げ今にも爆発しそうな顔で、なんで濡れているのかと詰問してきた。


 私は、母の忠告を無視した挙げ句、結果2人とも大事には至らなかったが、真冬を危険に晒してまで助けて貰ったことを打ち明けたら、今までのとは比にならないほど怒られるとその顔から想像が出来、川に落ちた時とは違った種類の恐怖から黙りこくってしまった。


 それを見た真冬は、自分ならさくらほどまで怒られることはないだろうと頭を回転させ、即座にで法螺話を構築し、嘘だとばれないように演技した。


「川で遊びたいとさくらちゃんを無理矢理連れ出し、嫌がるさくらちゃんを余所に一人で遊んでいたら足が滑り、川に落ちてしまいました。そして落ちた僕をさくらちゃんが助けてくれたのが、事の顛末です」


 さくら母は、自分の娘が事の発端でそれに真冬が巻き込まれたと思っていたようで、眦を限界まで釣り上げた怒りから、まさか不肖の娘が事の収集の功労者だったとは思いもしなかったと顔に書いてあるほどの驚きへと移行し、その目を見開いた。


「なので、今回の責は僕にあります。叱責ならどんな言葉だろうと甘んじて受けますので、さくらちゃんのことは叱らないであげてください」


 と、小学二年生とは思えないほどの演技をやってのけ、遂にはさくら母を黙らせた。


 そんなペテン師もびっくりな饒舌さと演技をなんの準備もなく行った真冬を隣で見ていたさくらは目を見開き、目の前に立つ母親と瓜二つな顔を見せていた。


 落ちた私を自身の危険を顧みずに川から助けてくれた上に、またも真冬は私を守り、そして庇ってくれたのだ。

 驚きすぎて目をぱちくりさせる横の私に、真冬は「僕に任せて!」と言わんばかりに片目を瞑り、下手くそなウィンクをしてきた。私はそれを見て、格好いいことをしてもそれを打ち消すような格好悪いことをして、最終的には格好つかなく終わるのがオチ、を地で行くんだな、と心の中で思った。

 そんないつまで経っても変わらない真冬を感じて、まだ母の怒りとほとぼりが冷めていないにもかかわらず、吹き出して笑ってしまい、結局は二人で仲良く怒られました。



 それから1時間ぐらい嫌になるほどの説教と小言を二人は正座で受け、反省の色が見えてきたことに満足したさくら母の号令で、今度こそ本当に帰宅することになった。余談だが、他の大人――さくら父、真冬夫妻はその間どうしていたかというと、遠くまで聞こえるさくら母の説教を肴に、運転手の真冬父以外は笑いながら楽しそうにお酒を追加で飲んでいた。

 この人たちにとってはこの風景が日常茶飯事――真冬夫妻は基本的に放任主義、さくら父はさくら母に教育は全任している――なのだ。

「「――ッ!!」」


 長い長い説教が終わり帰ろうと立ち上がったところ、長時間の正座により足が痺れている二人は歩くことは疎か立つこともままならなかった。生まれたての子鹿のように足をがくがく震えさせている二人にさくら母は、さすがに見兼ねた親たちの意見を代表して声を掛けた。


「先に車に行ってるから、足治ったら来なさい。ゆっくりで良いからね」



 それから10分ほど経ち、足に血液が流れる感覚に慣れ、その感覚が薄れゆく頃二人は歩き出した。


 暗くて危ないからと前を率先して歩く真冬にさくらは大きな声でお礼を言う。


「真冬くん!さっきは……ううん、今までありがとっ!」


 今まで、とは別れを意味すると普通は思うだろうが、今まで接してきた関わりから、今生の別れではなく、今までのこと――過去のことへの純粋なお礼だと、真冬は理解していた。


「大丈夫だよ……でも、結局二人とも怒られちゃったね」


 真冬は自分の詰めの甘さで失敗したことを理解しているのか、情けも力も無く笑った。もっとも、詰めの甘さと言っても、第三者から見たら、あの場面で吹き出すことなど予想も出来ないし、予想を裏切り吹き出したさくらが全面的に悪く、真冬が悪いことなど決して無いだろう。

 強いて真冬の欠点を挙げるとするならば、詰めが甘いということではなく、笑ったことを攻めることも詰ることもしない――さくらにだけダダ甘ということだろうか。それとウィンクが絶望的に下手なのも1つ追加しよう。


 そんな自虐的に笑う真冬の表情と声に、これから伝えようとしている内容に恥ずかしそうにしているさくらは気付いていなかった。


「私ね!……真冬くんが困ってたら助けてあげるっ!!――」


 昨日までは、いや、川で助けられる前までは、困る原因を量産している側だったのに、作る側は辞めて、一緒に処理していく側へと転職するとさくらは言い出した。

 そして、続く言葉には、尊敬を。訴える目には、憧憬を。伝える声には、景仰を込め、


「――今日の真冬くんみたいに!!」


 力強くはっきりと言い放った。


 大したことはしてないよ、と言いかけたが、それを言ってしまうとさくらの感情や想いを否定してしまうことになると思い、照れくさいながらもはにかんだ。


「うん、お願いします」


「こちらこそお願いします」


 二人とも丁寧に深くお辞儀をし、顔を上げたあと恥ずかしさから一頻り笑い合い、自分たちの両親のもとへ帰っていった――。



 そんな真冬は、高校生になってから原因は不明だが多数の人たち――主にDクラスの人たちから虐げられている――いわゆる、集団でのいじめだ。


 私が、以前真冬が在籍しているDクラスの先生に、その事を伝えた時、


「さくらさん、あなたは持っている人です。そこらへんの有象無象の持っていない人と関わるのはやめた方が賢明だということは、あなたなら分かりますね?それらはあなたの品格を落とし兼ねない」

 

 と、小さい子を教え諭すように言われてしまった。あくまで至極当然のことを言ったまで、と言わんばかりのその表情に私は、我を忘れ、激情に駆られそうになる。しかし、この激情に身を任せることこそが真冬を落とすことになると気付き、唇を噛みしめ、今も沸き上がってくる憤怒を理性で抑えつける。

 その時、心の底から思い、感じ、そして納得した。

 ――Dクラスは酷く歪んでいる。


 この学校の在り方そのものには、怒りを通り越し、いっそ呆れを感じていた。だが、ここで私が声を抑え、現実を諦観し、泣き寝入りしてしまえば、内情こそ違えど、あいつらと本質的には同じことだと思い、徹底抗戦の意志をを改めて固めた。


 真冬を迎えに行く途中でそんな決意を固めたそば、誰もが目にはいる場所で3人の男の子が、白昼堂々と真冬に蹴ったり、殴ったりなど暴行をしているのを目が捉えた。――いじめという生ぬるい言葉ではない。紛れもなく犯罪行為に等しい、暴行だ。

 少し前から始まったであろう非道の行いが止まってないことから考えるに、周囲の人は見て見ぬふりをしていただろう。こういう場合、傍観者にも多少の非があると思うのは、思い違いではないと願っていたい。


「やめなさい!そんなことして恥ずかしくないの!」

 

 さくらは全速力で現場へと近づきながら、なるたけの怒気を孕ませた声でそう叫んだ。

 さくらに叫ばれた3人組の男たちは言うまでも無く、傍観を決め込んでいた周囲の人たちまでもが、殺人犯が凶器を持って迫ってくるほどの恐怖を感じ、蜘蛛の子を散らす勢いでその場所から離れていった。


 今日も今日とて蹴られたり、殴られたり、踏みつけられたり……。思いっきりやり返せばいいじゃん。

 ……まあ優しすぎる真冬には多分、無理かな。――だから、私が助けてあげないと!


「大丈夫?真冬」


 制服は埃と蹴られたときに吐き出したであろう体液だらけ、顔は殴られたときにできたと思われる青あざと、くっきりと残る靴跡はおそらく踏みつけられたことで出来たと思われる。それらの傷は、真冬に向けられた謂われのない悪意の凄惨さを如実に物語っていた。


 だが、真冬は痛みを感じる素振りを微塵も見せず、私の言葉に「大丈夫」と笑って見せた。その後、辛抱溜まらなかったのか何かまずい物を口にしたような顔をして、血の味がするとただ一言だけ言った。


 強がって見せる真冬とやりとりをした後、私は学校に備え付けられている自販機に水を買いに行った。急いで買ってきたひんやりとするそれを渡すと、真冬は神妙な顔をして藪から棒に、


「ありがとう。ねぇ……なんで僕なんかに優しくしてくれるの?」


 あれ……?小さい頃の話、忘れちゃったのかな……。まあ、しょうがないか。――でも私はずっとずーっと覚えてるんだよ。


 真冬が覚えてないことに幾ばくかの怒りを感じたと同時に、あの時、あの瞬間を再び思い出して顔に熱が集まってくるのも分かったので、それを見られまいと誤魔化すために早く帰りたいと真冬を急かした。



 真冬と分かれたさくらは自分の家に着くや否や、学校の鞄を自室の机の上に置き、エコバッグに持ち替え、近所のスーパーへと急いだ。

 スーパーへ向かう途中、不思議なことに野良なのに(?)真っ白で品格すら漂う猫が、人懐っこくすり寄ってきたので、少しの間戯れ、その愛くるしさに癒されるなど一幕があるも、早々に目的を思いだし「またねー」と名残惜しそうに手を振りながら、遅れを取り戻すべく歩を早めた。



 今日は何にしようかなー。明日は妹の子守りをしなくちゃいけないからー……。――あ!そうすると真冬の家にご飯を作りにいけないから、明日もチンして食べられるものがいいか。


 明日も食べられて、最近作っていなくて、真冬の好きな物、とその3つの条件を脳内で検索を掛けると、唐揚げが浮かんできたので、メインは唐揚げに決定した。今日明日と続けても飽きないようにソースも作る予定。サブは健康を考慮して、いろいろな野菜が摂れるチョップドサラダ。それと日本人なら誰しもが大好きであろうお味噌汁で、今日のメニューは決まりだ。


 鶏肉と数種類の野菜、お味噌汁の具であるネギと豆腐を買い物カゴへと入れて、レジへと向かう。

 レジの店員さんが近所のおばさんだったので、お会計が終わる間、世間話をした。


「今日も真冬ちゃんにご飯を作ってあげるのかい?」


 話しかけてきたレジのおばさんは近所に住んでいる。私と近所ということは、必然的に真冬の家とも近所ということになる。端的に言えば、近所に住んでいて共通の知人だ。

 知人と言っても、小さい頃から今に至るまで、何かと私たち二人は面倒を見てもらっており、その関係性は結構深く――恩が一方的にある形ではあるが、向こうは私たちを我が孫のように接してくれ、こちらは実のおばあちゃんのように接している。


 家族や友達には言えない悩みや、今日あった嬉しかったことなど、不思議とこの人にならどんなことでも包み隠さずに話せるのだ。それはひとえに、どんな些細な相談や報告でも、積み重ねてきた月日による含蓄ある言葉と、文字通り孫の話を聞くように嬉しそうに耳を傾けてくれる姿勢などなど、親身に接してくれるからだろう。


 そういう切っても切り離せぬ間柄なので、真冬にご飯を作っていることも、もちろん話した。炊事経験者なら分かると思うが、ごく稀に訪れる献立に行き詰まる事がある。そんなとき相談すると、一緒に献立を考えてくれるからとても心強い。

 ちなみに、おばさんは管理栄養士、調理師、フードコーディネーターなどの資格を有しており、平たく言うと、食に関するプロフェッショナルなのだ。このことも、心強さを増加させる一因を担っていることだろう。


 料理に関しては他の追随を許さないほどの実力も知識も兼ね備えている人が、料理とはほど遠い……とまでは言い切れないが、刃をなかなか活かし切れないスーパーのレジなんかをやっているのかというと――ただ単に人と関わるのが楽しいから、とのことだ。


 この人はともすれば料理を教えるだけでお金が貰える、それはお小遣い程度では止まるところを知らず、それだけでご飯が食べられる――生活費ぐらいは稼げるだろう。

 だが、料理教室を開くとなると、結局のところ参加人数は会場のキャパで限られてしまい、お金も頂かないとそもそも料理教室を開くことは出来なくなってしまう。だから、こうした不特定多数の人が行き交うスーパーで、自分がスーパーからお給金を貰える形でプチ料理教室(レジに来た人とお会計をしている間でアドバイスをするなど)をやる方が、お互いWin-Winだし、性に合っている、とのことだろう。


 ――これはあくまでもさくらの独断と偏見による見立てに過ぎないが、思いの外おばさんの考えの的を射ていた。


 この人には、料理でも人としてでも、まだ敵いそうにない、とその言葉を聞いたときは思った。そして、その思いは、料理を始め、慣れてきた今の方が、数倍も強くなっている。


 資格のことを聞いた当初でも、料理を教えてくれていたときでも、まだ料理がすごい人と漠然とした評価しかできなかったが、料理を研鑽しある程度のレベルまで上り詰め、やっと同じ土俵にたったと思ったときに感じた、自分の技術の児戯さと、知識の足りなさからは、自分の勘違い――同じ土俵にたったのではなく、ただ同じ競技を別の会場でやっていた。言わば、少年相撲と、相撲の頂――横綱同士の相撲ぐらいの差があり、少年が横綱のいる土俵に上がってしまった、に似た感情を持った。


 その時の冷や水を浴びせられた気持ちを己のバネに変え、努力をして、前頭ぐらいには成れただろう。その成長の骨子を支えたのは、他の誰でもない横綱――おばさんであり、さくらはとても感謝していた。そして、


 ――数少ない尊敬できる大人、とさくらは思っている。


「はい、そうです」


「そうかい、そうかい。して何を作ってあげるんだい?」


 おばさんはさくらをにこやかな目で見ている。その目は、自分の本当の孫を見るように、そして愛弟子を見るような愛情が満ち満ち溢れている。


「真冬の大好きな鶏の唐揚げと、栄養を考えたサラダと、お味噌汁です。おばさん直伝のディップソースも作る予定です」


「そうかい。さくらちゃんも腕を上げたからそろそろ教えることも無いかね」


 おばさんは遠い目をしてそう言った。なぜだか、手の届かないところに言ってしまう気がして、スーパーの中にも関わらず、声を上げる。


「そんなことないです!まだまだ教えて貰うことはいっぱいあります!」


 周りのお客さんが一斉に何事かと興味深そうにこちらを見るが、私は気にも止めない。そして言葉を続ける。


「確かにお料理の大体は教えて貰って作れるようになり、アレンジも幅を利かせられるようになりました」


「それじゃあ、もう――」


 おばさんは「それじゃあ、もう免許皆伝かね」と言おうとしたが、さくらの強い言葉によって遮られた。


「まだ!まだ、お菓子は教えて貰ってません!」


 おばさんはその言葉で考える。和食、洋食、西洋料理、中華、アジア料理などの様々な主食、主菜、副菜、スープ、などをさくらに教えてきたが、ただ一つ、スイーツだけは教えてないことに気がついた。そのことに気付き思わずハッとした顔になる。


 おばさんがハッとした顔になり、さくらは我が意を得た顔になる。


「ちょっと、疲れてるのかもしれんね」


 おばさんはそう言い、商品を素早くレジに登録し、お会計を終わらせた。

 そして、レジ封鎖の置物を置き、さくらに声を掛ける。


「じゃあ、わたしゃ家に帰って休むことにするかね」


「お大事に」と言い、さくらは安堵した顔で引っ込んでいくおばさんの背中を見送る。さくらも真冬がお腹を空かせてるかなと思い、帰ろうとすると声が掛かる。


「最後に料理に絶対に必要なスパ――「スパイスは愛情です!」」


 さくらはおばさんが言い切る前に、小学生が先生に指されたのが嬉しくて元気よく答えるようにその先を強引に貰い受けて答える。


 その答えにおばさんは満足したような表情をして数回頷き、それから何も言わずに控え室へと向かった。


 歩きながらおばさんは思う。


 ――それが分かっているなら、もう料理は完璧さね。



 それからさくらは少し重量感のある買い物袋を持ち、途中途中休憩しながらしばらく歩き、真冬の家の前に着いた。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込み回す。

 鍵は、真冬にご飯を作ってあげることを決め、真冬の両親に話したときに承ったものだ。食費の方も毎月充分な金額が口座に振り込まれているので、何ら心配が無い。しかも、余った分はお給料として自由に使って良いとも言われていて、おかげ様でバイトせず、真冬と一緒に居られる。太っ腹だ。


 合鍵ってなんか同棲カップルみたいかな。照れるな……。と、もう幾度も同じ事を繰り返しているが、毎回同じ感想を、合鍵をニヤニヤしながら眺めながら、さくらは思うのだった。



 ガチャガチャ


「お邪魔しまーす」


 玄関には、真冬のローファーと白いスニーカーが端の方に綺麗に整えて置いてある。他の靴は棚に仕舞ってあると思うが実際はそんなことなくて、外に極力出ない真冬は、靴はローファーとスニーカーの一つずつで事足りてしまうのだ。


 それから玄関の鍵を閉め、真冬の靴ローファーの隣に靴を揃えて脱ぎ、廊下を進む。


 リビングに続く扉を開けると、眼に映るのは、邪魔の物は一切無く住むことに特化し、シンプルを追求した小綺麗なリビングがあった。


「今日はからあげでーす!」


 ある種の一人暮らしのような部屋はもう見慣れたので、さして驚くこともなく、目的の人物に声を掛け、これまた綺麗に片づいているキッチンに向かい料理を始める。



 まずはご飯を炊飯器にセットしてから、からあげを醤油やにんにくに漬けてその間にお味噌汁の具材に火を通しながらサラダを作ってっと!

 手前味噌になるがこのテキパキとした手際の良さは、真冬に少しでも良い娘って思ってもらえるように、決意を決めたあの時からお母さんとおばさんと一緒に練習した努力の賜物だ。そこら辺のプロ料理人と比べても勝るとも劣らず、だと思う。



 ものの30分もせずにテーブルの上には、からあげ~ディップソースを添えて~と懐かしのお袋の味お味噌汁、宝石箱みたいに色とりどりのチョップドサラダに炊きたてのほかほかご飯。


 我ながらこのまま料理本に載せられるほど最高の出来映えだと思う。少しばかりかドヤ顔もしたくなるが、私は出来る女だから平然とする…………出来ていると思う。



「どう?……口に合うかな?」


 真冬は、美味しそうな顔をしながら頬張るように食べているので口に合っていることは明確にわかるが、女の子という生き物はやっぱり言葉にして欲しいのだ。


「うん、すごくおいしいよ!」


 今日一とも言える燦々とした笑顔にさくらは満足した。が、その後、悪戯を思いついた子どものような顔つきになり、自分が言おうとしている言葉の意味をよく確認せずに、ほとんど思いつきで爆弾発言を投下した。


「よかったー!なんか新婚さんみたいだね……?」


「……僕なんかよりさくらならもっといい人いるよ」


 今までの幸せそうな面差しは真冬から消え去り、筆舌にしがたい表情になった。敢えてそれを言葉で表現するというなら、悲痛という言葉がぴったりだろう。

 おそらく他の誰でもない真冬自身が自分の発言に納得も消化も出来ておらず、かといって自分とさくらは釣り合いという観点から決して許されない。その間に揺れる強い葛藤が、意図せず表情に出てしまっているんだろう。


「――ッ!あっ、そうですか……」


 真冬の口からだけはそんな言葉は聞きたくなかったのに、その本人から迂遠に遠ざけられるようなことを言われ第三者という傍目から見ても明らかにさくらは不機嫌になった。


 それからはお互いにほんの少しだけ気まずい思いを感じているのだろう、一言もしゃべらずに最初の方は楽しかった食事は幕を閉じた。



 そして二人とも決まっていたかのように淡々と洗い物の準備へと移る。実際、洗い物は真冬がやると言うことは決まっているのだ。“真冬の身の回りの世話は全部やりたい”と思っているさくらがその思いを口にしたところ、


「良いから座ってて!洗い物までやらせたら僕の立つ瀬がなくなるから!!ご飯作ってもらえるだけでも申し訳ないのに……」


 とまで言われてしまったので、嫌々と、渋々と、不承不承とそれを受け入れた。



 真冬が洗い物をしている最中、ソファーでテレビを寛ぎながら見ているさくらは年頃の女の子らしいことを思案していた。


 こうやって他に誰も居ない状況なのに、真冬が狼さんになる気配が無いのは何でなのかな。――もしかして、好きな娘いるの……!?


「ねー?真冬はそのー……気になる娘、とかいないの……?」


「んー、いないかな」


 その答えに安堵し嬉しく思うさくらは、真冬に見えないように拳を握りガッツポーズをする。


「そうなんだー……じゃ、じゃあどんな娘がタイプ……なの?」


 意中の女の子がいないと聞いてテンションが振り切ってしまったさくらは、落ち込むことになると思って訊く気も無かった好みの話しを、思わず訊いてしまい手のひらで耳を覆うように塞ぎ、叱られるのを待っている子どもみたいになりながら、その返答を待っていた。


「タイプかー……よくわからないけど、一番近いのはさくらかな」


 真冬が言ったことが耳を覆っていたからか処理できず、もう一度言ってとおずおずと聞き返すと、真冬は何でそんな顔しているのと言いたげな面持ちで、さくらだよ、と同じ返答をした。


「そ、そうなんだ。えへへー」


 と、さくらは女の子がしてはいけない締まりが無くだらしない表情で顔をニヤつかせていた。もちろん真冬とは正反対――テレビの方を向いて、だ。


 もっとも、振り向くまでに少々のラグがあったため、その顔が見られていたことを本人に伝えるのは無粋だろう。



 それから10分ほどで、真冬は余った食べ物を違う小皿に移したり、使った食器や調理器具などの洗い物を済ませた。そして、今は二人で仲良くソファーに腰掛け、一緒にテレビを見ている。

 二人の物理的な距離は、男女をまだ意識しない頃、つまり小さい頃からずっと同じで、それは端から見れば年頃の男女だし交際している以外あり得ないだろう、と思うほど近いのだが、当人たちはずっとこの調子なのでそれについて気にもとめていないし、周りもそのぐらいだろうとさえ思っている。


 いつも通りのんびりと流れる時間を堪能しているさくらは、ふと視線を上の方にやり時計を見ると、時刻は9時を回っていた。


 ――あ!出されていた特別課題やらないと!!


 Sクラスは、週の始まりの月曜日だろうと、終わりの金曜日だろうと、帰る間際だろうと、他のクラスでは出されない特別課題なる物を、脈絡もなく唐突に出される。寝耳に水過ぎて、その水で溺れそうになる。それがたまたま今日――夏休み直前だっただけだ。

 誠に遺憾に思う、とどこぞの政治家が使うような言い回しを、クラスの全員が思っている。


「――あっ!もうこんな時間!じゃあ帰るね。明日は来れないから、余ったやつチンして食べてね」


「わかった、ありがと」


「明日終わったら夏休みだから、頑張って来てね。またね!」



 玄関を出て家に向かう。その途中では、何とも言えない寂寥感が心の底からあふれ出てくる。

 ほとんど毎日同じように真冬の家にいって、料理して、一緒に食べて、一緒にテレビを見て、それから適当な時間に家に帰るわけだけど、真冬の家を出たあとに襲ってくる胸いっぱいにこみ上げてくる淋しさはいつまで経っても慣れないな。真冬も同じような気持ちを抱いてくれたら嬉しいな。



 ガチャ


 最低でも8時には学校へ向かい始めなきゃいけない。が、現在の時刻は8時まで秒読みというところだ。いつもは示し合わせたかのように8時前に同時に家を出学校に向け歩き出すのが普通なのだが、今日だけは勝手が違った。

 10分ほど家の前で真冬を待っていたのだが、一向に家から出てくる気配はなく、こうして来てみれば、なるほど納得だ。


 ――真冬は小動物のように布団に包まって、気持ちよさそうな顔をしながら、眠り姫をしていた。


「真冬!真冬!!真冬!!!起・き・て!遅刻しちゃうよ」


「……あ!おはよー、さくら」


 ちょっと寝惚けてるのかわいいなー。これを毎朝見られるのは、幼なじみの特権だね。――そうじゃなくて!!


「あ!おはよー、さくら。――じゃなくて!早く支度して」



「間に合ったー。真冬のせいでギリギリになっちゃったじゃん!」


「ご、ごめんね」


 夏休み直前ということもあり甚だしく暑いので、最近は涼しげなポニーテールにしてる。だからなのか、男子の視線は自然とうなじに注がれる。


 これは真冬のためなんだから!!……あ!真冬もやっぱり見てる!何が良いのか私には理解しがたいけど、真冬のためならしょうがないね。それを、敢えて指摘しない私はできる女の鑑だろう。


 と、さくらは誰に宛てるわけでもなく、一人心の中で勤しんでいるんだった。


「さっきからなに見てるの?」


「あ……いや……なんでもないよ」


 少しだけからかうような目で真冬を見ると、その視線を受けた真冬は誤魔化すように視線をあっちこっちに移動させるも、元来の性格上嘘がつけないため誤魔化しきれていなかった。

 そんなところも可愛いのが、真冬のずるいところだよね。



 靴を上履きに履き替え、廊下を少し歩いたところで真冬のクラスの前に着いた。クラスが違うので、ここでお別れだ。教室に足取り重く入っていく真冬の背中は、これでもかというほど小さく、そして何より弱々しかった。

 ここでさくらが出しゃばり何かしたとしても、真冬の立場をただ悪くするだけで根本的な解決にならないことは火を見るよりも明らかなので、大人しく見守ることにしている。その決断に至るまでさくらは、何回も、何十回も心を痛めつけられ、ズタズタに切り裂かれているのだ。

 自分なら恥をかこうが、辛酸をなめさせられようが、真冬さえ無事で居てくれるなら我慢できるのだが、どれだけ藻掻いても、足掻いても、声高に叫んでも、誰も耳を傾けてくれない。その無力さがさくらにとって一番の呵責になっていた。



 そんな悔しさに苛まれながら耳を通り抜けていた大嫌いな先生のご高説が終わると、まもなくチャイムが鳴ると同時にHRも終わりを告げた。

 次のチャイムまでには体育館に行かないといけないので、早々に席を立ち上がるとある集団が行く手を阻んだ。


「さくらちゃん、真冬くんと絡むのやめてあげなよ」


 目の前に立ちはだかる集団から一際目立つ容姿の女の子が前に出て、その容姿に似合う高圧的な態度で真冬と関わるな、と言い出してきた。同じクラスということもあり、何かあれば話しをすることがあった関係でもその物言いと話した内容に、沸点直前まで瞬間的に到達したさくらは、同じくらいの圧力を発しながら対峙した。


「え、なんで?私の勝手じゃない?」


 普通の高校生では出せない凄みを放つさくらに、直接中てられているリーダー格だけでなく、向かい合う集団全員が蛇に睨まれた蛙のようにその身を動かせなくなってしまう。

 しばらく剣呑な雰囲気に呑まれて呼吸することさえ忘れてしまっていた集団だったが、その誤解を解こうとリーダーは思いだしたように息をし、なるべく柔らかくさくらに話し掛ける。


「――ごめん、ごめん!悪い意味じゃなくて、ね?」


 笑顔まではいかなくも和らいだ態度を見せたのでさくらも最後まで話を聞こうと、向けていた牙を引く。少しだけ弛緩した空気にリーダーは「ありがとう」とさくらに前置きして、話を続ける。


「簡単に言っちゃうと、真冬くんを虐めてる主犯格の3人が、さくらちゃんのことが好きなんだって。その……恋愛的な意味で……。それで、何の取り柄もない真冬くんがなんでさくらちゃんと仲良いんだよ、ってキレてるのをこの娘が聞いたの。――そうだよね?」


「うん、すごく怒ってた。さすがに好きな娘に手をあげるほどの人たちじゃないと思うから、その嫉妬相手の真冬くんを虐めてフラストレーションを発散してるんじゃないかな。真冬くん相手なら誰もとめないし、好きなだけできるからって……」


「え?わたしのせい……」


 一瞬、いや今でもだ、さくらは何を告げられたのか、理解も納得も追いついていない。余計な身体の機能を停止――端から見れば茫然自失、を少しの間続けてようやくかみ砕いて理解できたことが、自分が助けていると思っていた真冬が、まさか自分のせいで助けを必要としていたなんて。


「いつもさくらちゃんには助けてもらってるし、私たちも何とかできるように頑張るからちょっとだけ我慢しなね?じゃあ次は集会だから」


「――――」


  誰かが私に向かって何かを言っている。


 ――要らない。


 ――そんな言葉は要らない。


 慰めも、同情も、憐憫も、思いやりも、哀れみも、慈悲も、情けも、恩情も、その全て、何もかも――要らない。


 ただ、欲しいのは――。



 その後に何があったか何も記憶になかった。五感の全てが無くなり、光さえも飲み込んでしまうような真っ暗闇に独りで居るような感覚が広がる中、ふと一番聞きたかった声が聞こえてきた。


「さくら。一緒に帰ろう?」


「は―――けな――」


 自分でも何が伝えたいのか分からず、声にならない声しか出なかった。


 なにも視界に入れないように俯くさくらに、真冬は優しそうな表情で下から顔を覗かせる。


「ん?なに?」


 さくらは自分の欲求と、真冬の身の安全を秤に掛けた。その結果――


「はなしかけないで!!」


 結果、真冬を遠ざけることで、真冬を守ろうとした。


 ――それが一番の過ちだとは気付かずに。



 ガチャ!


「おかえり。今日は、はなちゃんのことよろし――」


「ほっといて!!」


 ドンドン


 ガタ


 バン!


 ボスッ……



「――――」


 目覚めの感覚、言葉で言い表すならば水面から顔を出すような感覚に近いだろうか、そんな感じがした後、徐々に鮮明になっていく視界を頼りに辺りを見てみると、そこは明かりが点いていない、闇と静寂が支配している自分の部屋だった。

 どうやらいつの間にか家に帰って、気付いたら寝ていたみたいだ。


 窓から差し込む月明かりを頼りに部屋の電気を点ける。人工の光で明るくなった部屋で視界を辺りに適当に散らすと、鏡に映っている自分の姿が目に入る。


 ――ひどい顔


 何気なく鏡に映っている自分の顔を見て、まず最初に抱いた感想は、その一言だった。


 朝の学校に行く前、家から出るときに身だしなみ確認のため見るいつもの自分の顔は、親譲りの健康的な色白なのだが、今目の前にいる人物は色白には変わりないのだが、明らかに病的な白さに変わっている。その白さに助長されたようにコントラストを描くのは、目の下にある真っ黒なクマだ。それは疲労によるものではないことは、今現在まで寝ていたことがその証左になるだろう。 

 そして何より特筆すべきなのは、目の端々から頬を伝い、存在を強調するが如くくっきりと残っている涙の跡だ。かぴかぴに渇いたそれは、おそらく寝ている間に流した涙が固まった物だと推測される。

 加えて、精神も肉体も最低限の活動以外を止め、休息を取る睡眠でさえも、現在進行形で心をジワジワと蝕んでいる感情を、止めることは出来ない。それほど強いものだと、落ち着いた今は冷静に分析していた。


 ――いや、分析でもなんでも何かしていないと心が落ち着かないと言い換えた方が良いだろう。


 ドタドタドタ


 ガタ


 テッテッテッ


「さくらおねーちゃん!何かあったの……?」


 自分の中に沸き立つ激情をなるべく見まいとしていたところ、ちょうど良く妹のはなが、その小さな身体でどんな重い物でも背負わんと決意した目で顔を覗き込んでいた。


「う、ううーん。なんでもないよ」


 自分よりも何倍も小さい妹に心配されるのは余計に惨めに感じると思い、強がりを見せるもそれを全部見透かしたような表情をし、はなは「何でも無くないよ」と前置きをし、


「さくらおねーちゃん、泣きそうな顔してるよ?……そういう時は、ギュッってするんだよ」


 はなはその小さい腕を千切れんばかりに必死に伸ばして私の身体に抱きついてきた。

 妹の精一杯の慰めようとする仕草に辛うじて堪えていた涙腺が、一粒の涙を呼び水に堰を切ったように崩壊し、滂沱の涙を流した。



 10分ぐらいその身体の小ささに比例しない妹のひたむきな慰めに、あれだけ下向きになっていた心が、なぜだか自然と上を向いてきた。まだいつもよりはマイナスにいることには変わりは無いけど、この調子なら明日には0になっていることだろう。

 

 ――思い出した、この感じ。あの時の、あの川での時みたい。


「ママがね!何かあった時は、ギューってして慰めてあげるって言ってたの!」


「ありがとね!はなちゃん。」


 一生懸命身振り手振りを混ぜながらお母さんに言われたことを伝えようとしているはなは微笑ましく荒れた心が修繕されていくのを感じたので、それを含めてお礼を言った。

 お礼を言われたはなは嬉しそうに太陽のような笑顔を見せながら、腰に手を当て誇るように胸を張り、


「ううん!お安い御用なのです!」


「あとね!喧嘩しちゃったときは"ごめんなさい"しなくちゃいけないんだよ!仲直りしたら"ありがとう"も忘れないの!」


「そうだね!お姉ちゃん忘れてたよ。ありがとね!」


「うん!」



 ――明日、真冬に"ごめんなさい"を言いに行こう。そして、"ありがとう"も伝えよう。



 翌日、お昼ご飯を一緒に食べれるだろう11時頃に真冬の家に行くと、中はもぬけの殻で、ただただ静寂が支配していた。

 

 ……あれ?真冬買い物とか出掛けているのかな。帰ってきたらすぐご飯を食べれるように今のうちに準備しておこう。


 と、考え、さくらは早速お昼ご飯の準備に取り掛かった。



 ――ベッドの上で膝を抱えてから、どれだけの時間が経っただろうか。

 ここに来たのは昼頃で太陽が真上にありお節介にもギラギラと照らしていたが、時間が経つにつれて太陽系最大の白熱球は夜番と替わり、鳴りを潜めた今は初夏の寒気が身も心も冷やしていく。

 全てが自業自得なのに、それを理解しているのに、それに抗うように心は荒んでいく。


「真冬、会いたいよ……」


 心から想っていた本心を意図せず呟いたその時、急に目の前に生きている人が発する気配が現れた。


 ――今にも溢れそうな涙が溜まった顔を上げた先には、ずっと待ちぼうけたあの人がいた。



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