後編

#1 虚空のスキャット(1)

 彼女たちを巻き込んだ構造体は、複雑な廃墟の骨組みが絡まり合い、捻じくれて、その末に更にミキサーに掛けた上、巨大な空洞を至るところに形成しているようなありさまだった。言ってしまえば、子供が積み木で遊んでいたら、偶然にも妙な規則性を持ったかたちが生まれた、というような。

 二人はそこに居た。がらんどうの廃墟の空間。


「まるでドイツ表現主義の映画だ。床は斜めだし、左右の壁で大きさが違う。本当に奴は、複数の建造物を混ぜ合わせて組み替える事ができるのだな」


 フェイが、嘆息……いや、呆れたように言う。周囲全てに脱出不可能な迷路が広がっていた。


「さて、どうしようか、お嬢さん……戦ってみるか?」


 彼女は、肩をすくめて、向かい側の……フレイに問いかける。

 こちらに銃を突きつけたまま、仏頂面を保っている。

 だが、それで何かが変わるわけではない。


「ディプスの力を持ったお前を倒そうなどとは思わない。部下は外に居る」


 そう言って、銃を下ろした。


「そうしてくれて、ありがたいよ。フェイわたしもあなたを倒したくないな。せいぜい尋問が良いところだ」


「……何故」


「あなたを仮に殺しでもしようものなら。いや、半殺しでもいいか。そうなればどうなる? あなたはこの街の記憶処理を担当しているのだろう。おそらくは、その力はあなたのアウトレイスとしてのそれに依拠している。あなた達のおかげで我々はこれまで厄介事に首を突っ込んでいながら、寝首をかかれずに済んだわけだ。その安息を失うのは、怖い」


 ……よく言う。

 いま自分たちに必要なのは、周知と助けのはずなのに。

 フレイはその言葉を呑み込む。

 それから改めて……歪んだ周囲のがらんどうを見る。


「巻き込まれてしまったなぁ。フェイわたしはまだしも、あなたまで」


 揶揄するように、フェイが言う。


「……煩い」


 あたまをおさえて、頭痛に耐える。


「提案なんだが」


「……何だ」


「銃を突きつけるのは、互いが協力して、ここを脱出してからにしないか?」


「……」


 ――その必要があった。フレイは更に頭が痛くなった。



「とりあえず、だ」


 フェイは瓦礫をかき分けながら、閉鎖された空間をなんとかこじ開けようと試みていた。

 力は地下全体に及んでいるのか。そうだとしたら、凄まじい影響力である。


「これをやった奴のことを、教えてくれないか」


 後ろを振り返って、言う。


「……」


 当然ながら向けられるのは猜疑の目。


「脱出に必要な情報だけでいい――」


「やったのは№3『バルザック』だ」


 あっさりと、彼女は言った。


「ほう……?」


「評議会で与えられている業務は、『分解と再構築』」


「まるで哲学じゃないか。何をするのかね」


「平たく言えば街そのものの管理だ。街に被害が出るたび、その被害を修復し。また、ハイヤーグラウンドに都合のいい形に組み替える。もしくは、お前たちに都合のいいように」


「我々が暴れたあと、街がすぐに直ったりしていたのも、それが理由か」


「そうだ」


「――まるで、アウトレイスの力だな」


 そう言ってみると、相手は。

 ……更に眉間のシワを深くした。

 あまり『こういう会話』に耐性はないのだろう。

 きっと部下がヘマをやるたび、その刻みは深まっていたのだろう。ご苦労なことだ。

 肩をすくめて、なだめるような態度になってみる。


「おっと。かまをかけているつもりはない。フェイわたしの力は、評議会のメンバーに反応しなかった。だから『まるで』と言ったんだ。分かっているとも、ハイヤーグラウンドの連中の力は、全く違うものだ」


 そういうと、フレイは何も言ってこなくなった。

 それ以上会話は続かず……黙り込む。

 探索は続く。


 時間が経過するごとに、暗くなっていく。上から差し込む光が目減りしていって、視界の保証が失せていく。彼女たちの眼前にある瓦礫の壁は、どれだけかき分けてもくずれない。フラストレーションが溜まっていく。


「……くそっ」


 フェイは悪態をついた。

 僅かに視界を照らしていたマッチの光が消えたのだ。

 スマートフォンの電源はとっくに切れてしまっている。


「なぁ……持ってないか? 火。持ってないよなぁ……」


 後ろを振り向いて、問いかける。


「お前。――本当に、その瓦礫を撤去しようというのか? 手作業で」


 かき分けられた瓦礫は、フェイの足元に溜まっている。そして彼女の手はどろどろになって、擦り切れていた。それを見たフレイの言葉は、少し呆れているようだった。


「それしかないように思えてしょうがない。それとも他に方法はないか?」


 するとフレイは、唐突に、瓦礫のひとつに腰を下ろした。

 それから言った。


「ネタバラシをしてやろう、フェイ・リー」


「……?」


「奴は常に我々の動きを見ている。奴はお前を閉じ込めることを最優先にしている。お前が本気を出せばとんでもないことになる、それを分かっている。ゆえに、私を閉じ込めるリスクを犯しても、お前を閉じ込めた。ヤツの力は無敵だ。それゆえ、ここから出られることはない。奴が解放する気になるまでは」


 ふっ――と。

 フレイが漏らした笑みは、明らかにフェイを見下していた。

 ……不愉快なものだった。


「お前……」


「力を使うか? フェイ・リー。私は構わないが」


「――……いま、フェイわたしはな。2つの理由で苛立ってる」


 フェイは、火のついていないくしゃくしゃの煙草をくわえたまま、反対側の瓦礫にあぐらをかいて座る。

 それから、子供じみた苛立ちをあらわにして、言った。


「一つは。死ぬほどお前さんが憎たらしいということと。もうひとつは……火がなければ無力になることを見越した上で、フェイわたしに茶番を演じさせたということだ」


 そのとおりだった。

 フェイは今、みっともなく瓦礫と格闘するただの人間でしかない。


「これで分かったんだが。フェイわたしもあなたが嫌いだよ、フレイ・アールヴヘイム」


「奇遇だな、私もだ。フェイ・リー」


 ……そうしてまた、時間が経つ。



「タバコがなければ本当に無能なのだな、フェイ・リー」


 ……むかっ。

 フェイは無理やり笑みを作って、大っきらいな向かい側の女に顔を向ける。

 それから、言ってやる。


「偉そうなことを言う割には、あなたはハイヤーで軽んじられているらしいが。でなきゃ、巻き添えを喰らったりしない」


 ……ぴくっ。

 フレイの眉間が、また反応した。


「あ。図星だな、やーいやーい」


「……やかましい」


「やはりだ。これでもう一つ分かったぞ。ハイヤーでのアウトレイスの立場は、まるでひどいらしい」


「……私の邸宅はハイヤーにある。いいものだぞ」


「……ああ?」


「なんだ、やるか」


 二人は立ち上がる。

 ――その時だった。


「ここ……どこ……こわいよ」


 声がした。二人が振り返ると、瓦礫の隙間から、小さな子供、女の子が這い出てきた。身体にはホコリだらけで、怪我はないようだが、疲労と孤独が滲んでいた。


「あの子は……?」


「巻き添えをくらったのは、我々だけではなかったらしい」


 フェイはタバコを放り投げて、彼女に近づく。


「ああ、お嬢さん……どうした。巻き添えか」


 かがみ込んで、言った。

 だが少女はびくりと身を震わせて、縮こまってしまった。

 恐怖がにじみ、目元には涙が浮かんでいる。


「……参ったな」


 頭をかく。

 フェイは、子供が苦手だった。


「えーっと、どうすればいいのかな。ああ、そうだ、飴……駄目だ、煙の出るやつしか持ってない。くそっ……子供ってのは昔から……」


 少女は座り込み……しゃくりあげ始める。


「こわい、こわいよう……ここ、どこなのっ……」


「おいおい……」


「泣かせたな、フェイ・リー」


 後ろから声。


「そう言うなら、あなたがなんとかしてくれ。友人に保育士はいるが、奴は仕事の話を嫌がるタチだった……」


 フレイはてっきり、拒否するかと思った。

 ……だが。


「……しょうがない」


 彼女は少女に歩み寄り、フェイより前に出た。

 それから……黒のジャケットを脱いで……泣きじゃくり、地面にシミを作る少女に、そっと羽織らせた。


「……」


 少女は、顔を上げる。


「怖かったな……でも、もう大丈夫だ。お姉ちゃんたちが、ついてる」


 そこにいたのは、目線を合わせて優しく微笑む女性の姿だった。あの冷徹な鉄の女の姿は、そこになかった。

 ……フェイは、地球がひっくり返りそうな気持ちになった。


「ほんと……?」


「ああ。大丈夫だ……守ってやる。だけど、何をしててここに来てしまったのか、教えてくれないかな?」


 少女は……泣き止んで、それから、言葉を零し始める。

 フレイの優しい言葉に触れて、安心を取り戻したらしい。


「かくれんぼ、してたの。そしたら、大きな音がして……それで……っ」


 そこで。また、涙がこぼれ始める。

 フレイは少女をやわらかく抱きしめ、落ち着かせるように背中を撫でてやる。


「大丈夫、大丈夫……すぐに出られるさ。それまで、お姉ちゃんたちと一緒にいよう」


「ほんと?」


「本当だとも……」


 ――フェイはその光景を、なんだか所在なさげに見ていた。

 無性に、煙草が欲しかった。


 ……しばらくして。

 少女はなだらかな瓦礫の上、ジャケットをシーツ代わりにして寝息を立てている。フレイの言葉に安心したらしい。


「……意外な一面だな、フレイ殿」


「――……妹が」


「ん?」


「歳の離れた妹がいる。小さい頃、面倒を見ていた。これくらい出来て当然だ」


「……なるほど、なるほど」


 フレイは肩をすくめて背を向けて、また瓦礫との格闘を始める。

 あてどない作業だった。他のメンバーとの通信も途絶えている。出来ることはこれぐらいしかない。その様子は、状況に反して随分と余裕そうだった。フレイは訝しんだ。

 だがそれ以上に……彼女は怒りを覚えていた。少女の寝顔を見て、その髪を少し撫でながら、小さく零す。


「バルザックめ……無関係の市民を」


 そして、その声を……フェイは、聞いていた。

 彼女は……ふっと、笑みを浮かべた。


「なぁ、フレイ殿」


「……なんだ」


フェイわたしはあなたが嫌いだと言ったが、訂正しよう。『少しだけ』嫌いだ」


「――好きに思え。私のお前に対する考えは変わらない。私からすればお前は、出来もしないのに評議会を突破しようとしている愚か者」


「なるほど?」


「その瓦礫と戦って、ここ一帯を動き回ってどれくらいの時間になる? きりが無いぞ」


「あなたが子守をしている代わりさ。だからやってる」


「無駄だ」


「……無駄とわかっていても、やるのさ。それが第八機関だ」


 振り返って言ったフェイの顔には、妙な自信が見えた。

 フレイの眉のシワは、更に深まった。

 この女は何を考えている……天界で起きていることも知らずに。


 そう、天界。

 今まさに、ハイヤーグラウンドで起きているのは……。



 白い、真っ白な、どこまでも清潔な食卓。

 ダイニングは整頓されていて、テーブルクロスには美しい装飾。


 その上で、食器同士が歌う。かちゃり、かちゃり。

 澄み切ったその空間で――きわめて静かに、食事が行われていた。


 シャーリーと母が向かい同士。そして正面に、父。

 きょうはローストビーフだった。母が腕によりをかけて作った。

 咀嚼音。咀嚼音。シャーリーは顔を上げる。

 赤い口紅の上下のなかに肉が飲み込まれ、噛み砕かれる。その繰り返し。横を見る。父はワインを飲む。飲む。


 ……シャーリーは肩身の狭い思いをしていた。食事にはあまり手を付けられる気分ではなかった。


 少し前。

 自分はアーサーの手を借りて、両親に迎え入れられた。

 二人ははじめ、驚愕した。だがすぐに、破顔して――自分を抱きしめた。

 何も言わなかった。これまでのことを責めることも、何もせず。ただ二人は、娘の無事を喜んだ。それでシャーリーの中で何かが決壊して……彼女は、涙を流したのだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、お父さん、お母さん――」

「いいの。いいのよ、あなたが無事なら、それでいいの――」

「さあ、うちに来なさい――」

 そうして。家族が、揃った。

 

 食器の音。そのはざまに、肉が唇に飲み込まれ、否応なく、くちゃ、くちゃと音を立てる。

 シャーリーは食卓を見回した。壁には、孤児院同様に、ディプスのタペストリー。また、あそことは違う姿で写っている。それを見るとシャーリーは、何か、ココロの中に食い込んでくる、棘のようなものを感じる。それは時間が経つごとにじわじわと広がって、蝕んでいく。


「あの」


 かちゃかちゃ、くちゃくちゃ。

 会話はない。二人は喰っている。ひたすらに。赤い血のしたたる肉を。咀嚼し、噛み砕き、飲み込んでいく。

 夫婦であるのに。会話はない。ただ、そのはざまに、自分がいる。

 ――そうして思い出す。

 そうだった。こんな二人だった。それで、たまに会話があると思えば……コロシアイにも似た、大喧嘩だ。それが嫌だった。自分はそれから逃げ出したくって、それで……。


 ――それで、どうなった。

 そうだ。自分は、エスタに出逢ったんだ……。

 胸が痛む。

 その思いが、言葉を吐き出させた。


「……パパ。ママ。ともだちが、死んだんだ。エスタ。下で、死んだんだって。孤児院の、マリアさんが教えてくれた」


 ……二人は手を止めなかった。

 ただ、母は口を開いた。


「……そう。でも、しょうがないじゃない。あの子は、私達とは、違ったんだもの」


 続いて父。


「忘れてしまいなさい。下の世界で起きたことは、ここで話しても仕方ない」


 ……そうだ。

 あのときもそうだ。

 エスタに出逢ったことを、嬉々として報告したあの日。

 母は自分を詰り、父は痛罵した。

 お前はあんな場所の子と一緒に遊んじゃいけない。ちゃんと、決めた地区の子供たちと遊びなさい。あんな汚い、身分の低い――……。

 反抗心が、芽生える。

 ……シャーリーは、手を上げる父親の虚像を振り払いながら、言った。


「そんな言い方、ないじゃない。立場は違っても、エスタは私と本当に友達だった。同じ地区のあの子達よりもずっと、私の気持ちを知ってくれた。だから仲良くなれた。私の親友を、そんなふうに言わないでよ――……」


 すると、父は。


「………………いい加減に、しないかッ!!」


 怒鳴った。

 食卓が震えて、食器が跳ね上がった。

 肉が皿から飛び出して、赤い汁を零した。

 ……びくり。シャーリーは全身を震わせる。恐怖が蘇る。


「我々の気持ちも知らず、よくそんなことが言えたものだっ! わたしが何故、お前をあの子から遠ざけたか分かるか!? それはお前を思ってのことだった! お前はよく学び、よく成長する必要があった……やがては議員としての私の仕事を継ぐために……お前が貧民と心を通わせたいというのならそれもいい。だが、それは、お前がすべてを手にしてからのことだ――……お前には早すぎた、早すぎたんだ!!」


「そんな勝手な理屈、私には通じないっ……私がどんな気持ちであの子と遊んでたかも知らないでしょう!? あなた達がそんなだから……勝手に争って、それに私を巻き込むから……だから嫌だった、ずっと、ずっと嫌だったっ!!」


 言葉が溢れて、止まらなかった。抑え込んでいたものが、開放されたようだった。


「言わせておけば……お前はこの十年、何も変わらなかった……なにひとつ、なにひとつッ!!」


「もういい……もういいよ、パパもママも、私の気持ちなんて、欠片も知らないんだ……もう、何も期待しないっ!!」


 シャーリーは立ち上がって、食卓から逃げ出した。

 十年前、そうしたように。今もまた、そうした。

 後ろから声がしたが、それを振り払って逃げた。

 涙が止まらなかった。流れるままにした。


 ――シャーリーは部屋から逃げた。

 湧き上がるのは、憤りと、それ以上の悲しさ。

 もしかしたら、もしかしたら。自分が戻ってきたことで、何かが変わったかもしれないと。期待をしていた。だがそれも無意味だった。何一つ変わっていなかった。父は傲慢さを押し付けるだけ。母はそれに何も言わない。


「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い――……大っ……きらいっ!!」


 そうしてシャーリーは……気づけば、見覚えのある部屋にまでたどり着いていた。


「……」


 そう。見覚えがあった。

 というのも。目に映るものに、おぼえがあったから。


「そんな…………――」


 そこは、シャーリーの部屋だった。

 そして。驚愕で膝をつく彼女の目の前に、それがあった。

 十年前と変わらぬ姿で、そこにあったのだ。


「私の、部屋……――」


 そう。

 シャーリーの部屋は、そのまま、残されていた。

 何一つ、記憶と変わらない姿で。


「どうして……」


 心臓の鼓動が高鳴る。

 両親は、自分を歓迎していないはずだった。ひょっとしたら、追い払えて、ホッとしてさえいたのかもしれないと思っていた。

 ……だとしたら、これはなんだ??


「……見たのね」


 後ろから声。振り返ると、母が居た。


「ママ……これは…………」


「……あの人は。あなたが去ってからも。この部屋を、残し続けていたのよ。この数カ月間、ずっと」


 追いつかない。感情が、ズレていく……それから、甘くて酸っぱいものが、胸元までこみ上げてくる。

 だったら。あの人は、あの人は……。


「知っている? あの人ね。あなたが去ってから毎日、孤児院に行って……祈っていたのよ。あなたが、戻ってくるようにって」


 ――衝撃を受ける。

 それなら。これまでのすべての意味が、変わってくるじゃないか。


「そんな、そんな……」


 膝をつく。決壊していく。感情が。


「ずっとずっと。あなたを思っていたのよ…………あの人は。不器用だから、おくびにも出さないけれど。あの人は毎日、ディプス様に祈りを捧げていた…………」


「ああ、あああああああ…………」


 涙がこぼれ落ちる。理屈ではなかった。

 その部屋にも、ディプスのタペストリーがあったから。

 彼女は、それを見た。

 ディプスは輝いていて、そして、彼女を見ていた。

 口元に浮かんだ笑み。優しげなまなざし。それらすべてが、まっすぐにシャーリーを射抜いて、その全身を、畏敬の念で震わせた。


 ――赦してあげなさい。

 ――あなたには今、それが必要です。


 そんな声が聞こえてくるようだった。

 我知らず、シャーリーは身を投げ出すような気持ちになっていた。

 それは天啓であり、これまでのどろどろの精算であった。

 ……無限にも思える時間が一瞬で過ぎ去っていき、その永劫の中で、シャーリーは涙を流し続ける。あたたかい涙。そう、このあたたかさこそが……これこそが……。


「私、ずっとずっと、夢を見てた…………こわいゆめ……どこか、知らない世界で、知らない人たちに会って、そこでいくつも、怖いことがあって……それで……」


「そんなものなど……何一つないのよ。忘れてしまいなさい」


 母の言葉。

 シャーリーの中で罪が洗い流されていく。


 彼女は。

 

 


「ここには何も怖いものなどないのよ、残酷なものなど――ここでは、誰もが裏表なく暮らせるのよ――」


 母はそう言って、シャーリーを後ろからそっと抱きしめた。

 彼女の中で、幼少期の抱擁の記憶が戻った。そして彼女自身も、ゼロに向かっていった。哀しい、しかしそれ以上に、心地よい感覚。


「うん……うん……ごめんなさい、ごめんなさい――……」


 シャーリーの目の前で、ディプスが優しく微笑んでいる。

 それによって、彼女のすべてが赦され、溶け合っていく……。



「『リトル・シスター』が新たに挙動。また一人、『処置』完了したようです」


 ハイヤーグラウンドのコアでうごめく、巨大ななにかがあった。それは住民全てに影響を及ぼす何かを放射し、その脳髄に、消えることのない楔を打ち込んでいく。誰もそれには気付かない。彼等自身はただ、自らの意思でディプスを信奉したと思っている。思い込んでいる。しかし、実際は……後押しがされている。洗脳装置、などという言葉は聞こえが悪い。彼等はただ、『アールヴヘイムの妹』ということと同時に、『小さな尼僧』のダブルミーニングを好んだ。

 『それ』は、アウトレイスを排斥しているハイヤーグラウンドにおける数少ない『例外』であり、元の姿を失っているからこその『特権』であった――。


「ぎゃああああああああああああああああああああ、いたい、いたいよおおおおお、たすけ、たすけてええええええええええええええええええええええええええ」

「おい、はやく黙らせるんだ。装甲の調節が間に合わない」


「よし。それでいい…………ディプス様の意に反するものは、この世界に必要ない。そしてただ、無知な者共は、その眼差しに魅入られていればいいのだ……ただひたすらに」


 シャーロット・アーチャーは涙を流している。

 彼女はもう、忘れている。かつて、地上で何を経験したか、など。その時感じていたすべてを。


「ただ誰もが、天国だけを見ていればいい。煉獄など、はじめから存在しないのだから……」



「ハーッ…………ハーッ…………」


 かわって、地上。

 そう。クリフトンは生きていた。全身を黒焦げにされて、口から輪っかのように煙を吐いても。全身を吐瀉物と血に塗れさせていても。異常なまでのタフネスが、彼を守っていた。そして彼は……自分が、大きながらんどうの、しかし閉鎖された空間に居ることを知った。同時に……『巻き込まれた』ことを知った。不愉快だった。何もかもが。


 ――不愉快なのは。

 向かい側に居る彼女も同じだった。


「……っ」


 キンバリー・ジンダル。

 誤魔化しきれないほどの負傷をその身に刻み込んだ、非戦闘要員の彼女は今、『バルザック』によって前後を、出入り口を塞がれたトンネルの中で、クリフトンと向き合っていた――。

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