#15 ストレンジャー・ザン・パラダイス(7)

 トレントたちにたどり着く少し前――チヨは、グレイのパーカーを着込んでフードを被り、狐の仮面をつけて、ストリートを歩いていた。


夕暮れが近いが、街を包むオーラは相変わらず剣呑な灰色。その中で今日も喧騒が響いている。


「うわあああああああ、爆発だあああああああ!!」

「なんだよ、誰が――おい、誰か落ちてくるぞおおおおお」


 これはあとから分かったことだが、モーテルの一角で、テロド同士がハードなSMプレイをやろうとしたことがきっかけだったらしい。ろうそくの火が誤って機械の体に落ちて、それが全身にまわって爆発となったらしい。振り返ると、窓から吐き出された爆発の破片――おそらくその片割れの亡骸であろう――に、腕を多数はやしたジャンク屋達が群がり、そそくさと回収していくのが見える。そこに被せられる罵り、たどり着いた消防車。人外たちの怒号。あきれるほどに、いつもどおりのアンダーグラウンド。


 ……でもそれらは、グラウンド・ゼロとの騒動とは何の関係もない。

 あの場所で、黙殺されているあの場所で何があったのかなど、誰も知らない。

 だから、自分たちの存在など、あってなかったようなものなのだ。


 足を止める。顔を隠すように身を縮めながら、街の情景を見る。


『えーこちらダニエル・ワナメイカー。近頃このロングビーチでは謎の巨大生物が目撃されていると噂されているわけですが……ちょっと聞いてみましょう。すいません、そこの翼を持ったレディ、ちょっとお伺いしても、あっ翼じゃない、被膜? いや知りませんよ、あっやめっ、自分はエンゲリオだって、ちょっ――一旦コマーシャルですッ! クソが、どっちも大して変わらねえだろうが!!』


 それにかぶさるように、どこかで爆発音が響く。見ると、車に仕掛けられた爆弾が爆発したらしい。悲鳴、喧騒――日常茶飯事だ。本当に、何も変わらない。

 ……すぐそばを、汚い身なりをしたモロウの少年が駆けていった。猫の目をしていた。綺麗なエメラルドの目。こちらを見た。

 ――おねえちゃんにはなにがみえてるの。そう言わんとするように。

 チヨは見送った。何も答えられない。

 彼女は顔を上げる。徒労感がこみ上げる――だが、それが限界になる前に。


「……飛ぶか」


 路地裏に逃げ込んで、脚部の肥大化した汗腺から、ブースターを噴かせる。


 着地したのは、手近な雑居ビルの屋上。

 糞にまみれ、にわとりのけたたましい鳴き声が響いてくる鳥小屋が据え付けられてあって、そのそばには、とうに持ち主の居なくなったであろう洗濯物が、竿にかけられて揺れている。小汚い場所だ――だが、それなりの広さがある。


 チヨは、床のホコリを払ったあと、座り込む。座禅を組む。

 ……しばし黙り込み、半眼になる。冷たい風が身体を打つ。


 目を開けると、懐からロングソードを抜き取って、振るう。決まりきった、芦州一刀流の形稽古。夕暮れの下、サムライの影絵が踊る……しばし、続く。


 だが、途中でやめる。大きく息を吐いて、しまい込む。

 ――集中が、出来ない。


 そして彼女は考える、考える。

 自分はこれからどうすべきか、何をなすべきか。

 フェイによってかばわれて、ここに居る。自分には考えて、行動する権利、いや、義務が与えられた。

 ならば自分は何かを信じて、何かをなしとげる必要がある。


 では……何を?

 第八機関という組織は、事実上デタラメということが発覚した。

 ならば、自分が信じるべきは……組織ではなく、その代表者。

 フェイ・リー。

 しかし彼女は、何も教えてくれなかった。何も示してくれなかった。ここから先は自分で考えろということだ。誰の味方をして、誰のために動けば良いのか。分からない。

 先程、グロリアから携帯にショートメッセージが届いていた。

 『自分はシャーリーを探す』という言葉で終わっていた。要するに役割分担。これからどうすべきかは、自分で考えねばならない。誰の味方をすればいい、誰のために戦えばいい。何かのために戦えば、それだけ背後にある巨大なものが動き、何もかもが変わっていく。


 ――おかしい。もっとシンプルだったはずだった。もっと簡単な道理だったはずだった。そう、自分は盲信することで安心していた。フェイの背後にある巨大な力に守られているような気がしたから。今までは。

 今まではそれで、自分の信念を安心して貫けると思っていた。しかし今は違う。今はもう、自分で考えて動かねばならない。どうすべきか、何のために戦うべきか。

穏健派。革命派。どちらにつけばいい。自分は誰のために力を振るえばいい。何のために――何のために。


「わからん……儂には」


 チヨは膝を抱えて、座り込む。

 こころなしか、目元にしずくがある気がした。自分が随分と小さな存在になったような感覚。屈辱のはずだが、それに抵抗する気力も起きない。

 そのままズブズブとうずくまってしまえば、消えてなくなってしまいそうな気がして。それでもいいか、とさえ思った時。


『情けない限りだぞ、小鳥遊千代!!』


 低くくぐもった機械音声が響いた。

 振り返る。


 給水タンクの上に、黒い和装と鬼の仮面をつけた、細身の男が直立していた。


「貴様――何者だ……!!」


 ソードを抜き、構える。全身が総毛立ち、戦闘モードへ。

 ……相手の殺気を探る。

 男はタンクの上で動かない。なんだこいつは、まるで先が読めない――。


 ――瞬間、男はその場から跳躍。

 ぞわりとしたものを感じ、チヨも脚部を展開しようとした。だが、動かない。ひっかかる。ちくりとした痛み。足元を見る。

 ……詰まっていた。脚のブースターに、まきびしのような鉄片が突き刺さり、その発動を阻害している。


「いつの間に――」


 その一瞬で。

 閃光。

 男が眼前に現れて、カタナが振るわれた。

 とっさに掲げたロングソードとかちあって、激しい火花が散る。

 相手が持っているのは黒檀の短いカタナ。だがしつらえは、出来合いのこちらのロングソードよりもずっと上等だ。ぶつかっただけで分かる。だがこいつは――。


「貴様――いったい。名を、名乗れッ!!」


『そんなことは必要ない。私がここに現れたのは、そこでうずくまっている哀れなお前に、道を示してやるためだ!!』


「道だと!? 儂にどんな道があるというのだ……答えてみろ!!」


『革命派だ、お前は彼等の生き残りを探し出し、守らねばならない。さもなくば、この街が窮地に陥る――』


「探し出してどうなる、守ってどうなる。奴らを殺すのか。この儂が、こんななまくらで――」


『そこから先は、お前自身が掴み取るべき答えだ! お前は彼等を守り、ともに過ごすことで見出すはずだ――』


「何を――!」


『戦う意味、そのものだ! お前の迷いは、彼等によって晴らされる! 戦え、千代! その力は、ただの暴力か!? そうでないのなら、証明してみせることだ――』


 男は手首を捻り、チヨを地面に叩きつける。

 それから、そのスキに距離を取って、屋上のヘリから外の世界へ飛び降りようとした。


「待て……待てッ!」


 起き上がり、黒い背中に問う。


「貴様は一体、何者だ……その太刀筋、芦州とは違う、だがどこかで……」


『名乗るわけにはいかぬ、少なくとも今は。では……さらばだ!!』


「待――」


 ……男はその場から跳躍。幻のように、消え失せた。


 寒い風の吹く屋上で、チヨ一人だけが居た。洗濯物が揺れている。


「……」


 足を振ると、まきびしは地面に落ちる。身軽になる。

 己の両手を見る。

 ……こんなに小さかったか、儂の手は。こんな、子供のような。

 

 一体、彼が何者なのか。

 疑問は尽きなかった。

 ……鳥小屋を見る。鶏たちの目がこちらを見てきた。じっと、見ている。


 しばらくして。チヨの中で、次の行動が、水が氷になるように、じわりと決まった。


 ――『戦う意味』。それを、見つける。

 悪くはないかもしれない。それが本当に、自分に必要ならば。


「……行くか」


 まだ、何もかもが完璧とは程遠い。自分の力が、フルに発揮できるなどとも思わない。

 だがそれでも――やろうとすることは決まった。それだけでも多少は、胸のしこりは取れた。

 チヨは決心する。

 深く息を吸って――吐く。

 ソードの柄を握って、あたたかさを再認識する。

 ……いける。


 間もなくチヨは、屋上の端に向かって駆けて、宙をひらりと舞いながら、街のただなかに飛び込んでいった……。



 孤児院で過ごす時間は、際限がないように思われた。

 桃色の空の真下に居ると、時間が無限に引き伸ばされてしまう感覚がする。それでもきっと、時間で言えば、確実に経過しているのは一晩だけだろう。


 シャーリーは今、小高い芝生の山に座り込んで、広場で遊んでいる沢山の子供たちを見ている。年齢は様々で、本当に小さい子供から、青年といえるほど大きな子まで。遊具や砂場など、空の庇護のもと、互いに笑顔をかわしあいながら交流している。3つボタンの紺色のベストを身にまといながら遊ぶその光景は、さながら妖精の戯れだった。


 そんな景色を見ていると、シャーリーも自然と頬が緩んでしまう。

 ボールがこちらに飛んできた。拾い上げると、小さな男の子がやってくる。投げ返してやると、子供はにっこりと笑ってお礼を言い、去っていく。

 ……自分の中で、傷が癒やされていくような感覚。

 いつかはここを去らねばならない事はわかっているが、そうならなくてもいいかと、そんなふうにさえ思えてしまうのだった。


「……いいものでしょう?」


 ふっと横から声がして、同時に甘い匂いがした。

 どきりとして振り返ると、洗濯かごを抱えたマリアが居た。

 髪をかきあげて微笑み、そっと隣に腰を下ろす。


「また転んでしまうと、思ったでしょう?」


 座るやいなや、彼女はそう言った。

 完全に図星だったので、何も言えなくなる。


「ふふっ。今はカラですよ。さっき、干してきたところです」


 ほっとする。それから前を見る。

 ……とはいえ。この女性が隣だと、なんだか気まずい気持ちになる。

 なんか常に甘い匂いがしてるし。すごいふわふわしたオーラが全面に出ているし。それ以上に、あの胸はなんなのだろう。一体どんな生活をしているとああなるのだろう。あそこには、あの大きさには何が詰まっているのだろう。それは色気というよりは途方も無い、大地の如き母性の象徴のように思えて……シャーリーは、自分が正常でなくなる感覚をおぼえる。

 その気持ちをごまかすために、シャーリーは問う。


「……ここの、子供たちは?」


 マリアは、その抽象的な質問に対し、少しだけ考えて、それから。


「あの子達は……『希望』です」


 そう言った。


「希望……?」


「そう。あるいは、力の源。彼らが居るから、私達は……存在するのです。彼らは喜んで自らを差し出すような清い心に溢れています。それは素晴らしいことです。守らないといけないですね」


 そこで……少し、彼女の顔が曇る。


「でも、そのためには力が必要…………悲しいですが」


 そうつぶやく顔は、本当に悲しげに見えて。

 シャーリーは、自分まで悲しくなってしまうのを感じた。


「力……ですか」


「そう。力です。それぞれの役割に応じた力。それらをメンバーに分配し、このハイヤーグラウンドを守るための要としている……それが、『評議会』なのです」


 まるで、チェスの駒のようだな、と思った。

 ――となれば、あの白服の青年も、何らかの役割を担った騎士ということか。

 ここは本当におとぎ話のような世界だと、改めて実感する。


 ――マリアさま、見てみて、お城が出来たよ。

 小さな女の子がそう言って駆け寄ってくる。

 マリアは彼女の頭をなでて、それを見に行く。

 ……しばらくしてから、戻ってくる。


「私達はいずれ、下の世界とも戦わなければならないでしょう。この世界を広げて、あの化け物たちを一掃するために」


 彼女の顔に、真剣さが宿る。それは使命感か、あるいは。

 いずれにせよ、途方も無いことのように思えた。

 あんな恐ろしい怪物たちが、地上から際限なく湧いて出てくるというのなら。


「一体、どうやって……?」 


「信じるのです。『ディプス』様を」


 そこで思い出す。応接室にかかってるタペストリー。そこに描かれた、美貌の青年。


「ディプス……?」


「全能なる神。すべてを従える者…………と言っても、なんだか途方もなくって、イメージがつきませんよね?」


 困り眉で笑って、そう言ってきた。その顔もかわいかった。


「ええ、まぁ……」


「そうですよね……コホン。ええっと。これも、記憶が戻れば思い出すことかもしれませんが。そもそも、ディプス様はもともと……私達と同じ存在だったのです」


 ――少し、驚く。


「『同じ』って……つまり、人間だった、ってことですか?」


「ええ、そうです。けれど……普通の人間とは、ぜんぜん違いました」


 それからマリアは、ディプスの生い立ちを簡単に語った。

 生まれながらにして神童と目された、『選ばれた』存在であったこと。

 それ故に周囲の期待を一身に浴びながら成長し、やがて――国の研究機関に所属するようになったこと。


「彼は国のために働いてきました。しかし、やがて……そのプレッシャーに、身も心も擦り削られていくようになったのです。悲しみや憎しみも、人一倍経験した彼は……どこまでも孤独になっていきました」


「……」


 言葉が出ない。

 あのタペストリーの、神聖な絵の裏側に、そんな物語があったなんて。

 なんだかとたんに、あの絵の持つ意味が重くなっていった気がした。


「……そこまでつらい思いをして、ここへ……」


「そうです。そして、だからこそ、悲しみのない世界を、喜びだけの世界を作ろうとしたのです。何の混沌もない、正義と悪のハッキリとしている世界を」


 それは、純粋な願いだったのだろう。それが、この世界を形作った。

 ――本当におとぎ話のようだった。しかし、それを茶化してはいけないのだろう。


「正義と悪……」


「ここの子たちも、それを分かっています。悪を、怪物たちを、下の世界を許さず、この世界の永続を願っています」


 そう語るマリアの目は、どこまでも慈しみに満ちていて。

 シャーリーは……頭にふつふつと浮かんだ疑問も何もかもを忘れ去って、その表情を、言葉を信じることにした。


「マリア様。一名、『旅立ち』の準備が整いました」


 一人の女性がそばにやってきて、マリアにそう告げた。


「まぁ、素敵。行きましょう、待っていてくださいな」


 手を打ち鳴らして、立ち上がる。

 こちらを向いて、にっこり微笑んで、一言。


「あなたもどうぞ、シャーロットさん。この孤児院で、一番ステキなイベントですよ」


「『旅立ち』……?」


「さぁさぁ、来てくださいな」


「わわっ」


 マリアには珍しいほどの押しの強さが発揮され、シャーリーは引っ張られて、その場から移動した。一体何が待っているのだろうか。



 連れられたのは、広場から少し離れた場所。芝の広がる丘であった。

 その、桃色の光がまっすぐ差し込む場所の頂点に、花でできたアーチがある。

 その左右にずらりと並んでいるのは、ゆったりしたドレスを着た沢山の子供たち。皆笑顔で、どこか浮ついている。光で、全てがぼやけて見える。


「これは一体……旅立ちって、なんなんです……?」


「ふふ、見れば分かりますよ」


 マリアはそう言って、アーチの向こう側に立つ。

 シャーリーは困惑しながら、丘に斜めに並んでいる列に加わる。ドレスの子供たちは気にもとめていなかった。


 しばらくして。

 一人の少女が、自分よりも小さな子供に手をとられながら、丘をのぼってきた。

 同時に、丘に並ぶ子供たちが、手に持ったかごから、いっせいに花びらをとって、舞わせた。それは祝祭だった。


 ――おめでとう、おめでとう。

 ――本当に、おめでとう。

 拍手と歓声。笑顔、笑顔、笑顔。

 吹雪のような花びらを受けながら、少女は照れくさそうに――それでいて、感極まったように、丘をのぼっていく。シャーリーは何が起きているのか飲み込めないまま、見ている。


 少女は、アーチの前にやってきた。

 マリアに向かい合う。


「……ようやく、この日が来ましたね。ウェヌス。旅立ちの日です」


「はい。わたし、ここから……卒業します」


 少女は涙を滲ませた。


「卒業……?」


「……あの子はこれで、ここを去ります。その代わり、この街に尽くすための、役割を与えられるんです」


 隣に居る少年が、シャーリーに耳打ちして教えてくれる。

 なるほど。つまり、他に行くべき場所が見つかった、ということか。

 それはめでたいことだと、思う。

 少女を見る――マリアに招かれて、一歩、二歩、進む。


 アーチをくぐる。歓声と花吹雪が、更に強まる。

 マリアが、少女の頭に花のサークルをかぶせる。

 それから彼女を抱擁する。


「ありがとう、みんな、本当にありがとう。わたしはきょう、旅立ちます――!!」


 少女は皆を見て、涙ぐみながら言った。

 誰も彼もがそれを見て、笑顔を向けて拍手する。


 いつしかシャーリーもそれにのまれて、自分の意志で拍手していた。

 その万雷のなか、彼女の中に思いが生まれてくる。


 ……卒業、か。

 自分も、行動すべきときが来ているのかもしれない。

 この子達が、こんなにも頑張っているのに。私は、この子達よりも恵まれているかもしれないのに。

 自分は――ここにいつまでも、居るわけにはいかない。

 シャーリーは……決心した。



 『旅立ち』が終わり、シャーリーは、マリアに向かって、表明した。


「マリアさん……私。両親と、会うことにします」


 彼女は、目を丸くしたが……すぐに、あの慈悲深い笑みに戻った。


「決意が、決まったのですか」


「はい。それが私にとっての、『正しい行い』だと思うから」


 決意は固かった。

 その思いが通じたのか、マリアは笑みを更に崩して、シャーリーを抱きしめた。相変わらず柔らかくて、優しくて、ドキドキする……。


「あなたは素晴らしいわ……その背中にそっと、羽が生えることを祈っています……行きなさい、シャーロット・アーチャー……」


「はい……マリアさん。ありがとう、本当にありがとう」



 メルローズのショッピング街をいくつか抜けて、更に入り組んだ路地を入った先に、その店はある。


 ピンク色の照明が漏れ出て、街路側にはいくつものスモークが入ったショーケースが並んでいる。それだけだとペットショップだ。だが入っているのはペットでなく――娼婦である。そのように扱うのが好きな客も居るが。

 複数の乳房をぶらさげたり、爬虫類の皮膚を艶かしくくねらせるアウトレイス達が、道行く人々にショーケースの中から蠱惑的にアピールをしている。半透明なガラスが余計に情欲を刺そうという仕掛けなのだろう。店の中からは淫らな電子音楽に加えて、複数の嬌声さえ混じっていた。


 『マクラーレンの店』。店名はそれだけである。この何もかもが過剰な街では、名称に凝ることはなんのアドバンテージにもならない。股間のうずき、あるいはどうしようもない鬱屈を抱えた者たちは、何の疑問も持たず、そのブティックのような店名に惹かれて入っていき……一夜限りのとびきりのアバンチュールを楽しむ。各種オプションは要相談、ただし人種の違いによる『大怪我』は、当店では責任を負いません……。


「……」


 ――店先のドアに一人、ライダースーツを身にまとったスリムな女が立っていた。黒髪をサイドテールにして、目元には青いアイシャドウ。細いリトルシガーをくわえて、物憂げに街路を見ている。散らかった、陰鬱なまちなみ。いつも通り。

 名前はアイラ。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上の何かを知ろうとする者は誰も居ない。知ろうとする者は皆、彼女が倒れ込むようにして持っている長いポールのような棍の餌食になってきた。だから気にしない。彼女はただの、門番のアイラである。


 そんな彼女は……一人の怪しい奴が、店にふらふらとやってきたのに気づく。

 壁から背中を離して、耳元の端末に声を吹き込む。


「ピーピング・トム一人……『対応』する」


 灰色のボロ布を纏った人影。警察じゃないだけマシだ、と思う。

 ここのところずっと、ガムを噛んだ横柄な男どもに、知りもしない連中のことについて尋ねられた。ひ弱そうな少年に、修道服の女、ボロボロのジャケットを着込んだ男。

 ――そんな連中うちには来てないよ。最後の奴は割といい男だけどね。


 それだけ言うと彼等はハラスメントに相当する言葉をいくつか吐いて去っていく。疲労と苛立ちが滲んでいた。この町で何かがまた、水面下で蠢いている。それについては知らない。知る必要もない。自分たちはただ、ほんの一瞬の何かを提供するだけ。そこに立場も素性も関係ない。ただ、セックスがセックスとして、あるだけ。

 ……もっとも、そいつをやるためには条件があって、まずは『身なりを綺麗にしてくること』。股間ならともかく、髪を洗っていない連中はお話にならない。店の子達が、死ぬほど嫌がる。そんなわけで、その浮浪者のような奴に近付いて、声をかける。


「ちょっと。あんたにはまず、『施設』の貸し出しシャワーを勧めるよ。うちにあるシャワーに詰まっていいのはね、ヘアと、ゴムの包み紙だけ。分かる?」


 すると……そいつは、ゆっくりと近付いてくる。

 アイラは棍を握って警戒する。


「シャワー使う回数、ここで一番多かったの。多分、あたしだったんだけど。忘れちゃった?」


 ――予想外の声がした。

 ややハスキーな、明るい女の声。


「あなた……」


 フードがとられる。

 ……豊かな金髪が、ふわりと舞った。

 アイラは知っていた。その髪も、青色の綺麗な瞳も、屈託のない笑顔も。


「あなた……『ゴールディ』……? そうだよね……?」


「じゃなかったらびっくりだっての。久しぶり、アイラ」


 彼女は白い歯を見せて、笑った。


「……――ッ!!」


 思わずアイラは棍棒を打ち捨てて、ボロ布ごと『ゴールディ』を抱きしめる。


「あはは、ちょっとちょっと。あたしは犬かって」


「その口ぶり、変わらない。いつぶりなの、全く――」


 ……耳元でオーナーの疑問の声。


「ボス。旧友です。お通ししますので、見張りに交代を」


 ――それ以上の追及はなかった。アイラは信頼されていた。


「本当に、久しぶり」


 抱擁を解いて、改めて向き合う。


「うん……本当に」


「とりあえず、おかえり……ゴールディ」


 ゴールディ……つまりグロリア・カサヴェテスは、再び笑顔になった。


 原色のサイケデリックな照明が空間いっぱいに広がって、入り組んだ廊下の左右にはそれぞれ『お楽しみルーム』がある。一部ニーズにこたえるため、ところどころは半透明になっていて、これまたいたる所から多種多様な嬌声が聞こえてくる。夕暮れからのオープンであるが、アイラの嗅ぎつけた『何か』が街で起きている時は、大抵開店当初からどっと客が押し寄せる。不安と性欲の関係性についての論文を書こうか、と本気で考えたことも、彼女にはあった。


 廊下を抜けたスタッフルームに入ると、更衣室の隣に応接間があった。グロリアはそこに座る。


「ごめんね、こんなのしかなくって」


 アイラは薄いインスタントコーヒーを差し出す。


「いやいや、あたしも急に来たしね」


 ボロ布を脱ぎ捨てて、いつものキャミソール姿に。一気に身軽になり金髪が踊るが……同時にその表情に、笑顔でも拭いきれない疲労感が滲む。

 少し、煤けていて汚れていて……傷を負っていた。アイラは自分のコーヒーを用意しながらそれを察知して、彼女が数年ぶりにこの『古巣』に戻ってきたのが、ただ世間話をするためでないことを悟った。


「だッ、だから俺はただ、そっちのが刺激的かなと思って……」


「どこにテロドで科学実験するバカがいんだよ! デーモンコアでも作る気かこの粗チン野郎!!」


「粗ッ……いてて、いてて、分かった、分かったから……ひいいーーーーっ!!」


 廊下から、粗相をした客を追い出すアイラの部下の声。

 ――オーナーが提案したコストカットは、『スタッフを強くする』という単純極まりない、しかし効率の良い方法だった。


「……変わってないなぁ」


「そうかな。サツからの突き上げが酷くってさ。空調がちょっとショボくなった」


「そうなんだ……あっ、ナニーは元気してる?」


「あの子、電脳症。幻覚でオーガズムするようになっちゃったから、ウチじゃ見きれなくって。オーナーが医者紹介したら、今はそいつとデキてるらしいよ」


「あはは……まぁ、生きてるならいいよ、生きてるなら……」


 ――ゴールディは、ふっと……遠い目になった。

 なんとなく、彼女には似合わない、と感じたから。

 アイラは、少しだけ逡巡してから、問う。


「それで……ここ『卒業』してから初めてだけど。どうしたの、急に。連絡手段もないし。あなたは今、何に巻き込まれて。何をしに、ここに来たわけ」


「ちょっと、急にいっぱい言われたら、あたしパンクしちゃうわよ」


「――答えて」


 真剣な目つき。

 それを受けて、ゴールディは肩をすくめて苦笑する。


「変わってないなぁ、アイラも。変わってないってのは、マジに最高」


 答える気には、なったらしい。

 身を乗り出して、口を開いた。


「……お願いが、あんのよ。アイラ」


 その表情は不意に、切迫した調子を帯びた。

 ――こいつは『マジ』の奴だ。そう思ったので、コーヒーを一気に飲み干して、聞く姿勢を見せる。


「なあに。困ったことがあったら連絡してって言ったものね。今が、その時ってわけ」


「そーいうこと。だから今から、お願いする」


「……いいよ。言いな」


「悪いけど、細かいことは言えない。それでも?」


「それでもいい。ここはそういう場所でしょ。私、あなたのアンダーの色ぐらいしか、知らないよ」


 ゴールディはしばし考え込み……それから、重々しく言った。


「――……ここに来る客で。ハイヤーグラウンド出身の奴が居たら、教えて欲しい。それも、常連オンリーで」


 ……それは、なかなかの注文だった。

 しかし、冗談ではなさそうだった。あのゴールディが、いつになくマジな顔をしていた。アイラは苦言を呈そうとしたが、そんな事ができる空気でもなかった。


「うちのルール、分かってるよね、ゴールディ」


「分かってる。『持ち込むのはゴムと性欲だけ』。分かってる……だけどこいつはシリアスで、その……もしかしたら、この店にも関わってくる事かもしれなくって、それで……」


 急に、歯切れが悪くなる。

 それが無性に面白かった。

 ――この子、そうよね。頭は、悪いもの。


「いいよ、言わなくて。そこまでで、いい」


「でも――……」


「記憶力がやたらいい子が、うちに結構居る。その子ら、ちゃっかりしてるから。色々知ってる。もっとも、情報屋代わりに使ってこようとする刑事なんかもたまに居るから、そいつらには倍のカネを要求するんだけどね」


 ウインクする。

 ……ゴールディの目が、丸くなる。


「……いいの?」


「水臭いのはナシ。その代わり、今度奢りな。思い出の店で、一番高いのを頼んでやるからさ」


「ありがとう、ほんとに……」


 そこでゴールディは、涙ぐんだりするのかと思ったが。


「ほんっっっっとに、最高ッ…………!!」


 思い切り、こちらを抱きしめてきた。柔らかい胸の感触。自分と違って。

 アイラの中で、懐かしさがこみ上げてくる。なんだ、こっちのほうが泣きたくなってくる……。


 それ以上、ゴールディは長居しなかった。

 アイラは何かつかめた時に連絡するためのアドレスを彼女に渡した。

 店先へ。

 ゴールディはアイラの頬にキスをして、もう一度ボロ布をかぶる。それから背を向けて、去ろうとする。何か、ひどく切迫した……それでいて、寂しそうな背中。


「ねえ、ゴールディ」


 アイラは、旧友に問う。


「……なに?」


「今――楽しい?」


 すると、ゴールディは、くるりとこちらを向いて。

 また、あの咲くような笑顔を向けて、言った。


「うん。楽しいよ」


 それだけ言って、彼女は去っていった。


 笑顔の余韻はアイラの中に残った。

 あの言葉に、嘘はないのだろうか。本当に、そうなのだろうか。不安と疑いが差し込んでくると、際限なく気になってくる。だけど、大事なのは信じることだと教わった。だからアイラは信じる、そして祈る――どこで何をしているのか知らないけど。願わくば、あの笑顔が、少しでも長く続きますように、と。


 ……寒さが増してきた。

 アイラはぶるりと身を震わせて、入り口に引っ掛けていたコートを着込んだ。

 どうしてだろう。

 これからやってくるのは夏の筈なのに……どんどん空気が冷たくなっていくような、そんな不吉な予感をおぼえるのだった。



 薄暗い回廊を、ひとつの足音が規則正しく響く。


 かつーん、かつーん、かつーん。

 それから遅れて、小さな音。杖だ。

 こつん、こつん、こつん。

 踊るように、リズミカルに。

 やがて回廊は曲がりくねった先で、大きな広間のような場所に出る。

 しかして、その暗さが晴れることはない。それは陰謀の暗さだ。

 ――アッシュが、そこにやってきた。


「……傷は癒えたのか」


 ぶっきらぼうな男の声が、広間の一角から響いた。地の底から、マグマのように響く声。並の連中なら聞いただけで震え上がりそうなものだが、アッシュは極めて平静だった。聞き慣れていたのだ。うんざりするほど。


「ああ、ヴォルカン。あなたが僕を心配するなんて、珍しい。今日は空が落ちるのかな」


「馬鹿を言え。住民の士気と治安維持のための『仮想敵』相手だ。貴様ならもっと早くに片付けられると踏んでいた。情けない限りだ」


「あんまり派手にやると、下から調達するのが面倒になるでしょう。だから、ほどほどの試合を演出したわけですよ。だってその方がみんな、盛り上がるじゃないですか」


「…………ふん」


 ヴォルカンはそれ以上何も言わなかった。暗闇の中で腕を組んでふんぞり返っている図が目に浮かぶ。その単純さに、アッシュは笑いたくなるのをこらえた。


「あなたこそ、レガリアの調子はどうなんです? 思ったより連中はタフだったみたいですけど」


「造作もない。既に修復済みだ。これでいつでも――」


「その出番は当分無いさ。あんたが出りゃ、強制的に街中がステーキになっちまう」


 もう一つの声が、そこにかぶさった。

 気だるそうな、同じく、男の声。軽薄な調子を帯びている。


「バーバリー……貴様」


 ヴォルカンが嫌悪を滲ませながら言った。

 バーバリーと呼ばれた男は、暗闇で肩をすくめたらしい。そのまま憤怒を受け流し、続ける。


「どのみちあんたは地上に、子飼いの虫どもアウトレイスを放ってるんだろう。なら、出る幕は無い。適材適所って言葉がある」


 アウトレイス、という言葉に、にわかに侮蔑の色が混じる。

 ……評議会の『人間』達は。いや、ハイヤーグラウンドの者たちであれば、誰しもがそうだ。地上の連中は怪物で化け物で、何もかもが人間に劣っている。ゆえに、軽蔑して、嫌悪して当たり前。


 ――そんな連中の一部を、自らの部下……戦力としているヴォルカン、つまりは、評議会の威力部門担当もまた、その見下しの感情のごく僅かを、他のメンバーに向けられている。だが彼は気にしないだろう……犬猿の仲である、バーバリーを除いて。


「そういう貴様は、何か掴んだのだろうな」


 挑みかかるような口調。


「あぁ、あるとも。俺を誰だと思ってる?」


 彼は暗闇の中で指をぱちんと鳴らした。

 すると、アッシュのそばに、彼の部下である白服。


「……隊長、これを」


 タブレット端末が渡され、情報が表示される。


「――わーお」


 ……さしものアッシュも、驚かざるを得なかった。その情報。

 映し出されているのは、彼女――シャーロット・アーチャーのバイタル情報。

 そして、彼女の生体データの中に、何かの『異物』があることが分かる。


「情報発信装置だよ。それが彼女の身体に埋め込まれてる……おそらくは、『革命派』のどさくさに紛れてな」


「ってことは……彼等が、彼女の記憶を奪って、ここに送り込んだのは……」


「まぁ、気持ちのいい話ではないよな。その『情報』……つまり、ここで彼女が生活し、その記憶が書き換えられ……ここの『住民』となっていく過程は、一体どこに送られてると思う?」


「まさか……」


「そう、そのまさか。ザ・ウォールを、そしてアンクル・サムを超えた先。寒い寒い北の国、あの赤い国々だ」


「手を加えるなら外側から……ってわけですね」


「そういうことだな。ま、何も知らない連中からすれば、このロサンゼルスで起きてることは全部特大スキャンダルだ……外堀を埋めるには、申し分ない手段だと思うね」


「……連中」


 歯噛みする。

 名もなき街の、消えていくだけの虫ども。そいつらが、予想以上のことを企てていた。屈辱感がアッシュの身体を震わせるが、それでも気丈に笑ってみせる。でなければ、『彼女』に笑われてしまう……。


「――誰の差し金だ」


 ヴォルカンの重々しい声。アッシュとは対象的に、激憤の情を隠そうともしない。


「そいつが一番厄介でな。残念なことに、なんにも掴めちゃいない」


「何だと、貴様らの怠慢が、この街を――」


「まぁ落ち着けや。こういう時こそ、俺達が結束しなきゃならないんだろう?」


 なだめすかすような口調で。だが、その内容は、随分と嘘くさく聞こえる。


「……そうとも」


 声が聞こえた。

 歌声のようだった。それは幻、いや間違いなく聞こえたものだった。男の声、女の声。どちらか判別がつかぬほどの美しさ。小鳥のさえずりのように囁かれて、大鐘のように鳴り響く。すべての矛盾を内包したゾクリとした響きが空間に反響する。

 アッシュは。バーバリーは。ヴォルカンは。

 瞬時に、身を固める。本能が告げる動き――そうしなければ、そうしなければ。


 その次には、天から光が降り注いで、ついで、空間から闇が放逐された。

 明るさに満ちた場所から次々と光景が変化していく。赤い絨毯に豪奢なシャンデリアが、まるで湧き立つ泉のように、自律的に広がっていく。例えるなら、巨大なシーツを空に舞わせて、ついで広げたかのような。そう、『光景が、物理的に変化していく』――。

 アッシュ達は、気づけば、その空間に用意されたディナーテーブルのそばに座っていた。というよりは、気づけば、『座らされていた』。


「……――!!」


 顔を上げる。


「……おお」


 ヴォルカンが声を震わせる。

 ひときわ忠誠心のあつい彼が。


 そこで、彼等の前方にある空間がぱっと明るくなった。そこは一段高い場所になっており、舞踏会の会場のごとくに輝いている。

 ……一組の男女が、スポットライトを浴びている。

 女は、まるで生気の感じられない、人形のような少女。目から光が消え失せている。左右でくくられた髪が所在なさげに揺れている。

 そして、そんな彼女、倒れそうな彼女を支える男……いや、男と言ってしまっていいのか。

 凍りつくような白い肌。透き通るような亜麻色の髪。赤い瞳。薄っすらと開かれた唇。光る睫毛……純白の燕尾服。

 そこにはこの世すべての美が凝縮されていた。アッシュ達でなければ、目を焼かれていた。直接目撃でもしようものなら、発狂を免れられない。なぜならそれは、『美』の概念そのものであるから。この世にあらざる、抽象的で曖昧な概念の集合体――つまりは、それこそが混沌。

 混沌のディプス。その姿は変幻自在。今、新たなる姿をまとって、その場に現れた。


 どこからか音楽が流れ始める。

 ディプスの創り出した空間に、計算など、理論など通じない。何もかもが、彼の思い通りになる。

 彼等は、踊り始める。まるで人形を操るように、名も知らぬ少女をくるくると回し、腰を抱き、舞う。

 それが暫く続く……彼等は、見ている。


 そうして、途方も無い舞踏が続く中。

 口火を切ったのは、彼自身だった。


「きっとここが分水嶺。僕の物語が想定通りになるか、枠からはみ出るか。その分水嶺。無論僕は……前者を望んでいる」


 ぞっとするほどの、透き通った声。鼓膜を突き破って、頭の中に直接響いてくる。アッシュはテーブルの下で拳を握り、失禁しそうになるのに耐えた。隣を見ると……飄々としたバーバリーさえ、冷や汗をかいていた。


「しかし、我が主――」


 そこで、震える身体を支えながら立ち上がったのは。

 忠臣――ヴォルカンである。

 バーバリーが口笛を鳴らす、皮肉たっぷりに。


「貴殿が望んでいるのは、かの少女……シャーロット・アーチャーが、その枠組みを壊すことなのではありますまいか……」


 決死の提言。

 機嫌を損ねればどうなるかは目に見えている。

 その凍てつく瞳――舞踏が止まり、少女を支えながら、ヴォルカンを見る。

 ……しばらく黙ってから、『彼』は答える。


「それは遠からず、しかして近からず、ですよ……ヴォルカン。僕が望んでいるのは確かにシャーロット・アーチャーの成長だ。そのために、彼女に試練を与え続け……その力を増幅させてきた。だが、前にも言ったとおり、それは……僕に逆らうことは、意図しない」


 彼の声に、僅かな濁りが混じる。

 それは、現状に……『下の世界』に起きている現状に対して向けられたものだ、とアッシュには分かった。

 彼は苛立っている。『革命派』、それに『フェイ・リー』。想定外のことが多すぎる。最も後者は、その動きを抑制させるために、バルザックに対処させたわけだが。


「僕の物語は、僕が彼女と……そして、この子に与えたものだ。二人はその中で、役割を演じる。それ以上の逸脱を許すわけにはいかない」


 ディプスは、少女に向けて言った。

 彼女はうつろな目で、僅かに首を傾げて、ディプスを見た。自我がないわけではないだろうが……これでは、幼児同然だ。


「失礼ですが……その子は?」


 バーバリーが問う。

 ヴォルカンが彼を向き、睨む。バーバリーは無視した。


「ああ……彼女か。では紹介しよう」


 そこでディプスは、少女から手をはなす。


 少女は何度かふらつき、倒れるかと思ったが……そうはならなかった。

 その場でなんとか立ち、やがて、三人の方を向いた。

 口が開いて、言葉が漏れた。


「はじめ、まして……私、名前…………『エスタ』…………」


 ……『エスタ』。

 ということは。


「ああ。それでいいよ、エスタ。よく言えたね。みんな、僕の大事な友だちだ」


「とも、だち……? ディプス、あなたの……?」


「そうとも……僕と、君の大切な王子さまのための、大事な大事な友だち」


「おうじ、さま……??」


 少女は首を傾げて、ディプスに言った。

 彼は愛おしそうにその頬を撫でる。


「そう……シャーロット・アーチャー。君の王子さまだ。ずっと聞かせているだろう。いつか、君を助けに来る、白馬の王子さま」


「おうじさま……私を、たすけにくる…………」


 二人は見つめ合う。ふたりだけの世界。

 ……だが、どうやら魅入られているのは、ディプスの側のようだ。

 少なくともアッシュには、そう見えた。


「おお……我が主。彼女はそこまで、自我を取り戻したのですね。素晴らしい、それもこれも――」


 感無量、というように、ヴォルカンが言った。


「全ては、シャーロットの頑張りですよ。まだ覚醒には至っていないが。彼女が取り戻したエスタの欠片が、こうして、話ができるまでのこころを、復活させた」


 ……少し眉をひそめて、ディプスが言った。

 どうやら、エスタとの会話を邪魔されたと感じたらしい。

 だが、感極まったように二人を見ているヴォルカンには気付かれていない。


「それで、その……おそれながら、ディプス様」


 バーバリーが首をかきながら、問いかける。

 『№4』バーバリー。

 無造作に伸びた髪と、着崩したスーツの洒脱な男。胸元には金色のネックレス。一見してやり手の詐欺師のようにも見える彼であるが、今この場では、どうにも頼りなく見える。


「なんだ、バーバリー。貴様、我が主に水を差すな」


「そりゃあんただ、ファイヤーマン。――……ええっと、それでですね」


「良いですよ……言ってご覧なさい」


 ……ディプスは少し微笑んだ。

 バーバリーの背中が震えるのが見えた。

 そうだ……彼にそんな表情を向けられれば、誰だってそうなる。

 彼が、魔人たる所以……バルザックも彼も、これにはかなわない。そうして、忠誠を誓ったのだ。心の内側の、芯になる部分を、完全に掌握されて。他ならぬ自分も――。


「貴方はいつも迂遠な言い方をされるから、私は参ってしまいますよ。つまり事態は逼迫していて、外部からの力が迫りつつある。ということはつまり……これからは私の仕事、ということで。よろしいか?」


 すると、ディプスの微笑に変化が訪れた。染み渡るようなものだったそれが、どこか幼児のような、いたずらっぽいものにかわる。

 とたんに、年齢というものの概念が頭の中で崩れて、精神がぐちゃぐちゃになりそうになる。そんな表情をされてしまえば、もし自分が『ただのアウトレイス』であったなら、どうなってしまうのだろう――。


「ああ――勿論ですとも……」


 魔人は笑う。

 うつろな目の、人形の少女……かつて、もうひとりの少女に『助けて』と叫んだ少女の肩に手を置きながら。

 地上のすべてを、睥睨しながら。



 光の差し込む、孤児院の聖堂。

 その奥の壇に座り込んで、マリアは目を閉じて祈っていた。

 ゆるく組まれた腕も、閉じられた睫毛も、全てが燐光を受けて輝いている。

 神々しさすら感じられるその光景は、見るものを魅了せずにはいられないだろう。

 彼女は祈っていた。この地の、ハイヤーグラウンドの安寧を。そして、正しき者に、正しき恵みが与えられることを。

 ディプス……全能なるディプスに。


 その髪がふわりと動いて、頬が少しだけ揺れた。

 2つの影が、後ろの暗がりからそっと忍び寄る。


「マリア」

「マリア」


 輪唱のような少女二人の声。

 マリアには振り返らなくとも、誰か分かった。


「トリスタン、イゾルデ……あなた達も、祈りますか?」


「いえ、マリア」

「いえ、マリア」


 続く2つの声。


「事態は」

「進行し」

「逼迫しています」

「かつて」

「ないほどに」


「……ああ、そういえば」


 マリアは目を開けて、呟く。


「確かに、風が騒がしいような気がしますね」


 あくまでその様子は凪にほど近く、いかほどの動揺も含まれていない。


「どう」

「する」


「――簡単なことですよ。ふたりとも。やるべきときに、やるべきことをするだけ……それ以外の部分は、地上に捨ててしまいなさい。天使は、羽が軽くなければ、飛翔出来ないのですから」


「ということは」

「いずれ、私達の出番も」


「ええ――訪れるかもしれませんね。ですから、それまではただ、祈りましょう……ひたすらに、信じていましょう……そうすることで、己のゆらぎが、確信にかわっていきます」


「わか」

「った」


 二人はうなずいた。

 マリアも、それで満足したらしかった。にっこりと微笑んで、再び祈りに戻った。


 ――トリスタン。イゾルデ。

 そう呼ばれた少女たち。

 彼女たちにはそれぞれ片目と片足が、なかった。

 まるで、二人合わせてひとつのヒトとして完成するかのような。

 いびつな人形のような二人は、空洞の瞳で、互いの身体を支え合いながら、祈るマリアの背中を見ている――。



 そうしてマリアが祈っている、まさにその時。何もかもが同時に進行していた。


 ハイヤーグラウンドの住宅街の一角では、シャーロット・アーチャーが震える手である家のブザーを押した。

 間もなくドアが開かれて、そこからは、老け込んだ二人の男女が顔を出した。彼等は始め、呆然と彼女を見ていたが……やがて弾かれたように、シャーリーを強く、強く抱きしめる……涙がぼろぼろと、とめどなく、二人からこぼれ落ち……親と子が、再会する。

 その光景を、玄関の影から、アーサーが寂しげに見て、うっすらと笑っている。


 アンダーグラウンドの路地では、身体に切り傷を作ったグローヴが、落書きまみれの壁に背中を押し当てて、荒く息をして……取り逃がした連中の方角を睨む。あのジャップ、絶対に許さない……。

 ……チヨはその時。逃走していた。トレント。ミハイル。モニカの三人をかばいながら、奇妙な逃避行を続けていた。街中の指名手配から隠れるようにして。

 ミランダは自身を阻む壁を見つめ、長く、長く煙草の煙を吐き出した。彼女はグロリアのことを思っている。

 フェイとフレイは、閉ざされた暗い瓦礫の空洞の中、互いに銃を向けている。そのままにらみ合い、硬直……表情は、フレイのほうがこわばっているように見える。

 キーラは、クリスは。署内で歯噛みする。テーブルを鳴らし、ただ一言、「ちくしょう」と吐き出した。その怒りと苛立ちは、自分たちに向けられている。


 それぞれが、それぞれの目的のために動いていく中で。

 評議会の№4、バーバリーが動き出す。


「では、いきましょうか」


「――頼みますよ」


 バーバリーは首を鳴らしながら、スーツのシワを伸ばす。後ろのポケットからネクタイを取り出し、巻きつけ、結ぶ。

 髪を後ろへなでつけ、胸ポケットの眼鏡をかける。

 そこに現れたのは詐欺師フィクサーではなく……怜悧で苛烈なハスラーの出で立ちだった。

 彼は泰然としていた先程までの様子とは一点、鋭い眼光を見せながら、自身の主に不敵な笑みを向けてみせた。

 主も、そんな彼を見て、鷹揚に頷く――。



「さぁ……それじゃ、お仕事開始といきますか。『ビッグブラザー』バーバリーの……」

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