#14 ストレンジャー・ザン・パラダイス(6)

 シャーリーはただ呆けたようになって、状況のゆくえを見守っていた。


 怪物たちは、死んでこそいなかったが、完全にノビていた。後方から、重装備に身を固めた者たちが隊列を組んで現れた。白服たちとは違う連中である。彼らは怪物を、乗ってきたトラックにのせて、『処理』していく。


 そして青年は部下に支えられながら服のほこりをはらい、こちらを向いた。それから、笑いかけてきた。まるで少年のような表情だ。

 シャーリーは……少し、どきっとした。頬が赤くなった。

 観衆は未だ、白服たちの動きを眺めていて、背景に徹していた。しばらくしてから一台のリムジンが停車して、ドアが開いた。青年はその中へと乗り込む。

 ……そこで彼は、シャーリーのほうを向いて、言った。


「あなたもどうぞ、シャーロット。少し、擦り傷を負っているでしょう。治療しなければ」


 思わぬ誘いだった。

 ……後ろを振り返る。

 市民たちが、ざわつき始める。


 ――おい、誘われてるぞ。

 ――あの子、どういう関係なの。

 ――でも、アッシュが言うことなら、きっと正しいこと……。


 まるで、一人だけ舞踏会に誘われたクラスメイトのような、ばつの悪い気持ちであった。

 青年――アッシュはドアを開いて、座席に座って、待っていた。

 ……シャーリーは少し躊躇ったが、その誘いに乗ることにした。

 そうして、ドアに向かって身をかがめたとき、気付いたことがあった。だから、言った。


「……あの」


「なんです?」


「アーサーも一緒に、連れて行くことは出来ませんか」


 アッシュの表情は固まった。

 ……アーサーはシャーリーの後ろで、びくりと身を震わせた。

 何故だろう。違和感。

 彼は、ひどくおどおどした表情へと変わった。どうしてだろう。

 なぜそんなに、悪いことをしたような顔をするのだ?


「……」


 アッシュの顔に、影がさした。それも奇妙だった。

 ――不機嫌になっている? それとも。分からない。ただ、その表情には棘があった。アーサーを見つめ、まゆをひそめる。

 それからすこし経ってから、アッシュは、言った。


「……まぁ、良いでしょう。乗ってください」


 アーサーも座席に招かれた。

 アッシュは助手席、シャーリー達は後部座席に乗り、リムジンは出発した。

 民衆は、ざわつきながら離れていく車を見ている。その軍勢は左右にわかたれていた。モーゼの海割りのように。遠ざかっていく姿を、見ている。


 そのうちの一人が、叫びながら道に飛び出した。

 ――……アッシュ、私も、私も乗せて。

 それに続いて、何人かが続いた。彼ら、彼女らは、アッシュにメッセージを投げかけながら、打ち上げられた魚のように折り重なりながら道へ。それから、車を追いかけ始める。それを止めようとする者たちも複数。


 窓の後ろ側から、その様子が見える。こちらを追いかけてくる者たち。だが遠くなっていく……まるで芸能人のゴシップのようだな、とシャーリーは思った。しかし、芸能人のゴシップなんて、自分は見たことがない。その感想は奇妙だった。彼女は前を向く。続いて、横を見る。

 アーサーはうつむいて、身を縮めていた。やはり、そこに自分がいることを奇妙に感じているような態度だった。実に、不思議な様子だった。



 窓の外を見ると、流れていく景色はまるで変わらないように見えた。

 広い庭のついた邸宅が、街路樹のはざまに、なだらかな坂の上にゆったりと並び立っていて、ところどころ、日光浴や運動をしている人々がいる。停車している車を磨いたり、思い思いのことをしている。そこは忙しさとは無縁の、緩やかな時間が流れていた……背景の全体を覆う、桃色の空が象徴するように。


 シャーリーはそれから隣を見た。やはりアーサーは、居心地が悪そうにしている。

 酔ったのだろうか。声をかけようと思った。


「ねぇ、不思議に思いません?」


 前から声がした。アッシュだ。

 部下の運転する席の隣から、少しだけ後ろを向いて、言った。その顔はやはり、少年のように無邪気だった。


「えっ、と……?」


 彼はそこで、ふふんと笑って、続けた。


「空の色ですよ。ずっと同じピンク色。気付いてないですか?」


 ……言われてみればそうだ。しかし、急にそのことを聞いてくるのは、なんだかテンポがずれる気がした。このアッシュという青年は、随分と気ままでマイペースなのだろう、と思った。


「確かに……言われてみれば」


「知りたいです? 理由」


 とりあえず、うなずく。

 アッシュは満足したように小さく鼻を鳴らして前を向く。答える。


「天候調節装置が働いてるんです。だからここには、昼も夜も、その違いもない」


「そんなことが……」


 さりげなく言われたことであるが、とんでもないようなことである気がする。

 しかし、妙だった……シャーリーは感じていた。


 奇妙なことが、たてつづけに起こっていた。

 だのに、徐々にそれらに慣れていく自分が居た。怪物が現れたことも。市民たちに囲まれたことも。この車に乗っていること自体も。

 すべて、この桃色の空の下、溶かされ、まどろみのなかで、疑問も違和感も消えていくような。そんな感覚。

 だけどそれは、悪くはない気持ちだった。それでいいのか、と自分に問う、危機感を煽る声もあった気がしたが、それは遠くへ消えていくようだった。


「午後三時の微睡みがずっと続けば、と思ったこと、あるでしょ。そういうことですよ。ここは天国ですから。地上のしきたりに従う必要はないんです」


 どんどん、話が進んでいくようだった。

 なんだか、眠気までやってきた。

 その中でシャーリーは、ほんの少し、抵抗のようなものを示したくなった。


「だけど……私、友達を探しに来てて」


「でもあなたは先に、両親に会わなきゃならない。そうですよね?」


 ぴしゃりと。

 気持ちが沈んで、空の上に消えていった。それで、すっきりした。


「は、はい」


「僕らが、手伝いますよ」


「本当ですか?」


「だけど、そのためには、ひとつ、条件があります」


 彼はまた、振り返って、いたずらっぽく笑って言った。


「一緒にお食事でも、レディ?」


 まもなくリムジンは、とある建物の前に吸い込まれていった。

 それは一つの大きな教会のような建物で、そこには広い公園のような敷地が併設されていた。

 ……柵の内側で、たくさんの子供たちが、遊んでいる。



 案内されたのは、古い洋館と教会を組み合わせたような、古風で荘重な建物だった。たとえるなら、古い学校。

 アッシュが先導し、間にシャーリーたちを挟んで、部下が続いた。彼が大きな木製のドアを開ける。

 ホコリとともに光の粒が歓迎し、やがて内部が見える――外観と違わぬ、ふるめかしい内部。チョコレート色の内装が広がり、ホールの壁側を取り巻くように階段が伸び、其の奥へ廊下が伸び、左右にいくつもの部屋のようなものが見えた。

 ここはどこだろう――そう言う前に。

 空間の奥から、どっ、と。


 ――……アッシュだ。

 ――帰ってきたんだ、おかえり。


 とつぜん、小さな子供たちが溢れかえり、こちらに向かって駆けてきた。群がる、という表現がふさわしいのか。たくさんの男の子、男の子が、わっとなって、アッシュたちを取り巻き始めた。ぴょんぴょんとはねて、口々に言葉をはなちながら、こちらに向けて好奇の目を向けてくる。まさに子犬の群れだった。


 ――おかえり、おかえり。おそかった、アッシュおそかった。

 ――今日はね、とってもたくさんパンがやけたの。食べて、たべて。

 ――あのね、あのね。


「おいおい、僕は帰ってきたばかりだぜ。勘弁してくれないか」


 あやすような口調で、アッシュは彼等の相手をする。

 そこから少しはぐれたところで、シャーリーは後ろを振り向いた。

 ……入り口の近くに、アーサーが立っている。片腕を壁で支えながら、離れている。

 こちらに来れば、と囁いたが……彼は。確かにその時。


「俺は、そっちには、行けない」


 と、言った。

 シャーリーは当然不可思議に思い、手を伸ばそうとしたが、そこで。


 ――おねえちゃん、だれ。どこからきたの。

 ――ねえアッシュ、お客さんなの。

 シャーリーもまた、子供たちに群がられ、押し切られた。アーサーが遠くへ離れる。

 その勢いのまま……白服の部下が、扉を閉めた。

 アーサーの、少し頼りなさそうな笑みが、あとをひいた。


 彼が閉め出されてからも、二人は子供たちに囲まれていたが、そこへ、遠くから声。


「こらこら、みんな、困っているでしょう。はなしてあげなさい」


 ――どきりとした。

 歌を聞いたのか、と思った。

 どこまでも遠くに響く、甘い、甘い、優しい女性の声だった。

 一瞬頭の奥がしびれて、酩酊のようになった。

 振り返る。


 ――はーい。

 ――わかりましたー。

 ――つまんないのー。


 子供たちが、急に従順になって、二人から離れていって、廊下の奥へまた消えていく。

 ……声の主が、見える。

 彼女は洗濯物がたくさん入ったかごを持っていた。

 ……その容姿を見て、シャーリーはまた『どきり』とした。

 だって、それはあまりにも、あまりにも……――。


「ああ、姐さん。ただいま。こちらは――」


「知っているわ。聞きました。シャーロットさんね? 奥へいらっしゃい、歓迎し」


「姐さん、危ない、――」


「きゃっ!?」


 ――『姐さん』は、そこで、盛大に、すっころんだ。

 洗濯物が、宙に待った。

 それはいい。いいのだが。

 ……衝撃。


「ううう、いたたたた……せ、せんたくものが……ぐすっ」


「姐さん。大丈夫ですか。また度の違うメガネをかけたんじゃないでしょうね」


「そんなことは、今朝ちゃんと……あら、私ったら……」


「もう、ちゃんとしてくださいよ。ほら、起き上がって。シャーロットさん、下敷きです」


「あっ――!?」


 そう。シャーリーは今下敷きになっていた。

 柔らかいものに。すっごく柔らかいものに。

 彼女の目の前に大きな山が2つあった。ものすごく大きなものが。そしてそれは甘くて柔らかくていいにおいがした。窒息しそうなほどに。頭がくらくらした。別に女の人を好きになったことはないはずなのだが。薬でも飲まされたみたいだ。それから、その顔も近くにあった。長く、ゆるくウェーブする髪に、やや大きな眼鏡。それから、とろんとしたやさしげな目。その奥の瞳もどこまでも優しく。唇は桃色で、小さなほくろが左にある。シャーリーに覆いかぶさるすべてが彼女を圧倒して、そして、このままでいいか――とさえ思わせた。


「あらら、あらあらあら、ごめんなさい、本当に私ったらドジで、ごめんなさい――」


 立ち上がる。


「いや、あの、そのままでも――」


「えっ」


「な、なんでもないです……」


 『彼女』はゆっくりと立ち上がって、シャーリーに手を伸ばした。

 ふわりと、大きなそれが揺れる。途方もなく大きな――。

 立ち上がる。改めて見る。


 ゆったりとした長袖のニットドレス。柔らかな四肢に、甘い香気を漂わせる顔立ち。そしてなによりも、胸。途方もなく大きな。いや、なんだこれは、あまりにもやわらかくて――いや落ち着け。とにかく彼女は、その姿全体で、優しさとかぐわしさと、神聖さのすべてを映し出していた。まるで、聖母のような存在感を持つ女性だった。その彼女が、こちらを向いて、ゆったりと顔を傾けて、言った。

 ……また、歌うような心地いい響きだった。頭が再び、くらりとした。


「はじめまして、シャーロットさん。アッシュから連絡は受けていたわ。私はこの孤児院の院長をしています、マリアと言います。よろしくおねがいしますね」


 にこり、と。

 シャーリーは、アーサーのことなどすっかり忘れ、呆けたように頷く。


「嬉しいわ、アッシュがお友達を連れてくるなんて! なんて素敵なのかしら。私、お茶を用意します。さぁ、奥へいらっしゃい」


 彼女は両手を打ち合わせて、嬉しそうに――いやきっと本当に嬉しいのだろう。嘘がつけそうにはまるで見えない。そのさまはある意味、大型犬のような純真さも宿っているかのように見えたのだ。

 少しステップのようなことをしながら、マリアは背を向ける。


「いや、姐さん。僕らは怪我の手当てをしにきたんですよ。言ったでしょ」


 振り返る。彼女は慌てる。わたわたという擬音が頭の上に浮かぶようだ。両手をしゃかしゃかさせながら、眼鏡のつるをなおす。


「あらあら、ごめんなさい、私、張り切っちゃって……ええっと」


「落ち着いて。とりあえず、医務室へ案内してください」


「そうよね。ごめんなさいね、つい張り切っちゃって……てへ」


 気恥ずかしそうに、こちらにウインクを向けてくる。その様子は少女のように可憐だ。こちらまで気恥ずかしくなってくる。

 というわけで、アッシュとシャーリーは、医務室へ向かうこととなったが。


「そうだ、姐さん」


「どうしたの? 悪いのだけど、バナナケーキはもう切らしているのよ、だから――」


「そうじゃあなくって……洗濯物、片付けたら」


「……あっ」


 ……シャーリー達はとりあえず、散らばった洗濯物をなおしてから、医務室に向かった。


 かんたんに治療を終えたあと――アッシュの怪我は大層なものであったはずだが、やけに短時間で済むのが気になった――二人は、ある部屋へ向かった。


「待っていたわ。さぁどうぞ」


 待ちきれなかった、というように、入り口にマリアが居た。それから、どこかうきうきしながら扉を開けて、部屋の中へ。

 

 綺麗な洋室だった。ソファにテーブル、それからシャンデリア。誰かをもてなすための最適解のごとき空間。

 ――――……どこか、過去のどこかで、これとは真反対の『応接間』を見たような気がしたが。もう覚えていなかった。シャーリーはその記憶を振り払う。

 シャーリーとアッシュがソファに座ると、マリアが、紅茶とシフォンケーキを用意してくれた。


 一口飲む。

 ……ほっとする。ここに来てから、緊張の連続だった。身体の中に張り詰めていたものが、一気に解きほぐされたような気持ちになった。

 シャーリーは眉間を揉んで、ため息を付いた。


「……ふふっ」


 向かい側に座ったマリアは、心底嬉しそうな表情をした。二十代、後半ほどだろうか。それには似つかわしくないほど、幼い笑み。だがそれが逆に、彼女の純真さと優しさをあらわしているかのようだった。

 ……もっとも、その笑顔の下には、あまりにも巨大な2つの柔らかい山があるのだが。


 外を見る。

 大きな広い庭で、子供たちが無邪気に駆け回っている。ぶらんこや砂場で遊び、笑い合っている。桃色の空が、それらを見守るように見下ろしている。

 こちらの表情も、ゆるんでくる。いい場所だ、と思った。


「改めて、ごきげんよう。ここは『ハウス・オブ・ラブ』――月並みですけれど、ハイヤーグラウンド唯一の孤児院であり、学校であり、教会でもある……そんな場所です」


 こちらの緊張がほぐれたのを見計らって、マリアが言った。

 ……シャーリーはレモンを浮かべた紅茶を一口のんで、湯気の向こう側の彼女を見た。

 マリアはやはり微笑んでいた。その官能的な唇が、ほくろとともに、ふっと開いていた。


「あの……マリア、さん。ここは一体……どういう場所なんですか」


「――あら」


 彼女は少し驚いた顔をした。


「この子、本当に……記憶がないのね」


「だから言ったでしょう。僕もびっくりですけど」


 申し訳無さを感じて縮こまっていると、それを察したか、彼女が言葉を継いだ。


「そうね……簡単に言えば、ここは……『傷を癒す場所』です」


「傷……?」


「そう。ここは、地獄のような魔界と化している『下の世界』から、からがら生き残って、脱出した子供たちが集まっている。当然、親は居ない。みな、孤児。ここに上がってくるとき、当然……皆、傷ついている」


 思わず、黙ってしまう。

 自分が目を覚ましたあの場所は。そこまでひどいところだったのか。


「だから彼等は、ここで癒やしを受けて、下で受けた辛い記憶を洗い流していく。そして、悩みも何もかも忘れて、幸せに暮らす。ここは、そういう場所です」


「……」


 それは、素晴らしいことだ。

 だが、そんなことが、そんなかんたんに出来てしまうのだろうか。

 だって、あんな化け物たちが、実際にここにも居るのだ。そんなすぐに、人の心は洗われていくのだろうか?


「……そんな簡単に救われたら苦労しないって、そう思ってます? シャーロット」


 アッシュが隣から覗き込むように言ってきたので、少し驚く。


「こら、アッシュ。かまをかけては駄目ですよ」


「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、そう思ってますよね、多分。確かに、『下』だったり、外の世界だったら、そうかも。でも、ここはハイヤーグラウンド。本当に簡単な世界です。だから、優しいものは救われて、おそろしいものは、倒される。そういう世界。あなたも見たでしょう」


 そう言われれば、納得せざるを得なかった。

 ここは天国。桃色の空の下で、誰もが幸せに暮らしている。凪のような時間が過ぎて、子供たちは窓の外で遊んでいる。

 もし、怪物が、悪が押し寄せたとしても……『正義』が、それを打ち倒す。

 シャーリーの目の前で、はっきりと目撃された光景だった。だから、説得力があった。

 ……静かに、頷く。


「うんうん、つまりですね、ここはハイヤーグラウンドの象徴というべき場所なんですよ。ここから全てが始まって、終わる――いてっ」


 マリアが、アッシュの頭にチョップをした。あまり痛そうではなかったが。


「むー…………」


「あーはいはい、むくれないむくれない。続きどうぞ、姐さん」


 ……彼女の顔が輝いた、本当に純粋な人だと思った。

 ――先程よりも随分と得意げな様子になって、マリアは立ち上がって言った。


「そして、この孤児院をお作りになられたのは、ハイヤーの長である『ディプス』様。これを見れば、きっと、思い出すはず」


 (どや顔で)、マリアは指差した。壁にかかっているタペストリー。そちらを見る。


 描かれていたのは、ゆったりとしたケープに身を包んだ一人の青年の姿だった。だが、女性のようにも見える……とにかくその姿は美しかった。ふせられたまぶたと、光るまつげも、うっすら微笑んでいる口元も。すべてが、この世のものとは思えなかった。絵で描かれているだけだから、実在を疑うことは簡単だったが……その時シャーリーは息を呑んだ。瞬間、確信した。この存在は、この世に居るのだ、と。


「なんだか、心が洗われるような……」


 どこか呆けたような口調で、そう言った。

 すると、マリアがゆっくりとそばにやってきて、囁いた。


「そう、それでいいのですよ。これであなたも、紛れもなく、この場所の住人」


 シャーリーはうなずいて、再びソファに座った。


「さて、次はあなたです!」


 マリアが、手を鳴らして、笑顔になって、言った。

まるで手遊び歌を催促する子供のようだ。どこかうきうきしている。


「えっ……?」


「あなたの言葉が、私、聞きたいわ。あなたのことを聞かせてくださいな!」


 にこにこしている。

 アッシュは隣で肩をすくめて、小さくつぶやいた。

 ――こうなった姐さんからは逃げられないですよ。おとなしく、話したほうがいいです。

 向かい側の顔を見る。

 どうやら、そのようだった。シャーリーは降伏することにした。


「私は……」


 一口、紅茶を啜って。


 シャーリーは、語った。

 十年前から、記憶がないこと。友人とはぐれたこと。気付いたら、下の世界の路地裏に居たこと。あいだの期間の記憶がなくなっていったこと。そしてそれらがやがて洗い流されていったこと。

 ――今はただ。両親のことが、心配でならないのだということ。


 重々しく、つらい時間だった。話は時折脱線したが、それでも、マリアは聞いてくれた。

 やがて、すべてを話し終わったとき、シャーリーは大きくため息をついて、肩を落とした。マリアは、紅茶のおかわりをいれてくれた。


「……そんなことが、あったのですね」


 向かい側の彼女もまた、憂いのこもった表情になった。こちら側の気持ちを汲み取り、共感したようだった。なんだか申し訳なくなるほど、かなしげな顔をしている。

 ……少しの沈黙の後、シャーリーは、次に聞きたいことを聞く気になった。

 この人になら、いろいろ話しても良さそうだと。そんな気になれたからだ。


「マリアさん。教えて欲しいです」


「どうぞ、なんでも。この私に、出来ることがあれば」


「私の記憶がなかった十年の間に、ここでは一体どんなことがあったんですか。私の知っているロサンゼルスは……どうなっちゃったんですか」


 そう問うと、彼女は少し悲しそうに目を伏せて……答えた。


「あの怪物たちを見たでしょう……アッシュによって倒された」


「はい、おそろしい……」


「十年前起きたのは、彼等による大規模な地殻変動。それにより世界は上と下それぞれの世界に分かれました。幸い私達はここにこうしてとどまることで助かっていますが……魔界から溢れた怪物たちは、今も下の世界で……跋扈しています。ここに上がってこれなかった人間たちを脅かしながら。そうして、ここまでたどり着いた怪物たちは、攻め込んできて、私達の平和を脅かしてくる……」


 そこまで言って、マリアは頭を押さえて、かがみこんだ。アッシュは彼女に駆け寄り、肩を撫でさする。事実を、現実をこちらに言うことで、それだけの精神的なダメージが発生したということだった。なんて慈悲深い人なのだろう、そう思うと同時に……聞かされた過酷な現状が、どこまでも彼女の落ち込みに説得力を与えていた。


「でも、あいつら、人間に似ていて……」


「人間に化けています。見た目が人間でも、正体は血も涙もない化け物なのです……」


 そこではじめて、マリアの表情に嫌悪感が走った。この人は一体、どれほどのものを見てきたのか。きっと忸怩たるものがあるに違いない。


 ……それなら。

 ――そんな、ひどい現状があるのなら。

 心のなかに空洞ができて、そこに何もかも吸い込まれるような気持ちになる。

 もしかしたら。もしかしたら……。

 恐怖と不安が一気に押し寄せてくる。十年という月日の意味。自分の失ったものの意味。アップになって、突然襲いかかってくる……。

 心臓の強く跳ねる音を聞きながら、シャーリーは紅茶をごくごくと飲み、聞いた。


「じゃあ……エスタは……エスタ・フレミングです。十年前分かれた、私の親友。彼女の安否は、一体……」


 ――マリアは顔を上げた。

 アッシュと、目配せをしあう。ひどく真剣に。意味するもの。

 マリアは一言添えてから立ち上がり、しばらく戻らない。沈黙。アッシュのほうを、怖くて向くことが出来ない。永遠にも感じる時間。


 マリアが戻ってきた。意を決したような表情をしていた。


「名簿を……見てきました」

 ――頼む。言わないでくれ。

 頼む……その先は。


「あなたの友人、エスタ・フレミング……名簿に、名前がありました」


 ――ああ。


「彼女……亡くなっています。ごめんなさい。伝えることしか、出来なくって」


 ……そんな。ああ、そんな。

 だけど、どこかで、そんな気がしていた。

 シャーリーは、その場で崩れ落ちる。

 泪が、熱いものが一気に溢れかえって、顔の表面をどろどろにする。膝から一気に崩れ落ちる。倒れ込んで、がくがくと震える。


「あああああ、エスタ……ああああああっ…………」


「ごめんなさい、こういう形でしか……」


「何を言ってるんですか、姐さん。事実は事実でしょう。仕方ない、仕方ないんだ」


「そうは言っても……辛いことよ。本当に……」


 手のひらから砂がこぼれ落ちてしまうようだった。本当に辛かった。

 どれだけの時間、泣き、取り乱していたか分からない。

 ただ、カーペットにシミがどこまでも広がっていくのを止められなかったことは覚えている。


 やがて、マリアのしなやかな手が、シャーリーの肩にまわされ、甘い匂いがした。振り返る。彼女の表情は、どこまでも慈しみに満ちていて……まさに、聖母という二文字にふさわしく思えた。


「悲しいわ。きっと、身を引き裂かれるほどに、辛いでしょう……」


 頷く。


「だけど……あなたは、生きているわ」


「……っ」


「あなたは、生きています――それだけが真実。あなたの友達は、あなたのことを大切に思っていたんでしょう。それなら、――」


「私のことを大事に思ってくれているのは、エスタ以外はいない……いないんですよ……!!」


 叫ぶ。


「ご両親が、居るでしょう……?」


「違う。違うんです。私の、私の両親は…………――」


 そこで。

 シャーリーは、思いの丈を吐き出す。嘔吐するように。


 シャーリーは……ぶちまけた。両親について。

 豪邸。綺麗な家具に、大きな庭。たくさんのおもちゃ。幼いシャーリーには、何もかもが与えられていた。

 しかし、肝心のものが、なかった。両親の愛情が、それだった。

 仕事で、家を空けている父。母もまた、市街へ日中ずっと出かけている。家に二人が揃うことはほとんどない。そして顔を合わせれば、激しくぶつかりあう。そこに愛情などはない。あったとしても、とうに冷めきっていたに違いない。大金のかわりに、二人はもはや夫婦でもなんでもなくなっていた。

 そんな二人が、かろうじて共に暮らしていたのも、自分の、シャーリーのためであった。幼い彼女を育てるという名目のため、一緒に居たのだ。だが、その扱いに、愛があったのか? 答えはノーだ。一方的に、ものを与えるだけ与えて。愛をささやくことも、抱きしめることも、ほとんどなく。シャーリーはずっとずっと、ひとりだった。孤独だった。どれだけ両親の言葉を、あたたかさを欲していても、まるで手に入らなかった。彼女には、本当の大きさ以上に、家が大きく思えて仕方なかった。

 ――ある時。両親がまた喧嘩していた。いや、それはもう、言葉による殺し合いだった。どちらか片方が泣いていた。きっと母だろう。息苦しくなったシャーリーは、家をそっと抜け出した。どこかに、自分のための居場所はないのか。自分と心を通わせてくれる存在は居ないのか。そう思って、こっそりと街を彷徨った。

 ――……そのときに出会ったのが、エスタ。エスタ・フレミング。

 彼女と心を通わせるのに時間はかからなかった。立場は違えど、境遇は同じだった。互いに足りないものを、互いが埋めていった。

 ふたりは、親友になった。

 ――だが。それについて、両親は理解してくれなかった。

 それどころか、自分が『貧しいこども』と交流したことについて、ひどくののしり、痛くて、怖い、折檻をした。

 ――あなたは選ばれた子供なの。あんな薄汚い地域の子供なんかと。

 ――あなたは違う。あなたは、決められた役割がある。

 ――あなたは、あなたは、あなたは……。

 それが両親だった。

 与えることだけを、役柄を固定することだけを、愛情と勘違いしていた、冷たくて大きな2つのにくのかたまり。

 シャーリーの中で何かが壊れて、何かが作り出された。彼女の中で、新たな価値観と、行動原理が生まれた。

 ……それが、両親に対する、シャーリーの全てだった。

 それ以降彼女はもう、両親に何も求めることはなくなった。


 吐き出し終わった。

 つらかった、苦しかった、恐ろしかった。

 こうして言っていた今も、あの鞭が、言葉が身体に突き刺さるようだった。ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も謝った。十年、なんて長い。両親は自分のことを覚えているだろうか。もし覚えていたら、自分は一体どうすればいいのか。自分は、自分は――。


「そう……辛かったのね…………」


 そこで、ふわり……と。

 マリアが、シャーリーを抱擁した。

 柔らかな感触と、どこまでも甘いにおいが、彼女を包み込んだ。

 それはささくれて冷え切った心を一瞬にしてあたたかくして。

 ……彼女は、内側から、急激に癒やされていくのを感じた。陶酔にも似た感覚。


「マリア、さん……私、私……」


 抵抗することなく。その抱擁を感受する。

 自分の涙で彼女の服が汚れることが気になったが、もうそんなことで何かをすることも出来ないほど……とかされきっていた。

 遠のいていく。両親の怖い顔が、遠のいていく……。


「辛かったのね、本当に、本当に……」


「うう、うう…………」


「だけど、大丈夫、大丈夫ですよ。あなたをしばるものは、何もありません。あなたは、辛くなくなるまで、ここにいればいいわ。ここは、あなたを歓迎します――全能なる、ディプスの名のもとに」


「そんなことが……でも、私……――」


 顔を上げると、アッシュが肩をすくめて言った。


「ああ、慈愛モードに入った姐さんは止められませんよ。それにあなたには、時間が必要です。両親に会うための時間が……そうでしょ?」


「……」


「大丈夫です。どれだけ時間がかかっても構いませんよ。ここは『愛の家』……あなたを癒やすためのものは、全て揃っています……」


 そう言って、マリアは微笑んだ。

 その笑みを見ると、シャーリーの中で何もかもが解きほぐれていって……和らいだ。

 ……彼女は、肩の荷が下りたような気持ちになった。

 間もなく。


「……すみません、ご迷惑をおかけするかもしれないけど。よろしくお願いします……」


 そう、告げた。

 マリアは再びあの微笑みを浮かべて、受け入れた。

 広げた両手と、その背後にある『ディプス』のタペストリーが、シャーリーの告解に赦しを与えてくれた……。



 随分と長い時間を孤児院の中で過ごしたはずだったが、空の色が変わらないので、曖昧なまま溶けていって、とろりとした感覚だけが残った。

 だから、扉の外で壁にもたれて立っていたアーサーと再会しても、そこまで罪悪感は抱かなかった。奇妙な感じだった。


「……ああ、シャーリー。治療は終わったのか。それにしちゃ、随分長い時間がかかったみたいだけど」


 中での会話について、言うべきか迷った。


「――まぁいいや。とりあえず、ここに来る前よりも元気そうだし。それでいいんじゃないか」


 彼は笑って言った。

 ――それで、告げる気になった。

 アーサーを連れて広場の一角に行き、そこで、言った。


「そうか。ここでしばらく過ごすのか……まぁ、良いんじゃないか。いいところだぜ、ここは」


「あなたは……どうするの」


「どうするのって。俺は俺の家に帰るしかないよ。一人暮らしは、ここじゃタブーだから」


「……どうして?」


「どうしてってそりゃ、家族ってものが、ここでは何よりも大事にされてるからで――」


「そうじゃない」


 シャーリーは、ぐいっと、アーサーに身を寄せた。

 彼の顔が赤くなった……気付かなかった。問うた。


「どうしてあなたは、ここに入らなかったの。どうして、ここにいられないの」


「……――そ、それは……」


「答えて」


 しばらく、彼から目をそらさないことにした。

 ……アーサーは、それで折れた。


「あのな、シャーリー。これも、忘れてたかもしれないけどさ」


 彼はバツの悪そうな表情になって、言った。


「実は俺……この街が素晴らしいところだって、十分思えないんだ」


 意外な告白だった。

 ……あんなにも馴染んでいるように見えたのに。


「やっぱ、そう思うよな。でも、本当。空がずっと変わらないのも変だし、目の前で戦いが起きてるのに怖がらずにみんなが応援するってのも……昔から変だと思ってる。なぜかは分からない。だって、それが素晴らしいことだってのは分かる。ハイヤーグラウンドが掲げているものも、ディプスも、俺に生きがいを与えてくれてる。そいつは分かってるんだけど……なんでだろうな。なんか、『違う』んだよ……俺の中では、ちょっとズレてる」


 勇気のいる告白だったのではないか。

 ――広場の一角に座る自分たちの真上に、大きな雲がかかって、影が真下に投射される。子供たちは、太陽の下に居る。彼は、遊んでいる彼等を見る。


「それでさ。俺、ある時、そのことを医者に言ったんだ。今から、それこそ十年くらい前かな。そしたら、びっくりだ。お前は脳に障害がある、それがこの街に疑問を生じさせているのだ、認識を歪めているのだ、って言われちゃって。母さんは隣で聞いてて、卒倒してたよ」


 ……なんでもないように彼は語り、笑ったが……どこか、寂しげな表情にも見えた。そういうふうに言えるようになるまで、どれだけの時間がかかったのか。


「あっという間だったな、そこからは。ここは広いようで狭いから。俺が他の皆と『違う』ってことは、一瞬で広がった。それで俺に対するあつかいは――変わった。俺はここには入れない。ディプスの祝福は受けられない。何故なら、彼に対しても半信半疑だから。裏切り者のユダってわけさ」


「そんな…………」


「幸い、俺と同じようなやつは他にも居たから……俺はなんとか、そいつらとツルんで、孤独から耐えていた。それから俺はもうひとり、俺を救ってくれる人に、出会っていた」


「……誰なの?」


「分かってるくせに。それが君なんだよ、シャーリー」


「私……?」


 当然ながら、今のシャーリーはそのことを知らない。

 知らないところで、自分が、知らないことをしている。

 なんだか随分と、罪深いことであるように思えた。


「君は、おかしくて、狂ってる俺に対して、別け隔てなく接してくれたんだ。ノート貸してくれたりとか、色々……まぁ、言うのは恥ずかしいんだけど。それで俺、君と仲良くなれて。本当に嬉しかった。それで、その…………そういうことがあったから……」


 その先の言葉は、なんとなく分かった。

 胸の内側が、じくじくと痒くなり、わけもなく、どきどきしてきた。

 顔が、互いの、近い場所にあった。


「だから俺、君のことが好きになって、それで、恋人のマネごとなんかしちまって、それで……」


「……だから、あの時。ああして私のこと……」


「――ああそうだよ。畜生、死にてえよ」


 彼は腕の中に顔をしまい込んで、うめいた。

 その様子を見て……シャーリーの中に、うずくものがあった。

 自分はこの青年に……愛おしさを感じ始めている。間違いがなかった。

 眠っていた何かが、起き上がってくるような感じだった。


「だけど、俺、俺……」


 彼は声を震わせる。


「アーサー……?」


「……怖いんだ。俺、君がここに来て。安心して。それで、みんなと同じように……染まってしまうんじゃないかって。それが怖い。君が遠くに行くのが怖いんだ……」


 彼の肩が震えていた。

 守ってやらなければ――そんな思いが、不意によぎった。

 それは不思議と、ずっと昔から持っていた気持ちのような気がした。

 シャーリーは立ち上がり、アーサーの手を引っ張った。


「シャーリー……!?」


 小さな木陰、子供たちの見えないところにつれてくる。

 まくしたてるように、彼に伝える。


「大丈夫、私はもう遠くへ行かない。だって私はここに居る。ここにいるかぎり、私は、私。絶対に変わらないよ」


「でも、君は」


 首を振って、彼に笑顔を向ける。

 自然な表情になっていることを、願った。


「大丈夫。私に残されてるのは、ここと……両親だけ。エスタが居ないなら、それしかないもの。それなら、あなただってきっと、大事にできる。信じて」


「……」


「――信じて」


 顔を近づける。彼の顔が近くにある。

 ちょっと浅黒い、エキゾチックな顔。こうしてみてみたら、なかなかかわいい顔をしているのだと気付いた。

 ――そこで顔が赤くなる。

 何を言っているのだろう自分は、これではまるで、――。


「……――――シャーリー」


 彼を。

 引き剥がそうとした。

 しかし――その瞬間には。

 彼の目は真正面にあって。

 

 アーサーは、シャーリーに口づけていた。身体を密着させて、逃げられないようにしていた。木陰で、誰にも見られなかった。だから脱出出来なかった。出てしまえばきっと、真っ赤になっている顔が目に入って、バレてしまう。

 唇と唇の内側で、息が行きかい、混じり合った。

 

 彼女の腕は、力を緩められて、ゆっくりとおろされた。

 それから、彼を受け入れていく……。


 悪い気は、しなかった。


◆1 Days After...?


 薄気味悪いほどに暗い夕暮れの街の中を、トレントは走っていた。


 すぐ後ろにミハイル。一番うしろにはモニカ。しきりに後ろを振り返りながら、追われていた、追われていた。

 バーモント・アベニュー。飲食店が広がる路地。ゴミ箱や、浮浪者の住処のダンボールを蹴飛ばしながら、からがら走っていく。


「……ミハイル。大丈夫か、休むか……」


「僕は……大丈夫……でも、ここを抜け出さないと……――」


「――いや……トレント。休むほうが良い。すごい熱。だから……」


 モニカが言った。

 振り返ると、ミハイルの顔には、尋常じゃないほどの汗が浮かんでいた。


「……そうだな」


 三人は、開店休業中の韓国料理店の影へ。

 そこに、身をかがんで隠れる。ボロボロの布を上からかけて、カモフラージュ。



「……飲め」


 ミハイルに薬を与える。

ぜいぜいと息を吐くやせ細った少年は、なんとか錠剤を飲み下すと、咳き込んだ。

モニカが彼の背中を撫でている。

 トレントは、布の隙間から、路地の外を見る。


「ここも……長くはない」


 壁には、貼られていた。張り紙。

 指名手配――生死問わず。

 三人の顔。それは、トレント。ミハイル。モニカ。

 ……警察が、ハイヤーグラウンドに掌握されている何よりの証拠だった。正義は、『穏健派』の側にあった。自分たちは犯罪者で、逃亡者。この街に居ないはずの者たちに存在が与えられたと思ったら、今度は、それを消すために、全てが敵となって襲ってくる。

 なんて残酷な世界なのだろう。こんな世界など。


「こんな……こんなものを、正義などとは……」



「認めないってか? それなら、あんたらの正義ってのは、どこにある?」



 ――声。

 かすれた、露悪的な、女の。

 ぞくり。悪寒。それはグローヴの声。どこから、一体――。


 はっとして、頭をめぐらせた。

 店の柱に、手を当てていた。

 間もなくそこが、ぬるり、と……剥がれ落ちた。


「――ッ!!」

 

 トレントは布を剥ぎ取り、路地の真ん中へ転がり込んだ。

 モニカも直ぐに反応、ミハイルを抱えて壁から離れる。

 それから彼を後方へ。二人で、前方に戦闘態勢。


「貴様……」


「あーあー。もうバレたか。さすがだと言いたいね、色男」


 はがれた店の柱が、話した。

 いや、違う――それはグローヴだった。

 ゆっくりと地面に落ちて、それから徐々に、ヒトガタへ戻っていく……そして出来上がる。一人のエンゲリオの身体。

 グローヴ。自らの身体を自在に軟質化できる『飴人間』。


 トレントは周囲を見る。

 ……不思議なほどに、通行客が消えていた。閑散としている。


「おかしいねえ。今日は礼拝日だったかね?」


「人払いをしたか……最初から、つけていたのか」


「まぁ、そういうことさね」


 グローヴは三人を見て、かかか、と不快な笑い声を立てた。

 彼女のどろりとした胡乱な目は、彼等の後ろ……ミハイルに注がれた。

 少年はそれを察知すると、びくりと震える。


「……やらせない」


 トレントが、両腕を左右に広げた。

 同時に、路地裏に転がっている鉄くずが、瓦礫が震えだして、彼に吸い寄せられていく。


「おっと、良いのかね? ここで暴れたら、随分と目立つんじゃないか? あたしと違ってね。そうすりゃあんた……もっとたくさんお客さんが来ることになるよ」


「……っ!!」


 躊躇する。

 もし――警察がここに殺到すれば。自分たちを捕まえようとしたのなら。

 自分は攻撃できるのか。こいつ以外の者たちを、無関係の者たちを――。


 その感情が、スキを生み出した。


「――トレントっ!!」


 モニカが叫んで、鋼線を射出した。

 だが、グローヴはあっさりと回避。軟体の身体を捻りながら、流れるように、トレントを超えて……ミハイルに迫った。

 少年は悲鳴を上げてうずくまろうとした。その身体から、青い光が放射される。


「しまっ――…………」


 その時。


 硬く鋭い金属音が響いた。

 トレントの後方、ミハイルの前方。


「……――!!」


「チッ……来やがった」


 トレントは振り返った。モニカの顔色が変わった。


 グローヴの『抱擁』は、そこで止められていた。

 ――斜めに構えられたロングソード。

 そのあるじである、銀髪の少女。


「南無三……気色の悪い女め」


 チヨ・タカナシは、グローヴの攻撃を受け止めていた。

 そして、ミハイルを――トレントを、モニカを守った。

 彼等が『何故』と言う前に……彼女の鋭い瞳が、歯噛みする飴人間を、ぎろりと睨みつけた。


 サムライの、カタナのように。

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