#8 バニシング・ポイント(8)

 その男は炎によりあっさりと宙に浮いていた。

 そして腕を組み、炎に包まれる町並みを睥睨していた。


「っ!!」


 フェイは、おぞけを抑えられない。縄で縛られた体が震える。

 それは、シャーリーにしてもモニカにしても同様だった。

 彼を見上げたまま動けない。

 その姿は――あまりにも、あまりにも人間でありすぎたから。



「ッ、こけおどしを」


 モニカは立ち上がりながら、鋼線を発射した。ヴォルカンに向けて。

 だが瞬間、奴の姿は消える。


「何――」


 ……一瞬後。

 そいつは、彼女の目の前に現れる。

 髪が舞う。奴の目が、そのあまりにも冷たい目が、視界に。

 戦慄――。


『お前は、まっさきに消す』


 その掌が当てられる――。


 翼が舞った。浮遊感。何かに掴まれたような。


 ……刹那ののち。

 炎が、奔流となってモニカの居たその場所を焼き尽くす。

 轟音をともなって、炎が建物を、町並みを飲み込んだ。上空から見れば其れは、意志を持った紅蓮が町を蹂躙し、貪婪に飲み込んでいくようなありさまだった。


「……!!」


 倒れ込むモニカ。目を開ける。

 ……自分を抱えていた者の姿が目に入る。

 ミランダ。翼の半分が灼かれていたが、今、土壇場でモニカを救ったのだ。彼女は、モニカが無事であることを確認すると、気を失いーー倒れる。顔を上げる。


「町が……」


 被害は広がっていた。

 いや、コレまでの日ではなかった。

 目の前に広がる、黒こげのパノラマ。

 炎が、グラウンド・ゼロの一角を、そのまま消し飛ばしていた。今はただ、焼け落ちた柱と梁が、わずかに残るのみ。


「そんな……」



「このっ!!」


 不意にシャーリーは起き上がり、ヴォルカンに向かった。

 だが、右手は回避される。その姿が目の前から消える。

 耳元で風切り音。後ろに気配を感じる。

一瞬で。


「はやっ……、」


 直後。

 ――めきり。


「が、はっ……」


 背中に、蹴りが食い込んだ。

 そのまま彼女はつんのめり、転倒し、大きく転げ回りながら、瓦礫のなかに吹き飛んで埋もれた。

 ……反応がなくなる。


「っ――!!」


 モニカが、再び起きあがる。そして、鋼線を発射する――もはや軌道も弱々しく、威力を担保してくれるものはなにもない。それでも、それでも……。


『下らん』


 彼は、片腕をあげた。

 その掌から、炎が噴き上がった。


 一瞬のち。

 炎は上空で炸裂し、無数の炎の矢となって、地上に降り注ぎ始めた。


 其れは流星だった。全てを焼き尽くす、無慈悲な審判の流星だった。町の至る所に突き刺さり、その業火でオブジェクトの何もかもを焼き尽くしていく。人々がかろうじて生命を維持していた、そのよりしろである住居も。貴重な車両も。子供達が駆け回っていた地面も、電線も、市場も、何もかも。夕暮れにさしかかったグラウンドゼロの広範囲に、炎が突き刺さり、誰も彼もを焼き尽くしていく。轟音、焦熱。広がっていく。広がっていく。


 そのとき確かにモニカは鋼線を発射していた。だが全て焼け焦げた。そして両腕で己の身を守らなければならなかった。隠れねばならなかった。その炎の雨から。倒すべき敵から遠ざかりながら。


「畜生――畜生……!!」


 これが。実力の差。これがチャプターハウス。

 荘厳でさえある、目の前に広がる炎の花。

 フェイの視界を覆い尽くす光景はいつしか、数年前彼女から何もかもを奪ったあの戦いにリンクし、一つの感情に帰結していた。

 其れは無力感。

 彼女は今、何も出来ずにいた。今までも、これからも。



「おいおいおいおいやりすぎだろ、やりすぎだろアレっ!!」


 穏健派の幹部達もまた、その炎から退避しなければならなかった。グローヴ達は炎の届かない高台にまで登って、裁きの矢をやり過ごしていた。

 ……なるほど確かに強力な助っ人だ。だがこれでは、自分たちの住処も巻き添えを食らうではないか。決して気持ちのいいものではない。


「――こういうことなんだね。『上から来る』ってのは」


「あん?なにが言いてえ、グローヴ」


「要するに。あいつらが降りてきてなにもかも変えちまうなら。あたしらの存在は、奴らの掌の上ってことさね」


「……嫌か? 悔しいかよ」


 そこでグローヴは、モリソン達を見て、答えた。


「まさか。最高じゃないのさ。舞台を整えてもらって、うちらは最高の役者として演技するんだ。このビッグバジェット、乗らない手はないだろ?」


 その笑みは――炎の照り返しを受けて、異様なまでに妖艶に見えた。


「……違いない」


 ハンセン達が、続いて、凄絶に笑みを浮かべた。

 もう、あの男に対する恐怖心はなかった。

 彼女達は今、最高の後ろ盾を得た。

 この世の全ては、ショウビジネスなのだ。



「う……う」


 蹂躙された炎の戦場の中で、誰かのうめき声が聞こえた。

 少なくともヴォルカンにとっては、それがフェイのものでもシャーリーのものでもないことが確認できれば十分だった……死んでさえいなければ。


 彼はその中心に立っていた。炎に守られるように、只中に。

 そこで、超然と佇みながら、顎に手を当てて考える。


『やはりそうだ。炎が反応しなかった。あの一台は、逃げたままだ……一体何故だ』


 しばらくして、彼は顔を上げる。

 何かに気付いたのだ。


『そうか……――なるほど。であれば』


 彼は歩き出す――徐々に加速。

 数秒後には……炎により高速に達するはずだ。


『直接、向かわなければなるまい』


 その時。

 立ち上がった一人の影。チヨは気付いた。無茶だ、やめろ――その声は届かない。


「――ッ……」


 彼は駆け出して、ヴォルカンのもとへ向かった。



「――待て」


 ヴォルカンは足を止める。

 目の前に降り立った男。

 ウーである。


『……死にぞこないが、何の用だ?』


 彼は血まみれで、立っているのがやっとの有様だった。だが、その目は爛々と輝いている。


「気付いたようですね……我々が守っているものがなんなのか。だったら……通すわけにはいかない」


 背中に複数の腕を展開。翼のように。


『ならば――押し通るまでのこと』


「――――シャアッ!!!!」


 咆哮――ウーが複数の蛮刀を閃かせながら襲いかかった。

 縦横無尽、予測不可能――それぞれの腕から繰り広げられる斬撃が、予測もつかないタイミングで彼を襲撃する。その切っ先のアンサンブルを回避する手段は、ない――並のアウトレイスであれば。

 しかし――今ここにいる、ヴォルカンであれば。


『くだらん』


 腕を掴んだ。

 ――その一本を焼き切る。蛮刀を奪い取って投げ捨てる。

 さらにもう一本。回避。

 そこに炎……噴き出す。焼き尽くされる。

 血すら出ない。悲鳴すら。苦悶の表情。それでもウーは、後ずさったのち、ヴォルカンに掴みかかる。だがその攻撃の総ては、かわされることすらなく……燃やされ、無効化されていく。


『何度やろうが、同じことだ』


「そうかな――」


『何……――』


「う……おあああああーーーーーーーーーーーッ!!」


 後方。立ち上がる。

 駆ける――立ち向かう。殴りかかる2つの影。ウーの後方から。


『!!』


 ヴォルカンはすぐさまウーを突き飛ばし、受け止める。


『貴様ら……』


 モニカと、シャーリー。

 ……既に、戦う力など殆ど残っていないはずの二人が。彼の両腕それぞれに攻撃を仕掛けた。無論、それで効くはずもない。二人の攻撃はあっさりと受け止められ、ねじ伏せられる。地面に。短い悲鳴を上げて二人は倒れ込む。


「ッ――」


 そんな二人を横目に、再び起き上がったウーが、ヴォルカンの足に組み付いた。そのまま何度も刃を浴びせようとする……だが、駄目だ。炎が彼の刃を次々と溶かし、破壊していく。しかしそれでも――彼は離れない。


「ウーっ!!!!」


「シスター・モニカッ!!」


 彼は組み付いたまま叫んだ。


「行きなさい、トレントのもとへッ!! 貴女はまだ、生きねばならないッ!!」


「ッ――……!!」


 モニカは目を見開いた。

 立ち上がった時、その背筋に電撃のようなものが奔った。

 それは彼女の中に、やるべきことを落とし込む。そうだ、自分は――……。


「――ッ!!!!」


 彼女は遥か前方へ鋼線を発射。遠くの場所に絡みつかせた。


「行けぇッ――!!!!」


 ウーが、叫んだ。

 モニカが足を踏ん張って、悪態をついた。

 そのまま、翔んだ。

 彼女は鋼線の導きに従って、その場から離脱する――ヴォルカンの傍らを通って。

 彼の炎はギリギリのところで届かなかった。

 彼の後ろを通って、彼女は翔んだ――。

 後方を見る――。


『忌々しい……――ゴミがぁッ!!!!』


 ヴォルカンは――その瞬間、ウーの頭を掴んだ。

 それで終わりだった。

 ……彼の拳から炎が濁流のように噴出した。それは一瞬で抵抗する彼の身体を包み込んで、焼き尽くした。

 モニカはその最期を見ることなく……歯噛みして顔を背け、前へと進んだ――前へ、前へ。


 ウーは、黒いチリとなって地面にばらまかれて死んだ。

 そこにはもう、生きた証などなかった。彼はただ、焼かれて死んだのだった。


『逃がすものか。貴様らの人生に、意味などありはしない――』


 すぐさま、ヴォルカンは片手をかざし、炎で遠くに狙いをつける。モニカに対してだ。それが、放たれる――……。


「――ふざけんなッ!!!!」


 後方から、怒声。

 同時に殴りかかるもの。

 ――ヴォルカンは拳をおろして、振り返り……受け止める。


『……貴女か。何故、貴女が怒る必要がある?』


 そう――受け止める。あっさりと。

 ただの拳が、シャーリーの右腕を受け止めていた。

 ……もう既に。ザインの力は、殆ど消え失せていたのだ。

 それでも、彼女は……顔を上げる。


「意味があるかどうかなんて……関係ない……ボクにとって最悪なものを見せられた……――あなたを止める理由は、それだけで十分だッ!!」


『貴女を殺さぬようにと申し付けられているのです。主のお気に入りですからね……――手間を取らせる、悪い子だッ!!!!』


「つああああああああッ!!!!」


 だが、そこからの戦いは――児戯に等しかった。

 ……シャーリーは何度地面に倒されても、そのたびに立ち上がった。

 そしてヴォルカンに向かったが……彼は軽くいなすだけで、彼女を地に伏せさせた。

 要するに、それだけの力の差だった。

 そのたび炎はばらまかれ、彼女から抵抗する気力を奪っていった。


 ――たちの悪いグランギニョール。

 ……それが。

 炎によって生み出される影絵となって、フェイの目の前に広がっていた。

 ……彼女は、いまだ無力だった。


 ――シャーリーが、地に伏せる。


『……いい加減にしてもらえないか。私の労力も考えてくれ……連中を追うのはいいが、いわくつきだ……追って殺すわけにはいかない。貴女も殺せない。私には不向きな仕事だ……ああ忌々しい。お願いですよ。これ以上……私を苛立たせないでくれませんか』


 ヴォルカンはその足で、シャーリーの背中を踏んだ。

 見下ろしながら、髪をかきあげて言った……声を震わせながら。

 ギリギリのところで、何かが抑え込まれているような、そんな口調。


「が……あッ……――」


『全くどうして我が主はこんなガキにこだわるのか。理解は出来ても納得はできぬというものだ……ああ畜生め。不愉快だ、不愉快な仕事だ……――』


「離せ…………離せ…………――――」


 力なき声が、足元から聞こえた。


『ふむ』 


 ヴォルカンはそのとおりにした。

 足を離して、彼女を開放する。


「がはッ…………」


『泥だらけでみっともない。少女であれば少女らしく、着飾って花を愛でていれば良いのだ』


 汚らしいものを見るような目で、ヴォルカンはシャーリーを見下ろした。


「ッ――……」


 シャーリーは顔を上げて、睨みつける。


『――――その目。気に入らない。その目が、我が主を狂わせる。そういうことか』


 ……ヴォルカンは、深くため息をつく。

 それから、言った。


『もう頃合いだろう。貴女の心を、完全に折ることにしましょう。そして、完全に、我々の望み通りに仕立て上げましょう』


「何――どういうこと……だ…………」


『つまりですね。真実をお伝えするのですよ。そこの後ろに居る、貴女のボスですか? わたしには絞りカスにしか見えませんが。アレと同じく。そいつを伝えて、あなた方を隷属させる。そういうことです』


「隷属――どういう……」


「聞くな、シャーリー……聞くなッ!!」


『要するに、シャーロット・アーチャー。事実とは、こういうことです――』 


 その口が、開いた。

 彼は語った。

 ――真実を。



 ヴォルカンは、あっさりと真実を開陳した。



 つまり。




 


 すべては、評議会にとって――ハイヤーグラウンドにとって都合よく物事を運ぶための、駒に過ぎなかったということ。






「そん、な…………――――」


 同じだった。

 フェイの目の前で膝をつく、シャーリー。

 こちらの反応と同じだった。

 それだけシャーリーにとってもショックが大きいということだった。


『さぁ――これで分かったでしょう。貴女の激情には何の意味もないということが』


 彼は泰然と続ける。


『ことのついでです。念入りに、更に念入りに――――貴女の心を、折り砕いておきましょうか』


 そうして、彼が一歩進んだ時。


「そうは……させるかっての…………」


 一斉に……ゆっくりと、立ち上がる。

 倒れゆくさまを逆再生するように。

 油の足りないおもちゃのように。

 ……グロリア。キム。ミランダ。チヨ。

 折れた刀。錆びついた銃。それぞれを依り代にして足を支えて……ヴォルカンのもとへ。ゆっくり、ゆっくりと。

 ――そして。


 チヨとキムが、同時にヴォルカンに組みかかった。その後方からミランダが銃を構え、放った。ヴォルカンは迎撃を開始する。彼の侵攻が止まる。


『貴様ら…………ッ!!』


「あんた、うちら殺しちゃ駄目なんだよね、多分! だったらあたしらと遊んでいきなさいよっ……!!」


「――行け、シャーロット!! 行け、逃げろ――逃げろッ!!!!」


 チヨが叫んだ。

 シャーリーが水を浴びたように目を見開いて、現実に引き戻される。

 ――逃げる。

 逃げる?

 何故、どうして。

 かなわないからだ。まるで勝てないからだ……奴に、あの男に。

 ……怖い。怖い。おそろしい。

 あの男が、おそろしい。

 逃げなければ、遠くへ、遠くへ――。


 シャーリーは何かに操られるように起き上がり、無我夢中で駆け出した。


 ――一瞬振り返った時、鈍い悲鳴が聞こえた。

 チヨのカタナが、完全に燃やし尽くされる様子が目に入った。

 ……シャーリーは歯噛みして、走った。


 ありもしない、炎の届かなくなる場所を目指して、走った――。



「……っ」


 フェイは、身体が軽くなった。

 地面に落ちる。

 縄の拘束が、解かれたのだ。

 しかし、目の前に広がる光景は、光景は――どこまでも、どこまでも……映画のように現実感がなくて。


 ――ああ。そうか。


 わたしにはなにもない。あの時からずっと、受け売りだけを心に貼り付けて、訳知り顔で生きてきた。

 皮肉なものだ――アリスの呪縛を解いたと思えば。

 アリスが居なくなってからの自分が空っぽであることに気付かされるとは。


 私はずっと――何者でもなかったのだ。

 今、声を枯らして仲間たちのもとに向かっている自分も、身体を動かしている自分も、まるでからっぽだ。身体と心が別だから、こんな事ができるのだ。

 だから、分かる。


 第八機関など、私の正義など――総ては、透明な虚無だったのだ。



「くそッ、くそッ……――ちくしょうッ!!!!」


 真実。

 どんなそれが襲ってきても、絶対に負けないつもりだった。

 エスタを救うという思いがある限り、自分は絶対に――。

 恐怖。

 ……代わりに差し込んできたもの。炎が全てを焼き尽くし、やがて自分の大切なものさえも、奪われてしまう。そんな幻覚。


 あの時たしかに感じたのは、敗北感。

 足が震えて、まともに走れない。

 もう、疲れてしまった。これ以上は無理だ……勝てない。

 奴には勝てない。

 そして、この街に、勝てない――。


 名もなき廃墟の街で、シャーリーは挫折しかかっていた。


「……シャーロット……」


 ゆらりと、目の前に影。

 シャーリーは壁によりかかりながら、顔を上げる。

 

 そこに居たのは、アイリッシュだった。

 随分と憔悴しているような表情を見せていた――亡霊のように。

 どこか異様なものを感じ取りながらも、シャーリーは言った。


「早く逃げて、アイリッシュ……あいつは、あの男は、あなた達を全滅させるつもりだ! だから――」


 彼女はそれを無視して、遮るように、シャーリーの前に立った。

 その口が開いて、言葉が漏れ出た。


「ジョエルが、死んだ。あたしの、目の前で。大事な、弟だった」


 淡々と。

 大事な何かが、ごっそりと抜け落ちているような。


「まだシェルターに居ない、知り合いのお婆さんが居てね。その人を助けるんだって言って、飛び出したらしいの。そしたら、炎に焼かれて……真っ黒になって。あたしじゃなかったら、誰か分からなかったと思う。本当にバカな子」


「アイリッシュ……」


「そのお婆さんも……ついさっき、見てきた。皮膚が溶けて、壁にひっついた状態で死んでた。ねえ、シャーロット・アーチャー。全部なくなっちゃった、全部……」


 何を言うべきか、シャーリーは短い時間で必死に考えたが……答えは出なかった。

 その前に、アイリッシュが口を開いたからだ。


「でも、そんなのは…………もう、どうでもいいんだぁ」


 彼女は、ゆらりと前に進む。


「あたしがあのとき震えてたのはね。確かに罪悪感だった…………でもそれは、あんたの思ってるものとちがう」


「……えっ?」


 意味がわからず、首を傾げてみた。

 すると彼女は……消え入りそうな笑みを浮かべた。


 まるで本当に、すぐさまこの世から消えてしまいそうな……そんな笑みを。

 身体が壁に張り付いたようになって、二の句が継げなくなった。

 だから、彼女の腕が背中に回り込んで、その表情が眼前に迫っても、どうしようもなかった。

 ……彼女は、決定的な続きを言った。


「だましてごめんね。あたしが本当に嫌だったのは、今からすることなの。さようなら」


 ――――何を、と言う前に。

 

 アイリッシュの唇が、シャーリーに覆いかぶさった。

 抵抗など、する暇がなかった。

 それで終わりだった。


 アイリッシュは――フェアリル。

 その力は、相手の『歴史』を吸収し、奪うこと。

 ただし、年月が重なれば重なるほど、その負荷は増大する。


 今、彼女は――シャーリーの『歴史』を奪っていった。

 その、記憶を。


 十年分の、記憶を。

 それこそが、計略のひとつ。

 『希望』を、完全なる形で昇華させるための――……。


 声にならぬくぐもった絶叫が、シャーリーの側から迸っても、アイリッシュは止めなかった。自分の中に、急激に流れ込んでくる年月。彼女は涙を流して、彼女から全てを奪っていく――。



 ――数分後。

 ぱさり、と音がした。

 少女の足元に、しわくちゃになった、人型になったものが崩れ落ちた。

 それは腐臭を発しながらも風化して、完全にその場から消えていった。

 かつてそれはアイリッシュという名を持つ少女だったが、誰もその死を悼む者は居ないだろう――この街の、外には。



「――…………」


 少女は倒れ込んでいた。

 衝撃があって目を開けて、ひどい頭痛に見舞われていた。

 それから顔を上げて、周囲を見回した。


「ここは…………??」


 シャーロット・アーチャーという少女には、8年分の記憶しか備わっていなかった。



「ここ、どこ……戻らなきゃ。町はどうなったの」


 彼女はおびえていた。

 その名前は、シャーロット・アーチャー。

 記憶は、10年前のあの日で止まっている。

 そこから先は8歳のままだったが、彼女は自分がとうにそんな幼い存在ではないことを身体で知っていた。


 そして、不思議なほどに恐怖を感じていなかった。

 彼女は、何かに導かれるようにして、廃墟の群れのなかを歩いた。

 ……なぜ、炎が至るところでくすぶっているのだろう。

 その疑問は常にあったが、それ以上に、一つの思いだけが、彼女を動かしていた。


「エスタは、どこに行ったんだろう。探さなきゃ」


 彼女は――進んだ、進んだ。



「ここかな……」


 彼女が見つけたのは、町のはずれ、小さな出口だった。

 そこに至るのが、なぜか必然であるような気がして、彼女は不思議だった。


「待ってましたよ、シャーロット・アーチャー」


 出口のところで待っていた男が、声を発した。

 スーツ姿に、能面のような笑顔をはりつけた、奇妙な男だった。


「あなたは……?」


「わたしはピカード。あなたは、エスタさんを探しているんでしょう。でもその前に、ご両親の安否を確認しなくてはいけない。違いますか?」


「――そうだ。私……」


 そう。

 彼女は気を失う前、大きな地震のようなものに巻き込まれて、エスタと離ればなれになってしまったのだ。


 だけどきっと、エスタを探していた、なんて言ったら……きっとあの人達は、自分のことを、ひどくぶつだろう。それは恐ろしいことだった。


「それは……嫌です」


「そうでしょう。私が車を運転しましょう。ご両親のところまで送り届けてあげますよ。このピカード艦長がね」


 男はウインクした。それはひどくあやしいものだったが、今のシャーリーには発言を疑う力はなかった。

 出口のところには黒いセダンが横付けされており、2人はそれに乗り込んだ。


「では、行きましょうか。シートベルトをしめてくださいね」


「あの……」


「なんです?」


「ここは……どこなんですか?」


 彼は、また張り付いた笑みを浮かべて、振り返って、言った。


「煉獄ですよ。あなたがこれから向かうのは――天国です」



 第八機関は、全滅した。


「……まったく。あなた方がここまで抵抗するとは、よもや思ってもみなかった。敬意を表しましょう」


 ヴォルカンは周囲を睥睨しながらそう言った。だが、そこに『敬意』などというものがありはしないことは、明白だった。

 皆、傷だらけで横たわっていた。

 かろうじて、命だけは奪われていないというありさま。

 チヨに至っては――カタナすら失っていた。


「本来であれば、フェイ・リー……あなたを上へお連れする必要があるのですが」


 聞こえている、聞こえていないなどはじめから気にしない様子を見せながら、彼は言った。


「先ほど、忌々しくも通信が入りましてね。レガリアの損耗が激しいとのことで、戻らねばならんようです。そして更に忌々しいことに……――シャーロット・アーチャーの反応が消えたと……そう連絡が来た。つまりはどういうことか分かりますか? 諸君」


「へへ、分かる、分かる……わよ」


 満身創痍の有象無象のなかで一人、声。

 グロリアだった。顔を上げて、か細い声を出す。


「つまり、あんたは……うちらがあの子を逃がしたのを、見逃したって……そういうことになるわけ、ね……あんたが、あの子をどうしたいのかは……知ったこっちゃ……ないけど……」


「少なくとも……私達は……あなたに、ほんのちょっぴり……吠え面を、かかせた」


 グロリアの言葉をついで、ミランダが言った。


「――……ほう」


 彼の額がぴくり、と震える。前に進む。


「そのざまで、よくそんな口が利けたものだ――……」


 その腕が、迫り。

 彼は――叫んだ。


「薄汚い……エセ人どもがッ!!」


 その腕から、炎がほとばしった。


 それは彼女達のすぐ傍の瓦礫を燃やし、消し炭に変えた。

 それで、彼は満足したらしかった。


「ふう……まあいい。命令は命令だ。すぐにでも上に戻って、シャーロット・アーチャーを探さねばならない」


 ……皆に背を向けて、指を鳴らす。

 

 すると、遠くの瓦礫をかき分けて、何かが飛来した。

 彼はよけることなく受け入れる。

 ――パージした装甲であった。

 分厚いドレスを身にまとうように、紅蓮の装甲が、その黒いボディスーツに吸着されていく。そして、最後の……割れた仮面が顔面に収まる。

 彼は、元の姿を取り戻す。

 その隙間から排気。

 仮面が空を、上を向いた。


「急ぎ、部下を集めねば」


 その脚部から、炎が噴き出し始める――鈍重な駆動音。


「待て――……!」


 後方で、フェイの声がした。

 彼は、一瞬振り返った。

 仮面が、嘲笑を浮かべたような気がした。


「今の貴女は――ザインですらない。理想の皮をかぶった……燃えカスだ」


 そして。

 ヴォルカンの装甲が宙に浮かび、その直後、脚部から炎がジェットのごとく噴き出し、上空へと飛び立った。

 黒い煙を、竜の体のごとくその地に残し。


 ――彼は、評議会のナンバー2は、その場から離脱した。


 グラウンド・ゼロの至る所は燃えているままだった。

 町中に、いくつもの死が転がっていた。

 希望は恐怖に変わり、地下シェルターに避難していた者達は、すぐに地上へと戻された。そして、変わらぬ日々がやってくることを悟ると、大きくこうべをたれた。


 第八機関は――敗北した。

 皆、気を失い、横たわっていた。


「おい――なんだよこりゃ」


 ――LAPD車両を引き連れてグラウンド・ゼロに殴り込みをかけてきたキーラが彼女達を発見し、病院へとかつぎ込んだのは、全てが終わった後だった。



「では。ここからは、言ったとおりです。あなたは上の住民なのですから、検査を受けたら、すぐに通してもらえますよ」


 ヘヴンズソードに巻き付く軌道エレベーター。そのふもとの改札前で、ピカードはシャーリーに言った。


 アンダーグラウンドとしてはきわめて異例な、清潔感溢れたホームである。それもそのはず、アンダーの人間は改札から向こう側に行くことができないし、それをもくろんだ連中は、ホームに詰めている武装兵に蜂の巣にされる。今まで何度もそうだった。そして何より――『大去勢』によって、上に上がるなどということを考える連中は、ほとんど一掃されていた。


 だからこそ、今2人の居るホームは閑散としていたし、そこにハイヤーの喧噪はなかった。たまに、上から降りてくる酔狂な者も居るが、大抵の場合そいつらは一瞬で後悔して、すぐに上へと戻る羽目になるのだ。


「分かりました……でも、上とか下とか、わけがわからなくって。私……」


「いいですから、いいですから。戻れば分かることですよ。ご両親がいろいろ教えてくれます」


 ……その言葉を聞いて、シャーリーはわずかに身をこわばらせた。

 それと同時に、意を決したようだった。

 透明な、空洞の少女は頷いて、改札の向こう側へ行くことにした。


「分かりました。私、上にいって、父と母に会います。それから、エスタを探します」


「ええ、そうしてください」


 彼女は、ピカードに礼を表してから、身を翻した。

 育ちが、その仕草にあらわれていた。


 ……遠ざかっていく彼女の背中。

 そこに、ピカードは声をかける。


「シャーロットさん! この言葉に聞き覚えは? 『第八機関』!」


「第八…………なんのことですか?」


 それで十分だった。


「いえ、なんにもありませんよ! 気をつけて!」


 まもなくシャーロット・アーチャーという名前の少女は、ハイヤーグラウンドへと向かった。



「さて……」


 ピカードは、ヘヴンズソード前のセントラルパークのベンチに座って、煙草を吸っていた。

 そこには人々が溢れ、相変わらずのひねくれた喧噪に満ちていた。グラウンド・ゼロの騒動は、蓋をしたように、いっさい入ってきていない様子だった。

 それを見ると、ピカードは口を曲げて笑った。

 ついさきほどまで、少女に向けていたものとは違う、皮肉に満ちた笑みだった。


「これで私の仕事は終わりというわけですね。ここからが本当の『希望』が試される……私は、満足です……◯◯◯」


 彼は主の名前を呟くと、半分まで吸ったタバコを携帯灰皿に押しつけて、植え込みの端で立ち小便をしてから、ポケットにしのばせていたリボルバーを取り出して……自分の頭を、撃ち抜いた。


 数時間後、茂みでお熱いファックをおっぱじめようとしていたモロウのカップルが、その死骸を見つけ、通報した。

 それからたっぷり時間をかけて警察がやってきた。

 検死はその日を数えて何件目か分からなかったので、あまり力を入れて行われなかった。

 だから、その男が誰で、どこから来たのかは、あまり分からなかった。


 確かなのは、野外でのメイク・ラブを提案したのはモロウの男側で、女側はぎりぎりまでそれを拒んでいたということであり、その一件が原因で、2人が別れたということだった。



 その他いろいろ、その日には起きていたが――まあ、さして変わらない一日だった。

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