#8 エピローグ
――誰もが皆、運命に逆らうことは出来ない。
生まれた時から誰しもが一度は考えるそれを、この街の住人は常に感じている。
……そしてそれは、何の前触れもなく訪れるのだ。
その日……ロサンゼルス市警察庁は騒然としていた。
とりわけ、地下に与えられたSCCの区内においては。
そう。
事件は、終わっては居なかった。
むしろ、はじまりだったのだ。
◇
「――んだとォ!?」
SCC第一班隊長、キーラ・アストンの怒声がオフィス内に響き渡る。
紫煙の充満する空間――時代と逆行したガラパゴス。
その中において、彼女の大声は日常茶飯事だった。気にするものは誰も居ないはずだった。
だから彼女が叫んで、そのテーブルにヒビが入っても誰も気にもとめない。
ジョン・ウェストがコーヒーをほんの少し噴き出した以外は。
だが……彼女が電話越しに叫んでいる内容を知った瞬間、事態がただごとではないことをみな理解した。
「馬鹿野郎、だから直接下に送れっつったんだッ!! あいつは裏社会じゃ知らない奴は居ねえレベルの厄ネタだぞ! そいつの身柄が抑えられたってことになって……上が黙ってると思うか!?」
ひどい剣幕――やがて、受話器を叩きつける。
……壊れる。
「どうした……キーラ」
クリスが歩み寄って聞いた。彼の顔にさえ緊張が浮かぶ。めったにない事だ。
「……連中は吸血鬼だ……何もかもを、こちらから……吸い上げていきやがる……」
「要領が得ねえよ、キーラ。何がどうしたってんだ」
……彼女は、クリスを見た。
そして……なかば呆然と、言った。
「スキャッターブレインが――……護送中に、消えた」
……ざわつき。
――消えた?
――アウトレイスの警備はLA内でも最高クラスの厳重さを誇るはず。そんなことはありえない、そう、ありえないはず――。
「な……」
「そいつが何を意味するか…………分かるか……??」
誰もが、戦慄に身を凍らせる。
そんなことが、この街で可能だとすれば。その人物は――限られている。
「……『
◇
饒舌を吐き散らしていたその口は、もはや何も語らない。だらりと灰色の舌を垂れ下げさせながら、野放図に開け広げられている。
超絶的な業を披露してきたその四肢は節榑のようになって広げられ、生命を失っている。
そして……彼は、そこにあった。
もはや、生命のない亡骸として。
――ロサンゼルス市庁舎の荘重な建物の前に、人だかり。
誰も彼もが恐怖と戦慄に顔を歪めている。
彼はその真正面に、貼り付けられていた。
全身から血を滴らせながら――見せしめとして、吊り下げられていた。
四肢を大の字に広げた、人形。
――それこそが、スキャッターブレインの遺骸そのものだった。
もはや面影はなく、彼が意外なほどに小柄でバランスを欠いた体躯をしていたことを、残酷に浮き上がらせている。
アンダーグラウンドのアウトレイス達……日々に困窮し、日常に悪罵を吐く、なんでもない者達。
彼らが……釘付けになっていた。
――地下世界の王、その変わり果てた姿に。
「あ…………あ――」
顔を青ざめさせ、ガチガチと震えている者達が居た。
彼らは知っていた。
スキャッターブレインがこれまで行っていたこと、そして今こうして磔にされている事実。その両方の真相を。
だからこそ彼らは恐怖する。
彼が何を怒らせて死んだのか、はっきりと分かっているからだ。
「おい、あれ…………」
群衆の一人が指をさす。
スキャッターブレインの胴体。
よく見ると――血文字で何かが書かれている。
……それは直接、その枯れた肉体を切り欠く形で書かれていた。
あまりにも残酷な所業――その痩身にいくつも施された延命のためのインプラント痕も、今はもう誰も気にならなかった。
そこに彫り込まれたメッセージが、あまりにも全てを物語っていたからだ。
「あ……あれは……『創世記』の……19章……その前半部だ…………」
――創世記。
……ソドムとゴモラの物語。
裁きによって滅びた街の名。炎に包まれて、永久にその姿を消した街の名前――。
「奴らだ…………奴らがやったんだ…………『
戦慄が――伝播する。
「これは……これは、メッセージだ……誰もあいつらには、逆らえないんだっ……」
絶望の声。
何人かが同調するようにその場にうずくまり、また何人かはその発言を咎め、怒鳴る。
だが、もう遅い。
恐怖の波は、広がっていく……神への供物と化した、枯れた遺骸の前に集う、有象無象の者達に。
◇
『そんな、我々はヤツの姿をずっと見てたんですよ。それなのに、こんな、ありえないッ――』
電話越しに、警官の悲痛な声が漏れる。
――責任は大きい。その過失の原因が彼でなくとも。
それは、キーラにも分かっている。分かっているのだが……。
「ありえないことがあり得るんだよ、この街だと……」
『まさか……』
ごくりと唾を飲む音が聞こえる。
「そのまさかだよ、タコ……この手口は見覚えがある……4年前もそうだった……!!」
目を離したスキに、状況が変わり果てる。その場面。
――『大去勢』の只中に居た者であれば、例外なく出くわしている。
それが可能な『存在』に。
◇
「そんな……」
「まさか、愉快犯だろ……」
「そんなわけがあるか、あれは確かに――見たことある」
「なんのために――」
「……ふふ」
「俺達への警告だろ……」
「まさか、奴らは何を――」
「……ッ、あああああああああああああ……っ!!!!」
スキャッターブレインの残骸を眺めていた群衆の中から、斬り裂くような悲鳴が一筋あがる。
誰もが一斉に、そちらを向いた。沈黙。
青ざめた顔――男がガチガチを歯を鳴らしながら、頭を抱える。
そのたわんだ口から、呟かれる。
「……――今。そこに居た。あいつが…………――『評議会』が…………!!」
――弾かれたように、皆が周囲を振り返り始める。
再び沸き起こった混乱。
憶測がさらなる恐怖を呼び、恐怖は混沌を生み出す。
「どこだ、どこだッ!!」
「てめえ、冗談言ってんじゃねえだろうなっ!!」
「そんなわけがない、確かに俺は見た、あいつの姿を、4年前の――」
「畜生、出てきやがれッ!!」
疑惑と狂騒の中で、人々が周囲に不安を吐き散らす――そして混乱が産み落とされる。騒ぎが大きくなっていく……。
そんな中、一人、集団から離れていくものが居た。
先程まで、そこに居た者だ。
こつ、こつ。
足音を響かせながら、一人行く。
そのリズムは一定で、決して乱されない。
白づくめの衣服に、ハットを被った青年だった。その手には長い杖。
奇妙な出で立ち――だが、その姿を気に留める者は誰も居ない。彼は空気のようにそこに居た。
そして今、彼は――ストリートの路地裏へと入り込んだ。
暗い通りの中を、白い影が往く。
こつ、こつ。
だが。
その姿が――ふと、消えた。
そう、消えたのだ。一瞬で。
……次の瞬間に彼が居たのは、ビルの屋上だった。
室外機の上にあぐらをかいて座り込み、通りを見下ろす。
そこでは未だに騒ぎが続いている。まるでアリのように――人々が、見えない敵に怯えている。
スキャッターブレインの死体はじきに回収されるだろう。
だが、染み付いた恐怖と死の匂いは、とうぶんは取れないだろう……。
「……くはっ」
彼は――青年は、破裂音のような笑みを漏らした。
その声は、あどけない少年らしさをまだ残している。
「かくして、目の上のたんこぶは他ならぬ第八機関によって無事削除されましたとさ。――これでいいんでしょう、ディプス様」
彼は立ち上がり、暫くの間杖を弄びながら、騒ぎを見ていた。
だが――。
彼は再び、消えた。
そしてもう、二度とその場には居なくなった。
もはや誰も、彼を見つけられない。
◇
動き出している。
「『雨事件』のときといい……何かを……何かを始める気だ、評議会……一体何を――」
そう――何かが。
動き出している。
空の上で、なにかが。
◇
◇
「こいつは……どういうことだ……お前さん」
禿頭の男が……青筋を立てている。
その手元にあるワインがこぼれ、白いクロスにシミを作っているが、彼はそれに頓着する様子を見せない。
彼にとって重要なのはそこではなかった。
――周囲に居る黒服の男達が緊張の面持ちを保っている。
華美で瀟洒な室内――その中に広がる、痛いほどの沈黙。
それを破ったのも……やはり、彼の一言だった。
「それはなんだと、そう聞いてるんだが。そのスピーカーは飾りか? そんなものの買えないほど困窮していたのか? どうなんだ?」
「……」
――喪服の女は、彼の正面に居た。
何も答えない。
……男が怒りを募らせるのはその態度であり、怒りの出口となるのもその在り方に対してだった。
「――なんとか言わねぇかッ! それはなんだと、そう聞いてるんだッ!!」
彼は――ワイングラスを投げる。
血の色をした液体が彼女の足元に散り、その周囲にガラスの破片が撒き散らされる。
その手前側に、それはあった。
「ひひひひ、ひひひひ…………アハハハハハ、ハハハハハ…………」
枯れた男。
――かつて、禿頭の息子であった男。
今はただ狂ったうめき声を出しながら、ここではないどこかを夢想して、その場でのたうち回っている。尻にガラス片が突き刺さっても、気にする様子はなかった。滲むほどの血もない――彼は完全に、枯れきっていた。
「――てめえは、公約を破った……俺の息子の傍にありながら、そんな、狂ったクズに仕立て上げるのを黙って見てたってわけだ。こいつをどう説明する? 雇用者に分かりやすく説明してみろよ、嬢ちゃん」
『……アンタハ』
ざらついた、人工音声。
『アンタハ――“無傷デ”トハ……言ワナカッタ。ワタシハ、何一ツ、間違ッチャ、イナイ』
それが――答えであり、決着だった。
「ッ――てめえ……」
『聞コエナカッタノナラ――』
「いや、いいさ……」
彼は、葉巻を……テーブルクロスに直接押し付ける。
それが、合図。
「――てめえは、ここで、死ぬんだッ!!」
男の怒声と共に、周囲の者たちが一斉に銃火器を抜き放つ。
そして、砲火が上がる。
食器が、絨毯が、轟音とともにズタズタに避けていく。
――コンマ数秒後。
火線が、女に殺到する。
――筈だった。
「――!?」
彼らが見たのは、宙に舞い上がった彼女の装束。
黒い上下のドレス――そして、その赤い髪。
「な、あ…………」
彼らは動けなくなる。銃弾を間違いなく撃ち込んだ、撃ち込んでやった。
だがそこにあったのは、ゼロの手応え。
顔を上げる――真実が見える。
もうそこに、喪服の女は居なかった。
表層の仮面は剥ぎ取られて、真の姿が顕になっている。
空間に、銀色のいくつもの線が見えた。それは彼らの手首から伸びて、その途中で弾丸を絡め取り、最後に一人の人物で完結していた。
「――ッ、てめえ、まさか……!!」
そして彼女は。
手元を、たわませた。
次の瞬間。全ての弾丸が地面に落ち、火線上に重なるようにして、無数の鋼線が濁流のごとく彼らに向かって迸った。
絶叫とマズルフラッシュ――その合間を縫いながら、彼女は踊った。死の舞踏を。
血しぶきが飛び散る。彼らの銃火器が、腕が、胴が、そしてその首根っこが……次々と切断していく。死を運ぶ銀色の線によって。
くすんだ金髪が踊り、肉体は遺骸となって踊った。怒号と悲鳴――わずか、数十秒の出来事。いくつもの弾丸が空中に留め置かれ、血のワインが地面にさざなみを作った。
「…………! …………!」
それから、誰も居なくなる。
皆、地面に倒れていた。赤黒い池の中に。息をしている者は誰ひとりとして居ない。
彼女の正面で釘付けにされているその男と、傍らに放置されている枯れ枝のような彼の息子以外は。もっとも、そちらはもう、半分死んでいるようなものだが。
彼女の歩みが止まる。
鋼線が指先の動きと連動してたわみ、弾丸がいくつも転がった。
「お前――……」
「騙された気分、痛み入るでございますですね。だけど同情、しないですよ」
彼女は、明朗に発音した。
その手が――……彼の顎に触れる。
ピアニストが、鍵盤に指を置くように。
……彼は全ての希望を断ち切られていた。
もう何も考えられない。
本国で覇を唱えていたのが遠い昔に思えた。
希望はどこにもなく――冷たく汗ばむ背中には、虚無の暗黒だけがあった。
……目の前の女を、綺麗だと思った。
シスター姿の女。死神が姿をとっているなら、きっとこんなナリなのだろうと彼はぼんやり考えた。
「丸腰の女雇った思って、ホクホクしてましたですか? 真逆。丸腰は貴方様ですよ。私、付け入る都合上殺し屋一人地獄に送って成り代わった。こっちのしごとより大変でしたですよ。肌荒れがひどいです。ヅラなんてつけるもんじゃない、学びました」
――彼女は淡々と言った。
それを聞いて彼が思ったのも、彼が言ったのも、もはや一言だけだった。
それが――彼の最後だった。
「お前――……喋れたんだな」
「ご明察。
間もなく、彼の首に巻き付いた鋼線が、一瞬の鋭い痛みとともに、永久の眠りへと誘った。
――それが、彼女なりの祈りだった。
……殺し屋、モニカ・シュヴァンクマイエルの。
◇
周囲には死の静寂。
彼女以外、誰も息をしていない。
「…………ふう」
ひと仕事終えた彼女は、頭のフードを脱ぐ。
それから髪を振って、通信端末をオン。会話する。
「こちらマリオネット。モグラした組織壊滅したOKです。賞金持って帰りますですよ」
『……全滅させたのか。生存者は』
彼女は――頭を貫かれ、舌を出して死んでいる大男に寄り添い、何かをうめいている枯れた男を見た。
……彼はもう、用をなさないだろう。
――無抵抗の人間に差し出す死はない。
モニカの流儀は、それだった。
自分が成り代わった女も、必死に抵抗してくれた。だから、殺せた。
「……いや。ノーバディ」
『了解した。場所、時刻は伝えたとおりに。誰にも尾行されるなよ』
おごそかな、男性の声だった。
そこには――聞いたものを凍りつかせるような冷厳さがあった。
だが彼女は平然としていた。
「分かりましたですよ、モニカさん向かいます。オーバー」
……通信は、切れる。
彼女はもう一度大きく息を吐く。
その場から離れる。
――死んでいるのも同然の廃人を一人残して。
警察が来る頃には、ある真実が浮かび上がるだけだろう。
それは――丸腰の『人間』が、何の覚悟もなくアンダーグラウンドに足を踏み入れた間抜けな『事故』という結果だけだ。
◇
薄暗い空間であった。
誰かの葬式があったわけでもないのに、そこには強い死の匂いが立ち込めていた。
それは、安酒と火薬の匂い。
「あいつは、来るでしょうか。儲けた分だけ持ってトンズラってことも――」
「……おい」
若い男が不安そうに言うのを、年配の男がたしなめる。
空気が凍りつく。
複数の視線が――空間の奥の闇へと注がれる。
そこには一人の男が、ただ一人の男が座っていた。
……纏うのは想念。
圧倒的なまでの、負の想念。
それこそが――『組織』の長たる男のにおいだった。
「来るさ。あいつの首輪を、俺は信用している」
静かに、よく響く声だった。
彼はその手を、もう片方の手で覆って、強く握った。
強く、強く。
落ち着いた態度の代わりに、そこに感情を滲ませるかのごとく。
「――待っていろ」
そこで発せられた言葉。
ここにいる者に向けられたものではない。
「
彼の言葉は、遥か上空に向けられていた。
――煉獄の上に芽吹く、虚栄の市。そこにすべてがあり、すべてを見下ろしている。
彼の憎悪の声音は――そこへ矢印が伸びていた。
拝啓――ハイヤー・グラウンド。
彼の声は、その場ではくぐもった空気とともに消えていった。
だが、その怨嗟は――その後、大きなうねりとなって、ロサンゼルス全体を呑み込んでいく。
今は、誰も知らない。
皆、眠っている。
その眠りが覚める時期を誰も知らぬまま――今はただ、アンダーグラウンドの夜は更けていく。
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