後編

#1 待ち人、来たり

「カ、ア…………」


 その若者はスキャッターブレインの向かい側に座っていた、いや、座らされていた。

 彼こそは、壁の向こう側からやってきて――無謀にもこのビッグゲームに挑んだマフィアの息子である。だが、もはや誰もその素性を知らない。後方に居る喪服姿の女以外は。


「……君との勝負は、まだ続けられそうだが」


 まだ、彼は完全に『枯れ切って』はいなかった。

 ――搾り取れるものは、まだ残っていた。

 だが、スキャッターブレインにとって――もはや、彼は興味の埒外に置かれていた。

 そうなれば、もう用はない。だが、感謝はしている。

 彼女たちが来るまでの数十分間、自分を楽しませてくれたのだから、それで十分ではないか?


「もはや、これまでだな」


 ――スキャッターブレインは、指を鳴らす。

 すると、付き人の狂った女がせり出てくる。


「キイイイイイイイヤアアアアアアアアアアアアアア!!」


 怒りに震えるような雄叫びを上げながら、その椅子から節榑同然になった若者を叩き落とす――彼女は憎んでいるようだった。その青年を。主人を最後まで満足させなかったこの青年を。


「ア、ア……」


 青年はひらひらと椅子から落ちる――。


「……」


 『それ』を抱きかかえたのは、喪服姿の女だった。


「――……ふむ」


 スキャッターブレインは彼女を見た。彼女も、無言の視線を寄越す。


「君は……どうする? 戦うかね」


『ワタシ、ハ、付キ人……』


 彼女は電子音声で言った。

 それで、スキャッターブレインの興味は尽きた。聞いてみただけだ。

 ――喪服女は、ミイラ同然になり、総白髪に染まった若者を抱きかかえて後方へ引き下がる。

 ……それから、前に進んでくる一人の女とすれ違う。

 スキャッターブレインの、次なる対戦相手と。


「歓迎しよう――さぁ、座り給え」


「……」


 向かい合う、浅黒い肌をした眼鏡の若い女性は、無言で座った。

 彼女は曖昧な表情をしていた。

 緊張か、闘志か。いずれとも解釈できる表情。


 ……それを見た時。

 スキャッターブレインは、気に入った。


「準備を」


 彼は再び指を鳴らす。

 すると、盤上が激しく動いた。

 コマが盤の端のスリットに回収され、盤自体も『収縮』を始めた。

 ――同時に、向かい合う二人の椅子も高速で接近した。

 マス目が、縮小していく。ギコギコと音を立てて。

 要するに――勝負の初期状態へと戻っているのだ。それを以て、準備完了なのである。


 ……ガチャン。

 準備は、終わった。

 スキャッターブレインと、彼女は向かい合う。

 盤上のマス目は、わずか4つ。たったそこから、無限の拡大とともに勝負が始まる。



「……始まるぞ」


 チヨが呟き、皆の視線が盤上に向かう。彼女の言動は保留され、そこで全てが始まる。


「生死の分水嶺に向かう気持ちはどうかな、お嬢さん」


 展開されているマス目は、現在4つ。

 キムは黒、相手は白。それぞれの最初のコマが打たれる。

 暗黒の中に響く、硬質な音。


「それは、希望か」


 歌うような、スキャッターブレインの声。

 その耳障りな高音が、脳の襞で倍加されて聞こえる。


「それとも……絶望か」


 だが、キムは答えない。

 そこで……4つ目のコマが盤上に放たれる。

 同時に。


 ――盤が、一回り大きくなる。

 勝負は、まだまだ続く。

 どちらかが、枯れ落ちるまで。


「……ゲホッ、ゲホッ」


 キムは手で口を押さえて咳き込む。

 スキャッターブレインを、じろりと睨む。その頬と額に、汗がにじむ。


「……いい目だ」


 ……ないはずの、彼の目が。その一言とともに、歪んだように見えた。

 法悦に。喜びに。


 ――彼は、次なる質問を放つ。

 攻撃の手は止まらないまま。


「……君は一体、どこから来たのかな」


 ぱちり。

 キムは攻撃を返して、答える。

 ややうつむき気味になって、表情を伺わせないように。


「あなたと同じ場所っスよ……地上の煉獄」


「ふむ」


 彼は一呼吸置いて、盤上で指をトントンと鳴らした。

 トントン、トントン。

 ――それが、対戦者に心理的な威圧を与える目的であることは明白で。

 キムは、聞こえないようにした。

 後ろにいる者達のことを考えた。


「なるほど……では、次は君が質問する番だ」


 彼は――にやりと笑みを浮かべ、そう言った。



「あいつ……楽しんでやがるわね。けったくそ悪い」


 グロリアが吐き捨てる。

 悪趣味でしかない肉のオブジェに囲まれる事自体には慣れてきたようだが、それでも心地いいとは言えない。彼女の顔は青ざめたままだ。


「でも、まだ勝負成り立ってますよ。キムさん、食らいついてる」


 シャーリーが言った。

 確かにその通りである。

盤上は徐々に大きくなるが、未だ勝負は均衡しているように見える。


「……だといいが」


 チヨが一抹の不安を浮かべた声音で言った。


「……」


 無論、シャーリーにも憂いはある。

 ちなみに……彼女たちが何故キム達の勝負を見ることが出来るかと言えば。


「ウフフフフフフフ、ウフ、ウフフフフフーーーーッ…………」


 スキャッターブレインお付きの狂った女が、ご丁寧に彼女たちの目の前にモニターを持ってきてくれたからだ。


「あ、ありがとう…………??」


「ウフフフフフフフ、ウフ、ウフフフフフーーーーッ……」


 彼女はどうやら女たちを見て、『こいつらは主人に危害を加えない』と判断したらしい。仕事を済ませて主人の奥へと去っていったのであった。



 ……勝負に戻る。


「あなたはどこにいた? 以前まで」


 キムが質問し、コマを打ち込む。


「君と同じさ。地上の煉獄」


 スキャッターブレインが答える――盤が拡大される。

 ……まだだ。

 まだ、勝負は常識の範囲内。獣は牙をひそめたまま。


「あなたは――どうしてここに降りてきた?」


 キムの質問。彼は答える。


「地上は狭く、私の脳を広げるには物が多すぎる」


「……だから、地下を選んだ」


「そう、その通り」


 コマの音が響く。

緊張と不安を増長させるその音に苛まれながら――キムは問いを重ねる。


「地下の暮らしはどう?」


 彼は、答える。


「――上々だよ、地上の下品な喧騒を見なくて済む。ここに来るのは限られた者達だけだ。ゆえに、私は満足している」


 ……その言葉。

 キムは顔を上げる。


「なるほど」


 彼女は――盤の下で、拳をギュッと握った。

 その動作は、スキャッターブレインにも見えない。キムだけの動作。

 一つの確信が、彼女の中でひらめいた。

 だが、まだ一つ。

 足りない――まだ足りない。

 勝負が、続く。


「では――君の欲しいものは何かな」


 彼が言った。


「……!!」


 深くえぐりこむように。唐突に。

 盤にコマが打ち込まれ、拡大される――徐々に、その間隔が狭まっていく。

 答えられないでいると、彼は更に言った。


「ここに来た、そしてディプスの気配を漂わせている。その理由は教えてくれないのだろうが……せめて、何故ここに来たのかだけ教えてくれないか」


 口調こそ柔らかい。

 だが、そこに罠があることはすぐにでも分かる。少しでもスキを見せれば終わり。

 落ち着く――そして、答えを出す。自然に。

 キムの頭がフル稼働する。盤上と、会話の上での、2つの勝負。その双方に――彼女は勝たねばならないのだ。


「……あたしの両親」


 言葉を続ける。


「すっかり駄目になっちゃって。休みの日に外に連れ出そうとしても。まるで反応がないから――そうだな、エアクラフトがほしい」


「……空には壁と、浮島しか無いぞ。それでも?」


 キムは肩をすくめる、ポーズを取る。


「無いよりはマシ」


 そう言った。


「……奴め」


 チヨが、モニタを見ながら言った。


「あいつ……嘘をついている」


「え……?」


「そもそも、……」



「ほう、ほう……な・る・ほ・ど」


 スキャッターブレインは嘆息したように言った。

 だが、その口調とは裏腹に、彼の心が奇妙な冷徹さに支配されていることに、キムは気付いていた。

 ……なぜなら、彼は捕食者に過ぎないから。


「良い答えだ。君は他の者達には無い何かを持っている……であれば、良い。私の肥やしには丁度いい」


「どうも……」


 キムは相変わらず、表情を抑制しながら、曖昧に答える。

 そこに、スキャッターブレインは言葉をぶつけてくる。


「では私からの質問だ。――……君はそのエアクラフトで、どこに行きたい?」


「――サンタモニカ」


 即答だった。

 つまり、予期していた質問。


「ほう」


 キムは続ける。


「それとも――パサディナ。いや、あるいは」


「……」


「――……マリブのほうが、良いかな」


「……」


 そこで。

 スキャッターブレインは、一瞬ぴくりと、指を動かした。

 それまで間髪入れずに進められていたゲームが、僅かの間静止した。

 キムは――見逃さなかった。


「要するに、考え中っス」


 肩をすくめて、そう言った。

 ……ゲーム再開。

 まだペースはスローだった。

 勝負は加速していない。盤面は広がり続けているが――未だ、手に負えるレベルだった。

 少なくとも、今は。


「――では、君の質問だ」


 スキャッターブレインの手が、差し伸べられる。


「分かりました」


 一呼吸、置いて。

 キムは、言った。


「あたし――とある団体を作ろうと思ってるんです」


「団体――??」


 キムは、よどみなく――ように聞こえる口調で、言った。


「数年前の、『大去勢モストブレイク』の被害に遭った人たちを救うための団体です。――私の、ディプスの力を使って」


「…………!!」


 その瞬間、異変が起きた。

 彼は駒を打った、確かに。状況はそれまで五分五分。そしてフィールドが拡大される。キムは『それ』を感知しつつ打つ――コンマ一秒にも満たないうちに。激しい打撃音。盤面に火花が散り、焦げ臭い匂いが漂う。そう――やつは打った、次の手を一瞬で。キムはまた打つ、その瞬間には――スキャッターブレインは打っている。


 拡大される。盤が、拡大される。

 勝負が、急激に加速する。

 先程までが――児戯だったとでも言うように。


 明らかな異常だった。スキャッターブレインは打つ、打つ。


 盤面が、白く染め上げられていく。キムはそれに追随するため、必死に打つ手を返す。だが、すぐに対策を取られ、陣地を拡大される。その繰り返しが始まる。明白に、違う速度で。コマが打ち込まれるたび……銃撃のような音が鳴り響き、煙が立った。すべては、キムの対戦相手の手元から起きていることだった。


「あいつ……加速したぞ」


 チヨが息を呑んだ。


「こっからが本番ってわけ……? だったら今までのは……」


「……間違いない。奴の犠牲になった連中は、この手に騙された」


「……っ」


 グロリアは二の句が継げなかった。

 また、厭な光景を見たからだ。


 ――脈動していた。

 ……周囲を取り囲む脳のひだが、ぴくぴくと脈動し、妙にあたたかい空気を運び出してきたからだ。まるで、心臓が鼓動を始めるように。工場の機械が、稼働するように。

 それが意味すること。分かりたくなくても、分かる。


「一体あやつは……何を聞き出そうとしている……!?」



「ディプスの力……――」


 勝負は加速していく。キムのメソッドはいかにも定石通りだった。序盤で少しずつ数を稼ぎ、相手が多く取りにかかれば分断する、四隅を確保するために計算して動く――はじめのうちはそれで成り立っていた。


 だが。今となっては、それは勝負が有利に進んでいたのではなく。

 ――目の前の男が、あえてそうさせていたのだと分かる。

 ……戦いが始まって、何分になるだろう。


 わからない。徐々に頭がクラクラしてくる。問いかけに対して、最低限の答えしか返せない。最低限の攻めしか。

 そうして打ち込んだやけくその一手に対して、向こうは全く容赦のない一撃を打ち込んでくる。そして、自身の領土を広げられる。挙げ句……フィールドの拡大。勝ち負けは、版図の広さでは決まらない。プレイヤーの、生死。

 はじめにわかっていたはずのことが、今になって……よりクリアになって理解できた。


 目の前の男は、今まさに――牙を研ぎ終わり、こちらに向け始めてきたばかりなのだ。

 そして、なるべく残酷に、悪趣味に……自分を捕食しようとしている。

 希望の後に、とびきりの絶望を。

 これが。

 これこそが――スキャッターブレインなのだ。


「そう……」


 だが、キムの口はまだ動いた。だから彼女は――掠れた声で、会話を続行する。


「この力っス。あなたには……まだ、お見せしてないですけど」


 攻めは容赦なく続く。拡大する、拡大するフィールド。打ち込まれていく白。黒の領土は秒ごとに減少していく。一瞬が過ぎていくために、無数の道筋が生まれ……キムの脳裏で焼け付いていく。常人であれば、とうに発狂しているであろう。だが、彼女はテロドだった。人あらざる存在だからこそ、辛うじて耐えられている――。


「それを使って、何をどうする気なんだね」


 対するスキャッターブレインは、欠片も疲労を、痛みを見せていない。 

 それどころか、瞬間を重ねるたびに生き生きとしていくようだった。

 ……彼の脳の全てが、この対話に、戦いに喰らいついているのだ。


「まずは、草の根の活動……困っている人たちを助けます」


 ――ガラスの上に爪を立てるかのように。全ての言葉が上滑りしていく。

 だがキムにとっては、この会話を続けることこそが重要だった。


「ほう」


「その次は――……悪い奴らを倒す。後ろの人達は、その段階に必要です」


「ふむ」


 スキャッターブレインは、小さく相槌を打った。

 だが……『後ろの人達』に、彼が注意を向けることはなかった。

 というより、興味が無いのだろう。自分が相手をしている者以外には。

 それに、意味がないのだ。彼女たちが攻撃してきても、自分には効かないのだから。

 彼を支配しているのは絶対の自信であり――今の所、それが崩れる事は考えられなかった。


「そして最後には――……」


 さぁ――いまだ。

 喰らいついてこい。

 ぬらぬらと赤い肉を、差し出してやる――史上のごちそう。

 キムが……一区切りおいてから、言った。


「壁を崩して、天を落とす」


「……――!!」


 彼の表情が、変わった――ように見えた。

 ……彼の一手が、示される。


「そして――……」


「少々喋りすぎじゃないか。次は私の質問だ」


 加速する。

 ――更に勝負が加速する。


「……ッ!!」


 キムの目が血走る――彼女の中に流れる動物電気をわずかに刺激させて、通常よりもはるかに頭脳は冴え渡っている。勝負の道筋は見えている。次にどこへコマを打ち込めばいいのか、光の線となって見えている感覚。


 だが――それのどれもが、途中で途切れている。とどのつまり。彼に全てが封じられる……はっきりと分かる。


 明確に明白に――狩りに来ている。この自分を。

 それは恐怖、戦慄。

 加速した脳のパルスが焼け付いて、キムの目を血走らせる。既に背中は大量の汗でべっとりと濡れている。鼻血が出てきた。ぬるりとした不快な感覚。


「……」


 だが。

 それでもキムは、勝負を投げない。


「君は、何者だ。是が非でも、答えてもらう」


 また、新たな問い。

 彼の態度は余裕そのもの。獲物は目の前にあって、腐る前にかぶりつくことが出来る。

 だが、その声音に滲んでいるのは――……僅かな焦り? いや、違う。これは……。

 ――苛立ちだ。


「……ッ」


 だからこそ、キムは盤の下で拳をわずかに握る。

 もう一つの確信を得る――声を、絞り出す。


「答え……られません」


 打ち込む、打ち込む。勝負が加速する。更にフィールドが広がっていく。網目状の無限の宇宙に、白の斑点が次々と生み出されていく。黒の目印は目に見えて減っていく――だがそのたびに、世界が広がる。終わらない勝負。キムが、そのすべてを燃やし尽くすまで。


 指先が震えて、チリチリする。目の奥に蜘蛛の巣のような血が広がる。喉が渇く、猛烈に。意識が遠のいていく。湯気を頭の奥まで吸い込んだような心地。ここに居ないような……。


「君の力とは何だ、ディプスの力とは――」


「少なくとも、あなたの門番を倒すだけの力はある」


「それは分かっている――……もっと詳しく教えろと言っている」


「教えられません……」


 応酬は続く――勝負と並行して。

 その双方が、彼女を死へと確実に誘いつつある。

 ……心なしか、頬がこけ、その肌も枯れ落ち始めているようだった。

 僅かな時間で――別人のように追い詰められていく。


「――では」


 彼は新たな一手を打ち、問い詰めてくる。


「質問を変えよう。その力はどのような効果をもたらす?」


 熱に浮かされたようになりながら、キムは答える。


「地に……平穏を……」


 そこに、城を切り崩すかのようにスキャッターブレインの追撃。


「本当にそう思っているのか? 君は天を下ろすと言った……それは平穏とは程遠い。アンダーとハイヤーの壁が崩れれば、LAはさらなる混沌に陥る。それが分かっていながら君はそう言った。気付いているか? 君の言動はひどく矛盾しているぞ」


「……」


「答えろ。答えない限り、この責め苦は続くぞ」


 だがキムは――黙したまま。

 そのまま勝負は続く。

 追い詰められていく。追い詰められていく。


「……――ッ」


「――答えろ、君の力は、君の願いに、どんな結果を及ぼすッ!!」


 スキャッターブレインが叫び、盤上に新たな一手が示された。

 それと同時に――キムが、血を吐いた。


「かはッ……――」


 目から、鼻から、同時に血を流す。


 彼女の髪は――白くなり始めていた。

 極限の緊張とストレスが、キムをまるで別人へといざなっていた。

 だが、それでもなお勝負は続いていた――時間にして、僅か十五分ほど。


 その間に、盤上は広大な部屋ほどの大きさへと変化し。複雑な白と黒のモザイク模様へと変貌を遂げていた。

 すべては、二人の軌跡だった。



「――ッ」


 身を縛る肉が忌々しかった。前に身を乗り出したことでさらに引き締まり、苦痛と変わった。だがそれでも、彼女は――チヨは、叫ばずには居られなかった。


「もうよせ、キムっ!!!!!!!」


 ……かたわらの二人が、それを聞いた。

 かつてないほど切迫した声。


「……チ、ヨ……さん…………」


 キムは、その声を聞いた。

 顔を傾けると――そこに居たのは、一人の銀髪の少女。

 思いつめた顔で、こちらを見てくる。


「お前……っ、」


 彼女は、叫ぶ。


「『約束』しただろう――そのままだと、死ぬぞ……!!」


 それは叱責にも、懇願にも聞こえるような口調だった。

 キムは躊躇したが――背を向ける。

 盤上に、向き直る。

 無限のフィールド……白と黒のまだらだけがあって、頭の中を揺さぶってくる。


「チヨさんこそ……『約束』、破るつもりっスか。『信じて』って言ったでしょ」


 冷静に言ったつもりだった。

 だが、彼女の声もまた、震えてしまう。


「そんなにひどいありさまになって……当てこすりのつもりかっ……!!」


 ――ああ。

 そんなことを言えてしまうのだ、チヨは。

 だから、答える。


「そうっス――あてつけっスよ」


 自分の番だ。

 コマを持って、打ち込もうとする。

 だが、咳き込んで取り落とす。


「ゲホッ……――チヨさんが、あたしを信じてくれない限りは。こいつは、あてこすりっス……」


「どういうことだ……」


 ――まだ分からないのか。

 ならば、教えてやるまでのこと。


「あたしは……室長を信じてます。あの人が居たから、第八に入った。でもって……――」


 ここが、重要。


「その室長が信じる、シャーリーちゃんを信じてます」


「……!!」



 チヨは、動きを止める。

 それから、隣に居る少女を見た。

 赤いマフラー、革のジャケット。あの日、唐突に天から現れた存在。

 どこまでも状況をかき乱すイレギュラー。

 シャーロット・アーチャー。


「……ええっと……??」


 彼女自身は――よく分かっていないらしい。首を傾げて、こちらを見てくる。

 その仕草に、腹がたった。

 だが不思議と、怒る気にはなれなかった。


 そしてその時点で、シャーリーはキムがちらりとこちらを見たのに気づいた。

 ――それで全てを『諒解』し、こっそりと『行動』に出た。

 誰にも気づかれずに。


「これまでのシャーリーちゃんの動きを、あたしもチヨさんも見てきたはずっス。それを見ても、あなたはなんにも思わなかったっスか……?」


 チヨは答えない。

 キムは続ける。


「思ったんじゃないっスか? 『もしかしてこの子は』って」


 ……まだ黙っている。彼女はそのままうつむいていた。

 要するに。図星ということ。

 ともに重ねてきた年月が、そうだと告げている。


「それで……それでいいんスよ。だって、あたしら……それだけで結びついてるんだから。みんなバラバラっス。だけど、そこだけで、一緒に居る。それで……じゅうぶんでしょう」


 ……そして、とどめとばかりに、言う。


「だから、信じてください――」


 コマを取り出す。

 振りかぶる――。


「あたしを、室長を…………シャーリーちゃんをっ……!!」


 その一手が――打ち込まれた。

 相手はわずかに、ほんのわずかに眉をひそめた。

 何の意味もない、苦し紛れの攻撃。

 そのはずなのに。


 なんだ――この、胸騒ぎは?


「君は――何者だ」


 答えるように一手。

 更に、返ってくるもう一手。

 ……速い。

 迷いが消えている? 何故か。


「……『港湾労働者組合』か? いや、違うな。君は連中よりも洗練されている」


 答えない。


「では……『スカッズ』か? 奴らの生き残りが居てもおかしくはない。私はそう考えているが……」


 また、答えない。

 ……スキャッターブレインは考えた。

 彼にしては珍しく――秒を使って、考えた。

 その時。


「……ずるいぞ……っ!!」


 後方で声がした。


 それはチヨだった。

 彼女は眉を八の字に曲げて、かつてないほど表情を崩している。

 キムに向けて、叫んだ。


「ずるいぞッ……!! そんなの、ずるすぎるっ!! そんなことを言われたら、儂は……お前を……ッ!!」


「――…………知ってますよ、そんなの――……」



 そこで、スキャッターブレインは気付く。


「――――分かった、分かったぞ……!!」


 ――風の音。

 ここではない場所から響いてくる。誰も知らない。

 間もなく――ここへ届く。


 彼は、キムに対して告げる。


「分かったぞ。その言動……どこまでも煙に巻くようなその態度……君の正体を見抜いた!! 君は、あの時の――…………」


 ――その瞬間に、全てを打ち破る音が響いた。


 それは波涛を越える巨大な船の音に似ていたが、それよりもずっとモノラルで、かつ湿った音だった。だが――届いた。

 その場に居た全てに、届いた。


「……!!」


 スキャッターブレインに。

 キムに。シャーリーに。グロリアに。

 ……チヨに。


 見上げる。

 はるか高い天井の一部――ぬめった肉襞の一部から膨大な血液が噴き出して、巨大な裂傷を作り出していた。


「――……何だ……この、」


 スキャッターブレインは、ダメージを受けていなかった。脳の全容量に比べればかすり傷にもならない。だが、次の一言が、その血のさかさ噴水から飛び出してくるものを言い当てた。


「ディプスにも似た、感覚は――……!!」


 その奔流の狭間から聞こえてくるのは羽ばたき。姿が明らかになる。

 ――巨大な猛禽の背に、一人の女。風切りと共に急降下で現れて、舞い降りる。


 血の噴き出しは速やかに止まった。ほんのわずかな間だけ、噴出しただけだった。


 肉の上に、降り立つ――二人の女。

 盤上と、チヨ達のあいだ。

 女の一人は翼を畳んだ。

 女の一人は――咥えている煙草を口から離して、静かに煙を吐いた。


「お前……」


 チヨが小さく、呟いた。信じられないようなものを見る表情。その中に、僅かながら――ほんの僅かながら――期待のようなものが混ざっている。


「……!!」


 キムは背中で、その存在を感じ取った。

 彼女は憔悴しきっていたが、それは彼女に――一欠片分の気力を取り戻させた。その体に力が、その目に光が……入り込む。


「……お前たち」


 その女は、静かに言った。傍らの翼の女は、ホコリを払いながら、『やれやれ』という顔をしている。


「――遅いぞ」


 チヨが、言った。


「道が混んでいた」


 フェイが――そう答えた。



 ああ、実際、その通りだったのだ。

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