#8 ユー・脳・マイ・エネミー
「――あ、あいつがスキャッターブレイン……??」
グロリアは胸元までこみ上げてきた吐き気をなんとかこらえながら、かたわらのキムに聞いた。
この最悪な光景をさらに最悪なものにしているのは、どうやらこの脳味噌空間の端に先程からちらちらと映る枯れ木の山が、見間違いでなければ干からびた死体の積み重なりであるという事実だった。それだけで――否が応でも符合する。何もかもが、何もかもが。
原色の、狂気の空間――男とその前にある盤以外は、だだっ広い肉の大広間。たったそれだけ。やけに広い空間が、そのなまぬるい赤色によって、さらに広く見える。
「どうやらそうらしいっス……うっぷ」
キムもえづきそうな声を出しながら言った。
アウトレイスでなければ、とっくに正気を失っていただろう。足元のすべてが、ぶにょぶにょとした迷路模様の肉なのだから。
「そしてどうやら……前の勝負が、終わりかけているらしいぞ」
付け加えるように――チヨが言う。
その言葉が、前方の光景を指し示した。
そう――その異形の真向かいに、彼は座っていた。
だが……『枯れ』かけていた。チヨ達の後方に積み上がる死体のような土塊のような何かのように……何もかもを搾り取られて、死にかけていた。
「か……かはっ……」
頭髪は抜け落ち、目玉は落ち窪み。肌はひびわれて。その指先がコマを持って震えたままその場で留め置かれている。
その正面で――『スキャッターブレイン』は――ワインを飲んでいた。傍らの不気味な女によってグラスに注がれる、周囲の肉と相違ない色合いの葡萄酒。
「あれは……」
さすがのシャーリーも、絶句せざるをえなかった。
「あれは――対戦相手ということか。奴に追い詰められれば、ああなる……ということだな」
チヨの頬にも冷や汗が垂れている。
……枯れ落ちかけている男のすぐ後方に謎めいた女が控えているが、チヨ達は気づかない。
「さて――君たちは、どうするのかな」
声が響いた。ソプラノのようにも、甲高い老婆のようにも聞こえる実に不快な声。
「決まってんでしょうが!! 今すぐここから出してくださいお願いしますッ!!」
「はああああああ!!?? ちょっとグロリアさん何言ってンスか!!」
「だって、だってッ、無理よ!! あたしこういうのマジで無理だから!! 吐くわよ、マジで吐くわよ!? 昔ブラクラ踏んでグロ動画見て以来こういうのはほんっっっっとに無理なのよッ!!」
「ちょっと落ち着いてください……この町で死体はさんざん見てるんじゃ……」
「うっさいわチビ助ッ!! それとこれとは話が違うのよバカタレっ、あ、無理、吐く――……おろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ」
「ちょっグロリアさ…………ぎゃああああああーーーー!! 服に、服にッ!!」
「皆さん落ち着いてくださいッ!! ただの生肉と思えば良いじゃないですか!!」
「やっぱあんたまともに見えて一番頭オカシイんじゃないの!!?? なんで平気なのよ!!??」
「平気じゃないですよ、ほら!! 見てくださいよサブイボっ!!」
「そんなのどうでもいいっての!! なんなのよこの空間ッ!! ほんっと無理ッ!!」
ぎゃーすかぴー。
「………………ええと」
男は――困惑したような声を出した。それでもなお、グロリア達は騒いでいる。
だが。
「落ち着け、貴様ら」
そこで――チヨが言った。
「こういうときにどうすればいいのか分かったぞ」
「なんだって言うのよ…………」
彼女は――前に出る。
そして、言った。
「こんなふざけた空間は――破壊してしまえばいいだけのことだ」
間もなく彼女は、スキャッターブレイン本体に向けて駆け出した。脚部のブースターを全開にして。
「ちょ、あのバカ……――」
「先輩には言われたくないと思いますけど」
「そういうこと言ってんじゃないのよ後輩。ちょっと、よしなさいチヨ――」
「芦州一刀流――」
「……ふむ」
男は思案したようなポーズを取り、こちらに向かってくる和装の少女を見た。
なるほど、恐ろしく速い。このまま接近を許せば、どうなるかは目に見えている。
――ならば。
「歓待と、行こうか」
男は、指を鳴らす。
「――――ッ!!」
チヨの全身が粟立ち、尋常ではない気配を感じる。それは前方より現れる。
――……天井の脳味噌の一部がぴくぴくと痙攣したかと思うと、波打つ肉の隙間から何かをずるりと吐き出してくる――まるで、操り人形のように。その時点でチヨは立ち止まった。それから、降りてきたソレを見た。
「シイイイイイイイイイーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
「フシギだなあああああ、フシギだなあああああ!!!! フシギだなあああああ!!!!」
……二体の異形だった。
ナナフシのように長い身体をボンテージに包み、乱杭歯からよだれを垂らす男。その眼窩が回転するドリルに置き換わっている。そしてもうひとり。でっぷりとした脂肪に覆われた男。ピエロのような先細りのボトムスで異様に小さな下半身を包んだ状態で逆立ちし、くるくると回転している――脚部に据え付けられた電動カッターとともに。
彼らは奇声を発しながら、まるでひっくり返った昆虫のように身体を規則正しく痙攣させて、チヨに向き合う。
「こやつら……っ」
「な、なんですかあいつら……」
「――まさか奴ら……『ジェニングス兄弟』じゃ……」
「間違いないわ……この街きっての『殺し屋』……近頃噂を聞かないと思ってたら――」
「こいつらも……『喰った』のか――スキャッターブレイン……!!」
「歓迎した、と言って欲しいものだな。勝負を挑んできたのは、向こうからなのだから」
その言いぐさに、チヨは歯ぎしりする。前方の狂った男二人。けたけたと笑いながら、身を捩らせる。欠片の知性すら感じさせない、完全に精神が壊れてしまった木偶ふたつ――。
「いいボディガードを雇っただろう? これで私の勝負場所は神聖なまま守られるというわけだ」
「……――ほざくなッ!!」
彼らの姿に憐れみを感じたわけではなかったが、それでも目の前の二人に何かを動かされたのは事実だった。チヨの中の一部が沸騰し――彼女の足を駆けさせた。
「シイイイイイイイイイイイイイイイイイイイーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
「フシギイイイイイイイイイ、フシギフシギフシギイイイイイイイイイイイ!!!!!!」
「…………芦州ッ――一刀流ッ!!!!」
「チヨさんッ――!!!!」
……当然、それを黙って見ているシャーリーではない。彼女もまた飛び出して、ピンチを救いに行こうとした……。
「――……」
だが。
そんな彼女のもとに、高速で伸びてきたのは脳味噌の一部だった。まるで蔦のように彼女を絡め取り、壁の一部に叩きつけ――固定してしまった。
「かはッ……」
衝撃がダイレクトに伝わり、シャーリーは呻いた。
「シャーリーっ!!」
続いて――。
グロリア、キム。
彼女たちのもとにも、脳の触手は伸びてきた。そして彼女たちのスキをついた。
「なッ!!??」
「うげえっ……!!」
二人もまた絡め取られ、シャーリーの隣の壁に拘束される。まるで鞘の中に封印されたかのように……。
彼女たちは、脳の壁の一部になってしまった。赤黒い肉の檻。傍らには、積み重なった死体――手も足も出ないまま。
――数分後。
「ぐッ…………!!!!」
「シイイイイイイイイイーーーーーーッ…………」
「ひひヒヒヒ、フシギ…………フシギイイイイイイイイイ…………」
チヨが、敵二人にぶっ飛ばされ、シャーリー達の前に引き下がった。血しぶきが舞う。
「チヨさんっ……」
「……!!」
なおも彼女はカタナを構えるが――その身は既にボロボロ同然だった。
……数の暴威は、実力で覆らなかった。
天井からするすると肉の触手が降りてきて、チヨの身体を絡め取り――。
「このッ…………!!!!」
シャーリー達の隣に、チヨを拘束した。
「なに、死にはしない」
スキャッターブレインは再び指を鳴らした。
すると、狂った道化二人は触手に包まれながら天に舞い、肉襞の中に吸い込まれて消えた。不快な、水音のようなぬめりを響かせながら。
「……」
チヨは不貞腐れていた。
キム達から顔を背けて、黙り込んでいる。
「だから言ったじゃないですか。無茶だって」
「シャーリーあんた偶に最低になるわよね」
「さて。――無粋な戦いはここまでにして。ここから質問といこう」
――スキャッターブレインの声。
「ああああ?? なーんであんたの質問にあたしらが答えなきゃ――」
……グロリアの目の前に触腕。
「嘘ですごめんなさい!! きもい勘弁して!!」
「――しっかり答えてくれないか。諸君」
彼は、改めて問うた。
「――君たちの中から、確かに『ディプスの気配』を感じた。それは誰だ?」
その声は。
……深く、深く――空間に染み込んだ。
そこには確かに、今までの口調にない荒々しさがあった。
それは憎悪。確かな負の感情が、そこに滲んでいた。
スキャッターブレインが、何を考えて地下に自身を広げているのか。
理解するのは、それだけで十分だった。
「……!!」
戦慄が走る。
答えねばならない――答えねば、どうなるかわからない。
そんな思いが駆け巡った。
だからこそ。
「……それは、」
シャーリーが声を上げ……ようとした。
しかし。
「あたしっス。ディプスの力を引き継いで、その力を地上で使ったのは、あたし」
言ったのはキムだった。
「なっ――!?」
シャーリーは耳を疑った。彼女を見ると、こちらを見て微笑した。
「ほう、君か。その言葉を信じてもいいのかな」
と、スキャッターブレイン。
「嘘をついていたら、無駄な犠牲が増えるだけっス。そんなの、意味ないっスよね?」
「なるほど――……目の前ですっかり干からびているこのバカよりは利口らしい」
それは――彼の向かい側の男のことだった。
まるで、物か何かのように言う。
グロリアたちがゾッとしても、キムは肩をすくめるだけだった。
「やめてください、どうして――」
「口をふさげ、新人ッ!!」
チヨが言って、にらみつける。
敵に手ひどくやられてしまってもなお、彼女の視線は鋭かった。
その目は語っている――キムには、何か考えがあるのだ。だから黙っていろ、と。
「……チヨさん」
キムは言って、振り返った。
それから、彼女の傍に辿り着く。
――チヨの手には、スマートフォン。
フェイたちに連絡するためのものだ。彼女が持っているのは、グロリアは馬鹿で、シャーリーは信用ならないという独自の理由からである。
キムはそこに手を添えて、そっと下に降ろさせた。
「……お前」
キムの微笑が、チヨに近づいた。
手が触れ合って、目が互いを見る。
「一体何を――」
その問いを遮るように。
……キムは、チヨの耳元に、ある言葉を囁いた。
チヨは硬直し、動けなくなる。
そのままキムは身を翻し、再び敵の方向へ。
それから、ゆっくりと歩き出す。勝負の場所に向かって。
「……チヨさん! キムさんに、何を言われたんです!? 何を――」
「……――黙れ」
「ちょっとチヨ! なんだってミランダに連絡入れないの、どうして――」
「――黙れと言っただろう、たわけ共がッ!!」
チヨは、叫んだ。
それから、シャーリーとミランダを見た。
……二人は驚いた。
……彼女は顔に汗をかき、息が上がっていた。
何か、とんでもないことを示唆されたことを意味している表情。
なによりも、そんな顔をしているチヨを見たことがない。
シャーリーはおろか、ミランダでさえも。
「…………勝負は。あ奴が受ける。奴には……作戦がある」
チヨは呟いた。
「奴を……キムを、信じてくれ」
そう言ってから、彼女は黙り込んでしまった。
――二人はそれ以上、何も言えなかった。
そして、いよいよ。
キムが、盤上へと向かう。
かくして第八機関は、搦め手をものの見事に封じられ――絶対的不利な状況下において、正攻法でスキャッターブレインを打ち破ることを余儀なくされた。
キムの狙いとはなんなのか。
そして、チヨとの間にかわされた会話とは。
――アンダーグラウンドの総てを賭けた勝負が、今、始まる。
◇
「畜生っ、なんなんだあいつら――」
……彼らは逃げていた。
わけのわからない女たちだった。何故あの場所を知っているのかも分からなかったし、そこに入ろうとしている意味もわからなかった。
自分たちはただ、与えられた仕事をやろうとしただけだ。
――それで、この体たらく。
左右を見ると、同じようにズタボロになりながら敗走している仲間の男たち。
――くそったれが、今夜の予定は決まってる、自棄糞で最高の女を買ってやる、それからきんたまが痛くなるまでファックしてやる、どうせヘマをやらかした俺たちの未来は長くないのだ、だったら――。
「――待て」
そこで声がした。
……まさか。
また、あの女どもか。ぞっとするほど強い、あの女ども――。
彼らは怯えて、身体を硬直させる。恐怖で身動きが取れなくなったのだ。
……ゆっくりと後ろを振り返ると、硬質の足音が響いて、彼女たちの姿が顕になった。
結果的にいえば、あの女どもではなかった。赤いマフラーのガキどもでも。
――それは、メガネを掛けた女と、後ろに控える黒スーツの男たち。
「……あぁ?」
やや、安堵して。声を荒げる。
「なんだ、てめえら――」
そこで音がした。何かが突き刺さるような、甲高い音。
――かたわらで、倒れた。
仲間の一人が。
続いて前を見る。
黒スーツの一人が、銃を構えている。
ウォーターガンのようなふざけた形状をした銃。
「なッ――」
「『処理』を開始します」
男たちの声。
彼らはその銃を構え――撃った。
ひゅん、ひゅん。
ともすれば間抜けにも聞こえるその音とともに、仲間たちが次々倒れていく。
――首筋と、額を撃たれて。
「――!?」
死んだのか。こいつらは? いや、違う。
その証拠に、血が出ていない――一滴も!
冷静な思考はそこで終了する。周囲を見て気づく――孤立無援。
眼の前の男たちが、発砲してきた。飛来する複数の何か。弾丸ではない、もっと小さくて、まるで注射針のような――。
「ッ……!!」
男はテロドだった。
瞬時に身体を鋼鉄化させる。
『面』での攻撃には滅法弱いが、あんなしょぼい弾なら――。
「……へへ、効かねえよ」
――効果はない。何の効果も。男はニヤついた。窮地の中に差し込んだ希望――。
……だが、その瞬間には。
「ならば」
女が、目の前にいる。
対応しきれない――身体が重いからだ。女が駆け出して、目の前に。
――存外に、美しい顔だ。眼鏡を取れば、印象が変わりそうだ。
男は……瞬間、間抜けにも、そんなことを考えた――。
「『直接』注がせてもらう」
……女は、男に口づけをした。
両手で頬を抑えて、貪るように。
「――!?」
瞬間。男の脳内に火花が走った。
なにかを。
なにかを注入されている、唾液か何かが、女の舌から、自分の喉の奥に、目が合う、離れない、力が抜けていく、唇が離れない、そして、頭の奥が、しびれ、しびれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれれ――――――――、
「……」
彼女は唇を離して、糸を引いている唾液をハンカチで拭った。
それから立ち上がる。男は足元で気を失って伸びている――どこか恍惚の表情を浮かべて。
周囲にも男たちは散らばっている。皆、生きていた。
だが、ある意味で死んだとも言える。
「――記憶処理、完了しました」
「重畳。では、次の任務に向かう」
女は男たちに何の感慨も見せず、踵を返して、部下達と去っていく。
――目が覚める頃には、男たちの中から、あのおっかない女たち――第八機関と呼ばれる者たちについての記憶がすっかり消えてしまっているだろう。そして彼らは、それについて疑問すら浮かばないだろう。
ただ、あるのは――メガネを掛けたクールな美女に、舌を差し込まれる熱烈なキスをされたという曖昧な幻想のみ。
……彼女の唾液こそ、記憶処理の要であり――処理部隊の持つ銃に込められた力の源であることを、彼らは一生知ることはない。
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