#7 エンタングルメント
シトロエンDSに揺られて数十分。
車窓から見える景観は時が経つごとに変化し、やがて今まで見たことのない情景へと辿り着いた。
「……このあたりっスね」
キムの言葉で車が停まる。
「このあたり、って……」
グロリアが、露骨に顔をしかめる。
……その気持ちも、分からないではない。
薄暗い曇り空の下に広がっているのは、『壁のすぐ近く』という特異な状況だったからだ。
ここはLAホノルル・アベニューのフットヒル・フリーウェイ路上。バルラス・キャニオンにほど近い場所。周囲に広がるのは、ごく普通の街並みのはずだった。
……そう、はずだった。
今ハイウェイの外側に広がっているのは、荒涼とした廃屋の連なり。かつての街並みの形をそのままに、人々だけがすっかり居なくなっている。まるでデトロイトのごとく。路上に車が放置され、連なる棕櫚の木は腹部より上をすっかり枯れさせたまま孤独に立っている。街が……死んでいた。
そして、その奥、霧の向こうにぼんやりと見えるのは――『
ロサンゼルスと、それ以外を区切る壁。どこまでも高く続いているようで、視界から上は霧と影で隠れて見えない。だが――そのぼんやりとした空気のはざま、黒檀の壁面に浮かび上がるのは……紋様だ。
それは……幾何学模様を複雑に組み合わせた、幾重にも絡み合った蛇のような筋彫りで構成されている。壁にびっしりと刻印されている……隙間がないほど。古代の土器が、そのまま巨大な壁になったような……ひどく呪術的な代物。
スケール感を狂わせるその黒色が、ハイウェイの先にはっきりと積み上がっている。行く手を阻み、拒絶するように。
それこそが――世界の狭間。アンダーグラウンドの終着点である。
アウトレイス達はここから出られないし、出ようとした者は例外なくこの街の登録情報から姿を消しているという。ここを出入りするのは、ハイヤーグラウンドで許可を得た者たちに限られている。つまり、グロリア達は――一生ここから出ることはない。
「ここが……最果て……」
シャーリーが呟く。
視線の先でハイウェイは途切れていた。行き止まりの看板とともに。そして周囲には全く通行がない。だから、停車も出来る。周囲には誰も居ない。彼女たち以外誰も、誰も。
「……胸が苦しい感じがするでしょ?」
グロリアが聞いてきた。シャーリーはうなずく。
心臓から下の部分に、ひどい重圧を感じる。それは紛れもなく、霧の向こうの黒色から発せられている。そしてたちの悪いことに、彼女はそこから目をそらすことが出来ない。古代の呪いの人形を目の当たりにしているのに、その見た目が強烈に瞼の裏に焼き付いているような……そんな感じだ。
キムたちも表情は暗かった。今日一日で一番。
大金の出る(はずの)シゴトとあって、朝とは別人なほど元気ではあるが、それはそれとして、なんだかしおれている。
「あのクソッタレの壁からね、何か……あたしらのちからを抑制するような何かが発せられてるらしいのよ。だからこんなに吐きそうってわけ」
「そして……だからこそ、壁の周囲は誰も住んでないんス。文字通り、ゴーストタウンってわけっス。常に吐き気に苦しめられるわけにもいかないんで、ギャングさえ寄り付かないんスね」
「なるほど……」
キムが、車から降りて双眼鏡を目に当てた。
「そんな場所だからこそ――……アジトを作る意味があるってことっス。壁の影響が少なくなる、地下だからこそ」
皆がキムの周囲に寄ってくる。そして、一緒に覗き込もうとする。
「どこよ、どこよ」
「ちょっと、近いっス……ええと、この先本当は下に降りる道があるはずなんスが、あいにく壁でぶつ切りになってるっスからね……どうやって降りたものか……」
そこで――チヨが前に出た。
「簡単なことだ」
「えっ――」
皆が反応をよこす前に、彼女は行動に移った。
シャーリー達を抱え込み、足のブースターを展開。そのまま、ハイウェイから飛び降りたのだ。
「ええええええええええええええええええええ!!??」
チヨは無視する。
そして脚部を駆使。
落下しながら……着実に目標位置へ向かう。
スイスチーズのごとく抱えられたシャーリー達はことごとく悲鳴を上げていたが――一切取り合われなかった。
……それが、チヨという女の在り方だった。
◇
彼女は、途中で手を離した。
「ぐえっ」
「あたッ」
「うぐっ」
「……」
ということで、最初にダンボール箱の山に落下したのはグロリア。その次がキム、シャーリー。
最後に、するりと着地したのがチヨだった。
「……着いたな」
「ふざけんなッッ!!」
――当然、抗議の声が上がった。
「とりあえず……ここから接近しないと駄目っスね。皆、影に隠れてくださいっス」
路地裏から覗く、ゴーストタウンと化した街並み。まるでゾンビ映画のありさまだ。乾いた風が破れたビラやバナナの皮を運び去っていく。ショーウィンドウはホコリを被っている。ところどころにホームレスの老人が居る以外は、人っ子一人居ない。
「チヨあんたこのっ、いい加減にしなさいよ……いったぁ、絶対瘤ができたわ……」
「どうせ胸が守ってくれたろう。阿呆のようにデカいそれが」
「あんっな荒いしておいてそれはないんじゃない!? そういうあんたは絶壁の癖して――」
「しーっ!! ちょっと皆さんッ!! 隠れてっ」
キムの一声で、皆、建物の壁際に隠れた。
そこから、そーっとストリートをのぞく。
「何よ何よ」
「ほら、見えないっスか……他の建物は軒並みドアが開いちゃってるのに、あそこだけ施錠されてる」
キムがひそひそ声で指さしたのは、看板が剥げ落ちたダイナー風の建物だった。
確かにその通りだった。普通に見るだけでは素通りしてしまうが、よく疑ってかかればすぐにでも分かる異常。周囲に誰も居ないからこそ、スルーされるというわけだ。
「あそこが、その『穴』ってわけ??」
「その可能性は大っス。インフォ使って分かったのは『このあたり』ってことまで。後は……こっちの推測でなんとか」
「どうする? 突っ込む?」
「いやぁ、それは流石に――」
……――と、キムが言いかけたところで。
チヨはすでに、そこに居なかった。
「え――……」
視線を巡らせると。
彼女は、向かっていた。件の建物に……堂々と正面から。
「ちょっと何やって――」
「ああもう、しょうがないわね、行くわよ!!」
グロリアが頭をかいて、続く。頷いて、シャーリーも。
「余計な戦闘は避けないと何が何だか――」
「全員斬ればいいだろう」
チヨの声。遠ざかる三人分の背中。
――……まぁ、いつものことか。
キムは、それを見ているうちにどうでもよくなってきた。
そして肩をすくめて、物陰から飛び出した。
「……」
チヨが施錠されたダイナーの前に向かっていると、両隣の廃墟から人影がいくつか出てきた。
……いずれも巨漢。ブルドッグ顔の男や、全身にピアッシングをほどこしたテロド。全員で五人。銃器を持っているのが三人、後の二人がバットを持っている。
「おい嬢ちゃん……こいつがなんだか分かるか? おとなしく帰ったほうが身のためだぜ」
「何だってこんな場所まで来たんだ? そこの連れ合いもよ。ここにはなんにも――」
だが――チヨは聞いていなかった。
……後ろに控えている仲間たちも。
チヨは、一歩先に進もうとした。すでにその手は、カタナを抜くために動こうとしていた。
だが、そこで実際に動きを見せたのは。
「……お前――??」
シャーリーだった。
彼女は一歩進んで、一人の男の目の前に立った。
バットを持ったブルドッグ男の眼前に。
「おい、ガキ、聞いてンのか――」
……次の瞬間。
赤いマフラーがひらめいて、シャーリーの腕部が展開。男の顔面を殴りつけて、地面に叩き落とした。轟音とともに地面が揺れる。彼女の小麦色の髪が舞う。
「なッ――」
「あ……!?」
あっけにとられたのは。
後方で様子を見ていた、男の仲間たちだけではなかった。
チヨを含めた全員が――唐突に力を解放したシャーリーの大胆さに驚いていた。
「……」
シャーリーの表情は冷静だった。男は幾分か加減された上で地面に押し付けられたらしく、歯が抜けて白目をむいた状態でぴくぴくと震えている。ここから病院までどれだけ距離があるのだろう――……。
「て――」
時間が。
「てめえええええええ!!」
戻る。
状況を理解した男たちが、一斉に怒りをむき出しにして、シャーリーに向かう。
――その瞬間にはシャーリーは動いていた。
一斉に飛びかかってきた男たち。彼らの懐に潜り込む。流水のように、とまではいかなくとも……なめらかに。その時マフラーが目くらましとなり、彼らの視界を遮る、そして彼らは身体に鈍い痛みを感じる――次の瞬間には。
「ぐええええっ!」
一人目と同様に、地面に叩き伏せられている。
衝撃――弱い炸裂音。手加減。
キム達は、あっけにとられた。
「――奴め」
そんな中で。
チヨだけが、その動きについて理解していた。
――こいつ。儂の動きを真似している。それも、稽古の時の。それを実践に持ち込んで……。
――稽古してたな。一人で……。
そして、最後の一人。
「ひ……」
シャーリーが向かう。
「……ッ、このおおおおお!!」
男は、銃を構えて撃つ。
だが。
「――おりゃああああああああ!!」
シャーリーのほうが、早かった。
腕の『機構』が働き、側面から煙を吐く。同時に、先端部分がロケットのように直線に射出される。彼の銃を正確にぶっ飛ばす――そのままの勢いで急カーブ、軌道を空中で描きながら、彼の顔面を殴りつけた。
「ぎにゃあああーーーー!!」
そして彼も――叩きつけられる。同胞たちの地面に。
そこから数秒。
シャーリーは、意識を取り戻した男を揺り起こした。
ご丁寧に、かがんで、目線を合わせた。
「ひ…………!!!!」
男の顔が真っ青になる。
周囲の男たちは未だに地面で伸びている。孤立無援。それを理解したのだ。
「て、てめえら……!!」
「おはなし。しませんか」
シャーリーの影が、男にかかる。
「ドアの鍵を開ける話。しません?」
彼女の顔は――ぞっとするほどの真顔。そこに感情は籠もっていない。男は更に青ざめる。哀れなほどに。
「ふざけんな、俺たちはここを守るのが――」
「守るのが仕事だから、開けちゃったらひどい目に合う。なるほど、分かります。でもね、見てください、後ろ」
シャーリーは、チヨ達の姿を見せた。
……今の男には、彼女たちが――悪鬼かなにかに見えた。
「ボクのお願い聞かなかったら、後ろの人達がもっと怖い目に合わせると思います。でも、鍵を開ける『ぐらいの』ことだったら、バレないかもしれない。ボクのお願いを聞かないことで起きることは『確実』で、そっちは『かもしれない』ってレベル。どうします? 選ぶのはあなたですよ」
――有無を言わせなかった。
「ひ…………」
シャーリーは。そこで、にっこりと笑った。
男は――失禁をかろうじてこらえた。
数分後――男は、廃ダイナーの鍵を開けた。
「これでいいかよ!! クソアマがッ!!」
「ええ、ありがとうございます」
「ちくしょー、明日からどうしていきゃいいんだッ!! 死にかけの牛とファックしやがれ!! てめーら許さねぇからな!! クソが!! クソがーっ!!!!」
……遠ざかっていく声。
傷だらけの男たちは去っていった。
その他諸々も悪口雑言を並べて。
シャーリーは笑顔で彼らに手を振った。
「さて、皆さん行きましょう」
「おいちょっと待てい新人……あたし怖いんだけど。何今のやりくち」
「そんなふうに育てた覚えはないんスけど……こわっ。こわーっ……」
「えー。ひどいですよ。皆さんの見よう見まねなんですけど」
「あんな悪辣なやり口教えた覚えないっての。こわいわー、ハイヤーの奴はこわいわー」
「そんなこと言われても……ね、チヨさん」
そこでシャーリーは、チヨのほうを向いた。
「……なんだ」
「えへへ……」
「気持ち悪い。言っておくが修行はつけんからな。今のを見ても」
「ちぇー」
「ちぇーではない、たわけが」
「まーいーわ。とりあえず進むわよ、あんたら――」
そこで。
グロリアの視界を覆ったもの。
ダイナーの入り口の奥からいきなり伸びてきたもの。
赤と肌色のまだらをした、巨大なタコの腕のようなもの。
それが――リアクションが返ってくる前に、グロリアの方に飛来して。
「あ――!?」
彼女を、絡め取った。
「ファック――!!??」
そこで彼女が取った行動は、まぁ――咄嗟ながら、自然な流れ。
「ちょ、」
「わっ!!??」
「な――」
近くに居たシャーリーの手を掴み。そのシャーリーはキムを、キムはチヨを掴んで、数珠つなぎ。
それから。
「あああああああああああああ!!??」
その触手は、ダイナーの扉の奥へと勢いよく彼女たちを引きずり込んだ。
――そこには、悲鳴の残響だけがこびりついた。
◇
「うわああああああああ!!」
暗闇の中を、触手に絡め取られたまま落下していく。底抜けの奈落へと。
「どこまで落ちるんスかこれええええええええッ!!??」
「知らんっ!! グロリア!! 尻が邪魔だ!!!!」
「ちょっと、ああああああああ――…………」
そして。
◇
「…………――来たか」
空間の中で、彼は笑った。
闖入者達を歓迎すべく、盤上から顔を上げる。
――どのみち、もう目の前の男との勝負は終わったようなものだ。
随分と興ざめだった――。
◇
「っいてて……」
彼女たちは到着する。
尻もちをついた下半身をさすりながら立ち上がる。
「ここは……――??」
「っうぎゃあーーーー!!?? なんじゃこりゃああああああ!!」
そこで頓狂な叫びを上げたのはグロリアだった。何かを見て悲鳴。その何か、とは。
……足元の、ぶよぶよしたもの。声があってから、他の者達も気づく。
……周囲の地面や壁、その全てが……脳味噌の襞で覆われているという事実に。
――そう、今まさにグロリア達は到着したのだ。敵の狩場に。
「おげええええッ!! 何よこれ、何よこれえええええええッ!!」
「あたし達、落ちてここに来たンスよ……きもい……SAN値下がりそう……というかチヨさんよく平気っスね…………」
「斬れるものである以上、気味が悪いとは思わん」
「ぶ、ブレねー……というかシャーリーもなんで平気なのよ、吐きそう!!」
「いやあ、なんかこんなもんかなぁって」
「あんたがますます分かんないわ!!! きもい!!」
その脳味噌空間がどれほどの広さであるのかよく分からないが、彼女たちはぼんやりと理解する。目的地に到達した。してしまった――座標を送る前に。
ここが、件の男の空間であることはすぐに理解出来た。だが、脳が拒絶する。なんだ、この場所は。居るだけで気が狂いそうだ……もっとも、そう思っているのは二人だけだったが。
そこで、拍手が聞こえる。妙に空気を含んだ、湿っぽい拍手。
彼女たちは一斉にそちらを向く。
「――ディプスの気配を感じたと思ったので招待したが、まさか君たちのようなうら若き女性であったとは。これは、私も全力で歓迎しなくてはならないな」
同時に――天井のスポットライトがひらめいて、その声の主の姿を顕にする。
――『スキャッターブレイン』。その周囲の空間全てが彼であり、彼の頭脳そのもの。
タキシードを着込んだ小柄な異形が今、巨大な盤の向こう側で、うやうやしく言った。奇妙なまでに甲高い声――明かりは周囲の肉を、そのグロテスクな脈動と赤色をはっきりと鮮明に照らし出す。
「我が城へようこそ、諸君。楽しんでいきたまえ」
彼はこの瞬間――己の頭脳の新たな肥やしを、目の前の女たちに定めたのだった。
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