ピクチャーズ・オブ・ユー

 ミラ。

 その名を舌先で転がす。

 Mi・Ra。

 踊るようなその名前――僕は聞くたびに困惑し、憔悴し。

 雨が降った後の地面のような優しさに包まれる。


『こっちを向いて……そう、こっち』

『なに、そろそろランチにしましょう』

『もう少しだ……そう、その角度がいい』

『きゃあ、鳩が』

『それがいいんだ、動かないで。そう、そこ……』

『これが撮りたかったの? おかしいのね』

『良いんだ。最高の絵だ』

『本当に、変なんだから』

『君が一番よく知ってるだろ』


 ミラ。

 ファインダー越しの、君の笑顔。

 不純物を取り去った、ありのままの君。

 そこから、あらゆる君が見えた。

 そうやって笑う顔も、ちょっと怒った顔も。

 僕にとっては、何もかもが――。


『明後日よね、誕生日。あなたの』

『ああ――そうだったか』

『そうやって、簡単に忘れちゃうんだから。私から提案をさせて』

『提案?』

『プレゼントを受け取ったら、貰った側も何かを返すの』

『それ、君が得をしないか』

『良いの。それで分かるでしょう。互いが、互いを思ってるってこと』

『なるほど……そいつは確かに、素敵かもな』


 ひとりよがりではないことの、証明。

 君の提案は本当に魅力的だった。

 ――だけど。


 結局それは、実現されずに終わった。

 あるいは、終わろうとしている。

 ただの一度も。


 ミラ。

 君が一番よく知っている筈なのに。

 ――君は、肯定も否定も返してくれない。



「今日は、エヴァンズさんが特別に安くしてくれてね……これ、造花だけど……すごくよく出来てるだろ。これもエンゲリオの技術なのかな?」

「正確にはテロド。あなたはいつも間違える」

「ああ……そうだな、ごめんよ」


 そうして僕は、ベッドの横のチェアに座っている。

 綺麗な黄色の花。一瞥して、それが偽物であるという事実に飽きると、視線を移す。


 滑らかな白布の上。

 彼女は座っている。こちらを見ていない。

 魅力的なショートカットは消え去って、今ではただ野放図に伸ばされた長い髪があるだけ。

 あれほどころころと次々変わっていった表情は、ただひとつに固定されている。

 虚無のような、仮面のような無表情。その青い目は変わらないけれど、何も映していない。骨の奥まで見えてしまいそうだ。

 無機質な病院着を着せられても、不平一つ言わない。それはそうだろう、なんにも思っちゃいないのだから。


 そう――彼女は。間違いなくミラだった。

 十年前からずっと、それは変わらない。


「……あなた」

「なんだい、ミラ」

「目の下に隈ができている。寝ていないのね」

「……ああ。最近、ひどくってね」

「――そう」


 ……大丈夫、の一言もなしだ。

 ただ現実を詳察し、事実かどうか確認するだけ。


 それはそうだ。

 ……だって彼女は、



「……どういうことです?」


 その時の会話を鮮明に覚えている。

 我ながら、滑稽なほど取り乱していた。


「その、要するにですね。刺さったでしょう、彼女にも。あのナイフ状の物体が。それによってもたらされた変化、としか言いようがありませんな」


 レントゲン写真に映っていた異常。

 ああ――はっきりと分かる。素人目にも。


 彼女は、身体の奥底から作り変えられていた。


「脳の、感情を司る部位が……ああ、抽象的な説明になってしまいますが。今回ばかりは、そうとしか言えません。そこがですね。完全な機械に置き換えられてしまっているんですよ。要するに、超高性能な演算装置ですね。そのおかげで、彼女のIQというべきものは……常人のそれを遥かに上回るようになったのですが」


 なるほど、理解できる。

 ――なぜなら彼女は、目が覚めた自分を見つめている僕が何分前から泣き始めたのかを、正確に言い当てたのだから。


「それで……どうなるんです」

「記憶も理性も、以前のスペディングさんのままですが……感情、情緒の面は……もはや、戻らないと言っても良いでしょうな」


 もごもごとした口調で、医者は言葉を切った。


「そんな……」

 

 僕は脱力する。医者は葛藤しているようだった。

 だが、そんなことはどうでもいい。


「それで、ミラは……これから、あのままだって言うんですか」

「いえ……それが」

「では、いつかは――?」

「貴方の考えとは……逆に進んでいくと思われます。昨日と今日でも、僅かな『ビット数』の変化があった。つまり……彼女はこれから先、脳から始まって、到るところが……演算装置に、置き換えられて――」


 ……そこから先はよく覚えていない。

 ずいぶんな大立ち回りをやってのけた記憶がある。

 胸ぐらをつかんで、散々に罵倒し――能力持ちの看護婦に止められるまで、ずっと何かを叫んでいた気がする。最後のあたりは、情けない懇願に変わっていたんじゃないだろうか。


 とにかく、結論は一つだ。


 彼女は――ミラは、心を永久に失った。

 そして、その目に、僕が映ることはない。



「ミラ……」

「体重がまた少し減っている。今の私なら、その数値を一瞬で言い当てられる。必要?」


 そんなことを言って欲しいわけじゃなかった。

 ……だが、無碍には出来ない。

 何故なら、今日この日、彼女が言ったそれは……彼女の中の演算装置が、『この男は会話を望んでいる』ということを解き明かしたから。


 彼女は――淡々と数値を並べ立てる。

 僕はそれを、聞いている。

 僕は彼女を見ている。

 ミラはこちらを見ていない。

 一定の方向を、じっと見つめている。その先に何があるわけでもないのに。


 ……そんな日々が、続いている。

 ただ淡々と見舞いに来て、病院食以外食べもしないのに、以前の彼女が好きだったスイーツなんかを持っていく。ありがとう、と彼女は言うけれど、それは『こういう時は礼を言っていた』という過去データを参照しただけ。ただの、機械的反応。野暮ったい40絡みの男がスイーツショップに並ぶ気恥ずかしさを、理解してくれるはずもない――いや、あるいは、生理的反応として分析はしてくれるのかもしれない。


 僕は、すっかり何もかもがうまくいかなくなっていた。

 健康も、仕事も。なにもかも。


 彼女は自分を肯定してくれたりはしないが、追い出すこともしない。

 だから僕は、胸のうちに叶いもしない一縷の望みを抱いて、彼女の所にやってくる。そして、夢も希望もないおとぎ話を語って聞かせるのだ。


「この街がアンダーなんて名前に変わってからずいぶん経つけど……写真を撮られたい客っていうのは、本当に減ったんだ。みんな、変わっちまった自分の姿なんて撮られたくないんだろうな。この前なんか、おっかないモロウに殴られたよ」

「怪我をしたの」

「頬骨を、少しだけ。心配、してくれてるのか。ありがとう」

「今は大丈夫そう。良かった」

「……ありがとう」


 ……ありがとう。

 その言葉が、何の意味もなく僕の口から吐き出されるようになって、どれだけ経ったのだろう。


 僕の時間感覚はすっかり麻痺して、何もかもがセピア色になってしまっていた。

 モノクロ写真は好みじゃない。


 だから僕はもう――ミラを撮っていない。



 なぜ、自分が、ミラだけがこんな目に。

 何度かそんな怒りにかられて、柄にもなく大酒をかっくらい、大変な目にあったこともあった。

 だけど――日常は続いていく。形を大幅に変えたとしても。

 

 故に僕は、いつからか理不尽という言葉の定義について考えるのをやめた。運命、という大仰な二文字についても。


 諦観というプールに全身を浸しているかのような感覚。


 僕は……彼女に会いに行くペースを、少しずつ減らしていくようになってしまった。


 だけど。

 本当は。

 どれだけ、反応がなくとも。

 彼女を、見続けるべきだったんだ。




 ひどい酒を浴びた。

 久しぶりの客――屈辱的な仕打ち。

 乱れるには、醜態を晒すには、ちょうど良かった。

 そして僕は……その状態で、病院に行った。

 なに、問題ないだろう。

 眉をひそめるのはもう――彼女ではないのだから。


「なぁ、見てくれよ……このざまを。ははは、笑えるだろ」


 じきに、看護婦たちがやってくるだろう。それまでの間だ。

 僕は自棄になっていた。


 そして当然――彼女は僕を見ない。

 笑いも、しない。


「だんまりか。やっぱりそうだよな。そこで座ってるだけのお人形さんには、分からないんだろうな……僕の気持ちなんか……これだけ、僕が……僕が……」


 僕が、君を見ているのに。

 君はずっと、ある一点を見たまま動かない。

 そこに何があるっていうんだ。

 そこには、僕が居ないじゃないか――。


「くそっ! こっちを見ろ、見ろよっ!! なにか言ってみろよ、ええ、おい、罵れよ、拒絶しろよ! そんなことも出来ないのかよっ!!」


 乱暴に揺さぶられるミラ。

 だが、彼女は本当に人形だった。

 何の反応もかえさない。


 ――その時点で、彼女の『侵食』は進んでいたから。喋ることも不自由になっていたのだ。だから、押しのけることも、何も出来ないのだった。

 ……自分がこれだけ、叫んでいるのに。


 僕は虚しくなって、絶叫した。

 ――それにさえ、反応されない。


 ……やがて、看護婦たちが、医者たちがやってきて、僕を取り押さえた。

 そして、運び去った。

 ……彼女から、遠ざけていった。


 僕は、一人になった。



 ひどく雨の続く月だった。

 どこかの誰かが、この事態を引き起こしているらしかった。これだけ降り続いているのに洪水に見舞われないというのは異例らしい。だけど、そんなことも興味がない。

 僕は彷徨っている。10年前から変わり果ててしまった街の中を。雨の中を。

 ……まるでそこに、戻らない過去を探すかのように。


 おかしなやつだな、お前は。

 僕は自分で自分を責める。


 ――結局お前は、彼女を外面でしか愛していなかったんじゃないか。

 だから、写真越しで彼女を見ていたんだろう。今のお前はもう、今の彼女を愛していないんだよ。


 ――聞こえてくるその声にも、反論はしない。


 身体が冷たい。僕は何をしているんだろう。仕事もろくにしないで。

 ――ああ。

 このまま、死んでしまえたら。


 ……そんなことを考えた矢先、連絡が来た。


 ――ミラが。


 



 理解の範疇を越えていた。

 それは医者も、警察関係者も同様だった。


 現実感がなかった。

 彼女は確かに死んだ。

 しかし……ピンとこない。


 ああ――僕は本当に、彼女を愛していなかったのだ。

 心の底からは、決して。



 暗澹たる気持ちで、僕は監察医の話を聞いた。

 ……そこで彼は、面白いほど神妙な面持ちで――あるものを差し出してきた。

 彼は言った。


「……彼女が、手の中に握っていたものです。固く握られていたので、取り出すのが困難でした。死後硬直の範疇を超えるほど……強く、握られていました」


 そして……彼は、見せてきた。


 ぼろぼろの紙幣を。

 それが、彼女が病院から抜け出した際の、唯一の所有物だった。


 ――何故だ。

 僕の心は激しい混乱に襲われる。

 なんでそんなものを持っていた?

 今の彼女に、欲しいものなんて、もう何もなかった筈なのに。

 一体――ミラはそれで、何を手に入れようとしていたんだ?



 葬儀の時、誰も彼もが泣いていた。

 ああ――彼女は、愛されていたんだな。

 それが分かるだけでも十分だった。気がした。

 対する僕は、涙が出なかった。


 ずっと考えていたのだ――そのお金の意味を。




 ……その答えは、簡単だった。

 陳腐なほど、簡単な答えだった。


 気付かない僕が、どうしようもなくおろかで、バカで、身勝手だっただけなのだ。




 ミラ、君は一体――。


 僕は、君の居ないベッドの傍にいる。

 そこにいれば、君のぬくもりを感じられるかもしれないという、気色の悪い期待をいだきながら。

 そうして、君の横たわっていた場所に、へこみの名残がないかどうかを見ている。


 しばらく、あてどなくさまよう。

 それから、諦めがつく。

 なにもない、ここにはなにもない、もう――……。



 そう思って、顔を上げた。

 そこには。

 そこにあったのは。



 カレンダー。

 壁にかけられていた。


 それはちょうど。

 ――彼女の居たベッドから顔を上げれば、ちょうど見られる位置にあった。


 そして、その角度は。

 


 僕は、気付いた。

 心の均衡を失って、崩れ落ちる。


 僕は今や、その意味に完全に気付いていた。


 カレンダー。

 いつも、彼女が見ていた。自分ではなく、それを見ていた。


 それから、事故があった日。

 その日は、ああ――その日は。


 



「ああ、ああああああ」


 滂沱の涙。

 溢れて、止まらない。後悔と懺悔が背中から押し寄せて、駆け抜けていく。

 その場で崩れ落ちる。

 駆け寄ってきた看護婦の声も聞こえない。


 全てが、収まるべきところに収まった。


 ――彼女が、握っていたお金。


 ……かつての、『誕生日の約束』。


「僕は、君を……君を」


 ああ。

 ミラ――僕は。


 君を二度失った。


 そして。


 二度、君と出会ったんだ。




「あそこまで硬化が進んでいた彼女が……あれだけの行動を起こせていたことが奇跡なんです。テロドに関しては、我々もまだ分からないことが多く……」


 医師の話は、耳から通って消えていった。ただ座って、聞いているふりをしているだけだ。


 彼は、歯切れの悪い口調で、なおも続けようとするが。

 僕は、止めた。


「良いんです」


 本心からだ。

 もう、捨て鉢じゃない。


「いいんです。もういいんです、そんなこと。僕は」




 結局僕は、写真を続けている。

 胸にいつも――ミラの顔を浮かべながら。


「ああ……もう少し左に寄って」

「こうかい」

「そうそう。最高に色男だよ」

「言い過ぎじゃないか」

「そんなことはない。僕には、本当のあんたが見えてる」


 あの時の彼女が、どこまでのことを考えていたのか。

 僕が、どこまで彼女のことを愛していたのか。


 その2つについては、永遠に答えが出ないものだと思っている。

 だが――写真は残り続ける。そして、それを見て僕は、時折涙を流す。

 その塩辛さと生暖かさは、本物だ。

 十年前に、僕の身体も若干の変調を起こしたけど、肌と感覚神経は間違いなくほんとうの人間だからだ。

 街を行く連中に比べれば取るに足りない力だけど、構わない。僕の本分は、そこにはない。十年前から、同じ場所にあり続けている。


 写真は、現在と過去を、あいだの時間を飛び越して繋げ続ける。

 それがある限り、僕は撮り続けるだろう。


 そうしている限り、僕はいつでもミラに会うことが出来るのだ。


 まぁ、死ぬまでの数十年だ。

 そう長くはない。



 記憶が、感情がモノクロになるよりは、いくらかはやい。






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