第3章 シンギング・イン・ザ・レイン
前編
#1 ホワイ・ダズ・イット・レイン・オン・ミー?
目の前に、死にかけの男が倒れ込んでいる。
灰色の壁に、べったりと血がついている。
彼はそれを、無感情で眺めた。
間もなく、男は口からもごぼりと血を吐き出す。
白濁した目が、じろりと睨みつけてくる……やがては、何も見えなくなる。
「貴様、は……」
……言葉を継がせる気はなかった。
既に男の両腕が動かない状態なのをいいことに、ひどく散らばった部屋の中から枕を取り出し、投げつける。
そして、構える。
黒光りする自動拳銃。
もぞもぞと首を動かしながら、死にかけの男は枕から首だけを出して、言った。
「貴様は……呪われたままだ……どれだけ逃れようが……その道は血で染まり続ける……何を得ようとしても無駄だ……人並みの幸せも、何もかも……貴様には似つかわしくない……何も得られない、何も掴み取ることが出来ないのだ!! 貴様はッ!!」
――何も思わなかった。
何も感じ入ることはなかった。
なぜなら、全て知っていることだったから。
「俺で何人目だ……」
「さぁ」
構える。
「忘れたよ」
銃口を枕に押し付けて、それから放った。
男は一度ぶるっと身体を震わせたかと思うと、すぐに動かなくなった。
「……」
だらりと腕を下げる。
彼は何事かを考えようとする。
だが、やめる。思考は無駄にしかならない。
散乱した部屋に、一人の男の死体。そこかしこに撒き散らされたガラス。生活の断片。その中で、彼は佇んでいる。
……じわりと血の滲む枕から羽毛が吐き出され、あたかもその状況を祝福するように、彼の周囲を舞った。
◇
あれはまだ幼い頃。
私が、故郷のオーストラリアにいた頃。
私に一番近く、そして優しい位置にいたのはいつも祖父だった。
彼はやわらかな笑みを浮かべて、あの広大な大地の垣間見える涼しい夕暮れの中で、私の頭をなでた。私は抵抗しなかった。なぜなら、私のことを一番良く知っているのは彼だったから。
……その日私は、死にかけの小鳥を目にした。
でも、祖父には持っていかなかった。
――お願い、この子を助けてあげて。そんなことは頑として言おうとしなかった。
理由といえば。私にはなんとなく、分かっていた。分かってしまっていた。
この子は、どうあってもあと数時間で死んでしまう。だから、私や祖父が手を尽くしても無駄に終わるのだ、出来ることは、なにもないのだということを。
私がそのことを言って、祖父が頭を撫で終わると、私は不意に感情が抑えきれなくなって、ぽろぽろと涙を零し始めた。
その時の感情は一体何だったのだろうか、わからない。でも、何かとても罪深いことをあの小鳥に対してしてしまったかのような。そんな気持ちだった。
……すると祖父は、私をぎゅっと抱きしめて、それから静かに言った。
「お前は、この世界を見通す力を持っている。それは物事の本質を見抜き、それが大きな過ちをおかす前に気付かせることのできる力……なくてはならない力だ」
「その力によって、お前はとても大変な思いをし、またつらさを味わうことになるかもしれない。こんな力、なければよかった、と」
「――だが。それはきっと、いつか誰かを救い、手を差し伸べることのできる力だ。お前がお前であり続ける限り、その力は価値あるものであり続ける。だから……お前は、今日感じた気持ちを忘れないようにしなさい。そして、またいつかの日に……思い出しなさい。そうすればきっとお前は、更にもっと多くのものを守ることが出来るようになる」
祖父は、それからしばらくして、死んだ。
でも、私は悲しくなかった。祖父の言葉が、私の中で生き続けるような気がしていたから。
それから私はアメリカに渡り――米軍に入った。
それは、私が『理想』と『現実』の両方を見据えた上で、祖父の言葉を裏切らないための『選択』だった。
私の力で、多くの人を救う――軍なら、それが出来ると思った。
それから私は、狙撃手になり、そして、『彼』と出会って、それから……――――。
◇
「……ごめんなさい。ここまでよ」
円状に並べられたパイプ椅子。そのうちの一つに座りながら、ミランダ・ベイカーは言った。
周囲には、気づかわしげな視線。更にその奥には、薄明かりが広がっている。この空間には、彼らしかいない。
『セラピー』は次の人間に移り、またぞろ話が始まる。
そのはずであったが。
「あの……それだけ、なの……?」
座っている者達のうち一人がおずおずと手を上げて、そう言った。
大きすぎるメガネを掛けた、痩せぎすの気弱そうな女性だ。
「……」
ミランダは彼女の方を見て、申し訳無さそうな表情をして首を振った。
「あなたのお話、もっと聞きたいわ……――その、」
女性はかすれた声で追及する。
周囲に困惑と苛立ちが広がるが、女性はそれに気づくことが出来ない。気づけるのなら、こんな場所に居ない。
「……もっと深く、あなたの過去を知るべきだと思うのよ、私達、だから――」
「エヴァ。そろそろやめておかないか」
染み渡るような、低い男性の声が聞こえる。
――ちょうど、ミランダの向かい側、女性のすぐそばに座っていた男である。
みなが、そちらを見た。
何の特徴もない、ポロシャツ姿の、どこにでもいそうな男。年齢は30代ほど。だが、そこに背負っている影のようなものが……ここに居る全員と共通していた。
「あ、……イアン。ごめんなさい、私……」
途端に女性はおろおろと弁解を始める。そこに、『イアン』は静かに声を重ねる。
「責めてるわけじゃない。でも、これだけ言ってもらうことでも……かなりの労力だっただろうから……もう、良いだろう」
落ち着いた声である。聞いているだけで、心が静まっていくような。
女性はそれを聞いているうちに、自らを省みたらしい。
「そ、そうよね……ごめんなさい」
そう言って、黙り込んだ。
空間に安堵のようなものが広がり、やがて別の誰かが話し始める。
「……」
ミランダは彼の方を――イアンのほうを見た。
彼は、大柄の作業服を着た男の話を静かに聞いていた。
だが、視線はそこにはなかった。
まるで群れから外れた鳥のように、薄暗い闇の中を彷徨っているように見えた。
◇
古い商社ビルの玄関から、人がまばらに散っていく――雨のダウンタウンの中へと。
ある者は傘をさし、またある者は鞄を頭の上に載せて横断歩道を駆けていく。
「……ひどい雨」
ミランダは軒下で、ぽつりとそう言った。コンクリートの天井から、ぽたりと垂れていく雨だれそのもののように。
既に『セラピー』参加者の大半は帰路についていた。
残りは――二人だけだった。ミランダと、もうひとり。
「……」
イアンである。その遠くを見るような視線のままに、灰色の町並みを見つめている。
「……傘、持っていないの、」
ミランダは、静かに隣の彼に聞いた。
「近くのパーキングに……セダンを停めてる。それで帰るよ」
答えになっているような、いないような。彼は曖昧な表情のままそう返した。
「……そう」
だが、ミランダはそれ以上追及をしない。
二人はなんとなく並んだまま、雨を見ている。
それで、いつまでも時間が経過しそうだった。
「さっきは、ありがとう」
ぽつりと、また零す。
イアンが、返答する。
「あれが……彼女の『傾向』だとは分かっているんだが。ああいう場では、褒められたものではないから」
彼は口の端を少し曲げて、肩をすくめてみせる。
笑ったつもりだろうか。その割には、あまりにもぎこちなかった。彼は外の景色とまるで瓜二つだった。
「だが、セラピーなら……余計な口出しはしないで良かったかもしれないな。僕はお節介だった」
「それを言えば……このセラピー自体がどうかしているのよ。暗いし、ボロい。コーヒーの一杯だって出ない」
「参加している、僕らもかい」
「……そうかもね」
「……」
彼は、気まずそうに頭をかき始める。ミランダも、なんとなく傘の先端を地面で弄ぶ。
そのうち、外のどこかの店舗から、聞き覚えのある曲が、雨粒に乗って聞こえてくる。
僕は雨の中で歌っている
ただ、わけもなく
なんて晴れやかな気持ちなんだろう
「――雨は、好き」
ミランダが言う。
「でも、この歌は嫌い。まるで、雨が良いものかのように……聞こえるから」
「君にとっては……違うのか。雨」
イアンが、重ねるように返す。
ミランダは少し考えたあと、返事する。
「私が雨を好きなのは……辛い気持ちの時、そのままでいいと思わせてくれるから。だから……あの歌の歌詞は、クソくらえなのよ……少なくとも、私には」
イアンはしばらく黙り込んだあと。
答えた。
「……僕も」
ミランダは、彼を見た。
彼も、ミランダを見た。
「同じ、気持ちだ」
「そう……何かと気が合うのね。私達」
「ウィジャ盤でも、やるかい」
「それも、良いかもね」
ミランダは、影のように笑った。口元をほころばせて。イアンもそれに合わせて笑った。でも、本当に僅かに笑っただけだった。
――笑うのが、下手な人だ。
ミランダにとって彼は、いつもそうだった。
彼女が何かを言おうとした時……着信があった。
事務所からだ。悪態をつきたくなる気持ちを抑える。
「いつもの……仲間たちからかい」
「そうよ。大嫌いな、ね」
「いないよりは、いい」
彼はそう言って、少しだけ顔を背ける。
その言葉についてそれ以上は問うことなく、ふたりとも黙り込む。
雨の音が聞こえ続ける。ジーン・ケリーの陽気な声が、穏やかな水の音でフィルタリングされて、こもりながら聞こえてくる。
向こうは灰色。そしてここは、影の黒色。
その中で、会話が交わされる。
「……また、会えるわよね」
「……会えないほうが、良いんじゃないのか。お互いのために」
「ひどいわね……そんなこと言うなんて」
「僕は。ひどい男だよ」
「私は、ひどい女」
二人は、喉を鳴らして、笑った。
それから、軒先から、二人別れていく。
「じゃあ」
「えぇ」
後ろを振り返ると、雨の中を歩いていくイアンの後ろ姿が見えた。
まるで影のように、何にも特徴のない姿。
「イアン。……」
その名前を、舌先で転がした。それから、消えた。
間もなく彼は――多種多様な姿をした若いテロドの集団にまぎれて、見えなくなった。
雨の中――彼女は彼のいたストリートの場所を見つめ続けていた。
だが、やがて踵を返して歩き出した。
悪い夢でも見ていたかのように、あっさりと。
◇
『――というわけだ。お前たち三名で、訪問する大統領を護衛。即応可能な位置で待機しておくように』
「ディプスの介入はあるの、おっちゃん」
『おっちゃんと呼ぶな。グッドマンだ。 ……ゴホン。当然、あるものとして考えておけ。奴の目的は“混沌”だ。大統領という重大な位置づけにある人間を狙わないと考えるほうが不自然だ』
「ま、そうよね。不利な状況には慣れてるし、やれるだけやってみるわよ」
『フェイ・リー、キンバリー、チヨの三名が不在という状況だが……頼んだぞ。グロリア、シャーロット、ミランダ』
「はいはい。世界の危機が同時期に2つだなんて、まったく飽きないわね」
『……頼むぞ』
――以上が、その日のグッドマンと、第八機関のやり取りである。
雨音が窓を叩く。その音を聞きながら、3名はパソコンのモニターを見ていた。
「まったく、なんだってこの街にプレジデント閣下がおいでになるのかしら……ま、分かるけどね。あの女の目論見は」
グロリアが肩をすくめながらモニターから視線を外す。
「この街への取組みに関する対外的アピール、というところ、ですかね」
シャーリーが顎に手を当てて、真面目くさって言う。
「そーいうこと。あんたも分かってきたじゃない」
「わぷっ」
グロリアがシャーリーを羽交い締めにする。それから言う。
「ま、滅多にないツーマンセルでの仕事なわけだし、楽しんでいきましょうよ、シャーリー」
「げほっ、あの……」
「ん?」
「一人……忘れてませんか」
シャーリーの視線の先に、もうひとり。
「――……あー」
グロリアは途端に不機嫌になる。その存在のせいで、とでも言いたげだ。
「あーあー。忘れてたわ。あんたのこと。ミランダ」
「絶対わざとだ……」
シャーリーの小声は無視して、グロリアは厭味ったらしいしかめっ面をミランダに向ける。
彼女はモニターを見下ろしている。長い黒髪を、日本のスダレのように垂らしながら。外の暗さと雨音と相まって、何とも言えない雰囲気をたたえている。昔のポートレート写真のような。彼女のほっそりした体躯と相まって、それは美しいと言っても良かった。
だが、それも今この瞬間で終わりだと、シャーリーは思った。何故なら今彼女はグロリアの方へゆっくりと視線を傾けて、いよいよいつもどおりの舌戦が始まる――。
が。
しかし。
「――ああ。そう」
……実際のリアクションは、予想を大きく超えたものだった。
ミランダは、ただ一言それだけ言うと、薄明かりの中、窓を流れる雨と、どこかから聞こえるジャズに目と耳を傾ける作業に入った。
つまり、反応はそれで終わったわけである。
――あの、ミランダが。
グロリアの、煽りに対し。
グロリアと、それからシャーリーは、大きく顔を見合わせる。
それからグロリアは、窓の外を静かに見ている妙齢の女性――ああつまりミランダのことだが――に投げかける。先程よりも、悪しざまに。シャーリーは止めなかった。
「ちょっとあんた。何よその淡白なリアクションは。いつもみたいにキーキーわめきながら反論してきなさいよ。ぶっちゃけキモい!!」
「先輩、言い過ぎですって……」
「うるさい後輩。――こらミランダ、このっ……なんか言いなさいよッ!!」
とうとうグロリアは中指を突き立てながらそう言った。
するとミランダは――ゆっくりと……こちらの方を見た。
髪が、目線にかかる。その表情は、あまり伺えない。
「……それだけ?」
ぽつりと、ミランダはそう言った。
それ以上は、何もなかった。
「……!」
グロリアは、完全に毒気を抜かれてしまった。
「えっとあの、それだけです、はい……」
横のシャーリーはただ呆気にとられるばかりである。
ミランダは、そんな二人の様子を一瞥するも、それに対して何の感慨も浮かべなかった。
硬直する二人の横を、まるで滑るように通過する。
「コーヒー……買ってくるわ。もう、切れるでしょう」
それだけ言い残して、ドアへと手をかける。
そして、外へ出ようとする。
雨音が、より強まって室内に吹き込んでくる。
「あの……外、雨ですよ。傘、要るんじゃ……」
ガチガチのまま、シャーリーが首だけ後ろに反らせながら言った。
「ああ……そうね。ありがとう」
ミランダはそう言って、傘を取った。また、背を向ける。それから、ドアノブに手をかけて、ゆっくりと閉める。外に出ていく。
「あの。あたし用に、バカルディ買ってきて――」
「ちょっと先輩。どさくさに何言って――」
――バタン。
ドアは閉まり、鍵のかかる音がした。
外の音が不意に途切れ、事務所には、ドアに背を向けて固まる二人だけが残された。
「せ、先輩……あれ」
シャーリーが、一言こぼす。
「うーむ」
グロリアが顎をさすりながら呻く。
……彼女の結論は、ひどくあっさりと出力される。
「ありゃ男ね」
「えっ」
「他に考えられない。女がああいう顔をする時はね、いつだって男のモノを考えてるのよ。フロイトだかユングだかがそう言ってたわ」
グロリアは至って真面目くさった顔でそう言う。
「ええー……」
シャーリーは少しばかり引き気味である。
「あによ。あたしの推理に疑問でもあるわけ」
「いや、ミランダさんに限ってそれは無いんじゃないですか……?」
「あんたも大概酷いこと言ってるわよ……」
グロリアは不満げにソファに腰をおろして、テレビの画面をつけた。
新発売の女性下着のコマーシャルをやっていた。
鼻を鳴らしてチャンネルを変えて、外を見る。
……雨が、降り続けている。
そして、外を薄青色に染めている。
まるで、この街特有の喧騒そのものを包み込むように。
ミランダはストリートを歩く。その傍らを、雨に悪態をつきながら若い黒人の青年がずぶ濡れになって走っていく。車は相変わらず通りにギュウギュウ詰めになっている。広告も看板もショーウィンドウも、何もかもが雨のさざめきに装飾されて、一つの静寂の空間に包まれている。
その中を歩く、歩く。
――そんな彼女の表情は、彼女にしかわからない。
「……気に入らないわね」
グロリアが、呟いた。
「そんな、完全に私怨じゃ……」
シャーリーは突っ込もうとしたが、途中で口をつぐんだ。
そう言ったグロリアの表情が、いつになく真剣なように見えたからだ。
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