女神の背に、龍を彫った男の話。

 わたしの名はブルトン。かの偉大なシュルレアリストと同じ言葉の響きを持っている。

 彼と同じものを持っているわけではないが、今なら分かる――わたしは彼と同じ所に行こうとしていた。だからこの名は誇りだと言える。


 わたしは今、彼女の中に最後の放精をし終えたところだ。

 ――体の芯がぶるぶると震え、滑らかな蛭を思わせるその赤い肌を愛撫する。

 わたしにとっての永遠のミューズ……だが、彼女は俗物共の想像するような、安易な女神などではない。彼女はまさに、龍だった。

 そう、わたしは龍とともにある。わたしの全てとともに。


 いま、わたしはとても落ち着いた心地で居る。

 わたしはこの独白を書き綴ったあと、彼女とともに永遠に旅立つつもりだ。

 そうなればきっと、わたしが彼女に遺したものは天界に記録されるだろうから。

 ――あの忌々しい浮島をも超えた先にある、史上の世界に。


 わたしのかたわらで、赤い龍がか細く喘いだ。わたしはその肌を撫でてやる。

 すると彼女は再びぶるりと身をよじらせる。

 そのさまが、わたしを更に昂ぶらせる――。


 ああ、わたしはそうしてまた愛を紡ぐ。

 その間、きっとわたしは過去へ飛ぶ。

 この至上の心地へと至った道程へと。



 わたしの生業とは、ずばり『入れ墨師』である。

 その名前を肩書として背負っている者自体は決してこのLAでも少なくない。

 だが――わたしは奴らと違う。

 銃器と麻薬に溺れた連中にばかりその針先を突きつける、あの安っぽい連中とは。

 わたしは、芸術家だ――肌というキャンバスに、世界を創り出す。

 それこそがわたし。他の連中とはまるで違う。

 

 だが――そんなわたしの思いはことごとく裏切られる。

 わたしのもとを訪れるのは、どいつもこいつも下賤な輩ばかり。

 

 ――よお兄弟、良い腕してるんだってな。連中を威圧するのにちょうどいい図柄があるんだ……。


 ――アタシにイカすのを彫ってよ。男どもが、いきり立つようなさ。


 ……冗談じゃない。

 キャンバスは喋らないものだ。生活がかかっていなければ、誰がお前たちを相手になどするか。


 だが、強がれるのは心の中だけだ。結局わたしは日常に追われて、連中にくだらぬ落書きを彫りつけるだけだ。

 そのくせ、何も分かっちゃいないくせに、わたしの腕だけを一丁前に褒めそやす。

 ――お前たちに、芸術の何が分かる。何が、一体何が。


 ……わたしは悶々としながら日々を過ごしていた。

 酒と薬でドーピングしながら、張り付いた笑みで仕事を続けた。

 

 放棄することも出来ただろう。やめてしまうことも出来ただろう。

 だが、それでもわたしはやめなかった。手放さなかった、この仕事を。


 というのも、わたしには一つの野望があったからだ。

 その職務を放棄しないだけの、すがるものがあったからだ。


 きっかけは、わたしがリトルトーキョーに赴いた時。

 うらぶれた路地の近くにある古書店に、わたしは目が行った。

 その店の奥、埃にまみれたカウンターの奥にそれはあった。


 ……それは、とある絵だった。


 龍。東洋の龍。

 淡い色合いで描かれた、巨躯の龍だった。


 それを見た瞬間、わたしの全身を電撃が貫いた。

 それはわたしが初めて感じた、ほんとうの美というものへの陶酔の感覚だった。

 まるで、はじめて女の味を知った若者のように。

 わたしは――その龍に魅せられたのだ。


 そして、わたしは決意したのだ。

 いつか……わたしは、あの龍を――刻みつけてやる。入れ墨師としての全てを賭けて。

 あれを、肌というキャンバスの上に、いきいきと蘇らせてやるぞ――……!!!!



 わたしは仕事を選ぶようになった。

 決まった客しか取らないようになった。

 収入は大幅に減ったし、根も葉もない噂も広まった……わたしは貧困に喘ぐようになっていた。


 それでも、わたしは構わなかった。

 わたしのもとに、わたしの基準で選定した客が来るたびに、わたしの胸は高鳴った。


 ――あの入れ墨野郎、若くて上玉な女しか客にしねぇって話だ。変態野郎だな。


 馬鹿にするな。何も知らないお前たちに付き合うことをやめただけだ。

 わたしは……芸術に奉仕する崇高な使命を帯びるようになった。それだけのことだ。


 そう――わたしのもとに来るようになった客は、若く美しい女。

 街中の男たちが振り向くような女たちだ。

 絹のような肌と髪、瞳。歌うような声を持つ女たち。

 キャンバスとしては申し分ない素養を備えた者ばかり。

 わたしは彼女たちを作業場へいざない、そしてその身をわたしに委ねさせた。

 それから……仕事にかかる。

 頭の中に浮かべたあの美しい龍を、現実のものとするために。


 だが――少しずつ、違和感が生じてくる。

 わたしの中に、不満が募ってくる。


 違う。

 ……わたしが求めているのは。

 彼女ではない――彼女は、私のほしいキャンバスにはなり得ない……――!!


 それは、わたしが厳正に定めた戒律であり、不変の絶対条件。

 わたしの中にある美の基準。


 わたしのもとにやってくる女は、みな美しい。

 だが、誰も彼もわたしの求めるものを持ち合わせていないのだ。

 それに気づくやいなや、わたしは途端にやる気を失ってしまう。

 そして……龍を彫り込むことを諦める。


 ――素晴らしい出来ですわ、先生。

 ――ありがとう、本当にありがとう。


 絶えない笑顔、洗練された所作……周囲の人々を惹きつけてやまないパフォーマンス。


 そう――彼女たちは、内面までもが美しすぎた。

 誰もが羨む女たち。

 それは、わたしにとっては不純でしかない。

 キャンバスは、キャンバスでしかない。

 キャンバスは――……美麗秀句を紡がない。



 結局そうだ。

 内面は、外面に追従する。

 わたしも所詮――あの龍の絵に、後追いで気付いた人間だ。あれを描いた側には回れない。

 わたしはどうしようもなく人間だからだ。

 だからこそ、わたしの求める条件など永遠に訪れぬことを知ってしまっている。

 わたしの欲しい女など、永遠にやってこない。

 永遠に、永遠に――。


 わたしは絶望し、この仕事をやめてしまおうかと考えた。

 すべてを捨てて新しい人間になったほうが幸せだと思ったからだ。


 ああ、そして。思ったのだ。

 ……それさえもかなわぬのなら。

 どうか、わたしを。


 あの絵とともに在れるような、人間でない何かにしてくれる何かがやってきてくれ、と。


 ――そこからは、知っての通り。


 神が――あるいは、悪魔が、気まぐれを起こして。


 空から、幾千のナイフを降り注がせたのだ。


 それは例外なく――わたしにも突き刺さったのである。



 はじめのうち、わたしはその力が何を意味しているのか分からなかった。

 何も変わらなかったからだ。


 わたしは相変わらず、仕事を続けていた。

 街の混乱が落ち着いてから数年、根気よく、根気よく。

 何も分からずに愛想よく去っていく女たちに作り笑いを受かべて送り出す。

 何度もそれを繰り返す、繰り返す……。


 ああ、ディプスよ。

 あなたは、わたしに痛みを与えた。

 だが、それが本当にただの痛みであったのなら。

 あまりにも残酷な責め苦ではありませんか――……。


 わたしは、ほとんど絶望しかかっていた。

 だが、ある時――転機が訪れた。



 それは、わたしがあてどなくストリートの路地を歩いていたときだった。

 一人の女が走っていて、その後ろを中毒者のような薄汚い身なりの男が追いかけていた。

 ひどい目つきだった。

 それからの顛末は、よくある話だった。

 ……女は男に捕まって、衣服を剥ぎ取られ……泣き叫ぶままに、強姦された。

 混じり合う悲鳴と、粘液。男の欲望の律動。

 よくあることだ。この街では、あまりにもありふれている。

 故に、わたしは無視を決め込んだ。

 わたしの芸術には、何も関係がない……ここに居ても巻き込まれるだけ。わたしは、去ろうとした。


 だが、男が欲望を放出し終えて、泣き叫ぶ女を黙らせようと手に持ったナイフを振りかざした時、わたしは『それ』に気付いた。


 その瞬間――わたしには見えたのだ。

 男のナイフが描いた軌道がどこに命中し、いかなる効果をもたらすのかが、はっきりと。

 それはある種の未来視であり、混沌の中にひらめく一瞬のまたたきであり……説明の出来ないことだった。

 だが私ははっきりと分かった。思わず、こころのなかで呟いていた。

 ――『その一撃では、女は殺せない。そこから2・5インチ左と、1インチ右に、それぞれ一回ずつ突き刺さねば、相手は死なない』と。

 奇妙なまでに分析な、科学のレポートのようなつぶやきだった。自分から漏れた声だとも思わなかった。

 なんだ――今のは!? まるで……まるで。

 死の線が、見えるようじゃないか――……!!


 ……男はその後、わたしの予想した箇所を大幅にそれた状態で女にナイフを突き刺し、それを数度繰り返した。

 十回ほど女にナイフを突き刺した後、ようやく相手は押し黙り、永遠の眠りについた。


 ――男がその場から逃走したことも、女の死骸が見るも無残な姿に成り果てていたことも、わたしには見えていなかった。

 わたしに見えていたのは、あの奇妙な感覚だけだった。


 わたしが『死線』を視るようになったのは、それからだった。

 道行く者達の身体。

 そのどこを切断してしまえば、死に至らしめることが出来るのか。

 まるで赤外線スコープで覗き込んだかのように、はっきりと分かるようになった。


 そして。

 ――わたしが、それを『仕事』に使えることに気付いたのも、そこからすぐだった。



 わたしは狂喜した。

 ついに――ついに、わたしはあの龍を創り出す事が出来る!!

 わたしの選んだ、キャンバスの上に!!



 そう。わたしのこころは、とっくに人ではなくなっていた。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 あの龍に魅せられた日から、わたしを縛るものは何もなくなったのだから。



 わたしは丹念に女を吟味し始めた。

 わたしが龍を刻みつけるに相応しい女を――最上の女を。


 そして、とうとう見つけた。

 ……わたしは、笑顔いっぱいで入店してきたその女を、丁重に迎え入れた。


 わたしがその女の背中に刃を突き立てたのは、彼女が背を向けた直後だった。

 そこに、死の線は見えなかったからだ。


 ――女はギャッと悲鳴を上げて倒れ込むと、じたばたともがきながら状況を知ろうとあがいた。

 それからわたしを見ると、信じられないというような視線を投げ寄越す。コンマ数秒後それは恐怖に変わる。

 噴き出す血とともに叫ぶ。

 わたしは彼女に馬乗りになる、容赦なく突き刺す、突き刺す。

 血が噴き出す。濃く、黒いどろりとした血。その色であるうちは、まだ大丈夫だ。

 彼女は死なない。わたしは知っている。

 

 しばらくして、彼女はぐったりと動かなくなる。

 生きてはいるが、抵抗する気力を失っているのだ。

 ぴくぴくと小刻みに震えながら、死に向かっている。

 だが――大丈夫。

 わたしが死なせない。

 龍を、君に描きつけるまでは。



 そこから私は本番の作業に向かった。

 一番小さな針とノミを選んで、彼女の肌を少しずつ削り取っていく。麻酔はなしだ、瑞々しさが失われる。

 ――彼女が絶叫する。

 だが、わたしは知っている。わたしには死の線が見えるから、どこを斬れば死なないか、はっきり分かる。

 わたしは気にせず作業を続ける。

 彼女の肌を削り続けていく。その肌は徐々にてらてらとした赤みを帯び、血が滲んでくる。

 じたばたともがく彼女も、テロドとなったわたしには抵抗できない。

 わたしは削り続ける。

 それは、今までで一番根気のいる仕事だったが、同時に一番やりがいのある仕事だった。

 

 ああ――まさにわたしは、芸術に奉仕している!!



 外面と内面を限りなく薄氷のように近づけるには、そのどちらも判別できないようにするしかなかった。

 そう――キャンバスそのものを、龍にするしかなかったのだ。



 舌を削げば声がなくなり、目を斬り裂いて臭い液体と黄色い汁を絞り出せば、更に平面に近づく。

 その不必要な盛り上がりをそぎ落とせば、更にキャンバスとして完璧になる。わたしは作業を続けた。

 それは、わたしの人生の中で――最も至福に溢れた時間だった。



 そして今。

 わたしは、完全なる龍を眼の前に顕現させた。

 肌色に包まれていた、やや太めのシルエットは、今や剥き身の赤色だ。血管が青いコントラストを創り出し、

 古書店で見た色合いに完全な一致を見せている。瞼を完全に剥ぎ取られ、新たに与えられた目は爛々と輝いている。

 舌はだらりと引き伸ばされ、凶悪なあぎとのようなフォルムを創り出す。固まった血は一つ一つ肌に張り合わせて、鱗のように見せている。

 割かれた腹の中から出た臓器は背びれに見立てられ、髭は髪から引用した。

 なかなか骨が折れる仕事だったが――間違いない。それはわたしの一番の傑作だった。


 龍は完成した。それでいて、未だに死んでいない。息をしている。

 わたしでなければ聞き取れないほどだが――確かに生きている。

 生ける芸術――わたしの目指したミューズ。

 今まさに、わたしの目の前に現れた。

 他ならぬ、わたし自身の努力によって。



 何度、龍と交わったことだろう。陰と陽が一つになる。彼女がびくりと体を震わせて、赤色を滲み出させるたびに。

 だが、何度やっても終わらない。願わくば、このまま――……。



 そこで、冷水を浴びせられる。

 ――……玄関の、チャイムが鳴ったのだ。


「すいませーん、アルファ・ピッツァですけどー。ご注文の品を届けにまいりましたー。シャーロットでーす」


 若い女の声。


 ……駄目だ。

 頭の中が急激に冷え込んでくる。

 

 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ――……。


 わたしの芸術は門外不出。

 バレてしまえば、世間の目にさらされてしまえば、それだけで全てが褪せてしまう。


 あの若い女がここに入ってくればどうする?

 わたしがそいつを殺すのが速いか?

 奴が銃を持っていればどうする? そうなればどうする?


 それだけは阻止しなくては。それだけは……。


 ……だが。


「うわっ……これ同じ建物って書いてあるけど違う場所じゃない……何やってんのさ、アンダーグラウンドいいかげんにしろよ……

すいませーん、間違えましたー」


 ――女は。

 遠ざかっていった。玄関から離れていった。

 永遠に、いなくなった。


 ――……はは。


 ――…………はははは。


 はははは!!


 はははははははは!!!!


 やったぞ!! バレずに済んだ!!

 やはり最後に勝つのはわたしだ、より純粋な者こそが最後に勝利を手にする!!

 半端な正義感など塵に等しい、芸術が勝ったのだ……。


 わたしの心は勝利に満たされた。それこそが全能感だった。


 それは同時に――わたしが、永遠へと旅立つ準備ができたことを意味していた。



 そうして、わたしの独白は終わる。

 わたしと、龍の死とともにすべてが完成する。

 ……その艶めかしい身体にぴったりと寄り添う。

 彼女は未だに震えている。

 大丈夫、だいじょうぶだ、怖くない。この毒薬はよく効くんだ。これを呷るだけで、何のしがらみもない世界へと向かうことが出来る。

 だから――さぁ、龍よ。ともに逝こう。



 わたしの名はブルトン。それはただの、どこに居る名前に過ぎなくなる。

 もう間もなく。

 ああ――鈍い痛みがやって来た。意識が消えていく……。

 そうしていなくなる。


 私。

 私――。


 …………私!!


 ワタシハ リュウニ 奉仕 シタ …………。





 20XX年 4月26日 遺された手記より。

 近くには発火目的と思われるガソリンが撒かれていたが、肝心の火種がどこにもなかった。

 

 きっと、忘れていたのだろう。

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