老水夫行

 十年前。

 男は、目の前で溺れる少女を助けられなかった。

 ただそれだけのことが、男の在り方を大きく変えてしまった。

 だが、知る者はそう居ない。



 世界のすべてが静止する魔法の時マジックアワー


 何もかもが橙色のまどろみに照らされ、ゆるやかな眠りを誘う暖気を運ぶ。

 海沿いの道。寂れた店が軒を連ね、棕櫚の木がけだるく葉を揺らす。

 歩く人々は、誰も彼もが顔に疲労をたたえながら、その日のことを――あるいは、明日のことを考えている。


 どこかで、陽気なラジオ番組の声が聞こえる。それは場を支配している雰囲気にはそぐわない、明るすぎる声。

 だがそれもさざなみのノイズにかき消され、ロー・ファイになっていく。


 世界は、十年前から変わった。

 だが、この魔法のような時間だけは、永遠をその場に刻み込み、かつての日々を人々に思い起こさせるのである。



 ちゃぷり、ちゃぷりと。

 波が、ミニマルな音色を立てる。

 男はそれに傾聴するまでもなく、ただその音とともにあった。


 白いきらめきが散りばめられた海の上である。男の半身は、とろけそうな橙の光とは裏腹に、色濃い影で覆われていた。

 そう――彼は今日も、一人で海に来ていた。

 使い古された、いつ沈むともしれないボロボロの小舟とともに。


 

「お父さん。今日も潜りに行くの」


 伏し目がちに、娘は戸口でそう言った。

 潮風で、彼女の長い髪がさらさらと流れていたのを思い出す。


「お前には、関係ない」


 それから、ポーチを降りて家を出ようとした時。

 まるで喪服のような黒い服を着た娘が言葉を投げかけた。


「そんなことをしても。あの子は戻ってこないのよ」



 ――うるさい。

 言葉が耳にこびりついて取れない。


 そこから逃げるように家を出たことを思い出す。

 男は苛立たしげに頭を振る。

 潮に浸かり続けた髪はごわごわになり、その色は褪せた灰だった。


 ――十年間で、実年齢にそぐわぬほど老け込んでしまった。

 だが彼にはどうでもよかった。

 これから行うこと以外、何もかもがどうでも良かった。


 間もなく彼は、腰に長縄を括り付けた状態で、海に飛び込んだ。

 目の前いっぱいに泡が広がって、かもめの声も、曳航する漁船の音も、届かなくなった。



 海の中は無音の世界だ。


 そしてそれは、眠る直前の、あの心地よい静寂の世界に似ている。

 陽の光がまるで帯のように差し込んでくる、冷たさの中にほんの少しあたたかさの混じる水。


 その中を、老体に鞭打って潜航していく。

 どこまでも、どこまでも。

 ――彼の行動を邪魔するものは何もない。泡以外には何もない。

 オレンジ色の空間の中、彼は眠りを旅するように泳いだ。


 下へ、下へ。

 ……彼の口が、少しだけ持ち上がる。


 心の芯で、実感が湧き上がってくる。

 ――何故だろう。

 今日こそは、うまくいく気がする。

 結局、いつもそんな風に思っていて、失敗するのだが。

 今は関係なかった。



 ――ああ、生きている。




 夜は突然にやってくる。

 酩酊する男の上に、冷水をかけるように。


 ……寒い。

 男が船の上に戻った時、全ては藍色に染め上げられていた。


 その日は、星さえ見当たらない夜空だった。


 彼は身を震わせながら、帰る準備をした。

 せざるを得なかった。目的を達成することは出来なかった。


「くそっ」


 男はそこで、拳を木の船底へ叩きつける。

 ささくれた箇所に皮膚が当たって、血が飛び散る。痛み。

 それでもなお、何度も何度も、叩きつける。


 ――無音。

 男の行動を止めるものも、声もない。


「くそっ、くそっ」


 とめどなく。男の口から激情が吐き出されていく。


「くそっ、くそっ……くそったれ!」


 ――苦しみもがき、溺れていく白い服。

 そのあたたかな、小さな手……。


 ……それからしばらくして。

 男は無言のまま、船を陸地へと滑らせていった。

 その日の行動は、終わった。


 ――今日も失敗に終わった。

 少女は、見つからなかった。



「いい加減にしてよ、お父さん」


「……」


「あの子は死んだの。もう戻ってこないの」


「……お前には関係ない」


「関係あるわよ。私にもお父さんにも今がある。だから、受け入れて――」


「それはできない」


「どうして。今この瞬間のことはどうでもいいっていうの。これからも、過去の中で生き続けるっていうの?」


「――うるさい」


「……ッ」


「……すまん」


「……――もう、こんなことやめてよ。きっとそれが、運命だったのよ」


「もう遅い。お前は寝なさい」


「お父さん、お父さん……」


「……」



「お父さん」


 背を向けた男に、その声がかかった。

 彼は無視しようとしたが、思い直して、娘に向き合った。


「なんだ」


「今日も、行くのね」


 分かりきったことだった。外ではとっくに潮騒と橙が彼をいざなっていた。

 ゆえに、それ以上とりあう気はなかった。

 眉をひそめたまま、あらためて背を向けようとする。


「……お父さん」


 再度、声がかかる。

 無視して進もうとした。彼の心はとっくに、あの輝く粒がいちめんに広がった、永遠とも思える十分間の海の上にあったからだ。

 しかし。


「あなたがやろうとしていることは。私のお母さんが死んだことよりも、大事なことなの?」


 ――その言葉が、銛の先のように心に食い込んだ。


「……っ」


 潮風のにおいがした。

 彼は逃げ去るようにして、家から出ていった。


 その場には、娘だけが取り残される。

 憂いの滲んだ瞳をたたえ、細腕で身体をかき抱く娘だけが。



 ぎゃあぎゃあとうみねこが囃し立てている。


 風が叫び声のように聞こえてきて、いつもよりにおいの強い潮を運んでくる。

 波は荒れて、古い小舟を何度も白い飛沫の合間にひた隠しにしようと企てる。


 その中で男は船体にしがみつきながら、『準備』をしていた。

 船体が揺れる。頭がくらくらする。手先が震えて、思うようにはかどらない。


 黒い影が、幾つも頭の上を通り過ぎた――忌々しい鳥どもだ。こちらの気も知らないで。はやく小魚を捕まえるだけ捕まえて、どこかへ消えてしまうがいい。

 自分の海を、汚すものよ。永遠に居なくなれ。


 ――そこまで頭に浮かんで、彼は、自分がこれまでにないほど心乱れていることに気づいた。

 それは、柄にもなく酔いの回った状態とともに、大変な不快感を運んできた。


「……っ」


 髪をかきむしる。雑念を、ふるい落とそうとする。

 だが、うまくいかない。うみねこどもの声は、彼を嘲るようにして、より大きく、何重にもかさなって空を覆っていく。


「くそっ……」


 娘の顔が浮かんだ。

 ――十年前から、ほとんど笑ったところを見たことのない娘の顔が。

 そして、その小さな口から発せられる言葉が。


「今更、なんだと言うんだ」


 そう言って、苛立ちを船体にぶつけた。また、拳が痛む。


「もう、引き返せるものか」


 雑音が響く。悪寒が身体を貫く。悲鳴を上げている。どこかで、陸に戻りたいと叫んでいる。

 現在に戻りたいと、告げている。

 ――そうはいくか。そんなことが、許されるものか。

 自分は、自分は…………。


 彼は何度も、余計な考えを投げ捨てようとした。これからの行動に関係のないものを全て捨てようとした。日々の暮らし。朝起きて寝ること。

 そんなものはもう要らないはずだった。なのにどこまでも、自分の内部に食い込んでくる。

 純粋さが毒であるというのなら、自分は何故生きているのか。

 苛立ちが重なって、彼はますます準備に手間取っていく。

 ――そしてついに、その憤激が頂点に達しようとした時。


 ……波が、その激しさを失った。



 彼は何が起きたのかを理解できないまま、周囲を見渡した。


 先程まであれほど海の上を滑っていたうみねこ達が、一斉に居なくなっていた。

 その声も聞こえない。


 一つの生き物のように暴れ狂っていた波の全てが、消えていた。

 今はただ、穏やかなまどろみの中で、消えかけの陽光をはらみながらたゆたっているだけ。

 

 時間が停まったかのようだった。

 何もかもが元通りになっていた。

 何もかもが、彼の求める世界となっていた。


「なんだろう、これは――」


 そう呟いて彼は、帆先を見た。



 ……一人の少女が、その場所に佇んでいた。



「あ、あ……」


 彼は全身から力が抜けていった。自分の目に映るものが信じられなかった。だが、そこから視線をそらすことも出来なかった。

 震える手を伸ばすと、その先に、居るのがわかる。


 ……白いワンピースを着た、幼い少女。


 あの日の少女に、驚くほど似ている。

 あたたかな光を浴びて、その存在自体が幻であるかのように、その場に居た。風で、髪がそよいでいる。


「会いたかった」


「あ、あ……君は」


「ずっと、会いたかった」


 ――ありえない。

 彼は叫んだ。


 ありえない。だって君は、あの時。

 あの時に……――。


「……ううん。いいの」

 彼女は、そっと、座り込んだままの彼のもとに近づいた。まとわる影が、ゆらめいた。


「今まで、頑張ってくれて、ありがとう」


「君は、何を――」


「でも、もういいの」


 そして彼女は、男に口づけをした。


「これで、すべてがあるべきところに還るのよ」


 間もなく、大きな波音とともに、少女は海中に没した。


 ――男は、後を追って飛び込んだ。



 視界を覆う泡が鬱陶しかった。それはまるでこれまでの悔恨のように彼にまとわりつき、呪詛を吐き連ねていく。


 ――彼女を殺したのはお前だ。

 ――それなのにお前は生きている。

 ――生き続けている。のうのうと。


 ああ、鬱陶しい。鬱陶しい。

 分かっている、そんなことは分かっている。だからこそ自分は彼女を探してきた。

 十年間、ずっと。

 海の中をひたすら探し回った。しかし、骨のひとつさえ見つからなかった。

 あるいは彼女の存在など、最初から幻だったのかもしれないと、自分を慰めたこともあった。


 だが、そんなことはなんの意味もなかった。

 自分の目の前から少女が消えたあの日の時点で、全てが変わってしまった。

 他の何もかもを信じられなくとも、それだけは確かな真実だった。


 そして今――少女が、現れた。

 あの日と変わらぬ姿で。


 やっと出会えた。

 やっと、すべてが終わる。そして、始まっていく。

 やっと、過去と向き合うことが出来る。


 ――衝動のままに、男は泡をかき分けて潜っていった。

 それから、すべてがあらわになった。



 差し込んでくる光の中で、少女は身体を波打たせて沈んでいた。笑みを浮かべたまま、ゆっくりと、ゆっくりと。


 時折小さな魚の群れが彼女の傍を通って、銀色の鱗の色を移して通り過ぎていく。モザイク状の光と、帯の光。

 それらすべてをやわらかなオレンジ色でくるんで、一つの無音という音楽の中で浮かび上がらせる。


 ――知っている、海だった。そこに彼女が居た。


 奇跡のような、光景だった。

 彼女は笑っていた。

 あの、苦しみ、もがいていた時とは違って。

 ゆっくりと下降していく。どこまでも、どこまでも。

 天を泳ぐように。

 海底の虚に向けて……茫漠と浮かぶ、複雑な灰色の世界に向けて。


 そこにはすべてがあった。

 男の求めているすべてがあった。

 彼は過去を見ているのではなかった。

 もはや彼は、過去とともにあった。

 時間は永遠となって静止していた。とても心地よかった。


 少女は、微笑みながら手を差し伸べてきた。

 男は、ゆっくりと彼女に近づいて、その手をとった。

 ゆらめく白いスカートが、とても美しく見えていた。


 彼は気付いていなかった。

 彼の顔は、十年前に若返っていた。

 知っていたとしても、どうでもよかった。

 彼の中からはもう、少女以外の全てが消え失せていた。

 限りなく、純粋に近づいていた。



 少女が、口から泡を吐き出して何かを言った。


 男は――十年前の男は、セピア調の静止した海の中で、静かに、微笑みながらうなずいた。 


 海はどこまでも静かで、凪いでいた。

 そこにすべてがあり、どこにも行かなかった。

 それだけで――ああそれだけで、十分だった。


 間もなく彼は縄を切って、少女とともに海底に沈んでいった。

 彼の存在を伝えるものは、輝く海面に立ち上っていく泡の群れだけだった――。





 波の音が窓の外から聞こえる。

 娘は椅子に座り、その音を、聞きたくもないのに聞いていた。憂いがちに目を伏せながら。


 ドアのベルが鳴った。

 ――それから間もなく、彼女がやってきた。


 身体を濡らした、白いワンピースを着た女である。

 随分と若く見えるが、見た目ほど若くないことを、娘は知っていた。


「込み入った状況をほしがるのね、あなたの父親は。演じるのに、ここまでしなきゃならなかった」


 女は肩をすくめて、娘を見た。娘は、女をほとんど見なかった。

 ……机に、小銭の入った袋が投げ出される。


「それを取ったら。はやく出ていって」


「あら、冷たいのね。あなたの依頼なんだから、もう少し感謝してくれてもいいのに」


 女は肩をすくめて言った。


「出ていって。もう二度と、顔を見たくない……薄汚い妖精フェアリル


 言われた女は、反論をしなかった。ただ、その整った顔に、どこか厭世的で皮肉な笑みを浮かべただけ。


「それにしても」


 袋をとって、女は言った。


「随分とあなたも優しいのね…………夢を見せたまま死なせてあげたいなんて」


「……うるさい。帰って。今すぐ、帰って」


 女はそれ以上、何もしなかった。

 ため息をひとつだけ零して、背を向ける。

 それから乾いたベルの音とともに扉を開ける。

 最後に、たった一言残して。


「はやく忘れたほうがいいわ。じきに、夜が来る。私達にはね、『今』しかないのよ」


 女は、出ていった。

 あとには、娘だけが残された。



 喪服のような黒いドレスを身にまとったまま、娘はひとり、波の音を聞いていた。

 その下に広がる景色を夢想したところで、誰に届くわけでもない。

 中身を飲み干され、空になったグラスの光が、乱反射して室内に染み渡る。生暖かい光。

 しかし、娘の後ろには、どこまでも暗く冷たい影。コントラスト。


 彼女は涙を流すこともしなかった。

 じきに、空に藍色が混じるだろう。そうなれば魔法は解ける。全ては再び動いていく。

 いつもと変わらないように。


 ……数分後。

 彼女は、波打ち際と浜辺の見える窓際から背を向けて、去っていった。


「夢を見ることさえ許されないのなら。私達、何のために生きているの。誰か、その答えを教えて……」


 その言葉に答えるものは、ついにあらわれなかった。


 それでも波の音だけは、名残惜しげに、いつまでも彼女の耳の奥に響き続けている。



 ――あの日と、同じように。

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