老水夫行
十年前。
男は、目の前で溺れる少女を助けられなかった。
ただそれだけのことが、男の在り方を大きく変えてしまった。
だが、知る者はそう居ない。
◇
世界のすべてが静止する
何もかもが橙色のまどろみに照らされ、ゆるやかな眠りを誘う暖気を運ぶ。
海沿いの道。寂れた店が軒を連ね、棕櫚の木がけだるく葉を揺らす。
歩く人々は、誰も彼もが顔に疲労をたたえながら、その日のことを――あるいは、明日のことを考えている。
どこかで、陽気なラジオ番組の声が聞こえる。それは場を支配している雰囲気にはそぐわない、明るすぎる声。
だがそれもさざなみのノイズにかき消され、ロー・ファイになっていく。
世界は、十年前から変わった。
だが、この魔法のような時間だけは、永遠をその場に刻み込み、かつての日々を人々に思い起こさせるのである。
◇
ちゃぷり、ちゃぷりと。
波が、ミニマルな音色を立てる。
男はそれに傾聴するまでもなく、ただその音とともにあった。
白いきらめきが散りばめられた海の上である。男の半身は、とろけそうな橙の光とは裏腹に、色濃い影で覆われていた。
そう――彼は今日も、一人で海に来ていた。
使い古された、いつ沈むともしれないボロボロの小舟とともに。
「お父さん。今日も潜りに行くの」
伏し目がちに、娘は戸口でそう言った。
潮風で、彼女の長い髪がさらさらと流れていたのを思い出す。
「お前には、関係ない」
それから、ポーチを降りて家を出ようとした時。
まるで喪服のような黒い服を着た娘が言葉を投げかけた。
「そんなことをしても。あの子は戻ってこないのよ」
――うるさい。
言葉が耳にこびりついて取れない。
そこから逃げるように家を出たことを思い出す。
男は苛立たしげに頭を振る。
潮に浸かり続けた髪はごわごわになり、その色は褪せた灰だった。
――十年間で、実年齢にそぐわぬほど老け込んでしまった。
だが彼にはどうでもよかった。
これから行うこと以外、何もかもがどうでも良かった。
間もなく彼は、腰に長縄を括り付けた状態で、海に飛び込んだ。
目の前いっぱいに泡が広がって、かもめの声も、曳航する漁船の音も、届かなくなった。
◇
海の中は無音の世界だ。
そしてそれは、眠る直前の、あの心地よい静寂の世界に似ている。
陽の光がまるで帯のように差し込んでくる、冷たさの中にほんの少しあたたかさの混じる水。
その中を、老体に鞭打って潜航していく。
どこまでも、どこまでも。
――彼の行動を邪魔するものは何もない。泡以外には何もない。
オレンジ色の空間の中、彼は眠りを旅するように泳いだ。
下へ、下へ。
……彼の口が、少しだけ持ち上がる。
心の芯で、実感が湧き上がってくる。
――何故だろう。
今日こそは、うまくいく気がする。
結局、いつもそんな風に思っていて、失敗するのだが。
今は関係なかった。
――ああ、生きている。
◇
◇
夜は突然にやってくる。
酩酊する男の上に、冷水をかけるように。
……寒い。
男が船の上に戻った時、全ては藍色に染め上げられていた。
その日は、星さえ見当たらない夜空だった。
彼は身を震わせながら、帰る準備をした。
せざるを得なかった。目的を達成することは出来なかった。
「くそっ」
男はそこで、拳を木の船底へ叩きつける。
ささくれた箇所に皮膚が当たって、血が飛び散る。痛み。
それでもなお、何度も何度も、叩きつける。
――無音。
男の行動を止めるものも、声もない。
「くそっ、くそっ」
とめどなく。男の口から激情が吐き出されていく。
「くそっ、くそっ……くそったれ!」
――苦しみもがき、溺れていく白い服。
そのあたたかな、小さな手……。
……それからしばらくして。
男は無言のまま、船を陸地へと滑らせていった。
その日の行動は、終わった。
――今日も失敗に終わった。
少女は、見つからなかった。
◇
「いい加減にしてよ、お父さん」
「……」
「あの子は死んだの。もう戻ってこないの」
「……お前には関係ない」
「関係あるわよ。私にもお父さんにも今がある。だから、受け入れて――」
「それはできない」
「どうして。今この瞬間のことはどうでもいいっていうの。これからも、過去の中で生き続けるっていうの?」
「――うるさい」
「……ッ」
「……すまん」
「……――もう、こんなことやめてよ。きっとそれが、運命だったのよ」
「もう遅い。お前は寝なさい」
「お父さん、お父さん……」
「……」
◇
「お父さん」
背を向けた男に、その声がかかった。
彼は無視しようとしたが、思い直して、娘に向き合った。
「なんだ」
「今日も、行くのね」
分かりきったことだった。外ではとっくに潮騒と橙が彼をいざなっていた。
ゆえに、それ以上とりあう気はなかった。
眉をひそめたまま、あらためて背を向けようとする。
「……お父さん」
再度、声がかかる。
無視して進もうとした。彼の心はとっくに、あの輝く粒がいちめんに広がった、永遠とも思える十分間の海の上にあったからだ。
しかし。
「あなたがやろうとしていることは。私のお母さんが死んだことよりも、大事なことなの?」
――その言葉が、銛の先のように心に食い込んだ。
「……っ」
潮風のにおいがした。
彼は逃げ去るようにして、家から出ていった。
その場には、娘だけが取り残される。
憂いの滲んだ瞳をたたえ、細腕で身体をかき抱く娘だけが。
◇
ぎゃあぎゃあとうみねこが囃し立てている。
風が叫び声のように聞こえてきて、いつもよりにおいの強い潮を運んでくる。
波は荒れて、古い小舟を何度も白い飛沫の合間にひた隠しにしようと企てる。
その中で男は船体にしがみつきながら、『準備』をしていた。
船体が揺れる。頭がくらくらする。手先が震えて、思うようにはかどらない。
黒い影が、幾つも頭の上を通り過ぎた――忌々しい鳥どもだ。こちらの気も知らないで。はやく小魚を捕まえるだけ捕まえて、どこかへ消えてしまうがいい。
自分の海を、汚すものよ。永遠に居なくなれ。
――そこまで頭に浮かんで、彼は、自分がこれまでにないほど心乱れていることに気づいた。
それは、柄にもなく酔いの回った状態とともに、大変な不快感を運んできた。
「……っ」
髪をかきむしる。雑念を、ふるい落とそうとする。
だが、うまくいかない。うみねこどもの声は、彼を嘲るようにして、より大きく、何重にもかさなって空を覆っていく。
「くそっ……」
娘の顔が浮かんだ。
――十年前から、ほとんど笑ったところを見たことのない娘の顔が。
そして、その小さな口から発せられる言葉が。
「今更、なんだと言うんだ」
そう言って、苛立ちを船体にぶつけた。また、拳が痛む。
「もう、引き返せるものか」
雑音が響く。悪寒が身体を貫く。悲鳴を上げている。どこかで、陸に戻りたいと叫んでいる。
現在に戻りたいと、告げている。
――そうはいくか。そんなことが、許されるものか。
自分は、自分は…………。
彼は何度も、余計な考えを投げ捨てようとした。これからの行動に関係のないものを全て捨てようとした。日々の暮らし。朝起きて寝ること。
そんなものはもう要らないはずだった。なのにどこまでも、自分の内部に食い込んでくる。
純粋さが毒であるというのなら、自分は何故生きているのか。
苛立ちが重なって、彼はますます準備に手間取っていく。
――そしてついに、その憤激が頂点に達しようとした時。
……波が、その激しさを失った。
◇
彼は何が起きたのかを理解できないまま、周囲を見渡した。
先程まであれほど海の上を滑っていたうみねこ達が、一斉に居なくなっていた。
その声も聞こえない。
一つの生き物のように暴れ狂っていた波の全てが、消えていた。
今はただ、穏やかなまどろみの中で、消えかけの陽光をはらみながらたゆたっているだけ。
時間が停まったかのようだった。
何もかもが元通りになっていた。
何もかもが、彼の求める世界となっていた。
「なんだろう、これは――」
そう呟いて彼は、帆先を見た。
……一人の少女が、その場所に佇んでいた。
◇
「あ、あ……」
彼は全身から力が抜けていった。自分の目に映るものが信じられなかった。だが、そこから視線をそらすことも出来なかった。
震える手を伸ばすと、その先に、居るのがわかる。
……白いワンピースを着た、幼い少女。
あの日の少女に、驚くほど似ている。
あたたかな光を浴びて、その存在自体が幻であるかのように、その場に居た。風で、髪がそよいでいる。
「会いたかった」
「あ、あ……君は」
「ずっと、会いたかった」
――ありえない。
彼は叫んだ。
ありえない。だって君は、あの時。
あの時に……――。
「……ううん。いいの」
彼女は、そっと、座り込んだままの彼のもとに近づいた。まとわる影が、ゆらめいた。
「今まで、頑張ってくれて、ありがとう」
「君は、何を――」
「でも、もういいの」
そして彼女は、男に口づけをした。
「これで、すべてがあるべきところに還るのよ」
間もなく、大きな波音とともに、少女は海中に没した。
――男は、後を追って飛び込んだ。
◇
視界を覆う泡が鬱陶しかった。それはまるでこれまでの悔恨のように彼にまとわりつき、呪詛を吐き連ねていく。
――彼女を殺したのはお前だ。
――それなのにお前は生きている。
――生き続けている。のうのうと。
ああ、鬱陶しい。鬱陶しい。
分かっている、そんなことは分かっている。だからこそ自分は彼女を探してきた。
十年間、ずっと。
海の中をひたすら探し回った。しかし、骨のひとつさえ見つからなかった。
あるいは彼女の存在など、最初から幻だったのかもしれないと、自分を慰めたこともあった。
だが、そんなことはなんの意味もなかった。
自分の目の前から少女が消えたあの日の時点で、全てが変わってしまった。
他の何もかもを信じられなくとも、それだけは確かな真実だった。
そして今――少女が、現れた。
あの日と変わらぬ姿で。
やっと出会えた。
やっと、すべてが終わる。そして、始まっていく。
やっと、過去と向き合うことが出来る。
――衝動のままに、男は泡をかき分けて潜っていった。
それから、すべてがあらわになった。
◇
差し込んでくる光の中で、少女は身体を波打たせて沈んでいた。笑みを浮かべたまま、ゆっくりと、ゆっくりと。
時折小さな魚の群れが彼女の傍を通って、銀色の鱗の色を移して通り過ぎていく。モザイク状の光と、帯の光。
それらすべてをやわらかなオレンジ色でくるんで、一つの無音という音楽の中で浮かび上がらせる。
――知っている、海だった。そこに彼女が居た。
奇跡のような、光景だった。
彼女は笑っていた。
あの、苦しみ、もがいていた時とは違って。
ゆっくりと下降していく。どこまでも、どこまでも。
天を泳ぐように。
海底の虚に向けて……茫漠と浮かぶ、複雑な灰色の世界に向けて。
そこにはすべてがあった。
男の求めているすべてがあった。
彼は過去を見ているのではなかった。
もはや彼は、過去とともにあった。
時間は永遠となって静止していた。とても心地よかった。
少女は、微笑みながら手を差し伸べてきた。
男は、ゆっくりと彼女に近づいて、その手をとった。
ゆらめく白いスカートが、とても美しく見えていた。
彼は気付いていなかった。
彼の顔は、十年前に若返っていた。
知っていたとしても、どうでもよかった。
彼の中からはもう、少女以外の全てが消え失せていた。
限りなく、純粋に近づいていた。
少女が、口から泡を吐き出して何かを言った。
男は――十年前の男は、セピア調の静止した海の中で、静かに、微笑みながらうなずいた。
海はどこまでも静かで、凪いでいた。
そこにすべてがあり、どこにも行かなかった。
それだけで――ああそれだけで、十分だった。
間もなく彼は縄を切って、少女とともに海底に沈んでいった。
彼の存在を伝えるものは、輝く海面に立ち上っていく泡の群れだけだった――。
◇
◇
◇
波の音が窓の外から聞こえる。
娘は椅子に座り、その音を、聞きたくもないのに聞いていた。憂いがちに目を伏せながら。
ドアのベルが鳴った。
――それから間もなく、彼女がやってきた。
身体を濡らした、白いワンピースを着た女である。
随分と若く見えるが、見た目ほど若くないことを、娘は知っていた。
「込み入った状況をほしがるのね、あなたの父親は。演じるのに、ここまでしなきゃならなかった」
女は肩をすくめて、娘を見た。娘は、女をほとんど見なかった。
……机に、小銭の入った袋が投げ出される。
「それを取ったら。はやく出ていって」
「あら、冷たいのね。あなたの依頼なんだから、もう少し感謝してくれてもいいのに」
女は肩をすくめて言った。
「出ていって。もう二度と、顔を見たくない……薄汚い
言われた女は、反論をしなかった。ただ、その整った顔に、どこか厭世的で皮肉な笑みを浮かべただけ。
「それにしても」
袋をとって、女は言った。
「随分とあなたも優しいのね…………夢を見せたまま死なせてあげたいなんて」
「……うるさい。帰って。今すぐ、帰って」
女はそれ以上、何もしなかった。
ため息をひとつだけ零して、背を向ける。
それから乾いたベルの音とともに扉を開ける。
最後に、たった一言残して。
「はやく忘れたほうがいいわ。じきに、夜が来る。私達にはね、『今』しかないのよ」
女は、出ていった。
あとには、娘だけが残された。
◇
喪服のような黒いドレスを身にまとったまま、娘はひとり、波の音を聞いていた。
その下に広がる景色を夢想したところで、誰に届くわけでもない。
中身を飲み干され、空になったグラスの光が、乱反射して室内に染み渡る。生暖かい光。
しかし、娘の後ろには、どこまでも暗く冷たい影。コントラスト。
彼女は涙を流すこともしなかった。
じきに、空に藍色が混じるだろう。そうなれば魔法は解ける。全ては再び動いていく。
いつもと変わらないように。
……数分後。
彼女は、波打ち際と浜辺の見える窓際から背を向けて、去っていった。
「夢を見ることさえ許されないのなら。私達、何のために生きているの。誰か、その答えを教えて……」
その言葉に答えるものは、ついにあらわれなかった。
それでも波の音だけは、名残惜しげに、いつまでも彼女の耳の奥に響き続けている。
――あの日と、同じように。
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