#4 N.E.R.D
『おおシャローナ、どうして俺は右曲がりなんだ!!こんなにも君を愛しているのに――』『私達、一緒にいるけど……違う方向を向いていたってことなのね。これまでよ、さようなら』
『待ってくれ、待ってくれ!! ああ――ああ、俺がEDであったなら!!!!』
付けっぱなしにされたテレビが、ナンセンスなテレビドラマを流している。しかしそれはただのBGM代わりとなってその場にあるだけ。今、この場を支配しているのは。
――激しく移り変わるモニターのなかのウィンドウ。そして、高速のタイピング。キムである。髪を後ろに撫で付けて留めたまま、息継ぎすらせずにキーボードを叩きまくっている。そのたびにハードディスクがうなりを上げて、熱を持つ。今彼女は重機関車のようになっていた。
「……」
シャーリーは、パソコンの本体をうちわで扇いでいる。腕を一部だけ変質させて、能力によって高速で。風が起きて、画面の端に貼り付けたポストイットがひらひらと揺らめく。
……要するに、オーバーヒートを避けるために、冷風を送り続ける。それだけの、されど重要な仕事を彼女は任されたのだ。横に座りながら、キムの仕事ぶりを見ている。
画面を確認すると、いくつものウィンドウが現れては消える。そのたびに、高速で文字が打ち込まれていくのがわかる。
「いったい……何をしてるんです?」
「メールっス。あたしの大事な『カレシたち』に」
「えっ」
「ああ――知らなかったの?シャーリー」
そこで、開け放たれた書斎からグロリアの声。
「情報処理でキムに勝てる奴は居ないわ。そいつはお姫様なの。画面の前に座ってマスをかく手合いのね」
「……」
硬直する、意味を解するまでしばしの時間がかかる。
「言い方悪いっスねー、みんないい人たちっスよ」
キムはへらへらと、なんでもないことのように笑って言う。
「そりゃあんた、自分を好きで居てくれるからでしょ。ほんとタチ悪いわ」
――なるほど。
シャーリーにも理解できた。
これがキンバリー・ジンダルなのだ。これが……。
「はは……」
「情報とかタレコミを扱ってるような連中ばかりっスからね。街のあらゆる情報を集積するにはちょうどいいっスよ」
「それで、メールを……」
「そういうことっス」
――よく見ると、メールには写真が添付されている。
服を腰まで捲りあげた、扇情的なキムのセルフィー。見間違いではないだろう。だが、やはり一瞬だけ幻であると思いたくなる。シャーリーは名も姿も知らない男たちにいささかの同情を覚えた。この人もやはり、この場所のアウトレイスなのだ……。
「あの……大丈夫なんですか。そんなふうに……全員に同じようなこと送っちゃって。バレたりしませんか」
「大丈夫っスよ。同時送信してますけど、全員別名義っスから」
「はは……」
そうやって乾いた笑いを漏らすと、キムは追加で情報を教えてくれた。
曰く――メールで文面を送信している相手の全員と、一回はデートしている。
だが、今付き合っている本命の彼氏は、イギリス人の貿易商であり……自分をベッドに誘うのに、きちんと段階を踏もうとした男である、ということ。
……大事なのは誠実さであると、彼女は言った。
「最悪だ……この人最悪だ……」
「いやー、悪いオタクっスからねー、わたし」
「最悪ですよ……宗教の教祖の素質ありますよ……」
「えへへ、照れてもなんにも出ないっスよ。――さぁて、続けるっスよ!!」
◇
書斎からは、キムとシャーリーの声がよく聞こえる。
調査は順調のようだ。
グロリアはソファに寝転び、額に手をやっているフェイの傍に座って、その様子を見ている。
「ほら。大丈夫じゃない、あいつら」
苦笑しながら、そっと語りかける。
フェイは黙り込んでいる。
グロリアは立ち上がる。
「タバコ、一本貰うわよ」
「……
「そんなの気にするなら、医者に自業自得なんて言われないでしょ」
火をつける。煙を吐き出す。
……フェイは再び黙り込む。
構わず、傍に居続ける。静かな時間が流れる。
「……
フェイは口を開いた。その視線は横に流れて、シャーリー達を見た。
「
「……」
その視線は宙を舞い、誰にも向けられていない。その言葉さえも。返す言葉を求めているようではなかった。
だが、そこでグロリアはくすりと笑って、静かに言い添えた。
「本当にそう。あんたは最低の、現状維持主義者よ」
すると、フェイも……力なく笑った。
「そんな言葉、聞いたこともないな……」
「そう? あたしはバカだからよくわからない。でもね」
グロリアは再び、キム達を見た。
タイピング音はますます激しくなり、シャーリーに対する弁舌も冴え渡るばかり。
「――あいつらは、頑張ってるわよ。あんたが、そんなでも」
「……」
◇
ミランダは空を飛びながら、チヨを探している。街は彼女の庭のようなものだ。その瞳を『鷹』に変えながら、眼下に広がる全てを見渡している。
「どこに行ったのかしら、あの子ったら……」
それはひとえに、仲間のため。
ミランダは特に考えることもなく、キムの言葉に従っていた。
◇
「ならばわたしは……どこを見ているのだろうな」
「……そうねえ」
グロリアは、部屋をぐるりと見回した。
リビングとは違う、よく整理された書斎。酒も、本棚も。全ての管理が行き届いている。そして、それだけに――そこには、ひとつの『寄せ付けなさ』がある。誰も、その領域を侵すことが出来ない。
まるで、フェイの精神そのものを象徴しているかのようだった。
……その中で、グロリアはあるものを見つける。
書斎の隅に飾られたそれ。
――小さな、写真立て。
かつて、見たことがあっただろうか。それが分からぬほどに、ひっそりと佇んでいる。
グロリアはそこに視線を注ぎながら、言った。
「――……ここじゃないのなら。過去じゃない? あなたの」
フェイは、黙った。それから、グロリアと同じ方向を見る。
しばらくの静寂。
その後で、フェイは言った。
「その通りだな……
「ミランダのこと、言えないわね。ほんとに最低」
「ああ――最低だと思うよ。自分でも」
彼女は見ている。その写真を。
ここと全く同じ間取りの部屋に、名も知らぬ者たちが写り込んでいる。誰もが皆、過去の時間に生きていて、今ここには居なかった。そしてそこには、フェイが居た。その時の彼女しか知らない彼らに囲まれて、控えめな笑顔を浮かべている――。
◇
そう――確かに彼は先攻を取った、そして攻めた、攻め続けた。ルールはシンプルなリバーシ。幼稚な陣取りゲーム。まさかこの年齢になってやるハメになるとは思わなかったが……絶対に負けないつもりだった。なぜなら経験があるからだ。蓄積があるからだ。
眼の前の男よりも歳をとっている自分が、負けるはずがない――そのはずだったのに。
「なんで――……なんでッ」
「どうした? 君の番だぞ」
「なんでここまでッ――追い詰められなきゃいけないんだッ!!??」
男の目の前には盤面が広がっていた――先程よりも広い盤面が。
「あああああ、あああああああああ!!」
彼は打ち込んだ。
――轟音。盤面から煙。
間髪入れず、相手が反撃してきたのだ。
そしてまた打つ。
また打たれる。
打つ、打たれる――その繰り返し。考える暇も与えられない。向こうは次々と攻め込んでくる。こちらは白、向こうは黒。考えろ、落ち着け――冷静になれ。盤面は次々と黒に塗り込められていく。考えろ、考えろ考えろ――奴はどんどん速くなる。何故だ、何故ここまで高速で次の手を考えられる。奴は一体なんなのだ――……。
汗が噴き出し、全身がわななく。鼻血が出てくる。唇はすでに半分ほど噛みちぎられている。自分のすべての挟持を盤面に投げ込んだ上で、彼は白の駒を打ち込み続けていく。だが――。
打たれる。打たれる。打たれる。
こちらが懸命に次の手を考えて打つたび、奴は一秒もかからぬ間に反撃してくる。涼しい顔で――カクテルをたしなみながら。そしてそれは必ず、自分の攻撃の芽を潰してくるのだ。速い、あまりにも速い――そして。
「なんだこれは、なんなんだッ――…………」
そう。
奴が遠くに見える。
勝負を開始した時よりも、ずっと遠くに。
とうとう頭がイカれたのかと思った。だからそんなふうに、遠くに見えるのかと。
しかしそれは違うことを間もなく知ることになる。
「気付いている通りだよ――この盤面は、攻守が一周するたびに広がっていく。そういう仕掛けだ」
「――…………!!」
告げられたその事実が――彼をさらなる絶望へと誘う。
打ち込む。盤面の端がスライドし、一回り大きくなる。
相手が遠くなる。周囲の肉壁が蠕動し、さらなる赤みを増す。
だがそれでも勝負をやめられない。気が狂うことも許されない。なんだこれは、なんだこれは――。
「おお…………いいぞ。君の絶望が。狂気すれすれの理性が。私の頭脳を更に拡大する。これが、これこそが…………勝負の醍醐味。いけるぞ。私の脳は、まだまだ成長するッ!!」
「ひいいいい…………ひいいいいいいいいいいいいい!!」
打つ、打つ。閃光のように。
全ての勝負は高速で行われ、やがて黒と白が盤面で瞬き続けるのをやめる頃。
――彼の頭脳は一回り大きくなり。
勝負は、ついた。
――たった数分後。
サルトルは椅子の上でだらりと伸びて、ひんむいた目を彼方へと向けて、ひきつけのような笑みを浮かべているだけになった。その頭髪は真っ白になり、皮膚は砂漠のようになっていた。足元には汗で池が出来ていた。彼はもう、戻れない。
二度と、正気には。
「……ふむ。彼は、よく見える目と、よく回る舌を持っているのであったな」
指で合図をする。
禿頭の女が椅子から彼を引き剥がす。それから、男の後方の闇へと引きずっていく。
「ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒーーー…………」
サルトルの精神はここにはない。気の狂った笑みを浮かべるだけ。
「であれば、客人をもてなすボーイにでもなってもらおうか」
男はそう言った。
「――さて。勝負はついた。私の頭脳はさらなる進化を遂げた。ゲームを楽しもう。次の挑戦者は、誰かな?」
するとそこへ、足音が響く。
「……ほう」
彼の目の前に現れたのは。
「……すげえよ、あんた」
サルトルよりも更に若い青年だった。まだ成人して間もない年頃だろう。
その顔は畏怖と、それ以上の興奮に満ちていた。
「なんだよ今の、最後まで見てた……クソ最高だったじゃないか、なんだよあれ……あんな勝負を、俺はずっと待ってた…………!!」
それを聞くと――男は、亀裂のごとき笑みを浮かべた。
「ならば……君はどうする?」
「…………オヤジの下じゃ、絶対やらせてもらえなかった!! やるさ、やってやるさ!!!!」
青年は前へと進む。
それから振り返る。
背後の闇に控えていたのは、喪服姿の女。
「オヤジに言われてきたんだろ? 悪いが出番はねぇよ――……俺のこと、デトロイトでなんて呼ばれてるか知ってるか?? 『火薬庫のヴィット』、『デリンジャー』のヴィットだ!! 今まで一度だって、勝負には負けたことがねぇ……だから、あんたはそこで見てな!! 勝利の暁には、たっぷりのマリファナと、俺ののたうつ蛇をくれてやるからよ!!」
――……女は黙っていた。
だが、それでも別に良かったらしい。
彼は前に進んで、男の向かい側の椅子に座る。
無限の盤面が、彼の目の前に広がっている。
周囲の肉壁は、青年を歓迎するように僅かに震える。
「さぁ――それでは」
男は両手を広げて宣告する。
「ゲームを始めよう。己の存在全てを賭けた、陰と陽が盤面で踊る、心沸き立つゲームを」
そして――開始された。
新たなる、男の『食事』が。
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