#10 エピローグ

「そんな……いつの間に」


 夜勤明け、交代要員が居ないからと駆り出されてきたばかりだった。あとでボスにはたっぷり代休を請求してやるつもりだった。実現するかどうかはともかく。

 ――というわけで、『ジョンソン修理センター』勤務二年目になる『魚目のウィニー』は、そのぎょろついた目で状況を見た。驚きがあったから、更に大きな目に見えた。

 その状況とは、こうだ。


 雨がやんで、すぐ。

 ――あれだけ街中に散らばっていたブロック状の瓦礫が、すっかりなくなっていた。

 それどころか、あれだけ崩壊していたビルのほぼ全てが、元通り綺麗になっていた。

 今、街に広がっているのは……雨が降る前の光景だった。

 地面の不快なぬかるみはともかく。


「何かの冗談ですか、これ?」


 彼は傍らに居る男に尋ねた。

 その男は両目の望遠機能を最大にして、状況をつぶさに観察して……言った。


「いや、どうやらこいつはシリアスだ」


 この仕事に入って二十年になるベテラン……ボビーは渋面で答えた。


「ありえねぇ、なんだってこんな……」


 ウィニーは唖然としている。だが、ボビーには心当たりがあった。この状況に。


「お前はこの町で起きることを、『ありえねぇ』で済ますのか? シリアスだっつったろ」


「いや、でもオヤジさん、こいつは……」


「お前は知らんだろうが……数年前、『あの騒動』が起きる前も、そうだったんだ」


 あの騒動。

 ――この街の住民に恐怖と諦観を植え付けた、最悪の戦い。誰も彼も、忘れられない。


「っていうと……」


「察しが悪いな。要するに、前もこうだった。建物がぶっ壊れても、翌日には直ってた。それが十年前から数年前までの間、常態化してた。当時は何もかもが狂ってたから、そいつが当たり前だと思ってたが……こうして俺たちの仕事が必要になってからは、どうやら狂ってたのはそっちの現実だったらしい。壊れたビルが一日で直るなんてあり得るか?」


 ウィニーは、息をのんだ。


 答えは……限りなくイエスに近いノー、であるということ。

 常軌を逸した事は起きても、ありえないことは起きないはずなのだ。


 ――そして、ボビーは言った。彼の頬にも、汗が垂れている。


「……つまりは、戻ってきたんだよ。それだけの『工事』を可能とするだけの『ナニカ』が、この街に」



「……」


 うんざりするほど長い回廊を、彼女は早足で歩いていく。

 その傍らには、汗をかきながら追従する小太りの男。彼女はこの男が気に入らなかった。ロサンゼルスの市長――事実上の『LA国大統領』を意味する――という立場でありながら、自分に歩調を合わせることしかできないこの男が。

 気に入らないのはそれだけではない。これから向かう場所のすべてが気に入らない。

 彼女は、最高にムカついていた。


 ……そして、目的地に到達する。

 神殿のごとく広い場所。その中心地に、彼女は――マライア・サイラスは立つ。市長を伴って。

 彼女のところに光が降りてきて、その上方を取り囲むように『存在感』がいくつもあらわれる。


 その瞬間も好きではない。丸裸でジャングルに放り込まれたような心地。よりにもよって、合衆国大統領である自分がそんな気持ちを味わわねばならないという事実にもむかっ腹が立つ。だが、どうしようもない。彼らが上で、自分が下――それが、現状。


「やぁ、お久しぶりですね、マライアさん。あいにく歓迎の用意はありませんが」


 少年のような声が上から聞こえてくる。


「くだらない能書きはいい。私に要件を話させなさい、評議会」


 姿は見えないが――彼が、肩をすくめたのを感じた。


「まず……言いたいことはいろいろあるけど。最低限、最低限でいいわ。私がこれから話す」


 『私が』を強調して、彼女は言った。

 そして、言葉を継ぐ。


「あの雨の日の一連の流れ……あれは私の決めたこと? 違うわよね。確かに私は、下がりつつあった支持率の回復のためこの地で行動を起こすことに決めた。そしてあなた達の力を借りることに決めた。そこまではいい……百歩譲って。問題はここからよ。いくらなんでも、やり方が強引すぎるわ……――私は! 死ぬところだったのよ!!??」


 彼女は冷静に話したつもりだったが、じょじょにその仮面は剥がれた。


 無理からぬことだ……どこまでが予想の範囲内で、どこからが予想外なのか。それすら分からぬほど、あの時は混乱の中に居た。そこまで追い込まれていたという事実が、何より気に入らない。米国の女帝にとって、プライドが許さない。


「……」


 しかし。

 ギャラリーは黙ったままだった。不気味なほどの静寂。説明不可能な。

 ……彼女の皮膚が、粟立った。こちらが話し続けることで保たれていた優位が、崩れ去る。


 そして光が降り注ぐ。彼女の向かい側に。

 いくつもの光の束がひとつになって、やがて新たな存在を生み出す。空間に亀裂が走り、その者が姿を現す。


「……っ」


 おぞけが走る。

 傍らの男は既にがくがくと震えて、足元に汚らしい液体を滴らせている。


「だ、大統領……」


「黙りなさい……分かってる」


 一体何が『分かっている』のだ。

 これから現れる奴に対して、何が『分かっている』のだ?

 分からない――。


「アザゼル……狂乱の法王……アイランドメイカー…………」


 その姿が、くっきりと刻印されていく。

 かわいた口の中で、マライアはその名を唱えた。


「混沌の……ディプス……」


 ――そいつが、完全な姿をあらわした。



「やぁ、久しぶりですねマライア」


 現実感のない、歌うような声。全てがおぼろげに感じる。だが奴はそこに居た。

 あっさりと――立場が入れ替わる。

 上に控えていた複数の陰たちが、彼にかしづいたのを感じる。

 ディプスはそれを受けて、話す。止めることはできない。


「……『やり方が強引すぎる』でしたっけ? あなたが納得いかない部分は」


 彼は言った。

 マライアはうなずく。それしかできない。


「ええと。それには当然理由があるんですよ。要するに、あなたがリスクを背負わなきゃならなかった理由が」


 もったいぶってないで、はやく話しなさい。

 ――などと言うことは当然できない。ペースは向かい側の、この魔人にある。

 青年、あるいは美女。それらすべてを超えた、無限に美しいフォルム。狂いそうになるほどに。


「まず1つは……我々の仲間の一人が、数年前の傷から完全に復活したということを、アンダーグラウンドに知らしめるため。そうだね?」


「えぇ、その通りですとも。復活戦にしては、ずいぶんと地味ですがね」


 不遜な男の声が、上から聞こえた。自分が強きものであることを疑いもしない、傲慢な声音。ディプスに対しても、一定の敬意を払いつつ、あくまでその態度は崩さない。

 マライアの気に障る――だが、それでも。何も言えない。

 目も、口も。眼の前にしばりつけられている。


「そしてもう一つは……ある存在の『成長』のため」


「ある……存在……?」


「ミランダ・ベイカー。あなたは知らないかもしれませんがね。放っておけない女の子が居るんですよ」


 まるで、手のかかる子供について語る母親のように。

 ――その柔らかな口調が、果てしなく不気味だった。背中に怖気が走る。


「彼女の精神的成長が、我々の物語には必須だった。だから、お膳立てをして、敵を用意し……乗り越えさせた。多少回りくどかったが……結果として彼女は精神の枷を克服し、新たな力を得ることができた。これが第二ですよ、マダム」


 ――マダムですって?

 馬鹿にして……。


 ――ああ、顔が近い。近い、近い。

 やめて、やめて。お願い。

 吐きそう。存在の全てが、消えて無くなりそう……。


 いつしか彼女も、がたがたと全身を震わせていた。

 ――それをおさえこむために、せめてもの抵抗として、彼女は黙っている。

 それを知ってか知らずか、ディプスは続けた。


「そしてこれが3つ目です。シャーロット・アーチャーをはじめとした『ザイン』は、『世界の危機』により一時的に増大するエントロピーを『エサ』にして生きている。彼女自身は気付いてはいないだろうが。つまり、要するに……」


 ディプスは、彼女に更に顔を近づけた。

 現実感のない美貌がすぐそばにあって、彼女は気絶しそうになる。


「世界の危機は彼女たちの『食糧』として必要不可欠なわけです。そして、それはあなたの立場をより盤石にするでしょう……つまり、分かりますか? 全ては平等。Win-winです。これで納得していただけますか??」


 ……マライアはそこで、ようやく彼から距離を置いた。

 そして、全ての精神力を振り絞って、言葉を返す。


「――ふざけないで」


 ディプスの顔が、ぴくりと動く。


「あなた達が何を企もうが、何を起こそうが知ったことではないわ。この土地でやる限りは、好きにして頂戴!! それでも、私は……私は合衆国大統領なのよ!! 私の命は国民の命!! その私を愚弄するなら――」


「――……


 彼は。

 その名前を、静かに呼んだ。

 すっと、目を細めて。


「オエッ……」


 傍らで市長が嘔吐した。

 マライアはしばりつけられる。空間に。そして動けない。

 全細胞が察する――最悪の屈辱。一つの事実。『喋りすぎた』。


「お忘れじゃあないですか、ねぇ、マライア……?」


 ディプスは続ける。


「あなたが、このハイヤーグラウンドで何をしているのか。。忘れたわけじゃないでしょう」


「……――!!」


 その一言が……彼女を更に縛りつける。

 そうだ。

 私は、この場所で、この場所で……――。

 脳裏に浮かぶ、いくつもの映像。断片的な。それがあるから私はここに来ている、そして満たされている。おぞましい事実に反する、天にも昇る心地。それがあるから……。


「……っ」


 マライアは、下を向いた。

 すえた吐瀉物のにおい。自分も吐きたい心地だった。

 そこへ更に、ディプスの声。

 それが決定打だった。


「あなた方がこちらを管理しているんじゃない。あなた方が我々に見張られているんですよ。それを、ゆめゆめ忘れないように」


 沸き起こる。

 あらゆる場所から。

 評議会メンバーの嘲笑が降り注いでくる。いくつもの法悦に歪んだ目が、マライアに向けられた。そして笑い声。


 それが全て。管理している者と、されている者。

 人間と、それを超える者。

 眼の前の魔人、そしてその奥に控える、幾人もの人外たち。

 そうだ――これが、これがこの場所を支配している者たち。


 勝てない。かなうわけがない。


 ――こんな連中に、逆らえるわけがない。


「…………ッ」


 マライアの心は折れなかった。ぎりぎりのところで、踏みとどまった。

 そのかわり彼女は……その場から去ることを決めた。

 懸命に力を振り絞って後ろを向く。


「――帰るわよ」


「げほっ……げほ」


 市長が、よろめきながらそれに続く。


 嘲笑はいまだ続いている。

 彼女が完全に立ち去るまで、それが続いた。

 評議会――天と地を統べる者たち。

 籠に入れられた小動物のあがきを見るかのように、シルエットだけの彼らは笑い続けた。

 小さくておかしく、どうしようもなく愛おしい……二人の人間たちを。

 

「さて……」


 ディプスは、声を吹き込む。

 眼下に果てしなく広がる、アンダーグラウンドという街に。


『やぁ皆さん、ディプスのワールズエンド・チャンネルにようこそ。今回は君たちに、朗報があります。それは僕の仲間の一人が、完全に回復し、君たちに――……』


 そして声は降り注ぐ。

 人々は聞いていた。顔を見上げて、あるいは小さな画面を見つめて。

 それから諦念に縛られる。


 ……俺たちは逃げられない。

 この魔人から。


 ディプスの声は、街の中で響き続ける。


 だが、彼らは生きている。

 そして、彼女たちも、また――……。



「ああ、そうだ。シャーリー、私ね……」


「なんです? ミランダさん」


「思い出したのよ。フェイに拾われた時……何を思ったのか」


「何を、思った?」


「私はね。小さい頃のお爺ちゃんの言葉を思い出していたの」


 彼女は遠い目をしたが、『彼女たち』のそばに居た。


「私はね……」


 ――雨の日に、彼女たちは出会った。

 はじめから、心の内を見抜かれていたのか。今となっては分からない。

 もう、どうでもいいと言っても良かった。

 生きているのは――今なのだから。


「私はね、世界平和を目指していたのよ。軍に入ったときも、ここに入ったときも。はじめから」


 ひどくあっさりと語られたそれに、シャーリーは頷いた。


「もう、あなたに銃は絶対に向けないわ。絶対にね」


「ええっ……ミランダさんの中で、ボクってどういう扱いだったんですか」


「ふふっ、内緒」


 それ以降彼女は何も言わなかった。


 それで十分だった。



 部屋は暗く、相も変わらず混沌の極みだった。シドはドリトスを太い腕で掴んで、一気に口の中に押し込んだ。それから、急き立てるように話す腐れ縁の友人を半分無視していた。どのみちもう半分は、否応なく耳に入ってくる。


「いや、ひでぇもんだった……顔面は銃槍でミンチになっててよ、全身はずっと雨を浴びてたもんでブヨブヨになってて……俺は2週間前『ウィル・ロジャース』で土左衛門を見たが……ありゃ同じぐらい見てられなかったぜ」


「本題はそれか? 死体の話なら三丁目のゾーイにしてやれよ。奴はそれでマスをかく」


「ああ……すまねぇ、違うんだ。くそっ、あのビッチ……今朝の迎え酒にライムを入れやがってよ……本題? 本題は……そうだ。こいつはビジネス。ビズの話だぜ、シド」


「ビジネス? 余計なリスクは踏むつもりはねぇぞ」


 要領を得ない友人の話に苛立つ。


「とっとと言うことを言って帰ってくれ。忙しいんだ」


「どうせNINガンガンにかけて寝酒するだけだろ? それなら聞いてくれよ。あのさ、この前の大統領騒ぎの時、誰もが思ったよな……『あのババア、殺してやる』って……」


「ああ、そうかもな」


 自分以外でも、この街で満足な暮らしができちゃいない大半の人間が思っていることだろう。当たり前のことを言うやつだ。


「それで、何か奇跡でも起きて、あのピンク色のスーツを消し炭にしてくれねぇかって願った奴だって大勢居ただろうさ……かくいう俺もその独りだった。それで、どうなった?」


「……」


 シドは手を止めた。

 なんとなく、感じるものがあった。友人に腫れぼったい目を向けて、続きを促す。


「起きただろうが。あの瓦礫騒動がよ……俺たちの願いを、天が聞き入れたみてぇに」


 友人は手を広げて、説教でも垂れるかのように言った。

 こいつはいつから宣教師になったのだろう。

 だが……聞くのはやめなかった。


「こいつに繋がりが見いだせねぇかよ。というか、ずっと前からそうだったが、バカらしいからみんな考えないようにしてた。だけど、ここまで露骨なら、あり得ない話じゃねぇと思うんだ」


「回りくどい言い方するんじゃねぇ。とっとと核心を言えよ、相棒」


「つまり、こうさ――……俺たちが。この街で何かを願えば、ディプスがそいつを叶えてくれるんじゃねぇかってことだよ」


「――……」


 バカバカしい。

 本当にバカバカしかった。


 ……しばらくしてから相棒はとりとめのない自分の女の話に戻ったので、シドは追い出した。

 彼は自分の時間に戻る。

 それからいつもどおり、インダストリアルミュージックをかける。

 だが、まるで耳に入らない。精神の高揚をもたらすのは、別のもの。


 友人が言い残した言葉。それが頭の隅にこびりついて離れない。

 ……そんな虫のいい話があるのか。あったとして、ディプスに何の得がある。

 だが。


 だが、しかし。

 もし本当に……何かの怒りや憎しみをこの街に対して浮かべるたび、それに呼応するように何かのカタストロフが起きるのなら。そいつは、そいつは……。


「くそッ……すっかりイカれちまったか??」


 シドは頭を掻きむしって、その過った考えをふるい落とした。

 そしてデスクトップに向かって、『スターファッカーズ・インク』での仕事に戻る。


 それでおしまいのはずだった。彼にとっては。


 しかしながら。

 彼はまだ知らなかった。

 このアンダーグラウンド全体に、あのクソ友人と同じことを考えている奴が散らばっているということを。


 そして、そいつらの考えていることは、あながち外れてもいないのだということを。


 ――まぁ、何かがあるなら、そのうち思い知ることになる。別に今でなくてもいい。

 ゆえに今日もシドは暴食と暴飲の果てにクスリを打って、倦怠と頭痛の海に沈むのだ。



 何も変わらない――そいつが、なによりだからだ。

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