#9 やさしく雨ぞ降りしきる

 銃弾は確かに彼の頭を貫いた。その鳥の頭から、血が爆発するように噴き出したのを確かに見たからだ。

 確証がないのは――彼女もまた、銃撃を食らったからだ。

 左目に、かすめるように。


 彼女は今……落下していた。翔ぶ力を失って。

 ――確かに倒した、奴を。間違いない。

 今、左目が見えない。傷から出た血が入ったのか、それとも本当にやられてしまったのか。じんじんと熱く痛み、その判別がつかない。


 だが――どうでもいい。

 今、あのバケモノを倒した。その事実さえあればいい。

 決着した、長い戦いが。


 だから、落下するのも構わなかった、そのまま落ちても――。


 しかし、そうはならなかった。

 なにか、ふわりとした赤い何かが片目から見えた。

 そうして、彼女は抱きとめられた。


 すとん。

 地面の音。とたんに、現実に引き戻される。

 雨は――こんなに冷たいものだったのか。なんだか、すっかり忘れてしまっていた。


「あぁ……疲れた」


 顔を上げる。やわらかくて硬い。その2つが両立する。

 そこにあったのは、一つの表情。


「おかえりなさい――お疲れ様です」


 ミランダを抱きかかえたのは、シャーロット・アーチャーの腕だった。



 シャーリーは微笑んでいたが、絶妙に決まらなかった。

 その顔には、疲労が色濃く浮かんでいたからだ。

 ――全く、人のことが言える状態じゃないでしょう。


 寄りかかりながら立って周囲を見る。ブロック状の瓦礫が散乱する中を、人々が困惑しながらさまよっている。

 ……大統領はどこへ行った、一体何が起きたんだ、ディプスは何をしたんだ。

 そんな声がいくつも漏れ聞こえてくる。


 小さな煙が各所で上がっている。

 またしても……彼らの預かり知らぬところで全てが始まって、終わった。

 ミランダは、急激に身体から力が抜けるのを感じる。


「……」


「うおっと……」


 再びシャーリーは、ミランダを支える。

 滑稽なのは、終わらせた張本人たちがここに居るのに、誰もそれに気付いていないということ。

 まぁ――当然といえば当然だが。

 その感慨が、余計に気を抜けさせる。


 とはいえ。

 これで、終わったわけだ。


「ありがとう、シャーリー。あなたのおかげよ……」


 すると彼女は、少しきょとんとした顔をして、言った。


「え? なんでボクなんです? 受け止めただけですよ」


「……?」


「本当にありがとうを言うべきは、ボクに、じゃないんじゃないですか?」


「……」


 シャーリーは……さも当然といった様子で、そんなことを言ったのだ。

 それがどんな感情を相手にもたらすのか、知らないわけではないだろうに。

 ミランダは、何かを言おうとした。

 しかし……それも無駄だと悟った。

 これが、シャーロット・アーチャーなのだ。


「…………ええ、そうね。忌々しいことに――……」


 ミランダは、諦めた。

 そう、自分が礼を言うべきは、あの――……。



「おい……あいつ、何者だ……!?」


 近くの雑踏が、ざわめいた。

 その声が、異常にクリアに聞こえた。

 ミランダは偶発的に――そちらを向いた。

 その瞬間である。

 まさに、度肝を抜かれたのは。


「……――ッ」


「おい、こいつ血だらけだぞ――」


「それだけじゃねぇ、なんなんだこいつ、鳥か、ただの人間なのか、」


「わけがわからねぇよ……」


 ざわめき。

 つい先程まで街の異常に振り回されていた人々が、今度は、その男を取り囲んでいた。

 ――空から落ちてきたその男を。


 悪魔のような、異形。えぐれた翼の生えた男。

 その彼が今、ゆっくりと震えながら立ち上がる。

 すえたにおいの吐瀉物と血を撒き散らしながら……その場にあらわれる。


 そして……羽を広げた。

 周囲に、舞った。ざわめきが大きくなった。誰も彼もが、その異常な姿におののいていた。だから、冷やかして何かを投げつける者も居なかった。

 ここにいるはずのないものを見ているような様子だった。化け物なら、見飽きているはずなのに。


 その存在の名が、かつてイアンという青年であったことを知る者は誰も居ない。

 そしてそのままに、彼は足に力を込めて、上空を向く……――。


「ッ、あいつ――!!!!」


 背筋が凍った。

 間違いない。額を撃ち抜いたはずのあの男だ。


 それが今、すぐそばに落下していて、再び飛び立とうとしている。いかなる執念が彼を支えているのか。もう分からなかった。彼を取り囲む群衆が不気味な紫色のもやに見えて、ミランダはさらに震えた……そして、気付いた時には。


「――!!」


「ミランダさん……」


 彼女は走り出していた。全身を貫く痛みや疲労を忘れて、その異形に向けて。なけなしの一発を抱えて。


 男は力を込める。全身にみなぎるのはぐらぐらと煮え立った感情。もう、何もわからない。自分の過去も、これまでの出来事も全て。あるのは妄執のみ。コロス、大統領ヲコロス、ソレガ俺ノスベテ、ダカラコロス、コロスコロスコロス――……。


 奴を飛び立たせてはいけない。もう二度と、奴に銃を撃たせてはならない。止めなくては。今すぐ……奴の息の根を止めなくては――……!!!!


 ミランダは走った。そのまま、少しずつ翼が展開した。周囲でまたざわつきが発生した。それが追い風になって、男の背中に近づいていく。向こうは気付いていない。口から声にならない声が漏れる。奴が翔び始めるまで、あと、5、4、3――……。


 ――激痛。

 ミランダはその場で転倒する。

 もはや翼もまともに保てない。自分の負傷具合など彼岸に追いやっていたつもりだった。しかし、現実は残酷で、容赦なく襲ってきて……奴が、目の前にいるのに……。


「ッ、あああああああああ…………ッ!!!!」


 しかし。


 ――そう。

 その瞬間、男は確かに飛び上がった。

 翼をはためかせて、『敵』の存在する――確証などありはしないのだが、今の彼はそれを一切疑わない――セントラルパークへ向かおうとした。ふわりとした浮遊感。馴染みの深い。そこから全てを見下ろし、そして滅ぼす。全能感が溢れ出る。そうだ、これこそが、これこそが俺の――……。


 そして彼は下を見た。

 見てしまった、優越感から。自身を縛りつける全てから解き放たれた心地よさから。


 ……見てしまったのだ。

 ――自分を見つめている、無数の人々を。

 ――半分を銃弾で焼き尽くされた、混沌とした頭で。



 その瞬間。

 ――彼の中で、すべてのイメージが極彩色の濁流になって暴走した。全身のあらゆる場所に有刺鉄線のように食いついて、蝕んでいく。抵抗できない。その感覚は初めてだった。そう、それは――ひとつの混乱。混沌。発狂。


 彼を見つめる、無数の顔、顔、顔、顔、顔――。

 わからない。もう、何もわからない。

 ――俺は。

 ――



「ミランダさんッ!!」


 追い風――シャーリーの声。振り返る、後ろにいる。彼女は叫んだ。


「あなたはまだ!! 飛べるッ!! ボクの腕の上に乗って――」


 その瞬間にすべての意図を察した。奴は翔んだ、今ここで。だから、私も――。


 彼女はなけなしの意志をすべて背中に集中させた。そして、片翼が生まれた。

 血まみれの羽根が吐き出され、苦痛の舞を踊る。羽ばたかせる――一瞬だけ宙に浮く。その時、差し出されるシャーリーの腕。機械の腕――ミランダは、そこへ乗った。カタパルトのように。


「……」


 目が合った。うなずいた。それで、決まった。


「ああああ、ああああああ…………」


 それでも男は飛ぼうとした、飛ぼうとした――……。


 ミランダが、はばたかせた。シャーリーの腕部が作動した。杭打ち機の要領で、彼女は――射出されて、完全に『翔んだ』。


 その先に……彼が居た。

 名も知らぬ敵が、化け物が。


 ――銃口を、構えた。

 残り一発。


 片翼の、ただの人間。

 ミランダ・ベイカー。

 ガチャリ。銃口が狙いを定めた。

 羽根が、舞った。


 男は、混乱のさなか。自分に向けられているものに気付いた。全くの無防備だった。もはや、対応する手段さえなかった。

 それは銃口。自分を狙っている。

 彼の羽根が舞っていた。


 男は、しっかりと見た。

 その銃の持ち主。自分にそれを向けている存在を。



 憂いのこもった瞳。長い黒髪。そして、片翼。


 ミランダは――そのバケモノに、もはや元の姿さえ計り知れないモノに、撃った。しっかりと、引き金を、引いた。


 男の中で、すべての時間が引き伸ばされて、一つの事実が反響した。

 これといった感慨はなかった。自分は化け物だから。


 だが、合点はいった。



 ――あぁ。


 ――



 そして、銃声は轟いた。

 ひとつの決着があった。


 それで、終わった。

 彼女は、化け物の名を知らない。


 ざあああああああああああああああああああああああああ。

 雨が、降っている。

 やがてやむことになる、その瞬間まで。



「まぁ、私の仕事としちゃ、こんなところか」


 男は、装備を解除しながら言った。


「面倒な仕事だった。復帰後一発目としちゃあな。だがこれもディプスの命令だ……しょうがない」


 そして男は――瓦礫の街を去っていく。

 その行方は、誰も知らない。

 アンダーグラウンドにいる、誰も。





「そう……明日には雨が止むのね、そして帰ってくる……バカを言わないで。冷めたマルゲリータぐらいしか用意できないわ、でも……お疲れ様。態度が変わったって? 何も変わらない、変わらないわよ、私は…………じゃあ、また明日ね。フェイ」


 ミランダは電話を切って、街頭から街全体を見回した。

 先日のビル崩落騒動の被害はまだ修復されておらず、いたるところにブロック状の瓦礫が散乱している。その隙間を縫うようにして車が走り、街道ではアウトレイスたちがいつもどおり、服を濡らしながら歩いている。陰鬱なブルーの情景。ぼんやりと浮かび上がるのは、電子公告。


 巨大なモニターが、仏頂面のキャスターの顔を映し出し、つい先日何があったのかを語っている。

 

 結果的に言えば、大統領の凱旋、そして演説は成功した。

 彼女は『目的地』に辿り着いた――『セントラルパーク』というのは警察が流した嘘の情報だった。本当は、グリフィス・パーク。そこに彼女とその護衛は到着した。

 そして、ガセを踏まされた暴徒どもをさておいて、一大演説をぶったのである。


『今まさにカメラが収めた通り、わが親愛なる隣国が置かれている環境は過酷極まりないと言っても過言ではありません――この優秀な警官たちがいなければ、私は銃弾に倒れていたかもしれないのです。しかし、しかしながら……私は逃げも隠れもしない! 合衆国大統領として、この『ロサンゼルス』に対し、これからも人道に則った支援を――』


 ……彼女のスーツはピンク色のままで。あれだけ騒いでいた者たちはもう、全てを悪い夢のように封印して元の生活に戻っている。


 世界は何も変わらない。

 ひどい徒労感が、雨とともに流れていく。どんよりと。

 それは虚しいことだ。しかし――ある意味では、安心とも言える。

 もしかしたら、きっと……この街では、そっち側の人間のほうが多いのかもしれない。

 全く救いようがない。最低で、最悪の街――。


「……ということよ。私達の仕事は終わり。帰りましょう」


 後ろを振り向いて、言った。

 そこには、傘を指しているシャーリーが居た。

 場所はストリートのダイナーの入口付近に据え付けられた公衆電話。

 ミランダは雨除けから顔を出して、その傘の中にひょっこりと入った。


「……」


 彼女は動き出さなかった。

 見ると、シャーリーは何か言いたげな顔をしていた。

 すぐそばの道路で、救急車が猛スピードで通過していき、泥をはねる。


「……どうしたのよ」


 思わず聞く。もっと嬉しそうな顔をしなさいな。仕事が終わって、お金が入るのよ。

 ――すると、第八機関最年少の彼女は、こんなことを言った。


「その…………良かったんですか。『その人』と……約束があったんじゃ」


「……」


 よく、覚えていたものだ。

 思わず笑ってしまいそうになる。抜け目のない新人。

 だから、真実を教えてやる。


「ああ――……」


 彼女は、約束の場所に立っていた。

 ほんの少しだけ、いつもより襟を正して。

 そして、待っていた。雨が降る中、濡れたって気にもかけないであろう無骨な彼に差し出すために、もうひとつの傘を持って。頭の中で、その日のプランを整理しながら。何かが心の中で粟立つのを、ひそかにおさえながら。

 待った。

 待った。

 待ち続けた。

 しかし――。


「来なかったわ――彼は来なかった」


「そんな……」


 きっと、私がひどく落胆すると思っていたのだろうな。

 そう考えると……なおさら、この新人が可愛く思えてきた。

 残念ながら、そうではない。


「でも、良いのよ」


 ミランダは、歩きだす。

 それに合わせて、シャーリーもあわてて歩く。

 ステップが、リズムを刻む。雨音とともに。


「それでいいの。もういいのよ、シャーリー……」


 ミランダはそう言って、シャーリーに笑いかけた。

 寂しげだが、さわやかな笑顔になっていただろうか。

 そうなれば嬉しいのだが……隣の新人は、要領を得ない表情をした後、下を向いた。


 ……まぁ、まだわからないだろう。

 しかしきっと、分かる時が来る。

 この、晴れやかな気持ちというやつが。

 ミランダは、歩いた。道は実際よりも、ずっと空いているように見えた。


 しばらく歩くと。


「……」


 見知った奴が居た。というより、飽きるほど見た顔がそこにあった。

 二人同時に立ち止まる。


「……」


 そいつは足をおおげさに開いて立って、片腕を腰にやっていた。そんな格好をしているものだから、せっかく傘を指しているのに、身体の半分が濡れてしまっている。その髪が、きらきらと予定外の艶を放っている……本当に馬鹿だ。

 グロリア・カサヴェテスがそこに居たのだ。

 シトロエンDSを道端に停めて、二人を待っていたのだった。


「グロリア……」


 ミランダは言って。彼女に近づいた。

 すると、その金髪女は、ずかずかと前に進んだ。足元でせわしなく水が跳ねる。

 そして、目と鼻の先へ。

 その腹立たしいほどに青い目が、目の前に。


 ――ミランダには、それが綺麗に見えた。いつだってそうだったのだが。

 ……彼女は、こちらが何かを言う前に、口を開いた。


「……悪かったわよ、いろいろと」


 虚を突かれた一言だった。

 しばらくミランダはぼうっとしていた。隣のシャーリーはなにやら嬉しそうな顔になったが、知ったことではない。


「……ぷっ」


 言葉を返す代わりに出たのは、笑いだった。

 なぜだか、おかしくってたまらなくなった。


「はぁ!? 何笑ってんのあんた……バカにしてるわけ!?」


「違うわよ、違うけど……そうだったら、どうだっていうのよ……くくっ」


「このッ……――ああ、もう」


 そうだ、本当におかしいのだ。

 そして、だからこそ。

 ……肩の荷が、すっかり降りた気がしたのだった。


「あんたって、ほんとムカつく」


「ああ、そう……私もよ」


 お決まりの会話。二人で、見つめ合う。しばらくの間。

それから。


「とっとと帰るわよ。冷えたピザとまずいコールスローで乾杯といきましょ」


 グロリアはそう言って、何時も通りの表情になった。

 すべてを明るく照らすような、未来を向いた顔。

 悪い気は、しなかった。


「……行くわよ」


「……はい!」


 だから、ミランダとシャーリーは、グロリアの後ろについていって、車に乗り込む。


 街のどこかで、ジーン・ケリーの歌声が聞こえている。


 僕は雨の中で歌っている

 ただ、わけもなく

 なんて晴れやかな気持ちなんだろう


 ――今はもう、さして嫌いとも思えなかった。



「知ってるかよ。この間、あの通りで倒れてた死体……」


「ああ、顔面がぐちゃぐちゃで身元が分からねぇってやつだろ。なんだか変な銃を持ってた……」


「警察が来る前に、そいつから諸々パクってったやつが居たらしいんだがよ、そいつがたまげたもんを見つけたらしいんだ、そのブツってのが――……」


 ガラの悪いエンゲリオの二人組が、何やら話をして傍らを通り過ぎた。

 大した意味のない、どこにでもある事柄の話。


 そいつもすっかり、洗い流されていくだろう。



 この雨が、止む頃には。

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