#6 Day6-6
銃声。
続けざまに何発も。遅れて悲鳴が殺到し、今度は音楽も照明もすべて塗りつぶしていく。天井の装置の一部が破壊されたのだ。
いや、それだけではない。
ミランダは周囲を見る。次々と自分の周りから離れていく。何が、一体何が起きている――。
……。
ミランダは、理解が遅れた自分の能天気さを恨んだ。
敵に、道義は通用しないのだ。
相手のしでかしていることは至ってシンプルであり、しかしだからこそ理解が一瞬及ばない行動だった。彼女の周囲で次々と人々が倒れていく。その身体から血を噴き出しながら。
興奮状態の酩酊が、徐々に悲鳴に置き換えられていく。まるで夢から冷めるように。人々は、異常に気付き始めているのである。
血。音楽。悲鳴。それぞれが交錯して、混沌の性質が変わっていく――歓喜が恐怖に変わっていく。誰だ、誰が何をしている、おかしい、自分の周りで仲間たちが倒れていく……血を流して、苦しみながら。
「何が――何が起きてんだッ!!!!」
誰かが叫んだ。
起きているのは死だ。死が起きている。
――敵がやっているのはそれだ。奴は自分の隠れているであろう群衆に向けて、無差別に銃撃を始めたのである。ご丁寧に照明装置を一部壊した上で、である。
そんなことは普通の殺し屋のセオリーではない。反撃される可能性を多分に含んであるし、なによりそんなことをすれば今後の去就に関わるリスクを背負うはずなのに。
――敵は全く躊躇がない。欠片のためらいもなく、凶行に及んでいる。
「どこだ、どこにいる……」
イアンは撃つ、撃ち続ける。群衆に向けて銃弾を。
そのたびに集団の中から悲鳴が上がり、誰かが倒れていく。刹那的な快楽がほどけ、暗闇の中で人々がばたばたと手足を上げながら四方へと逃げていく。そして自分の側には近づかない。前方から弾丸が飛来していることだけは理解しながら、しかしそれが実際にどこから来ているのかは理解できないまま――……祝宴の場は、キリングフロアへと変わる。
「キャアあああああ!!!!」
「誰だ、誰が撃ってる、どこから――」
「ガードを呼べッ、ガードをッ!!!!」
混乱が加速する。ミランダは周囲を見る。
――奴には分かっている。自分が、このような事態を許さない存在であることを。相手と同じ性根であるならば、赤の他人の命など歯牙にもかけないはずだ。
しかし。
しかし――ミランダは、第八機関なのだ。
「くそッ……――」
広がっていく暗闇の中、ミランダは打開策を探した。
半ば本能的に、盲撃ちの銃弾を回避しながら。
そして――見つけた。
どこまでも広がって見える空間にも終りがある。
フロアに入ったときから気付いていた。足元に満遍なくまかれている白いモヤ。
スモークだった。ならば、その発生源があるはず――。
「これだッ……」
ミランダは据え付けられたスモークマシーンを探し当て、その噴出孔を前方へ向ける。それから手探りで――幾分かの罵倒を交えながら――スイッチを見つけ。
……出力を、最大にした。
目の前に白い煙が爆発するように発生し、それと同時に新たな種類の悲鳴が湧き上がる。だがそれも仕方のないことだ。これで幾分かの命が救われる。
人々は叫び、混乱する。彼女の周囲でうろたえ、四方に散っていく。身体が押しのけられ、何度もぶつかった……だが、これで。
銃撃が、ピタリと止んだ。
――ミランダは確信とともに、混沌の中で拳を握る。
奴はあの煙の中だ。そうなれば。
ミランダは、叫んだ。
「銃撃よ――――みんな、伏せてなさいッ!!!!」
混迷する状況の中、その一声は絶大な効果があった。皆、ミランダを教祖か何かのように考えたのだろうか。それはわからないが、とにかく騒いでいた者たちは、弾かれたように頭を下げ、地面を這いつくばり始めた。
状況を掴めている者が一体どれほど居るのだろうか……それは関係ない。答えは、間もなく出る。
「…………ッ!!!」
そう、まさに今。
ミランダの狙い通り。
煙をかき分けて、振り払おうとする奴の姿が、一瞬白煙のはざまに見えた。
それはほんとうに僅かな時間の隙間であったが……彼女は、逃さなかった。
一気に駆けて、敵めがけて突っ込む……そのまま白煙の中へ。
奴は目の前。その襟首を掴んで、今その頭に銃口を突きつける――格闘戦。
……だが。
「……――ッ!!」
「…………」
今彼女の目の前に居るのは。
完全なる獣化を果たしたモロウだった。
――まさか。この混乱の中、心を殺意だけに染め上げたというの?
――そんな芸当が……一体どれほどの精神力が、いや、狂気が、こいつを染め上げているの……。
――こいつは、一体何者なの。
その思考が答えにたどり着く前に。
ミランダは身体に強い衝撃を感じた。
直後。
――彼女は身体を針金のように折り曲げて吹き飛んだ。
怪しげなシャンパンがうず高く積もったディナーテーブルに身体がぶつかり、その髪と顔がどろどろに濡れる。
……鈍い痛み。一瞬理解が遅れる。私はヤツに吹き飛ばされた。白煙の中で。無防備だと思っていたから。しかし違った、そうなれば、次に来るのは。
「――……まずい」
そう呟いた矢先。
白煙を切り裂いて、猛禽が飛び込んできた。周囲に突風。会場の雑多なオブジェクトが吹っ飛び、周囲に居た人々を一瞬でさらなる恐慌へ誘う。そしてその槍のような身体すべてが。
「ッ、あああああああ!!!!!」
ミランダを、ディナーテーブルごとぶっ飛ばす。強烈な体当たり。後方に何があるのかも感じる余裕がなかった。そこに広がるのは宵闇だった。――雨の夜。いつの間にか夕暮れは過ぎていて、あるのは一面の窓ガラスだった。
……割れるガラス。
ディナーテーブルとともに、ミランダは落下する。
体当たりの衝撃が彼女の意識を一瞬吹き飛ばす。
浮遊感――……ミランダは目を開ける。
……やぶれた窓から見えるのはこわれかかった極彩色の光の帯。その縁に足をかけて、こちらを見下ろしている存在。巨大な猛禽……それが今、再び翼を構えて。
――こちらに向けて、飛翔を開始した。
周囲に羽根が舞ったのが見えた。
――あの異空間から一転。戦いの舞台が変わる。
それがミランダを、さらなる窮地へ誘った。
ミランダは思考を高速で回転させる――現状分析。割れたビルの窓から落下。奴は上から降り掛かってくる。自分はどうすべきか。羽ばたいて空中戦? いや、地の利は向こうにある。それなら無謀だ、だったらどうする――……、
ミランダはヤツを見た。
「……!!」
すると、道はひとつに絞られた。
……視界、ピント合わせ。
奴は、こちらに向かってくる。
……その鉤爪に、人質を一人抱えて。
「助けてくれぇーーーッ!!!!」
顔中にペイントを施した男が空中で宙吊りにされて叫んでいる。様子を見る限り、あの饗宴の中からピックアップされた者であるらしい。恐怖に顔を歪め、股からは失禁している。
ミランダは銃をそこに向けた。
しかし、その瞬間。
銃弾が、雨と一緒に降り注いでくる。視界が飛沫でブレる。
彼女は肌でその殺到を悟るしかなかった。
……回避する、回避する。地面に着弾。
見上げると攻撃が降ってくる――待て、奴は今何発撃った? 奴は今どういう姿勢で撃っている!?
わからない、何もかもがわからない。この雨の中では、何も。
奴はこの瞬間を狙っていた。おまけにこちらから下手に撃てば、あの人質に当たってしまうかもしれない。だから、それは出来ない。
奴は理解している――こちらの心理を。
一旦ここから逃げおおせるか――?
いや、そうなれば最後だ。見失い、結果的に奴は大統領のところに向かう。
そうなったら一巻の終わりだ。
……離さない。ヤツからは目を離さない。
こちらが、どれほどのダメージを負おうとも。
ミランダは意を決した。
――そして、背中にあった狙撃銃を展開し、構える。
翼をはためかせたまま、落下する。
そのスキに、容赦なく銃弾が降ってくる。
「ッ……!!!!」
身体のどこかを、銃撃が貫いたのを感じる。
奴がこちらを撃っているのは拳銃だ。ならばやつはまだ本気じゃない。
しかし、こちらは……本気を出さなければならない。
地面は迫ってきている。羽根が上へ上へと舞っていく。
ライフルを構える。そして、真上に構える。
雨で濡れる視界の真ん中に、奴を据える。大丈夫だ、見えている――奴は見えている。
……また銃撃。再び、どこかが射抜かれた。
構うものか。
狙いを定める――……くそっ、雨が鬱陶しい。まるで定まらない。人質を解放するには、奴の手元だけを狙わなければならない。どうすればいい、どうすれば――……。
その時。
豪雨とともに混ざって降り注ぐ殺意にさらされる中。
彼女の背中を撫でた――雨粒。
冷たい。
痛み。
それは……彼女の記憶に触れた。
一瞬で通り過ぎていくのは無数の顔だった。そのどれもが血にまみれている。彼女の銃が守ったもの。殺したもの。それぞれが彼女に言葉をかけていく。呪詛。憎悪。あるいは、反転する情愛の言葉。
すべてが背中の羽にのしかかっていく。引き裂かれるような痛み。だが、それに耐えた。今までなら不可能だったかもしれない……だが、彼女は耐えた。
次に現れたのは……将来をともにすると誓ったはじめの男の顔だった。その顔は呪いと怒りに包まれていて、決して変わることはなかった。しかし、彼女はその顔にも耐えた……耐えて、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて――――――…………。
気付けば、ほんの一瞬、彼女の視界はクリアになった。何故かは分からなかった。極度の集中が彼女の中に現れて、邪魔するものはなにもなくなった。
銃口は、敵の手元に向けられていた。はるか先の針穴に糸を通すよりも困難な作業のはずだった。しかし……ミランダは、ためらわなかった。
気付いた時には、無心でトリガーを弾いていた。
銃声。
――再び、雨がミランダを打ち据える。だが現実は変わった。
……視界の先で、敵の手元から血が噴き出していた。それと同時に人質は解放されていた。一瞬だけふわりと宙に浮かんだように見えて、次の瞬間には、落下をはじめた。
電撃が彼女の脳を駆け巡って、次の行動を決めた。
敵は手元を撃たれて空中でひるんでいる。だがそちらを見ない。
彼女は翼をはためかせ、一気に加速した。落下の抵抗は大きかったが、負けはしなかった。人質は落ちていく、落ちていく。そこに向かって、一筋の風となって飛んでいく。間に合え、間に合え、間に合え――……。
彼女に向けられる銃口を感じる。
奴は苦しみながらも照準を合わせてきた。手放した人質ごとこちらを撃つ気だ。
「ッ――……させるものかッ……!!」
彼女は小さく吠えて、手を伸ばした。人質がそこに居た。
彼は信じられないような顔をして自分を見ていた。
だが、手を掴んだ。
あたたかい感触。
続いて、背中に猛烈な痛みを感じる。熱湯で貫かれたような。
「…………ッ」
気付けばミランダは、人質をその翼で包み込んで、抱きしめていた。そして、その背中が、銃弾を受け止めたのである。
「……!? !?」
狼狽えるか弱い男。銃撃は、なおもミランダの背中に突き刺さる。血が噴き出して、背中の羽根を濡らす。痛みに意識が飛びそうになる。だが、羽根を展開することはやめない。巨大な傘のように、人質を守り続ける……そして少しずつ落ちていく、落ちていく……。
相手は焦りと痛みからこちらを撃っていることは明白だった。まさかあの雨の中、しかも地の利を失った状態で、正確に一点を『狙撃』するなどとは思わなかったのだろう。だが、ミランダにはそれが出来た……出来たのだ。
更に彼女は……そんな相手による苦し紛れの銃撃を受けて落下しながらも、冷静に次弾を用意していた。羽がカモフラージュになっていた。痛み、痛み、痛み、痛み――……目の中に衝撃がはしって、視界が真っ白に染まる――――……。
――だが。
「ッ…………ああああああああああっっっっ!!!!!!!」
彼女はその瞬間、身体を捻って、銃口を相手に向けた。無論人質はしっかりと守ったまま。その動きは、相手の虚を突いた。
ライフルから、銃弾は放たれた――……拳銃の一撃が、ミランダの腹部に食い込んだ。
だが。
彼女の放った弾は、相手に命中した。
血がほとばしった。それが何よりの証拠だった。
「……」
――『やった』。
その実感とともに脱力が現れて、彼女は落下していく……地面へ。夜の地面に張り付いた、LAの地上へ。
視界の僅かな端に映ったのは、敵がささくれだった羽をはためかせながら、ふらふらとビルの向こう側へと落下しながら消えていく様子だった。
――奴は、逃げたのだ。
だが、あれで大統領の殺しには及べない。
ミランダには奇妙な確信があった。
そして――決着も、まだついていない。
彼女は、落下していく。
「ひいっ……ひいっ……――」
男は震えていて、自分が何によって脅かされ、何によって守られたのかも分かっていないような状態だった。
痛みの中、地面へ。曖昧になっていく意識を羽の先端に注ぎ込みながら。
◇
雨のLA――とっくに見飽きたはずの光景は、周囲に人がまるで居ないことにより、すっかり馴染みのないものへと姿を変えていた。
ノイズが走ったような雨音。夜闇のなかで、各所の電光掲示板だけが猥雑な光を無秩序に放射する。立ち並ぶビルディングの大半に明かりは灯っていたが、そのうち外側に向けて光を放っているのはダイナーぐらいのものだった。
その光は牛乳を腐らせたような猥雑な色。
そんな光を受けながら、ミランダは降り立った。
血の滲んだ翼をゆっくりと折りたたむ。
地面に両の足がついた瞬間、彼女はその場で崩れ落ちてしまった。駄目だ、痛みで意識が――ああ、冷たい、冷たい……そうだ、あの男は。私が助けたあの男は……。
顔を上げる。
彼はそこに居た。
所在なさそうにこちらの顔を見て、周囲をキョロキョロするという動作を繰り返している。
「よかった、無――……」
再び、強い痛み。意識を失いそうになる。
「ちょっと、ねーちゃんッ!! おい勘弁してくれ、畜生警察め、どこ行きやがった……人っ子一人居ねえのかよッ!!」
ぐらりときた彼女の体を支えたのは、他でもないその男だった。なるほど、この男はこんな声も出せたのか……どうやらすっかり『酔い』からは覚めたらしい。とにかく無事で良かった……――。
地面に膝をつく。
それから、暫く黙る。立ち上がる。
男に背を向ける。周囲のネオンの光が、非難するように彼女を見る。卑猥で粘っこい優しさに満ちた、LAの光だ。それと棕櫚の木を合わせれば、完全なロサンゼルスの再現と相成るわけだ――。
ふらつきながら、ミランダはその場を去る。
格好をつけたわけでもなんでもなく、他にとる手段はないように思えたから。
だから、そのまま男の前から消えていこうと思った。こんな危なっかしいことに巻き込まれたのは、ひとえに自分たちのような狂人が居たからだ。この男が今後の人生を(アシッドまみれで)幸せに過ごすのならば、今日起きたことはいっときの夢だと解釈してくれたほうがいい――……。
だが、しかし。
「なぁ、ねえちゃんっ……!!」
雨が降り、もげた羽根が地面に散らばっていく中、彼はミランダに声をかけた。
「あんた、名前教えてくれ! ほんとうに、死ぬかと思ったんだ、いやマジで……そこに、あんたがきた……」
声は震えていて、どうやらジェスチャーも多分に混じっているらしかった。いじらしいこと、この上ない。だが。
「……」
返事もせず、ミランダはふらふらと立ち去っていく。男は追いすがり、更に声をかけようとした――そこで、一喝。
「来るんじゃないッ!!」
男はびくりと硬直し、押し黙る。
「私は狂ってるのよ……あなたはそれに巻き込まれた。だからとっとと忘れなさい。でなきゃ、また巻き込みに行くわよ。狂人のジルバに」
強く言った。
男は黙ったまま首を縦に振った。
……それでいい。
ミランダは、そのまま夜闇に消えようとした。
「……分かった、わかったよ!! 俺はこのまま消える!!」
男の声。
立ち止まる。
「でもな、これだけは言わせてくれ――」
そして、彼は、言った。
「たとえあんたが狂った女だとしてもよっ、俺は今日のことを忘れやしねぇよ、あんたは恩人だよ……英雄だよ!! 狂人だったとしても、救った命があるんだぜ!! 俺があんたを忘れても、あんたはそれを忘れないでくれや!! あんたは俺のヒーローだ、じゃあな!! これでばいばいだ、ちくしょうめっ、道が分からねぇや――」
と。
彼はそのまま、ミランダと反対側の道に消えていった。ふらつきながら。
「……」
ミランダは、彼が去っていくのを見た。
彼の言った言葉が、引っかかって離れなかった。
……滑稽でたまらなかったからだ。
「この私が……英雄ですって……?」
なぜ、その言葉に感じ入るものがあったのだろう。
彼女はビルの壁に背中を押し付けて、暫く考えた。
――答えが出た時、彼女はおかしくてたまらなくなった。
「っ……ふふ」
なぜなら、その時思い出したのは、他でもない……シャーリーと、グロリアの言葉たちだったから。
自分がこうなる前に、彼女たちが言った言葉が、ようやく分かったような気がしたのだ。
それは、ひどく脱力したような、不思議な感覚だった。
長い蛇行する山道のすぐ近くに、最短の道があったことを後から発見したような。
……だが、それは、思いの外不快ではなかった。
それどころか。
――なんだろう。なぜ、こうも身体があたたかいのだろう。
――“過去にばかりとらわれて、今を見ていないあんたが、この世界を、救えるわけなんかないんだわ”。
ああ――その通りだとも。だったらどうする? それは、あの子が教えてくれていた。
――“あなたの前だったら、純粋で、強くあろうとすることが出来るんです。そんな自分にたったさっき気付いた。だから、あなたに会いに来た”。
「なんだ……答えは、出てたじゃない」
笑ってしまいそうなほど陳腐な結論。
ここまでかかってしまったのか、本当に救いようがないバカだ、自分は。
――しかし。たどり着いた。
ようやく、この瞬間に。
「……過去じゃない……私が、生きてるのは……あの子達の、居る……――」
行動は決まった。
髪を振り乱して、壁から離れた。
ライフルを持つ。
そして、走り出す。雨の中へ。
ざあああああああああ、雨の音。耳の外側から内側を突き抜けて、通り過ぎていく。駆けていく、厚底のブーツが滑りそうになる。構うものか。周囲に人は殆ど居ない、だがそれでも時折自分のそばをすり抜けていく。「よう姉ちゃん、そんなに急いでどうしたんだい――」やらなきゃいけないことがあるのよ、邪魔しないで。走る、走る、雨の中を。
……何処かで轟音が聞こえている。サイレンとともに。
あの無茶苦茶なビルの崩落はまだ続いているのだろうか?
わからない――だが、関係ない。やることは決まっている。
疾走――息が、口から漏れた。背中から、ライフルを取り出す。やり方は教わったとおりだ、的確な動作で分割し、肩のサスペンダー装置に取り付ける。その時点で彼女の脚部は変形をはじめている。その疾走は、地面をえぐるようなものから、滑るようなかたちに。
一度たたんだ背中の翼が盛り上がっていく。
ライフルの取り付けが完了する。走る、走る――。
「……――ッ!!!!」
そこで。
血が噴き出した。
……身体のいたるところから。どれほど撃たれたのか、計上していなかった。
今走っていることそのものが奇跡に近いのだと思い知る。
足から靴が脱げて、その場で転倒する。
ヒトからトリに変わりつつある、中途半端で醜い化け物――おまけに三十代もなかばに差し掛かる。そろそろ小皺のケアも考えなきゃならない年頃。倒れ込む、ざざざっと。コートがどろだらけになって、膝を盛大に擦りむく。腕もおかしな方向に打撲した。ようおばさん、あんたは一体何をやってる? そんなに惨めで――……。
――何をやってるんだ? こんなことをしてなんになる? お前はどうせ――……。
「……――そうよ」
だが、もう――ミランダは。
それらのすべてを、否定しない。
地面に手をついて、起き上がる。
鼻血が垂れる。そのままにする。垂れるだけ垂れればいい。どうせ風邪をひく。そんなこと知るか。キムやシャーリーが看護してくれる……今はどうだっていい。立ち上がる、立ち上がる――……。
「私の生存を……邪魔するな……私は、第八機関の……」
彼女は、空を見上げた。
「――ミランダ・ベイカーだッ!!!!」
雨に向かって叫ぶと同時に、彼女は翼を広げた。大きな大きな、猛禽の翼。
今までよりもずっとぶ厚く狂暴な――すべてを刈り取るかたち。
白と茶のまじる羽根が、夜のLAのストリートに広がって、空間を緩やかに埋め尽くす。
その瞬間に彼女は、鷹の姿そのものになっていた。しかし、現実の鷹ではない。それは、奇妙なフォルムだった。ヒトと、動物の完全なる融合――。
そう、それこそが。モロウとしての新たな姿。
彼女は今、その領域に足を踏み入れた。
「……――ッ」
そして彼女は飛び立つ。
無限の夜闇の中へ。
翼がはためくと、突風が巻き起こった。新聞記事やガラスの切れ端が、周囲に飛んだ。だが、何者も傷つけない。
……それからはもう、そこに彼女は居ない。
腹部に一対の炎を抱えた異形の猛禽が、今、雨の夜にふわりと浮かび上がる。
――彼女はその瞬間、眼下に街を見た。LAの街。アンダーグラウンド。
しかし、本当に一瞬だけだった。
ビルの狭間から、ゆらりとそのフォルムが見えた。
――敵だった。
撃ち落としたはずの。
それが今、向かい側に居た。
しかし――彼の姿は変貌していた。
何もかもが……変わり果てていた。
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