#4 Day6-4

 『標的』はまさにその瞬間、翼を広げた。崩落するビルディングをあとにして、上空へと飛び立とうとする魂胆。


 リカルドにははっきりと見えた。奴は我々など眼中にない、はじめから。


 今まさに、その場を離れようとする彼の姿が、斜めになった視界にうつる。後方では部下たちが悲鳴を上げながら落下していく。だが、この機会を逃す訳にはいかない。リカルドは歯を食いしばり――……。


「ッこのおおっ!!!!」


 崩れていく瓦礫の上を駆けながら、彼に向かって手を伸ばした。


 すぐさまその『力』が解放されて、彼に向かって鉛の弾が発砲される。破裂音。はためき。彼の翼が視界を埋める。足元がおぼつかなくなる、重力を感じる。だが、それでも――……。


 リカルドは、撃った、撃った、撃った。その両腕の銃で、標的に向けて。

 だが、非情にも。

 彼は落下する――……。


「あとは……」


 彼の脳裏に浮かぶのは。


「――頼んだよ、ロットン」



「――ッ」


 その声は、届いていた。


 標的は、崩れていくビルの狭間で、確かに姿勢を崩した。飛び立つ直前の足を、リカルドに狙われ、そして実際に、僅かに穿たれたのだ。彼は足がもつれ、飛翔が遅れてしまった。


 その瞬間を、ロットンは逃さない。


「GRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!」


 ――彼は己の獣性を全開にして、一匹の獣となった。

 そして、崩壊するビルから、今まさによろめきながら飛び立った半獣の標的に飛びかかり、食らいついたのである。


「っ……――!!!!」


「AAAAAAAAARRRRGHHHHHHHHH!!!!!!!!!!」


 標的は未だに人間の身体を残している。完全に力を開放できていない。左右に崩壊するビル。混沌のさなかにあるストリートの上空、標的はふらふらと翼をはためかせながら左右にスイング。

 胴元に唐突に食いついてきた一匹のモロウを振り払おうとその身をゆする。だが、ロットンは離れない。がっちりと、その爪が標的に食い込んで出血が始まる。標的の腰には拳銃があった……だが、そこにも手が伸ばせない。ロットンが、それをさせない!



「ッ――…………」


 思わぬ邪魔が入った。イアンは苛立ちとともに翼をはためかせる。

 修道服が邪魔だった。今すぐ脱ぎ捨てて、この鬱陶しい獣を地面に叩き落としたかった。目眩がする。

 ビルにぶつかりそうなラインを飛び回りながら、振り落とそうと必死になる。だがかなわない。手に持った銃は取り回しが悪い。この獣を追い払わないことには、どうにも。完全な獣化も今はかなわない。


 モロウは胴体の衣服をびりびりに破り捨てながら、首元にまでその爪を伸ばしてくる。激痛――制御が効かない。翼が思うように動かない。立ち並ぶビルの群れと地面が視界の中で撹拌されて、嘔吐感を催させる。

 なんとかしなければ、なんとかしなければ――……雨、雨、雨、雨――……!!!!



「そらよ」



 食いつくことに夢中になって、ロットンはその瞬間になるまで『それ』に気付かなかった。何かが風を切る音がして、ようやくそちらを向いたのだ。


 ――砕けて落下していったと思われていた瓦礫の欠片が、まるでサイキックで操られたかのように漂い、急激な方向転換を経てこちらに向かって飛んでくるのが見えた。ミサイルのように。


「――……落とすだけじゃねぇってのか!?」


 驚愕。

 標的はそれを避けた、避けた、避けた。激しく体が揺れて、ロットンに嘔吐感を催させる。視界がぐるぐると回転して、状況が混乱する――……間もなく着弾。


 轟音。反対側のビル――崩れかけ――に、『瓦礫ミサイル』がぶつかって煙が巻き起こった。


「……」


 唖然とした。してしまった。なんだあれは、LAPDに収められたあらゆるアウトレイスのデータは閲覧済みで、過去のどいつにも、ましてやディプスにもあんな力は、アレは一体――……。


 その思考の空隙……一瞬、標的に突き立てた爪を剥がした。剥がしてしまった。その瞬間である。

 どすん。


 腹に重い衝撃。

 見ると、標的は自分を振り落としていた。そして、その脚で腹部を蹴りつけていた。ふわりとした感覚をおぼえたのは一瞬――……彼は落下した。


「がああああああ!!!!」


 標的は――こちらを見下ろしていた。冷たい瞳。ロットンの中で悔しさが膨れ上がる。


「なんなんだ畜生おおおおおお!!!!」



「壊すのも創るのも――全ては私の仕事だ。お前らじゃない」


 傲慢に、彼は告げる。


「数年前はさんざんやってくれたものだな、お前ら。もう私は健康体そのものだ。いつでもフットボールのフォワードを張れる。ここからだぞ。すべては私だ、私達だ。重ねて言うぞ、お前らじゃない。お前らじゃないんだ」



 ロットンは、停車中だったパトカーの真上に落下した。鉄がひしゃげて、鈍い音をたてる。


「ぐええっ……」


 呻きながら身を起こす。


 既に獣化は解除されてしまった。獰猛な攻撃性はすっかり心から消えて、妙な冷静さが戻ってくる。雨で、身体が冷える。


 ――1台、おしゃかにしちまった。これはまた課長オヤジに詰められるパターンか。


 なんとなくそんなことを考える。だがそれどころじゃない、すぐに思考を切り替える。


「っ……大丈夫ですか、ロットン…………」


 心配そうに駆け寄ってきたのはリカルドの班の部下だ。その身体は既にぼろぼろである。見上げると、標的が居たはずのビル上部は、まるで板チョコを割ったかのように規則正しく崩れている。どうやら彼はここから落下したらしい。だが生きている。


「ああ、俺は大丈夫――」


「があああああああ、またてめぇらSCCか!! ふざけんな、俺のクルマをてめぇ!!!!」


 手に中華料理のパックを持ったレインコート姿の警官が走りながら寄ってくるなり叫んだ。この車の持ち主だったらしい。だがあいにく――お前のじゃない。

 ロットンはそう言おうとして、視界を巡らせる――……。


「今がチャンスだ!!」

「あのババアをぶっ潰せぇッ!!」

「行くぞ!!」


 既に道路と歩道の垣根は決壊していた。ロットンが見たのはそんな光景で、今まさに路上にくすぶっていた暴徒たちが、大義名分を叫びながら……おのおの武器やプラカードを掲げながら、大統領を乗せたリムジンの通った方向に向けて、雪崩を打ったかのように暴走を始めたのである。


 モロウ、テロド。例外なく薄汚れた身なりをして、暗く淀んだ目を宿した者たち。誰も彼もがこの現実に強い憎悪を抱いている。極彩色の上に灰と藍色を塗りたくられた、多種多様な化け物たち。


 その彼らが、濁流のごとく流れていく。支配しているものは狂気。良心によって歯止めがかかることもない。雨。ひどく寒い……いともたやすく、人は冷静さを失う。駄目だ、その先は駄目だ……。


 ロットンは叫ぶ。


「アホがてめぇら、まずは自分の身を守りやがれっ!! こいつはもう!! ただのパレードじゃねぇんだぞッ!!!!」



「くそッ……」


 車は停まってしまっていた。隆起する地面は、まるで地下から東洋の龍が這い出てきて、アスファルトの上で力尽きたようなありさまで後方にいくつも斃れている。そして、絶え間なく降り注ぐ――というよりはこちらを狙って飛んでくる瓦礫。

 その2つによって道路は荒れ果てて、後続車はその一台を追うことをほとんど諦めざるを得なかった。


 ……今しがた、キーラの運転する黒いリムジンは、コントロールを失って路上の赤い消火栓に衝突したのだ。フロントガラスは割れて、バンパーはへしゃげてしまった。エアバッグは作用したが、無理な姿勢で強引に運転へ割り込んだ彼女は……額から血を流していた。


「目、目が、目が回る……」


 ジョニーボーイが呻く。キーラは額をおさえながら、一瞬意識が遠くなったのを感じた。しかし、すぐさま後方を振り返る――……。


「何よ、なんなのよ……やりすぎよ…………」


 『彼女』は後方に居た。真っ青になって震えてはいるが……生きている。

 そこに安堵する。


「ジョニーボーイ。彼女にブランケットを」


 彼女の隣に戻ったキーラが言った。


「……」


 彼は答えなかった。

 口を開いて、目が前方を向いたままだった。


「おい? ジョニーボーイ……――」


 キーラは、割れたガラス越しに……彼の見ているものを見た。



 怒声を上げながらこちらに向かってきているのは、暴徒の群れだった。数は決して多くなかった。だが皆統率がとれていた。一つの思想によって――『殺せ、大統領を殺せ』『俺たちを見捨てたあの国の代表を潰せ』。


 その音は、声は一秒ごとに大きくなる。海鳴りのように。やがて全ては呑み込まれてしまうだろう。この雨のように。

 ……キーラは歯を食いしばって、後方を見た。守るべき者はそこに居る。


「……てめぇらには、同情しないこともないが。矛先を間違えるな……」


 小声で呟く。

 ジョンに渡されたブランケットで彼女を抱く。それから、小物入れから小さなカプセルを取り出して渡す。ミネラルウォーターのペットボトルとともに。飲みかけだが、とやかく言う暇はないだろう。


「これは……?」


「気分が落ち着きます。飲んで」


 そのまま、今度は完全に運転を代わる。ジョニーボーイは青ざめた顔のまま、無言で助手席に移動する。


 シートベルトもしめないまま、アクセルをふかせる。

 だが……。


「くそッ!!!!」


 動かない。呻くような音を立てるばかりで、その場から離れる気配が一切ない。先程の攻撃で、内部のどこかをやられたのだ。ミラーを見る。『彼ら』は迫ってくるばかりだ。


「ッ……――」


 万事休す。キーラの頭が高速で動いて、今すべきことを考えた。だが、詰み、詰み、詰み――……。


「クリス……今どうしてる」


 通信する。


『クソみたいな瓦礫に阻まれて動かねぇよ。俺たちは次に何をスクラップにすれば良いんだ? ゲホッ……』


 ――なるほど。

 奇妙なほど冷静な頭で了解する。


 クリスは……戦力外。

 ――もし、戦力に加えるなら。

 それは、向かってくる連中そのものを巻き込んでしまうことになる。

 クリス・カヴィルの力は――危険すぎるからだ。


 ……それを察してか、通信の向こうから声がした。


『俺は無理だ。あんたの所には行けない』


「良いんだ……どんな奴にも『使いどころ』ってのがある。気にすんな、オーバー」


 通信終わり――。

 ――――……。

 そこで。

 戦慄が走る。


 ――。



 スコープは狙いを完全に定めていた。


 その先にあるのは、ピンク色の趣味の悪いスーツを着た女。諸悪の根源。今おれは、正義のためにやつを殺すのだ、そうだろう親父、そうだろう――。

 リフレインする言葉とともに、彼は息を吐き出した。


 そして、見知らぬ屋上で十字架を構え――トリガーを、弾く――……。


 そう。


 全ては、それで終わるはずだった。

 しかし。


 ……羽ばたき。舞い散る羽根。視界を邪魔する。標的が身じろぎして、狙いから外れた。


 彼はライフルを降ろして、上を仰ぎ見た――。


「…………!!!!」


 二発、三発。


 銃弾が飛来した。当たらなかったが、彼の後方に着弾して大きな穴を開けた。焦げ臭い音。特殊な弾頭であることは間違いない。瞬時に判断する。あれは、対アウトレイス用の炸薬だ。こんなものを撃ちこなす奴が居るのか。居るのか……!!


 そこに居たのは、ニット帽を被ってサングラスを被った見知らぬ女だった。向かい側のビル――こちらよりも高い――屋上から、完全にこちらを狙って撃っていた。向こうは撃ち損じたことに気付き、銃を降ろす。


 ――失敗した。殺しに。

 今まで一度だってあり得なかった。

 それを、奴は邪魔をした。


 なぜ、羽根が舞ったのか。

 向かい側に居る存在の正体が何であるのか。


 2つとも彼には分からなかったが、関係なかった。

 ――……なるほど、既に地上ではその攻防に気づいていたらしい。呆けたように顔を上げて空を見上げている若い黒人が居た。


「……舐められた……――!!」


 その事実だけで十分だった。

 彼は――イアンはしゃがみこんで、怨嗟と憎悪、殺意をすべて抱え込むように、深く息を吸い込む。


 間もなく。

 バサリと音を立てて、巨大な翼が藍色の空に広がり、彼はビルの縁を蹴って飛翔した。

 ――目標変更。

 まずは、あのスナイパーを確実に殺す。絶対に、絶対に。


 ……イアンの姿が徐々に変わり始めていく。半獣の姿から、完全なる猛禽へと。同時に、銃の持ち方も変化。衣服を割くように現れた凶悪な鉤爪が、十字架の横部分をしっかりとホールド。


 腹に巨大な槍を抱えたような姿に――ジェット機のような姿になる。それは雨の空を切り裂いて、正体不明のスナイパーへの特攻を開始した!



「……動いた」


 ミランダは呟く。こちらに向かって突貫する黒い先鋭的なシルエット。


 危なかった。

 奴は一体何者だ。

 あの数発がなければ、今頃大統領は――……。


 ……『もし』はもう考えないことにした。ミランダの思考は冴え渡っていて、驚くほど冷静だった。しかし、その胸のうちには説明のつかない熱いものが煮えたぎっているような気がした。


 言葉は不要。

 彼女は咥えていた煙管を投げ捨てて、同じく翼を展開する。ただし、ヒトの姿は捨てずに。


 そのまま、彼女もまたビルから離れた。

 飛び立つ、構える。標的が迫る、銃口を向ける。

 翼が舞う。

 ふわり……重力を一瞬感じなくなる。

 ――間もなく、すべてが高速の世界へと引きずり込まれ、両者が衝突する――……。



「『あいつ』なのか……」


 上空で起きたことを、キーラはハッキリと見た。

 ――奴が来た。あいつらのうちの一人だ。でなければ、とっくに……。


 後方を見る。怯えるピンク色のスーツ、けばけばしい化粧。塗りたくられたような金色。ぞくりとする。


 歯噛みする、また奴らに――だが、すぐに思考を切り替える。今大事なのは、このムカつく御仁に最高の安全をプレゼントすることだ。そのためには。


「……ッ!!!!」


 今まさに、車の上に降り掛かってきているブロック状の瓦礫から逃れる必要がある。


 見上げる、落ちてくる。

 どうする……自分の力だけでは限界がある。視界は雨と、瓦礫の群れで覆われる。どうすればあれから逃げられる、いや、立ち向かうべきか、一体――……。


「ジョニーボーイッ!! 彼女を守れッ!!」


「そんなこと言ったってッ、こっちには――……」


「いいからッ!!」


 キーラは覚悟した。

 あそこまでは届かない。アレを粉砕しても、いくつかの破片はその身体に浴びることになる。そうなれば、車の中であっても無事で済むかどうか……。


 『安全』は届けるが――『安心』は彼女には与えてやれない。

 瓦礫が唸りをあげて落下してくる……。


 と、次の瞬間。


 何か、赤い帯のようなものを彼女の視界の端にうつった。

 それは停止したリムジンの屋根の上を踏みつけて足場にし、高く舞い上がった。それから……。


「うぉりゃああああああああああッ!!!!」


 赤い帯はマフラーで、ジャンプしたのは少女だった。それは一瞬で起きた。彼女の腕の機構が展開されて、落下する瓦礫に差し向けられて、放たれた。


 轟音。瓦礫は粉々に粉砕される。

 ふわりと、再びマフラーが舞う。

 彼女と目が合った。


 ――赤いマフラー、黒いジャケット。


「…………ッ!!!!」


 躊躇している暇はなかった。

 キーラは粉砕された瓦礫の一片がこちらに向けて落ちてくるのを確認して、すぐさま行動に出る。


 ……ひとつ。車から大統領を掴んで、無理やり引きずり出す。悲鳴は無視する。

 ……ふたつ。彼女を抱きしめたまま戸外へ。


 みっつ。

 ――瓦礫の欠片が車に刺さって、爆発炎上する。


 キーラは間に合った。車外にスライディングして転倒した。彼女を守ったまま。

 そのそばで、ジョニーボーイがへっぴり腰で倒れている。


「……」


 燃え盛る炎。その反対側で、瓦礫のもう一片が落下。ものすごい音をたてる。


「良かった……」


 キーラの目の前に、彼女が降り立つ。ゼラニウム色のマフラーをたなびかせて。


「お前……」


「今度はこっちが、助ける番です」


 ひどく明朗に、彼女は――シャーロット・アーチャーは、言った。

 炎の照り返しを受けて、降りしきる雨の中にあっても、その明るい声ははっきりと聞こえた。



「といっても……」


 そして暴徒。


「助けるのは、ボクじゃない――ボク達です」



 キーラ達に迫る暴徒たち。

 その一部が、突如として反転する。

 まるで、糸で操られたかのように。


「な、なんだ――」

「身体が勝手にッ!?」


 そして流れが変わる。


 群がってくる仲間たちに対して、彼らは突然反旗を翻した。向きをくるりと変えて、攻撃を始めたのである。唐突に突然に。皆戸惑っていた。そのまま流れていくだけの自分たちの一部が、突如として裏切った――ように見えたからだ。


「お前ら何してんだ!!??」

「なんで俺たちを攻撃して――」

「違う!! 違う!!」

「身体が勝手に!! 動き出すんだッ!!」


 悲劇は、喜劇へ。

 暴力の濁流は、あっという間に茶番劇になる。大統領を呑み込んで、怒りと憎しみの中で吊るし上げるはずだった彼らは、今まさにキーラの目の前で殴り合い、蹴り合い、もみくちゃになる。


「……」


 呆然と。とんだファルスである。

 しかし、キーラにだけは、彼女にだけは、それがどういうことか分かっていた。


「……あいつら……――」


 歯ぎしりする。

 ――こんなことが出来るのは、あのうわついた金髪女だけだ。


 シャーロット・アーチャーだけでなく、奴も来ていたのだ。そして、さらりと自分たちの味方を――いや、大統領の守護をやってのける。


 連中はいつもそうだ、自分たちの上澄みを、血と泥に塗れながら――本気で取りに来る。


 くそったれな機構の中に呑み込まれて、いつも後手後手に回らざるを得ない自分たちを差し置いて……『街の危機はあんたらの領分だけど――世界の危機となっちゃ、あたしらの領分よ』と言わんばかりに。


「くそッ……」


「キーラさんッ!! その人を連れて……逃げて下さい!!」


 シャーリーの声がした。キーラは彼女を睨んだが、かえってきたのはまっすぐな瞳だけだった。

 ……それ以上の問答は何も産まない。

 キーラはこの街にあって、驚くほど賢明だった。



「ちょっと!! 車が、なくなっちゃったじゃないッ!! どうするのよ、私の安全は!! これはあなた達の沽券に関わるわよ!! すべてが終わったら、あなた達の責任を――」


「あなたには――まだ、その脚があるはずだ」


 ……キーラは、有無を言わさず彼女の肩を抱いた。

 それから、シャーリーから、群衆から背を向けて走り出す。


 その後方に、ジョニーボーイや……追いついてきた部下たちが続く。

 騒乱が、遠くへ。

 ――信頼と悔しさを背に、キーラは走る、走る。



「全く何よ、なんなのよあいつら、急に出てきて――訴えるわよッ!!」


 狭い路地をなんとか進んでいるうちに、キーラは大統領をスイスチーズのように運んでいる状態となった。無礼極まりないが、仕方のないことだった。周囲には部下たち。今できる限りの、最高の布陣。


 バタつく脚が背中を叩くが、キーラは動じない。そのかわり、質問に答えてやる。


「天と地の間には、あんたの哲学には思いもよらない出来事があるってことです」


「どういうこと……奴らを知ってるというの」


 ああ――当然だとも。



「第八機関――何のためらいもなく、この街に身を投げ出せる連中です」

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