#2 Day6-2

 霧と雨のダウンタウン。


 そのさなかを切り裂くように、黒塗りのリムジンは列をなして進んでいく。

 物々しく――葬列のごとく。

 車道に他の車は一切なく、まるで海が割れたかのようにぽっかりと空けられている。しかし、周囲の状況はそれとは真逆だった。


 人々で満杯になり……そしてそこに満ちているのは、負の感情。怒りと、憎しみの渦だった。


 『ピンクのスーツはアンダーにはいらない』『LAの本土復帰を』などのプラカードを掲げたレインコートにガスマスク姿の連中――その異形を隠すようなフォルム達――が口々にナニカの標語を叫び、ガードレールの前に仏頂面で佇んでいる警官の額に青筋を立てさせるのはまだいいほうで、ひどい連中となれば、口々に通っていくリムジンに罵倒を並べ立てながら、投石攻撃などを行おうとしていた。


 やはりその前にも警官は立っていて、彼らを抑止している――しかしそれも、いつまで持つか分からない。


 要するに、そこを通る車の群れ。その左右に分け隔てられたアウトレイス達。人ならざる者たち。彼らは、歓迎の意思などまるで示していないということだった。


「いけしゃあしゃあと来やがって、ぶっ殺してやる!! 俺はこの腕になってから女房を抱くことも――」

「俺は仕事をなくしたッ! ここを出りゃいくらでも仕事ができるのに、こんなところに俺たちを閉じ込めやがって――」


 テロド、モロウ、エンゲリオ――様々な者たちが王の行列に向けて憎悪を吐き散らす。立て看板。寄せて返す異形の波。巻き込まれて怪我を負う者たち。林立するプラカード。便乗して騒ぎ立てるなんらかの市民団体。雨の中、世界は灰と青の2色に塗り分けられているというのに……歩道部分だけは、さながら極彩色のカーニバルのようだった。

 警官たちは彼らを抑え込んでいる――……通り過ぎていく、黒い車を守るように。


 当然のことながら、それは大統領を乗せた車と、その護衛たちだった。まるでかつてのシャルル・ド・ゴールのパレードのようなありさまだった。そこで彼は秘密裏に命を狙われていたのだが――……今回、人々は投石や暴言、唾、その他諸々の汚らしいものの投擲にまでは及ぶものの、それ以上の危険な行為を車に対して行わないのには、ある理由があった。


 要するに、アンダーグラウンドの人々にとっては憎悪の対象である『アメリカ合衆国大統領』のストリート進撃をおめおめと看過してしまう理由である。

 それは、中間を走る車の内部にあった。


「いやはや、まったくひどいものですな――こうあっては、おめおめと雨をやり過ごすことすらままならんでしょうに。盛大に風邪を引いちまいますよ」


 運転席の黒人の青年――ジョン・ウェストが言った。

 車内。外の音のすべてが、こもって聞こえる。左右にせわしなく揺れるワイパー。フロントガラスの端に付着する水滴。


「あいつらも懲りませんね、まったく。いつまで続くことやら――」


 彼はそう言って白い歯を見せて笑い、後ろを振り返った。

 だが、答えは帰ってこなかった。


 彼のちょうど真後ろに居るのは――ピンクのパンツスーツ姿の金髪女性。

 40代後半と思われる彼女は今、全身から濃い香水の匂いを放ちながら、手鏡で真っ赤な口紅を塗っている。外の喧騒など、一顧だにせず。


 まるで、アメリカ的金髪美女の最大公約数的な容姿を倍老けさせて、更にその上に厚化粧を載せた上でほうれい線とシワを無理やり覆い隠し、更にピンクの装飾をほどこすことで全く別のナニカに仕立て上げられたような――そんな容姿。確かに足は長く、ウエストは不特定多数の人間が羨むほど絞られている。だが、どこか人工的な香りが漂っている。


「……」


 蔑みに満ちた目で外を眺める、そう、彼女こそは――アメリカ合衆国第45代大統領、マライア・サイラスである。


 彼女は運転席の青年を一切無視した上で、我流の化粧を続けている。その足は、決して速いとは言えない車の進みに対して僅かに苛立ちを示す如く小刻みに揺れている。


「……いやはや、」


 ジョンが、彼女に対してにこやかに微笑み、何かを続けて言おうとしたが――。


「口閉じて運転しろ、ジョニーボーイ」


 ――大統領の隣に座る彼女からの一声で、黙らざるを得なくなった。


 ……そこに腕を組んで座っているのは。

 キーラ・アストンである。

 窓の外からの罵詈雑言から大統領を守るように隣に座っている。

 そしてその位置が、彼女が今与えられている仕事をあらわしていた。


 この車とその一団が、周囲に暴漢が溢れているにも関わらず(今の所)安全に守られているのは、ひとえに彼女の知名度とその実力に理由があったのだ。


「……」


 いま、彼女の表情は決して柔らかくはなかった。

 むしろ、不機嫌そうに見えた。

 彼女もまた群衆をまじまじと見ているわけではなく、窓に映る眉間にシワを寄せた自分の顔を見て何かを思っていた。そして、黙り続けている。


 大統領は彼女を意に介さない。置物か何かのように、彼女に警戒を解いている。不愉快なことに。

 ――車内に、思い空気が垂れ込める。



 列をなす、黒檀のリムジン。

 その上空を、耳障りな羽虫のような音を立てて旋回しているのは一台のヘリである。


 その側面から身を乗り出し、安全ヘルメットをつけた男が、眼下に広がる景色を背景にして、目の前のカメラに向けて何かを叫んでいる。


 そう――彼の下に見えているのは。群がる愚かな人々。教養も品も、ろくな職歴もない連中が、おぞましい力をふるいながら、悪口雑言を権力に向けて投げつけるデモクラシー……そのカリカチュア。ということに、なっている。


「えー私はダニエル・ワナメイカー!! 状況は混乱するばかりです!! すでに市民団体による投石などが始まっており――いや、あれはなんだ!? ゴリラです!! ゴリラ人間が投げています!! うんこを!! うんこを大統領の車、いやその手前の警官たちに投げていますッ、彼らはその対応に追われ――うわっこっちにも飛んで――馬鹿野郎カメラは止めねぇッ!!!!」


 扇情的に、ここに居ないアンダーの者たちの承認欲求を満たすために、惨状を大げさに伝える。『自分たちは、こうやってアウトレイスの力を使って暴れているこいつらよりマシだ』という感情を与え、視聴率と金を取る。そのために彼は口角泡を飛ばし続けている。ヘリは上空を飛び続けている――……。


 雨がやまないように、黒い戦列にこもる緊張も、決して解けることはない。

 車は進み続ける。


 キーラは、窓の外を見る。

 そして、記憶は数時間前を遡る……。



 スーツ姿の者たちによる紫煙に満ちた会議室。

 禁煙も分煙も、ここには無縁。そんな良心に満ちたことを言うやつは、この場にはいられない。


 ここは、LAPD本部地下会議室。通常はSCCが詰めているに過ぎないが、今回はいつもより大所帯だ。


「こいつだ――ずっと追い続けてきたが、ようやく首根っこを掴んだ」


 デスクの上に、捜査資料が広げられる。

 そのうちの一枚には、詳細なプロフィールと共に、モノクロの顔写真が載っている。

 何の特徴もない凡庸な男の顔――言い換えれば、どのような顔にさえ変貌できる。


「本名は不明だが……最後に消息を絶ったときは、ジェイソンと名乗っていた」


 ドーベルマンの顔を持つ大柄の刑事が、シガリロを吸いながらそう言った。

 資料に見入る屈強な男たち。その合間を煙がすり抜けていく。脇の灰皿に、吸い殻が積もっていく。


「で、今は?」


 紅一点――キーラが、彼に尋ねた。


「『イアン』。今は、そう名乗っている。それからずっと、この地に住み着いてる……ノミのようにな」


「確かなのか」


「――信用しろ」


 犬顔の男が、少しだけ笑って言った。

 続けて、彼の脇に控えていた痩せ型の、鉄首の男が資料を読みながら言う。


「十代の頃から、我がく――アメリカの様々な土地を転々としながら殺しに従事。顔と名前を次々と変えながら。そのスコアは数知れず。全米中を煙に巻きながら、逃げ続けてきた……ということです」


 そこへ、犬顔の彼が補足する。


「元は最右派の地下組織所属とも――突飛なものだと、元IRAなんて説もあるが、確かなのは、とある時期から薬物中毒になったことと……ここに流れてきてから、一切顔と名前をいじらなくなったってことだ」


「――だから、捕捉できたってわけですね」


 キーラの隣に居たリカルドが、考え込むようにして言った。


「そういうことだ」


「しかし、なんだってそんなこと」


 苛立ったように、ロットンが言った。

 ドーベルマンはその様子を見て肩をすくめて、なだめるようにして付け加える。


「理由は不明なんだよ、ロットン。非確定情報だと、こいつに多くの時間接触していた『ある女性』が居たっていう話も存在する」


「ある女性……?」


「しかし、今となってはその女の消息も掴めない」


 彼は肩をすくめる。ロットンが、憮然として鼻息を吹く。


「だがまぁ、それも必要なくなった。確実なことは一つ」


 ドーベルマンが、皆を見回す。キーラがうなずく。


「奴はこの日に、必ず大統領を暗殺するつもりだ」



 ――準備は整った。

 何名かが椅子にかけていた上着を着て、煙草を灰皿に押し付ける。動き出し始める。


「長かったな」


 キーラが、ドーベルマンに声を掛ける。


「ああ……本当に。どれだけの時間と人員が犠牲になったか分からん。だが、ようやくここまで追い詰めた」


 彼は疲れた声を出した。この場ではじめてのことだった。


「その鼻のよさの、面目躍如ってとこだな」


「吹かせるなよ、キーラ。――後は、お前らの仕事だ。任せたぞ」


 キーラは再び頷いた。

 皆が席を立ち、扉に向けて慌ただしく動き始めた。

 SCCの荒くれ者たちが。

 ――クリスが扉の前で呼んでいた。

 キーラは、ただ一言、緊張と自信を同時に孕ませながら、言った。


「――ああ」



 そこで、回想が終わる。

 車内の音が戻る。タイヤの音も。


 キーラは窓の外を警戒を解かず見続ける。景色全てに穴を開けるように。

 耳元の通信端末からは、ノイズ混じりで絶えず情報が入ってくる。


 ロットンとリカルドの班は、それぞれ『イアン』の捜索に突入。ダウンタウンの通り中を駆け巡っている。そして、確実に追い詰めつつある。


 そして――キーラ達第一班は、間近で大統領の護衛というわけである。

 この、隣に居る、ピンク色の魔女の。


「本当に――」


 マライアが、呆れたように腕を組みながら、おもむろに口を開ける。


「どいつもこいつも、どうして与えられることばかりを望むのかしら」


 彼女は窓の外、プラカードを掲げてデモをする連中……何かを投げてこようとする連中、その他諸々の魔物たちを見ていた。やり場のない街への、ひいてはアメリカへの怒りに満ちた、醜い連中。


 ――少なくとも、彼女にはそう見えている。


「自分が何かを与える側に回ったことがないから、ああやって不健全な怒りを合衆国にぶちまけるしかないのよ。あれでは真の自由など得られるわけがない」


 ……マライアが、キーラを見る。

 ――どぎつい香水の匂い。

 キーラの表情は変わらない。


「獣の街ね、ここは」


 マライアが、言った。

 キーラは、黙っていた。

 ――車の運転は続く。

 運転席で、ジョンが呆れた顔をして肩をすくめた。



「貴女はなぜ、このタイミングでここに?」


 キーラが――可能な限りの平板な声で――尋ねる。

 すると一瞬、マライアは眉をひそめた顔を寄越してきた。


 だが、すぐに見下したような笑顔になる。それから言った。


「決まっているじゃない。国民の信頼を得るためよ。自由の国――我がアメリカ合衆国国民のね」


 まるでてらいもせずに、そう言ってのける。

 キーラが無言であるのをいいことに、彼女は続ける。


「あなた達は知らないでしょうけれど……私がこの場所にこうして現れるたび、壁の向こうでは私を支持する声は増え続けるのよ。ふふふ……――ちょっと、ちゃんとカメラ回してるんでしょうね?」


「……」


 キーラはやはり、黙ったままだ。

 マライアもそれでいいらしい。言いたいことが言えたのだから。


 そのまま、車内に再び沈黙が流れる。

 キーラは、窓の外を見る。

 暴動寸前の人々が、ぎりぎりのところでガードレール手前に押し込められている。それが絵巻のように流れていく、雨粒とともに。


 彼女は目を凝らした。窓の上方。

 ――何かが、立ち並ぶ街頭と棕櫚を中継しながら飛び回っている。

 更に良く見ると、それは羽根の生えた長身の女性であることがわかった。


 コートを羽織り、ニットキャップとサングラスで武装している……そして、肩から何か黒いものをぶら下げている。


 誰であるかは、明白だった。


「ちょっと。どこを見ているの。しっかり私を見張っていなさい。いい? この私にはね、大事な――」


 キーラは、そこで。

 一気に、顔を。

 ――大統領に近づけた。


「……ッ!?」


 それから、その鉄面皮を保ったまま。

 低声で、静かに語りかける。


「これはオレがSCCに着任して間もない頃の事件の話なんですがね。スキッド・ロウのほど近くに、チカーノの連中が取り仕切ってるマフィアが根付いてた。そこのボスはルッチって言うんだが。こいつが本人曰く『平和主義者』だそうで。確かにそうだった。そいつは血と暴力の世界に生きていながら、何よりもそいつを嫌っていた。そして裏世界という場から、多少強権的なやり方でもいいから世界を変えようと考えていた。というよりは――常に、周囲に語っていた。上納に来た連中や、お抱えの部下たちに。皆が彼を呼んだ、『純愛のプラトニックルッチ』と――」


「それが、どうしたのよ――」


「だが。そいつも命運が尽きた。いくら本人の性根が善良だったとしてもマフィアはマフィアだ。警察との抗争の末、あえなくお縄になった。あざと傷に塗れ、ぼろぼろになったルッチが、アジトから這い出てきて……警察の前に現れた。誰もがその時は思った。『こいつはこのまま一切抵抗せず、自分の周囲の人間に詫ながら、静かに捕まるんだろう』って。だが――実際は、その真逆だった」


 ……見開かれた目。痰と唾を吐きながら開かれる口。


「『俺は何も悪くねぇ、悪いのはアイツらだ、クソどもが、あいつらが俺の皮を剥ぎやがった、剥ぎやがったんだ、クソが、俺は死にたくねぇ、こんなクソ袋どもを周りに従えながら……くそっ、絶対にゴメンだ』と。あいつはそう言った。それから、いち警官に醜くすがりついて、必死に泣き叫んだ。自分は悪くない、何もかもうんざりだから、全て捨てるから許してくれ、と。そこに、あの『純愛』の姿はなかった。――結局、幻滅する周囲をよそに、あいつは捕まった。それから刑が執行された。――そこから、これは完全に余談だが。残った彼のアジトからは、何人もの子供が見つかったそうだ。四肢を不具にされ、その生殖機能を醜く歪められた、大勢のモロウやエンゲリオが」


 そこで――キーラは一度話を打ち切った。

 ……マライアは、ひたいに汗をかいていた。そして、絞り出す。


「……そんな不愉快な話を、どうしてこの私に聞かせるの。一体、何の意味があるの」


 キーラは。すこしだけ声の調子を変えた。子供に言い聞かせるような声。


「貴女にはまだ分からないだろうが――この町では、高貴な理想も崇高な思想も、圧倒的な理不尽の前にはすぐさま消え去る。貴女は確かに立派な人だ。だが、その気高さを維持したいのなら。せめて言動からだけでも……その高い高いハシゴを外していただきたい。そして、地に足をつけて欲しい。でなければ、もし貴女の命が脅威に晒された時――我々は、貴女を守れなくなる」


「……国のトップに、よくそういうことが言えるわね。本当に下品……――『この街を舐めるな』とでも言いたいの?」


「戯言です。――話しすぎましたね、失礼をお許し下さい」


 キーラが、少しだけ口元を緩める。

 大統領から離れ、席に戻る。


「……何なの」


 マライアが呟いた。

 その顔は冷静さを装っていたが……僅かに、動揺の汗が流れ落ちていた。

 景色は流れる。

 車は動く。


 キーラは、窓の外を見続ける。

 ――部下の成功を祈って。



 屋上に、彼は佇んでいる。

 室外機の影には、雨から逃れるためカラスたちが集まっている。

 その黒い瞳が――彼の姿をとらえる。


 彼は濡れたまま、何かを思いながら眼下を見た。

 広がるストリート。その奥から、騒々しい列がやってくる。

 その時、彼のすべてが終わる――そこから先はなにもない。


「……――」


 彼は何かを唱えた。

 祈りか、怨嗟か。もはやそれが何かを証明する者は居ない。



 間もなく彼は、トランクから修道女の頭巾を取り出し、かぶる。それから、半透明な道化師の仮面をその顔に取り付けた。


 続いて取り出したのは、杖のような細長い黒檀の物体。そのサイドにはストックのようなものが装着されている。彼はそれを、淀みない動作で展開する。


 ――あらわれたのは、十字架の形状。

 それは紛れもない、彼の『仕事道具』。長い横棒は、彼が『鉤爪』でホールドするためのもの。

 邪な修道女が、雨の中、カラスたちに囲まれながら、十字架を構えて佇んでいる。


 仮面のへさきからしずくが垂れて、彼の足元の水たまりでわだかまる。

 彼は仕事の瞬間を待ち続けている――蒼い、蒼い世界の中で。


『これが、あんたが依頼していたブツだよ。完璧に仕上がった……試射なら自由にすればいい。使い方の説明は……しなくてもいいだろ?』


 あのブードゥー教の女の言葉がよぎる。

 ――ああ、そうとも。


『あんたに、精霊は居ないね』


 ――そう、そうだろうとも。

 そんなもの、必要ないからだ。

 

 彼は十字架を構えた。まだ標的は来ていない。

 それから、銃口の先をただ眺めた。


「どうした――敬虔な気持ちにでもなったか? 兄弟」


 後方で、声がした。

 彼は銃を降ろして振り返りもせず聞いた。

 誰かは分かっている。あの依頼者の男。


「僕はお前を呼んじゃいない。仕事が信用出来ないとでも言うのか」


「はっ、吹かせるぜ」


 嘲笑するような声が響く。


「その逆だよ。信用できるからこそ、俺はお前を見張っておかなきゃならないってことだ。なんせお前は――一度俺の信頼を、泥まみれにしてくれたからなぁ、おい。あのクスリが恋しいかい? イアン」


「……僕にはもう、そんなものは要らない。必要なのは弾丸と銃把だけだ。他には何も――」


「――あの女の存在も、か?」


「――ッ……」


 一度。

 彼の中に、その肖像が浮かんだ。

 その中で彼女は――笑っていた。


 しかしそれは嘘だ。嘘っぱちだ。

 イアンは知っている。

 彼女は一度だって、そんな笑顔を自分に見せたことはない。


「――そんなものは知らない、僕は最初から独りだった」


「……っははは」


 痛快そうに笑う声。


「……そろそろ、始める」


 イアンはそれを断ち切るように言った。

 いよいよ、群れが迫ってくる。


 何も変わらない。子供の頃、あの市民を撃ったときと。

 彼女は息を吐いて、ビルの縁に歩みを進める。


「へへへ……そう、それでいいんだ。愛しいイアン。俺はお前から離れられない。お前も俺から離れられない……だからここで、見ているぜ……お前が標的を射抜く、晴れ晴れとしたその瞬間をな……」


 声は絶えずイアンの耳朶を打つ。


「……いい加減に、黙ってくれ」


 だから、そう言った。


「へいへい。お前がそれで、撃てるのならな」


 声が聞こえた。

 イアンは前だけを向いている。



 ――そして、彼の後方には誰も居ない。



 

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