#9 Day5-4

 長い間部屋の中にいて、煙草を吸っていた。


 だが、むせる。青ざめた部屋の中、悪態をついたとしても居るのは自分だけ。

 世界が極彩色に見えて、胃の腑がまるごとひっくり返りそうな嘔吐感と酩酊感が交互に繰り返される。脂汗が止まらない。

 どれだけシャツを着替えても、すぐべとべとになる。ああそうだ――クリーニングに出さなくては。外に出なければ。外に出て、路地を通って、それから……ああ、あのクリーニング屋。ごうごうと機械の音だけが響く中、端に据え付けられたボロボロのテレビからは、テロドの身体的特徴を活かした『爆笑バラエティ』が流れる。腐っている、全てが腐っている、だからこそ俺は、俺の銃は――……。


「……くそっ」


 想念が明後日のほうに飛んでいき、彼の身体を鞭打った。


「くそッ! くそッ……――」


 部屋の中で暴れたところで、破壊できるのはもはやベッドと壁ぐらいだ。他のなにもない。彼は透明だったから。


 ……それからしばらくして。

 彼は結局、クリーニングに行く気になった。病人同様の身体を抱えていくのは気が引ける――……そこまで頭は回らなかった。

 彼には全てが敵に見えたし、あの死んだチンピラの似姿に見えた。



 ミランダはシャーリーと別れた。

 それからの時間は、疾走に費やされる。

 街の中を走っていく、走っていく。流れていく景色。混沌の情景。彼女が生きる街並み。


 何を求めている? 何を期待している?

 ……いや。自分はなんにも希望など抱いちゃいない。だがそれでも、伝えなければならないことがあった。


 誰に? 彼に。

 教えてくれたのは、シャーリーだ。シャーロット・アーチャーだ。

 悔しいが、最初の一歩を踏み出させたのは独善にもほど近い彼女の訴えだった。

 いくらでも罵倒をぶちまけたかったが、それをするにはあまりにも時間が足りなかった。

 だからこそ、今は走るのだ――……。



 ごうん、ごうん。クリーニング屋の回転。お決まりの情景。部屋の全てで全身に入れ墨を入れた若者二人が文字通り混ざり合っている。よく居るトリップ症候群だ。

 アウトレイスの身体を利用して、身体を混ぜ合わせる。そして快楽の頂点に至る――彼らがこちらを観てくる。熱っぽい目で。どうだいお兄さん、あんたもどう――……。


「うせろ」


 どろり濁った目で彼らを睨みつけると、肩をすくめる。そしてトリップを続行。

 ふざけるな、俺の身体は俺のものだ、誰にも渡さない。誰にも触れさせない。俺は孤独、俺は蠱毒……――。


 頭の中に呪詛が溜まっていき、それがドラムの回転音と合わさってカオスへと誘っていく……気が狂いそうだ。あるいは、もうとっくに狂っているのか。


「くそッ…………――――」


 どうにかなって、ここで発砲でもしないうちに洗濯物を回収する必要があった。頭が痛い、痛い。

 それから、何をしたかは覚えていない。そう、確かに自分は薄汚いクリーニング屋を出たのだ。


 ……覚えていない。覚えたくない。

 だが、それでも気付いていた。

 ――彼の後ろをついてくる一つの影があったことに。



 樹海の如き配線と数多くのポルノフィギュア。その奥に鎮座する『NIN』のポスター。情報屋『シド』の居城。


 そのあるじは今まさにダイエットコークを牛飲しながらチリドッグにぱくつき、お気に入りのエロサイトを巡回していた。BGMとしては女の喘ぎ声が小粋に混ざるインダストリアルだ――彼のお気に入りの時間。

 そして間もなく、それは破壊される。


 けたたましく鳴るインターホンを無視すること数秒後、突如として暴虐の嵐が発生した。轟音とともに扉が蹴破られ、彼の居城の内側に何かが転がり込んできた。僅か一瞬の出来事である。彼は即座にパソコンの電源をオフにしようとした、だが手は焦りで誤操作を生み出し、ケツに何かを『ぶち込まれた』女が恍惚を浮かべているさまが拡大して表示される。彼は慌て、部屋の中で転び、更に焦った――ホコリが産卵するなかで、その影は彼の方向をむき……そして、牙をむいた。


 すばやい動きだった。


 シドは拳銃を探す間もなく、その影に完全に上からのしかかられ、尻もちをついた。配線のいくつかが抜け落ちたが、それに異議を唱える暇もなかった。


「な、なん――」


 間もなくほこりが消え去って、その姿が顕になる。


 ミランダが――シドの上に馬乗りになっていた。その濡れた黒髪をカーテンのごとく垂らしながら、何かを彼の額に突きつけている。そう、一つの影となり、彼の冷たい感覚を与えているそれは――紛れもなく、ガンだった。


 要するに彼女は今、シドの部屋に飛び込んだうえで銃を突きつけているというわけだ。いわば、脅迫である。


「な、なんでてめぇが急に来やがった、もうてめぇらからシゴトは受けねぇと言ったばかりで――」


 画面ではオイルまみれになった――あるいは別のものにまみれた女がひっきりなしに喘ぎ続けている。インダストリアルの重低音は高まるばかりである。ミランダは全く意に介さない。シドに影を落とし込みながら、彼の額にぐりぐりと銃口を押し付ける。その目は殺気立っていて、息は荒かった。


「今から言う男を探しなさい――」


「冗談言うんじゃねぇ、アポも報酬の確認もナシでそんなもん――」


「カネならいくらでも払ってやる、この猿――いや、豚……どうでもいい。その額の風通しを良くしたくなければ、私の言うことを聞きなさいッ……!!」


 彼女はもともとシドにとっては『異常寄り』の女ではあったが、ここまで乱れている様子を見るのは初めてだった。ゆえに彼は、せっかくのお楽しみを邪魔されたことや、アポなしで転がり込まれた怒りよりも……恐怖のほうをより強く感じていた。


「何の権利があってお前にそんなことが、こっちが承諾しなきゃシゴトは――……」


「だったら今すぐ!! そのセルライトまみれの頭に鉛玉をぶち込むだけよ……そうされたく、なかったらッ――」


 シドは気づく――ミランダの目が、鷹のそれになり……彼女の背中から僅かに羽のようなものが漏れ出している。


 こいつは……本気だ。

 彼は一瞬、あるいは宇宙を無限大に引き伸ばしたような時間の中で損得を天秤にかけた。


 ――ミランダからすればすぐに、結果は出た。

 彼は青ざめた顔のままで、やけくそ気味になって天井に向けて叫んだ。 


「分かったッ!! 分かった――調べる、調べるから……今すぐその銃を降ろしてくれッ!! いてぇッ、そのまま密着されちゃ、額にマントラが刻まれちまうッ!!!!」


 なかば本気の命乞いだった。

 それが通じたのか……ミランダは間もなく銃を降ろした。

 それから、間髪入れずに男の名を告げる。


「彼の名は――…………」


 もう、その名を呼ぶのに抵抗はなかった。



 幼少期――コンプトンに居た頃、『おやじ』に教えられて、建物の屋上から路上のホームレスを撃ったことがあった。


 少年はその行為に恐怖していた。だが、オヤジは言った。


「あいつは、生きていても世の中のためにならない。癌細胞のようなものだ。だから、撃って殺せ。そうすれば世の中のためになる」


 そう言われたので、少年は狙いを定めて、撃った。

 眉間に一発。


 ――それから、新聞紙で身体をくるんでいた老人は眠るように倒れ込んで、もう起き上がらなかった。


 うまくいったものだ。

 振り向くと、オヤジは笑顔だった。少年の髪をわしわしと撫でてくれた。


 それから、おこづかいをくれた。いつもより多かった。二ヶ月分だ。

 それで少年は、ずっと欲しかった、ショーウィンドウに飾られていた靴を買った。


 最初は嬉しかった。足に羽が生えたような気分だった。

 しかし、どういうわけかだんだんいやになってきた。気持ち悪くなってきた。


 やがて、落ち着かなくなり、最終的には、足にそれがついていることが我慢ならなくなってしまった。

 だから彼は――せっかく買った靴を履かずに帰宅した。


 帰ってくると、オヤジは冷たい声で言った。靴はどうしたのだ、と。

 少年は、捨ててきた、と答えた。


 するとオヤジは血相を変えて少年を罵倒し、さんざんに打ちのめした。頬が腫れて、血が滲んだ。

 オヤジは、かがみこんで諭すように言った。


「拾ってこい。それはお前のあかしだ、正義の証だ――なくしてはならない。お前の力は正義のためにあるんだ。良心はそれとともにある、いいな、わかったか――」


 その言葉があって、少年は電撃で撃たれたようになった……そして、靴を捨てた場所に拾いに行った。


 時間が流れて――彼は、その言葉を何度も捨てようと思った。

 だが気づけば、それから逃げられなくなっていた。


 彼は、アンダーグラウンドでとうとう、その言葉とともに骨を埋めることになるのだろうな、とぼんやり思った。


 この街に来たのは、ひどく必然のような気がした――ロサンゼルス。天使の街。


 ああ、自分にぴったりだ。雨粒のようにおぼろげな日々の中で、そう思っていた――そう、それだけのはずだったのに。



 彼は歩く。


 その中でイラつきが止まらない。胃の腑がキリキリして止まらない。

 忌々しい、知らない女の顔が何度もザッピングされて脳裡にちらつく。お前は誰だ、僕の完全な人生の邪魔をしやがって、ああ、撃ってやる、撃ってやる――大統領を。諸悪の根源を、あの女ごと撃ってやる――。


 後方から男が追いかけてくる。銃を持って。だがイアンはふらつきながらエレベーターへ向かうばかり。朦朧とした視界の中。つぶやきが脳内にあふれていく。

 もうすぐだ――もうすぐ、あの苦痛から解放される。そして僕は帰れる、コンプトンへ……彼は譫言のように繰り返す。


 そして男は、イアンの背中へと到達する。


「――そこを動くんじゃねぇ、気狂い野郎が」


 冷たい鉄の感覚。彼は振り返ろうとした――男は片手で、エレベーターの開延長ボタンを押した。その瞬間、エントランス天井の青白い電灯がばちばちと火花を散らしながら明滅する。光と闇が交互に現れる。その中で、イアンは――。


 黙っていた。その表情が影に隠れて、見えない。

 男は、彼の痩せぎすの背中にぐりぐりと鉄の固まりをおしつける。


 そのまま、何故か頬に汗を流しながら――何故だ、こいつを追い詰めているのは、生殺与奪を握っているのは俺だ、どうして――語って聞かせた。


「お前が俺の仲間を殺したのは知ってる……場所は知ってるだろう。冷たい路地の真ん中だ……糞と泥にまみれて宇宙を見てたよ。ぼっかり空いた穴ん中に雨粒がいっぱい溜まってた……ひでぇもんさ……――なぁ、分かってんのか? お前もこうなるんだぜ……おい、聞いてるか……?」


 だが、イアンは答えない。その背中はまるで麻薬中毒者のように――実際にそうなのだが――ぶるぶると震えている。


 男はその様子に、何故か――ああ何故だろう、怖気を感じずに居られなかった。ばちばちという火花の音。イアンが消えて、現れてを繰り返す。男は、逆上する。


「分かってんのかッ!! てめぇは死ぬって言ってんだッ――」


 後ろからエレベーターに乗るために歩いてきた蛇革の中年女性が、眼の前の状況に気付いて怯えながら逃げていく。それを無視する――男はつばを飛ばす。


 イアンは、答える。


「撃てよ――さっさと」


 ……その言葉に、男は。

 脳内が沸騰して、全てのポーズをかなぐり捨てた。


「てめぇぇーーーーッ!!!!」


 男は、引き金を引いた。



 そう、引いた。

 だが次の瞬間には――視界に、羽が舞っていた。そう、美しい猛禽の羽。


 男は一瞬……見惚れてしまっていた。永遠とも錯覚するような刹那。その情景に。



 銃弾は当たらなかった。

 羽が全てを拒絶した。わずかに背中から血が滲むだけだった。


 一瞬で振り返る。狼狽する男の顔がある。そこへ鉤爪と化した拳を叩き込む。ポリ袋に爪を立てたような甲高い悲鳴が上がり、苦痛から逃れようとする――だが逃さない。すぐさま振り向いて、首根っこを掴む。そして叩き伏せる。

 エレベーターが揺れる。小さなホコリの粒が上から降り注ぐ。気にしない。虫のようにもがく相手の背中に、足を振りかざす――イアンは、笑っていた……。


 ――振り下ろす。ぐしゃり。男がさらに悲鳴を上げる。明滅。雨の音。何度も、何度も。ばたばたと、蜘蛛のようにもがく男。そこへ何度も、足を振り下ろす。

 何度も、何度も、何度も、何度も――……。


 ――そうだ、これが俺の姿だ。否定しようもない。何度逃げようと思ったって無駄だった。親父の失望した顔は永遠に俺に焼き付いたままだ、ならば俺はそのまま添い遂げてやる――この、胸を焦がすような空洞と、虚無と共に……衝動の中心へ。爆心地へと。


 舞う羽根が、血に染まる。永遠にも等しい刹那、再び。その時間のなかで、彼は暴力をふるい続ける。いつまで続く? 決まっている――この男が死ぬまでだ。


 もうやめてくれ、と泣き叫ぶ声が聞こえる。知ったことか。俺は一つの暴力装置に過ぎない。ならば、お前の声に耳を傾ける筋合いなど何処にある――死ね、死ね。真理とはそれ一つ。全ては必然、偶然などありはしない……それが俺だ、俺の――……ああ、名前、俺の名前はなんだっけ、もう何も、思い出せな――――――――、


「――イアンっ!!!!」

  声が聞こえた。誰だ、俺はお前を知らない――男は逃げようとする。ふざけるな逃がすものか、


「イアンッ――もうやめてっ!!!!」


 もう一度声。ああ忌々しい、黙れ黙れ、俺はお前など知らない。

 そう、知らない。

 知らないと言っているのに。



「……ぁ、」


 だのに、身体は反応する。男に攻撃する足が緩まる。自分の思考とは裏腹に。その声が流れ込んできて、人知れずうめき声が出る。


 そう、知らない――はずはない。

 何故ならその声は。


「ミラ、ンダ…………」


 彼女の、ものだから。




「ゲホッ、げほっ…………――」


 ――イアンは足をおろした。


 男はそこから抜け出して、芋虫のように這いずりながらエレベーターから出る。血の轍が床に生まれ、そこから生臭いにおいが漂う。


 かつん、かつんと彼女が近付いてくる。イアンは何を言うべきか分からなかった。再び出会うとは思わなかった。口の中が乾いて、頭の中が真っ白になる。男は這い回る……外の出口へ向けて。


「君は――、」


 ようやく、生み出された一言。

 しかし、ミランダはそれを無視した。

 彼女は……床を這う男に、視線を合わせた。


「ひッ…………ゲホッ、ごぼっ、なンだてめぇ――あの男の、なが……ば」


「――違うわ」


 ぴしゃりと、ミランダは言った。

 それから、ボロ布のように傷だらけの男に向けて、静かに、感情を込めずに。


「あなたがどういう因縁をここに持ち込んだのかは知らないけれど。そこの男は狂人よ。完全にイカれてる。誰も彼も、傷つけることしかできない。だから……これ以上かかわらないことね」


「ふざげんな、そいづは…………」


 男は、口から血の泡を飛ばしたが。


「――……」


 ミランダの目に――鷹の目に射すくめられると、何も言えなくなった。


「分かったわね。分かったなら……そのまま、二度頷きなさい。まだ納得がいかないなら、お好きなFワードをどうぞ」


 そう言った彼女の袖口の闇からは、鈍色に光るものが見えていた。

 男は一瞬でそれが何かを理解したから――。



 二度、大げさに頷いた。


「……とっとと失せなさい。風邪引かないようにね」


 ミランダは、そう言って踵を返した。

 男はその後ろを、惨めな虫のように這いながら逃げていく。血の流れは止まらない。

 ――彼が死ぬことはないだろう。

 そうなる前に、ミランダが来たのだから。


「――来るな」


 イアンはミランダにそう言った。いつぞやの再現だ。再び言うことになるとは思わなかった。だが、彼女はそれを無視した。そう、近付いてくるのだ。一歩ずつ。何かを押し殺すような表情をしながら。こちらに向かってくる。雨の音。電灯の光。

 近付いてくる、近付いてくる。


「来るな、来るな――……」


 袖の中に人を殺す金属の感触。今度それに触れれば、どうなるかは目に見えている。だからこそ、もう二度と接触などしたくない。あの酩酊感はどこかへ消え去って、今はひやりとした気味の悪さだけが込み上げてくる。そんなこともこの女は知らないのか、でなければ近付いてこない、あぁ、なんと愚かな女なのだろう――ミランダ。ミランダ・ベイカー。


「これ以上近づけば、僕は君を――」


 過去が流れる。

 オヤジの顔。靴。殺した男。殺したたくさんの者たち。血にまみれた道。彼女との出会い。セラピー、映画館、それから、路地裏――…………、

 自分を拒絶する、彼女の顔――。


 だが。彼女は。


「――来るなって、言ってるだろう……――」



 足元で血が跳ねて、ぴしゃりと音がした。

 ……彼女は、エレベーターの中へ踏み込んだ。

 赤黒い水たまりと、舞い散る羽根。

 ――……彼女は、小さく口を開く。

 

 彼が、そこにいる。

 ――なんという表情を、なんという悲しい顔をするのだろう。


「やめろ、来るな――来るな――……」


 彼女の中に過去が流れ込む。流れ込む。


 悲しみの中で二人の時間が入り混じって一つになり、そこで永遠にも思えるような長い長い時間が過ぎていく。それはたったの刹那で終わる、彼女は彼を見る、彼は自分を拒絶するように後ろへ引き下がる、足元で血が跳ねる、真っ赤な血が。何度見てきたのだろう。あの日からずっと、その中に居た気がする。なまぐさいにおい。いのちが奪われるときのにおい。そ

 その空間の中で、殺戮が行われようとしていた――キリングフロア。更に一歩。彼の瞳が見える、近づく。彼の匂い。血の匂い以上に滲んでくる、彼の在り方そのもの――……構わない。そんなものは、もう。いっこうに、かまわない。


 イアンはミランダを突き飛ばそうとした。

 その瞬間に彼女はエレベーターのボタンを押した。

 ドアが閉まって、空間がひとつになった。


「貴方を――――赦すわ」


 そしてミランダは。

 ――血にまみれた躰ごと、イアンをだきしめた。


 彼女の袖口から拳銃がおちる。アナウンスが響く、『上へまいります』。


 光の明滅が新たな色彩を帯びて、始まる。モーターの駆動音。衣服が擦れる音。ミランダは彼を抱き締めている。そこからぬくもりが伝わってくる……べったりと染み付いた血。


 上昇する。

 イアンは彼女を引き離そうとした。


 彼女は彼より、ほんの少し小さかった。しかしそれは出来ない。

 彼女は、彼をその身体についた血液のぬめりごと抱きしめていた。


 上昇する。

 ミランダが、顔を上げた。

 イアンの顔があった。


 上昇する。

 小窓から、光と闇が交差して流れる。

 二人の、目が合う。

 吐息が混ざる。

 痛みを、二人で抱きしめる。もはや彼は――ミランダを拒絶しなかった。


 上昇する。

 彼の手が。

 彼女の腰に伸びた。

 二人は、抱き合った。


 ――上昇する。

 一瞬、全てが影絵になって、時間が静止した。

 ゆっくりと、その中で――二人は、口づけをかわした。


 痛みも恐怖も苦しみも、何もかもが溶け合った。

 ぬくもりが、呼吸が口の中で混ざりあって、二人は存在を弄り合う。

 上昇する。

 上昇する。

 ――彼らを邪魔する者は誰も居ない。

 二人は求めあった。


 どこか遠くで、ゆっくりと音楽が流れていた。夜の音楽。

 上昇する、上昇する。


 ミランダの髪がなびいた。その細い体が、コート越しに彼に押し付けられて、やわらかくかたちをかえる。彼の朽木のような手が、彼女の背中に食い込んで、しっかりとその存在を抱きしめる。二人は目を瞑ったまま、口づけを続けた。


 血と、羽根だけが彼らを見ていた。

 赤色の空間の中――二人は、そこに居た。


 一瞬が永遠となり、いつしか――……刹那が無限大に引き伸ばされていた。

 その中で、彼と彼女は。

 息が止まるまで、唇を、重ね続けていた。


 ――もう間もなく、全てが終わる。

 その終焉を、二人が知らぬはずはなかった。


 少なくとも、その時。

 二人のうち片方は目を開けて、相手の向こう側の空間を見ていた。


 それがどちらであるかは、誰にもわからない。

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