#8 Day5-3

「……これが、あいつの過去。あたしが知る限りの、ね」


 紫煙が、二人を分け隔てるように上へと、上へと。

 グロリアはそこで話を切った。


「ミランダさん……」


 ――第八に居る誰しもが、何かを抱えている。


 シャーリーにもうっすらと理解できていたそれが、実際こうして聞かされると、あまりにも過酷なものであるということがわかった。


 ――もしかして。

 ……ふと、気付く。それから、背筋に痛みが走る。


 彼女は、ミランダ・ベイカーはずっと見つめ続けてきたのか。

 その目で、過去と現在を、同時に。


 もしそうなら、それはどれだけ苦痛なのだろう。

 不幸なはずだ。つらいはずだ。


「ミランダさん……だから、あんなに……」


 顔を覆って、頭を抱える。

 もし、知っていたなら、もっと違う対応の仕方があったのかもしれない。シャーリーは悔やむ。悔やんでも悔やみきれない。


「これでいい? あたしもこういう話をするのは得意じゃないのよ。辛気くさくって」


 ……しかし、だからこそ、更に知らなければならないことがある。

 シャーリーは頭を掻いて、それを言う。

 先輩には悪いけど、今よりもっと困ってもらう。


「じゃあ……どうしてミランダさんは……」


「――今ここにいるのか、って??」


 ……先を越された。


 うぐっ、と息をつまらせる。

 するとグロリアは、はははと笑った。

 だが、その声にはいつもより覇気がない。


「……あいつが、無理矢理ぶちこんだのよ。うちにね」


 二本目の煙草に火をつける。シャーリーは止めない。語り続ける言葉には意味があるようだったから。


「フェイさんが?」


「あいつしか居ないでしょ。まぁ、良いじゃない。どうせそのまま放っておいたら、野垂れ死にするだけの状態だったのよ。想像できる? 拾われたばかりのあいつの状態。笑えるわよ」


 その言葉とともに。

 今まで説明されたミランダの過去とあわせて……浮かび上がる。


 心身ともにボロボロに成り果てて、絶望のまま顔を上げて、その先にフェイ・リーが居る光景を。

 ぞっとしない。

 ああ――なんて、“最悪な光景”なのだろう。


「聞きたく、ないですよ。そんなの」


「やっぱり? あたしも、言いたくない。あの頃のあいつとのやり取りなんて」


 そう言ったグロリアは、遠くを見ているようだった。その目に映っているのも、過去だったのだろうか。


 ……フェイと、グロリア。ミランダ。まだ、第八機関がその三人だった頃の物語。自分の知らない関係性がそこで生まれ、変化し、今に至っているのだ。


 だが、それについてグロリアはわざわざ大っぴらにはしないだろう。

 それが――数年という歳月がもたらした、沈黙という名の心地よさなのだから。


「どうして」


 でも、知りたいのはそこじゃない。

 だから、一切の遠慮なく質問を続ける。


「どうして、ミランダさんを勧誘したんですか。あの人は……」


「『わざわざ』ってか?」


 からかうような目線。


「っ……」


「わっかりやすいわねー、あんた。良いわね、かわいい」


 歯噛みする。しかし、悔しさをそのままにして同じことを聞く。


「どうして、ですか」


 するとグロリアは、煙をふーっと吐いてから……答えた。

 目は、灰皿に落とされていた。

 やはり、シャーリーを見ているわけではなかった。


「それはきっと……あいつの本質を見抜いていたから。そして、それがフェイの作り出したい世界に必要だったから。今の世界には必要無くっても、これから先は必要だと思ったから……」



 彼女は顔を上げる。

 ……我に返る。


 雨が降り続いている。自分が今居る場所を知る。

 随分遠くまで、来てしまった。


「帰らなきゃ……」


 呟く。

 しかし、すぐに別の言葉で上塗りする。


「今更、よね」


 そう――きっと自分は必要ない。

 私は過去に。あの子達は現在に、そして未来に。

 考えるだけ馬鹿馬鹿しいことだった。


「ふっ……」


 しかし、笑みは浮かばなかった。

 バカバカしいと言っておきながら――。

 不思議なことに、まるで面白くなかった。



「――何もかもを見通す、琥珀みたいなあいつの瞳が」


 その声は不思議なほどに湿り気を帯びていた。シャーリーは何も言葉がつげない。

 グロリアの頭はさらに下へと落ちていき、そのまま続きが語られる。

 滔々と、流れ続けるように。 


「あいつは本当にバカなのよ。あんなに良い腕をしたヤツは、そう居ないのに。自分からそれを台無しにしていってる。それで首吊りなんてする羽目になる……バカよ、本当にバカ」


 グロリアは、もう一度繰り返す。


「本当に……バカ」


 シャーリーは何を言うべきかしばらく考えた。

 だが、雨の歌を聞いて、煙を眺めて、その動作を数回繰り返した後に出てきたのは、ひどく月並みで、彼女を怒らせるかもしれない一言だった。


「なんだか……先輩、ミランダさんのことをとても大事に思ってるんですね」


 グロリアは、一瞬で顔を上げる。

 ぶん殴られる――そう思った。


 しかし、彼女は否定しなかった。

 ……顔を背けて、言った。


「たぶんね……あたしはどこかでミランダのことが羨ましいのかもしれない」


 そんな弱気な彼女を……シャーリーは初めて見た。

 いや、あるいはこれも一つの側面なのかもしれない。


「刹那に生きるあたしと違って。過去の中で生きられるから」


 そして、取り繕うかのように、一言付け加えた。


「ま、だからムカつくんだけどね。あいつのことが」


 どうやら……その一言をもってして、笑ってほしかったらしい。

 反応を欲しがるような顔を、シャーリーに向けてきたのだ。

 しかし、期待しているような表情は向けられない。


 ――冗談のつもりなら、もっと冗談みたいな顔してくださいよ、先輩。そんな風な顔されたら、ボクはなんにも言えませんよ。

 ……とは、言えない。


 曖昧な表情はそのままどこかへ流れていって、気まずい沈黙が流れる。

 グロリアもそれ以上は何も言わず、ただ煙草を吸っている。

 その手はテレビをつけようかどうかなんどか逡巡して、結局居心地悪そうにソファのへりに収まった。


 シャーリーは灰皿で燻る死にかけの煙を眺める。

 ……時間の経過とともに、小さくなっていくもの。

 忘れられていくもの。

 普通はそうだ。人間は、都合の悪いものは忘れていくようになっている。

 だが、彼女は――。


 ……シャーロット・アーチャーは、思いを馳せた。

 ミランダ・ベイカーという存在そのものに。


 出会った時、はじめに自分を憂いたのは彼女だった。その瞳で、自分の性質を言い当てて、懸念を示したのは。

 ――結局、その憂いは正解だったとわかった。エスタがあんなことになったのだから。


 そして、第八でこのままやっていけるのかという疑問を示したのも彼女だった。

 ……その答えをはっきりと言うためにも、今自分はここに居る。


 そうだ。彼女だ。

 自分に多くの示唆を与えてくれていたのは、何よりも彼女の瞳だったじゃないか。

 あの射抜くような目があったからこそ、自分はエスタを救う決心をつけることが出来たようなものなのだ。


 変わっては居ない。

 彼女は何一つ、変わっては居ない。

 そして、間違ってはいないのだ。


 ……なら、彼女への恩を返すために、自分がすべきことは。


「……先輩っ」


 やおら立ち上がる。


「うおッ!? どうした後輩――」


「ボクは……」


「おう!?」


「ミランダさんと会ってきますッ!!」


 それだけ言って、跳ねるようにソファから離脱する。


「ちょっちょっちょい待ち!? あいつがどこに居るのか分かってんの!?」


 もう止まらない。シャーロット・アーチャーは、こういうときに止まらないのだ。


「分かりません! でも勘でどうにかなります、どうにかしますッ!!」


「ちょっと、会ってどうすんのよ!?」


「話をします……それから、あなたとあの人を仲直りさせますッ!!」


「仲直りって、そんなガキみたいな……」


「じゃあ、ボクは行きますのでッ!!!!」


 それだけ言って、グロリアの突っ込みも追いつかないほどの勢いで……。

 シャーリーは、事務所を出た。


 激しく階段を下っていく音が聞こえる。

 グロリアだけが取り残される。


「ちょっと――」


 伸ばされた手は空中をもがく。


「……いっちゃった」


 勢いに圧倒されたまま、グロリアはそう言うしかなかった。



 ミランダは、やはり雨の中を彷徨い続けていた。


 連日の雨である。

 既に各所では洪水などの災害が勃発している――だが、どうにかなっている。というより、どうにかしている、というべきか。予想外の事態に対しすべてを諦め、『それなりの』対策を施すという意味では、我が街にはそれなりの能力がある。


 おそらくは土木関係に従事している各種アウトレイス達が、己の能力の全てを駆使してこの豪雨に立ち向かっているのだろう。だからこそ、街は崩壊しない。


 しかし。

 ――ああ、しかし。


 そんなことは、ミランダ・ベイカーには関係がなかった。

 だから、彷徨い続けていた。

 永遠とも思える時間の中を……放浪し続けていた。


「――ミランダさんっ」


 そこへ、現実から声がかかる。その顔に冷や水が浴びせられる。その声の主を知っている。


「……」


 ミランダはゆっくりと振り返る。

 次にその子が何を言うのかは、予測できた。だが、歓迎はしなかった。


「……やっぱり、そこに居た。あなたと、話をしに来ました」


 シャーリーは、手に持った傘を殆ど使わなかったようだった。その証拠に、半身を盛大に濡らしている。そのまま顔をあげてこちらを見ると、少しだけ安堵したような顔をする。


「話……? そんなものは――」


「無いなんて言わせません。あなたと話ができるまで、延々とつけ回しますよ」


 シャーリーは2,3歩進んで言った。

 傘を畳んだ……とうとう、全身が濡れる。


 彼女は、自分を見つめた。

 その視線は、驚くほど真っ直ぐで。

 ……知らぬ間に、ミランダは。


「それは……――勘弁願いたいわね」


 抵抗する気力を、削がれていた。



 どこにでもあるファストフード・チェーンである。店内にはチーズバーガーのバカバカしいカリカチュアを象ったキャラクターが飾られていて、ガキどもの心無い殴打の洗礼を受けている。最新の薄っぺらいダンスミュージックが流れる中を、いつ止むともしれない雨を罵倒しつつやり過ごそうとする様々な姿の者達がたむろし、粗雑かつ美味な素晴らしき食材の数々をぱくつく。


 その中へ、二人。ミランダとシャーリーは席を確保した。紙ナプキンの隣には子供用の簡単な塗り絵が置いてあった。だがそれは当然のごとく卑猥な落書きで埋め尽くされていた。無論、子供の画力ではない。


「なんとか座れましたね」


 雨に濡れる髪をかきあげながら、シャーリーが一息ついて言った。周囲のざわつきは止まらない。雨の音はガラス一枚隔てることで、やや籠もって聞こえる。


 ……ミランダは落ち着かなさげに視線を泳がせている。彼女は暗い顔だったが、それ以上に戸惑いが勝っていた。


「私、こういう店は……」


 かぶせるように、向かい側のシャーリーが言う。


「大丈夫です。ボクもあまり来てません。うえハイヤーにはこういう店、全然無いですから」


「――じゃあどうして」


「だからいいんですよ。ボクもあなたも、丸裸です」


 何のてらいもなく、シャーリーは言った。

 ミランダは……歯切れ悪く、答えた。


「あなた………………思い切った時は、本当に変よね」



 シャーリーは、不思議なほど得意そうな顔をしてから……紙コップに入った安いコーヒーを啜り始めた。


 そこではじめて、ミランダは髪を濡らしたままだと気付いた。

 ……彼女は慌てて、拭くものを探した。


 ――眼の前に、タオルがあった。


 シャーリーが、差し出していた。

 こうなることを予期していたかのように、持参していたのだ。

 ミランダの口から、知らずのうちに感嘆のような、呆れのような吐息が漏れた。



「それで……何?」


 肩肘をついて、マドラーでホットコーヒーの表面を撫でる。シャーリーといえば、知らぬ間にリブサンドなんぞを注文してぱくついている。ソースが少しついた口を拭いながら、彼女が顔を上げる。


「私を連れ戻そうとしてる? それなら放っておいて……時間にはちゃんと間に合うから、だから――」


「そんな状態で、シゴト出来るとは思えないです」


 きっぱりと、断ち切るようにシャーリーは言った。レタスが膝に落ちそうなところを、指先で器用にキャッチしながら。


 それから、反論を許さぬように彼女は続けた。

 相変わらず視線はまっすぐ先を向いている。かけらもふざけていない。


「今のミランダさんより、ボクのほうがちゃんと銃を撃てる気がします」


 流石にその物言いには――感じるものがあった。


「――言うわね」


 口の端を引きつらせながら、ミランダが言い返した。しかしそれも、今のシャーリーにはさらりと返されてしまう。


 ……今の自分は、哀れなほど弱っているのだな。

 そう考えると、なんだか面白くさえあった。


「変に遠慮した言い方をすれば、あなたを余計に苦しめる。そう思ったんです。だからボクは、話をしに来ました」


「話?」


 何を聞こうというの。その言葉を言う前に、彼女は核心へと突き抜けた。



「あなたの過去のことを、聞きました」

「――ッ」



 ……手が出るのは、はやかった。

 テーブルが揺れて、少しだけコーヒーが溢れた。

 周囲が一瞬ざわついて、動きを止める。


 ミランダは中腰になってシャーリーの胸ぐらを掴み、手前に引き寄せていた。


「おいおいなんだ?」

「痴話喧嘩か!?」

「どうせなら混ぜて欲しいもんだな」

「ギャハハハ!!!」


「どういうことよ――……あいつ!? あいつに聴いたの!? だったら私はあいつを――」


「ボクが望んで、ボクが答えさせました。あの人は半ばいやいや言っただけです。恨むならボクを、殴るならボクを」


 シャーリーは、少しだけ冷や汗をかいていた。


 だが、それでもなお。

 そう、それでもなお。

 シャーリーは、視線を逸らさなかった。

 その言葉に、動揺による弱さは滲んでいなかった。


「……――」


 だから……ああ、たじろいだのは。

 揺らいだのは。私だ。



 そのままミランダは、手を離した。


 腰を脱力したように下ろすのと同時に、シャーリーも席についた。服についたシワを気にしている風はなかったが、ほんの少しだけ汗が首元から垂れていた。


 ……そのまま、小さく呟く。うつむき気味に。


「どうして……そんなことを」


 シャーリーが、小さく言葉を区切りながら返す。


「あの人は……ボクにあなたを諦めさせようとして、言ったんです。あなたの過去を聞けば、ボクはあなたを放っておくしかないだろうって。きっとそうです」


「じゃあ、どうして」


 感情が漏れる。

 止まらない。


「どうして……私なんかを」


 そしてそれは、自分だけではなかった。


「心配だからに……決まってるじゃないですか。あなたが」


 シャーリーは。

 そのまま、まっすぐにミランダを見つめていた。

 そこから、目をそらすことが出来ない。なんて表情をするのだろう。この雨の中で、なんという――……。


「っ……」


 言うべき言葉を喪失し、黙り込む。

 そこへ、追い打ちをかけるように、シャーリーが言った。


「あなたは第八の中で、ボクを最初に気にかけてくれた人です。それを忘れたりなんかしません。たとえあなたが忘れたとしても……ボクは、絶対」


 あのオデールの事件以来だ。この少女の中で、何かが変わった気がするのは。

 よく泣く癖も、妙なところでズレているのも、何も変わらない。


 だが――何かが彼女の中で生まれた。

 ぶれない芯というべきか。それがはっきりと、目に見えるようになってきていた。


 そして、知ることになった。

 この子は――こんなにも、厄介だったのか。

 でも、そんな風に彼女を昇華させたのは、他ならぬ自分たちなのだ。


 ミランダは、力が抜ける。諦めの境地に辿り着く。

 ……自分の中にある絶望は何も変わらない。過去を知っているのなら、いまさらイアンの話をする気にもならない。今後ずっと、する気にはならない。


 だが……それでもなお、シャーリーが自分から何かを引き出そうとするのなら。せいぜいそのあがきを見てやろう。

 それぐらいの気持ちに辿り着いていた。


「それで……これ以上、私の口から。何を引き出したいの。どうせ私は――」


「フェアじゃないですよね。分かってます」


 今度は何だ。何を言おうとしているんだ。


「だからまずは――ボクの両親のことを話します」


「ワッザファ……!?」


 思わず突っ込んでしまう。


「だから、フェアじゃないからって言ったじゃないですか。両親のことは、ボクにとっても苦しい部分です。だからこそ……今から、それを話します」


 また――真っ直ぐな目だ。

 ミランダは何かを言おうとして、やめた。


「……好きになさい」


「分かりました」


 そしてシャーリーは、語り始める。

 両親のことを。彼女が二人に抱えている、複雑な感情の澱を。



 雨はとめどなく、店外を汚しつづけている。

 蛍光色のレインコートを着込んだテロドの一団が、なんらかのマントラを唱えながらストリートを練り歩く。

 そのそばを通ったフェアリルのカップルは、いかにも汚らしいものを見たというように彼らに舌打ちをこぼす。

 何かに追われるようにして走っているのは黒人のモロウの少年で、その隅に座り込んで祈るような視線を天に向けているのは、エンゲリオの老人である。


 そんな中――シャーリーは、ミランダに話し続けた。切れ目なく、ひたすらに。


 外からでは、何を言っているのか分からない。暗い外に反して、人工的な光でいやに明るい店内。その中で、シャーリーの口は動きつづけている。ザーッという音を背景にしながら。流々と。


 ……十数分後。

 シャーリーは、話を終えた。


「――ふゥ」


 息を吐く。


「そう――だから、追い出せてせいせいしてたんじゃないですかね、両親は。ボクは……『哀れな子供』なんかと仲良くしてたボクは、あの家ではずっと異物だったから」


 そんな話を、していたのだ。

 どこにでもあるような、不幸な話。それを、諦めの滲んだ口調でよどみなく話した。今、それが終わった。


「……悲しいわね」


 他に返すべき言葉があったのかもしれないが、思いつかなかった。

 だからこそ、なおさらミランダの中にこみ上げる言葉があった。


「――……どうして、その話を私にしたの」


 きっと他の誰にも言っていないはずだ、フェイにさえも。

 だったらなおさら、その疑問がこみ上げる。

 シャーリーは、口を開く。間もなく質問の答が示された。


「あなたは――まだ、ボクを完全には信用してないですよね」


 それはあまりにも鋭敏で、直截的な言葉だった。

 思わず虚を突かれる。

 だが、答えない訳にはいかない。彼女は、まっすぐこちらを向いているのだから。


「えぇ――そうね」


「そうですよね。じゃあ、それでいいです」


 少しムッとする。


「じゃあどうして、そんなことを言ったのよ」


 シャーリーは……一呼吸置いた。その間、瞑想するように下を向いていた。

 再び顔を上げた時、彼女はまた真っ直ぐな視線を寄越してきた。


「――あなたに対してこれだけのことを語るだけの意味が、ボクにはあったからです」


「意味……?」



「ボクはあなたのことが、とても好きなんですよ。ミランダさん」



 その言葉は、あまりにもまっすぐで。ミランダは何をどう返答すればいいのか分からなかった。

 愛の告白、というわけではないのは分かっている。そこまでおめでたい頭をしていない。


 だが――『好き』という言葉を向けられるような要素を、自分は何一つ持っていない。そう思っていた。

 だから、動揺した。


 そんな中、シャーリーは語って聞かせた。

 自分がミランダ・ベイカーに対し、どんな感情を向けているのかを。


 思っても見なかったことだった。

 自分がシャーリーを憂いたのは自己満足でしかないと思っていたし、その後の憂いも彼女にとっては障害にしかならないと思っていたのに。


 ――今、目の前の彼女は。あろうことか。それらに感謝を示していた。

 あなたの発言があったから、今の自分は自分を顧みることができたし、今ここに居ることが出来るのだ、と。


 彼女は酒を飲んでいない――だのに、そんなことを、簡単に言ってしまった。

 雨の店外から――シャーリーの口が動きつづけているのが見て取れたはずだった。ミランダは、何も言い返す事が出来なかった。


 ただただ、心がゆれていた。

 自分は……この子を直視できない。

 あまりにも、あまりにも――……。


「あなたの前だったら、純粋で、強くあろうとすることが出来るんです。そんな自分にたったさっき気付いた。だから、あなたに会いに来た」


 思い切ったことをすることに対する弁明には聞こえなかった。そこには、真実が宿っているようだった。

 そう――シャーロット・アーチャーは、本当にそう思っているのだ。

 その上で、ここに居るのだ。


 しかし、本当にそれだけのことで、この子は――。

 ……ひどい、綱渡りなのではないのか。


 この子にとっては、どれだけ多くの勇気を賭ける必要があるのだろう。どれだけ孤独な駆け引きなのだろう。

 眼の前に座っている少女の身体から、得体の知れないモヤのようなものが分離して、一つのフォルムを形作るような幻視。それをおぼえた。


 ザイン――他のどんなアウトレイスにも属さない例外。詳細は不明だが、あのディプスにも見初められた存在。その彼女が、いや、その彼女だからこそ、今ここに居るというのか。


 そのシャーリーが今、こともあろうに――幼稚なほど真っ直ぐな思いをこちらにぶつけてきている。


 

 動揺は続く。

 そう、確かに自分は彼女を憂いた。


 しかしそれは、彼女を暖かな善意で迎えてあげようという百%の思いやりからきたものでは到底無い。抑えきれない自分のサガが漏れ出して、彼女にぶつかったに過ぎないのだ。そう言ってしまえば、自分は彼女のことをまるで考えていないと言うことだって出来る。歪んだ自己愛が生んだ、いつもどおりのネガティブの噴出――そう表現してしまえるかもしれないのに。


 彼女は……その中から、自分の『善』だけを掬い取ろうとしているのか?


 ああ――それは。

 なんということだ、まるでそれは……。


 ――。


 ミランダの中で、目の前に座ってこちらを見ている少女への認識が変貌しようとしていた。

 彼女は先程から黙りこくっている自分を心配するように見つめてくる。


 その様子も、打算など欠片もないのだろう。彼女は『ただ自分を信じたからここにきて』『ただ自分が心配だからこちらを見てくる』。それ以外には、なにもないのだ。

 ――そう、何も。


 ……だとしたら。


「――…………ふっ」


 ミランダは、笑ってしまいそうになった。

 ――やはりあの女、とんでもない。こんな劇薬のような存在をたらしこんで、抱え込んでしまった。ああ、なんということだ。なんという『不幸』なのだ。


 ――不幸、不幸。

 ……この子を前にすれば、ひどく陳腐な二文字に聞こえる。


 雨の音がモノラルに聞こえてくる店内。ざわめきとジュークボックスと、ジャンクな食物のにおい。今、自分がいる場所。ロサンゼルス、アンダーグラウンド。過去じゃない。現在。


 ふいに、何かが自分の中で軽くなった。大きく全てが変わったわけじゃない。傷は痛いし、イアンのことを思うと吐きそうになる。もう一度死んでやろうという気持ちも変わらない。


 だが、何故だろう――自暴自棄の気持ちが、前向きのやけっぱちに変わりそうな気がする。この気持ちはなんだろう。わからない。

 だが、一つ言えることは。

 それらは今、目の前の存在によって成し遂げられた変化だということだ。


 ――この子が何を隠していたとしても。

 この子が過去に何を秘めていたとしても。これだけのことを自分にぶつけられる、その部分だけはこの子は本物だ。他のメンバーのどれだけが、このことを分かっているんだろう。この子は、この子は――……。


 信じなきゃいけない。信じなくちゃ、こちらの何かが崩れてしまう。


 この子は――……そんな子だったのだ。今まで、気づきもしなかった。


 そんなシャーリーに、自分はここまで言わせてしまったのだ。

 その罪は、いつしか罰となって降り掛かってくるかもしれない。


「不幸…………――――だわ」


 ミランダは――お決まりの一言をぽつりと呟いた。

 シャーリーは、身を捩った。

 だが、すぐに気づく。


 ……その悲嘆の表情が、ほんの少しだけ和らいでいる。

 どうしてかは、わからない。

 次にミランダは……言った。


「ありがとう」


 一瞬、シャーリーはなんと言われたのか分からなかった。それが予想外の一言だったからだ。


「え……?」


「だから。――ありがとう、と、言ったのよ」


 ミランダはわざとらしくそっぽを向く。そして黙り込む。

 つられて、シャーリーは頭を下げる。沈黙が答えになるわけではないが、彼女の中でじわり、じわりとその言葉が染み込んでくる。


 ミランダは、イアンの事をしらふで考えられるようになっていた。そこは相変わらず悲嘆に塗れているが、もう首をくくるような真似はしなくていい、と思えた。不思議なことにそう思えた。その原因ははっきりしている。眼の前の存在だ。だが、それを指摘することはない。黙して、触れないでおく。


 ――ただ、彼女のおかげだ、ということだけわかればいい。


 ……ミランダは、店を出る気になった。それは、思いのほか外に開けたような感情だった。


 もう良いでしょう。出ましょう。

 そう伝えようとした。


「あの……」


「何?」


「さっきの……もう一回言ってもらって、良いですか。ボク、なんか感動しちゃって」


「……――絶対にイヤよ」


 とにかく、ミランダはシャーリーと出会った。そして、存外にしっかりと『話』が出来た。

 それだけのことといえば、それだけのことだったが。

 ミランダの内側で何かがほぐれたのは、確実だった。



 ――間もなく、二人は外に出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る