#7 Day5-2
誰も居ない部屋で、彼は呪いの刻印と共にのたうち回っている。
内装に手をかけてびりびりと引き剥がし、何度も嘔吐する。部屋に灯っている灯りが暴れてちかちかと白黒に染め上げる。その中で絶叫する。体を折り曲げながら。
戦いの日は近付いていた。その事実が何よりも彼を苦しめる。以前はこんな苦しみを感じることなどなかったのに。全てはあの女だ、あの女がいるからだ……。
外からは彼を嘲笑するかのように、ジーン・ケリーのあの歌が流れてくる。彼はさらに苦悶する。
――早く。
はやく、はやく。
彼は苦しみのはて、一つの祈りにたどり着く。
がらんどうの中で、そっと呟いた。
……――はやく、僕を一介のけものに戻してくれ。
◇
彼女の追想は――いよいよ、確信をもってあの日に迫っている。激しい雨が降る。彼女の体を打ち据える。
「ッ…………!!!!」
体が泥まみれになるのもいとわずに、彼女は走っていく。
途中ぶつかった女に――蟷螂頭の女に悪態をこぼされたが、そんなものを気にする余裕はない。
ストリートを疾走していく……そのなかで、過去と現在が激しく入れ替わる。ぬくもりにあふれていた極彩色の過去、そして混沌の中のセピア色としての現代。夢と現実を前後させるように、彼女の目の中を陵辱していく。
◇
彼の体に現れた変化は、決して外面だけのものではなかった。
鷹となった彼女が、より物事の本質を射抜くような力を手に入れてしまったのと同じように……彼もまた、人格そのものがゆっくりと剥き出しになっていった。
それだけでは、なかった。
――何もかもが、うまくいかなくなっていた。
彼の仕事は、回らなくなっていた。
一介の労働者に過ぎなかった彼は、激変した環境の中で自分の職をなんとか手放さないことに必死で居る必要に駆られるようになった。
そのため彼は身を削り、職場を転々とした。それもひとえに、彼女との生活を守るためである。彼女は彼の奮闘を応援しつつも、それに応えられない自分の不甲斐なさを呪った――それ以上に……彼がうまくいっていない、この先もうまくいかないことをなんとなく予見できてしまう自分を憎んだ。
全ては、彼女の予想通りだった。
彼は、アンダーグラウンドの混沌に呑み込まれ始めていた。
ろくに仕事を得ることは出来ない。自分の体はわけのわからないおぞましい化物同然となっている。その中でなんとか正気を保とうと必死になって、更に精神が削られていく。
彼は優しかった。そしてあまりにも、不器用だった。
彼の帰宅時間は遅くなっていった。
それから、酒の量が増えた。増えた。
彼の声から、優しさが消えていった。
それでも彼は――帰宅を待っている彼女に対して、こう言った。
「お前は……優しいな。お前といられて、俺は本当に幸せだ」
……その言葉に僅かに滲んでいたものに気付かないはずはなかった。
だが――彼の優しさに、甘えてしまった。
そして、やがて。
全てが――崩壊へと向かった。
二人の間をかろうじて結んでいた思いやりといたわりは、あっさりと真逆のものとなった。
◇
彼が血相を変えて帰宅したのは、いつだったか。
彼は喜色満面だった。
そう、彼は言った。
聞いてくれ、ミランダ。俺の新しい仕事が決まった。もう、お前を煩わせることはない。これからは、ずっと一緒だ。もう、何も壊されることはない。何にも失望されることもない――。
彼は語った。
彼女は……そんな彼を抱擁し、優しく迎え入れた。
そう、良かったわね。私達、幸せなのね。
まるで、確認作業のように。
彼女だって喜んでいたはずなのだ。
しかしそれ以上に――彼女の中にあったのは、『もうこれ以上は』という思いだった。
これ以上は、限界だ。
私も彼も、これ以上は。
その先にある二文字を彼女は知っていた。
それは、“破滅”。
◇
壁際に追い詰められて、彼女は絶叫する――そこにたどり着いたのは自らの意志だ。吐瀉物とゴミと浮浪者の散らばる路地裏。猥雑な落書き、散乱する注射針と黄土色の粉。骨だけになった老人の閨。その異形を扱いかねたまま、哀れっぽい声を出す。その向こう側を、華美に着飾った者達が通り過ぎていく。光の中を。
その狭間で彼女はのたうち回る。黒髪を振り乱し、口に幾本かくわえながら、コートを泥だらけにする。過去を振り払おうとしても無駄だった。あの時の記憶は、彼女が喉を枯らせば枯らすほど、必然的に浮かび上がってきた――。
◇
それは嵐の日だった。
ひどい雨が降っていた。今この瞬間の比ではなかった。
彼は、そんな中帰宅した。
「おかえりなさ――、……」
言葉を失う。
開け放たれたドアから冷気が漏れ出して、その向こう側に立っている彼はと言えば。
血に塗れていた。細い呼吸をしながら、かろうじてそこに居た。
彼の影は色濃かった。部屋の中は明るかったが、彼の周囲は暗かった。
「あなた、どうし、」
言葉が続かない。
見てしまったのだ、彼の目を。
憎悪にゆがみながらこちらに向けられた、彼の双眸を。
そして。二の句など、つげなかった。
またたくまに彼の影が侵攻してきた。一瞬だった。足音。泥に塗れる床。彼女の目の前が覆われる、彼が迫る、彼の手が伸びる、あの優しい腕が、でも今は……。
背中に衝撃を感じる。ばしゃり。彼に組み伏せられた――視界が暗黒に染まる。
痛い、痛い、何をするの、離して――。
その思考が奔る前に。
目を開く。荒い息遣い。そこにいるのは。
怒りに満ち満ちた彼の姿。血走った目、食いしばられた歯。それら全てが彼女の方に向いている。
両腕が手首に食い込む。痛い。痛い――恐ろしい。
「あなた、一体――?」
「お前の、せいだ」
彼は吐き捨てた。痰と血が一緒になったものが彼の口から吐き出されて、頬に当たる。いつもならすぐに詫びるだろう。だが今は。
「何を言ってるの、離して……」
「全部お前が仕組んだことだったんだ、俺は今日それを知った、この、このッ……裏切り者がぁッ!!!!」
裏切り者?
何を言っているのか分からない。
いや、分かる。彼の言っていることが。私は、私は――。
「あなた、離してッ……」
抵抗しようとしても無駄だった。
彼女にはわかった。今彼の中のアウトレイスとしての力がむき出しになっている。だから逆らえない。ぎりぎりと締め付けられる。そして彼の節くれだった腕が衣服に伸び、正面からばりばりと引き裂いていく。白い肌が剥き出しになる。
彼はこれを、この力を恐れていた。
だから今まで――彼女の前では、一度だって人間以外の姿を晒したことはなかった。
「誤魔化すな、今日俺は仕事をクビになった……それだけじゃない、この血まみれの有様だ。納得がいかないからな、暴れてやった……そしたら逆に取り押さえられてこのザマ、おまけに、おまけにだ……親切にも、俺に事実を教えてくれたやつが居たよ……!!」
「事実って、」
――もう、分かっているはずなのに。
なんてずるい女なのだろう。
「全部……全部お前が仕組んでいたことだったんだッ!! 俺の仕事は、お前が手を回して手に入れさせたってことを俺は今日知ったぞ!! ろくでなしのクズな俺とは違って、この国のエリートだったお前のおかげだったってわけだッ!!!!」
――ああ。
抵抗する力が抜け落ちていく。彼を見つめる目が、悲嘆から諦観に変わる。
何故なら、その通りだったから。
今度こそ、彼に悲しい目にあってほしくない。だから彼女は、嘘に嘘を重ねて……裏から手を回した。使えるコネは、それなりにあった……そして彼に、優しい夢を見せてあげたかった。永遠に覚めない夢を。
だがそれはかなわなかった。どうして?
「なんで、それを――」
「お前に恨みを持つ人間は大勢居たってことだ……ご親切にも教えてくれたよ……なんなら教えてやろうか!! この俺をこんなザマにしてくれた連中の名前を、お前と良い仲の連中の名前をッ!!!!」
……逆らう気力は残っていない。全ては必然だった。自分の過去は今に繋がっている。因果応報。収まるべきところに収まってしまった。
だが、それはここまで残酷なものなのか?
私達を引き裂くほどに無慈悲なのか? だとしたら、私は今まで何を信じて生きてきたのだろう。
「……お願い、お願いよ…………」
頬を、涙が伝う。
「もうやめて……そうよ……私が、私が全部悪いのよ……許して、許して…………」
子供のように泣きじゃくり。
それで、許されればどれだけ良かっただろう。たとえそれで彼が自分を見限って、永遠に過去の中で生きていくことになったとしても。それで彼が救われるのなら、それでよかったのかもしれない。
だが、彼は。
「――憎い」
その言葉を吐いて。
「お前が憎い――何もかもを見通す、その瞳がッ!! 憎いッ!!」
……その力を、開放した。
またたくまに、目の前に異形が現れる。
何とも形容し難い化物。黒く塗り込められたシルエット。モロウとしての彼の姿、その正体。
今、彼は、全ての枷を取り払い――人間であることをやめた。
その腕が、今度こそ彼女の首をひっつかんだ。
激痛とともに呼吸が困難になり、彼女は背中を壁に押し付けられる。そのまま持ち上げられる……。
「が、あ……」
意識が遠のいていく。だがそれでも、この荒れ狂う悲しみは抑えることが出来ない。涙は幾らでも流れ続ける。そして、彼に赦しを乞い続ける。
「やめて……ごめんなさい、ごめん、なさ、い…………」
しかし、彼女の言葉は、もう彼には届かない。
「殺ス、殺シテヤル、ミランダアアアアアアアアアアア!!!!」
もはやかつて愛した男であることを辞めた化物が、粘液を滴らせながら叫んだ。彼女の意識は遠のいていく。正常な判断力を失っていく、痛みと絶望の中で。感情が荒れ狂い始める。
――お願い許して、こんなことをさせたかったわけじゃない、私はただあなたのためを思って、でもそれがあなたを傷つけることになるなんて、私はいつもそうだ、私はいつだって良かれと思って周囲の何かを傷つける、この瞳が、この力が、そうさせる、今もまた私は大きな何かを失おうとしている、嫌だ、嫌だ、嫌だ、私はこんな現在を認めない、私はわたしはワタシハ――――。
「い、や……」
「GRHHHHHHHHHHH!!!!!!!!」
「嫌ァーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
そこで。
――彼女の。
ミランダの中で、何かが弾けた。
命の危機に陥ったその瞬間……。
羽が、舞った。
それは――彼女の、力の解放を意味していた。
わずか一瞬のことだった。
彼女はその真の姿をあらわにした。猛禽としての姿を。
眼の前に居る彼が気付く間もないほど、僅かな間。
その時彼女の思考は――恐ろしく研ぎ澄まされていた。
あらゆる感情が蒸発して、唯一つの理性だけで支えられていた……激情の果ての、グラウンド・ゼロ。
彼が、彼女を絞め殺そうとした。
だから、彼女はそれに抵抗した。
手が勝手に動いていた。一瞬のスキに、懐から拳銃を取り出して。
――今まさに、自分を殺そうとしていた眼前の男の額を、撃ち抜いた。
再び羽が舞った。
銃声は、不思議なほどに聞こえなかった。
静寂の中で、一筋の血が化物の額から流れ出た。
力が緩んで、彼女は拘束の檻から解放される。
時間が緩慢になり、ゆっくりと目の前の存在が後方へ倒れていく。
これは誰だろう。
今まさに、人間の顔に戻っていく。知っているぞ、ワタシハこの男をシッテイル。
――どしゃり。
そんな音がして、床に男が倒れた。
……途端に、時間の流れが戻り、世界の音が耳の中に戻ってくる。
「あれ、私、何を――」
何も覚えていない。
自分は確か、嵐の中帰宅した彼を出迎えて、それから……。
――そこで、周囲に羽が落ちていて、床一面を絨毯のごとくに覆っていることに。手に拳銃が握られることに気付く。
ひやりとした何かが込み上げて、彼女の中で何かが突き上げてくる。
視界は部屋の中を走査する。
心臓の鼓動が、はやくなる。
「あなた……――?」
そして。
見つけた。
見つけてしまった。
物言わぬ亡骸となって、虚ろな目を真上に向けながら倒れている男を。
かつて自分が愛した男の死体を。
「……――――」
崩れていく。何もかもが、崩れていく。
髪をわしづかみにして、ゆっくりと、ぐしゃぐしゃにしていく。
血が広がって、舞い落ちた羽に染み込んでいく。
それを見て、悟った。自分が何をしたのかを。
――その日。
ミランダ・ベイカーは愛する男を殺した。
◇
駆けつけてきた警官が、その現場を見た。
しかし、誰も彼女が男を殺したとは思わなかった。
血に染まった羽が散乱する現場は、何かの大舞台のようにいびつな美しさが宿っていたという。
茫然自失のなか、全ての結果が彼女に知らされた。
――それは、正当防衛。
魔法の四文字。
彼女は、罪に問われなかった。先に襲いかかってきた彼に非があった。そして、あのままだと彼女は殺されていたことが分かったのである。
だが、それだけが理由だとは、彼女は信じなかった。
「……あなたは全てを忘れるべきです。そして、一人の人間として、生きて――」
「……――でしょう」
「……何です?」
「私の肩書でしょう。それを恐れた。だから私を裁けない。結局誰も、過去からは逃れられない。私も、あなたも、あなたも、あなたも……みんなみんな、つみびとなのよ……ああ、なんて不幸なのかしら……」
「……――――気狂い女が」
そこから彼女は、過去の中で溺れた。
様々なクスリに頼った。浮浪者同然となって、街を彷徨い歩いていた。
……そして、更に時が経ち。
――彼女は。
フェイ・リーと、出会ったのである。
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