#4 Day3

 ただ、窓の外を眺めるだけの日々が続いた。

 任務の日は確実に近づいていたが――誰一人として浮足立っている者は居なかった。

 それどころか。


「……」


「ファッキン・レイン。あ、今のリリックよくない? シャーリー、メモとって」


 グロリアとシャーリーはソファに座りながら冷めたマルゲリータピザを貪り食っていた。実に怠惰な日々――こんな時、騒動を持ち込む者の半分以上はここに居ない。


 テレビではフットボールの試合が流される。ザッピングの末、それにした。グロリアが決めた。薄暗い部屋。先日酔った勢いで天井の灯りがぶっ壊れたので、光源は外の灯りのみ。だが、外は雨のブルー。室内には雨粒のまだら模様が灰色になって差し込んでくるだけ。その中でメシを食うのだから、決して美味いとは思えないというのが実情だった。


「けど、なんでこんなタイミングで大統領が……」


 間を埋めるように、シャーリーが呟く。その口の周りにチーズのかけらがついているのに気付くと、慌てて口を覆う。


「まぁ、来る理由は理解できるわよ」


 グロリアがコークを牛飲しながら言う。


「いつもの対外政策って奴よ。ここに顔さえ出せば周辺国にアピールが出来る。『見ろ、私はロサンゼルスも米国の一部であると考えている』ってね――……あの金髪の豚ピギーちゃんが考えそうなことだわ」


「理屈はわかります。でも、それだと……なんで『今』なのかってことの説明にはならないですよね」


「そーよね~~~~~~……あー頭痛くなってきた」


 グロリアは伸びをする。大きな胸が揺らいでカタチを変える。

 シャーリーはそこに視線を注いでから、自分の胸元を見る。そこで少しだけ眉根を寄せてから、言った。


「――――考え事したからですか?」


「は? なにそれあんた。めっちゃバカにしてない???? 百回ぐらい殴らせなさい」


「え、嫌ですけど……」


「うるせー、殴らせろチビ助―」


「ちょっと、コーラ溢れる!! やめてください先輩!!!」


「ほらほらー、ここがええのんかー」


 やいのやいの。

 二人は気圧変化の頭痛と戦いながらくだらないやり取りを続ける。

 ――だが、この空間の中で一人、その空気にまったく染まっていない者が居た。


「……」


 ミランダだ。

 雨の外をただ、見つめている。


「……ちょっとあれなんとかしてきなさいよシャーリー」


「ええ……嫌ですって」


 彼女に背を向けて、グロリアがシャーリーの肩に手を回しながら言った。


「じゃあじゃんけんで決めるわよ」


「ええ……なんですかその自分ルール……」


 露骨なひそひそ話。だが、ミランダには届いているのかいないのか。ひたすら窓の外を眺めている。眺めている。



「……は~~~~~~~~い、ミランダサン……ほんじつはお日柄もよく…………」


 数十秒後、油の足りない機械のような動きをしながら後方からミランダににじり寄るのはシャーリーである。

 引きつった笑顔のまま、彼女にその言葉を向ける。結果を待つ。


「……今日、雨よ」


 ミランダが、一瞬だけ振り返って言った。

 シャーリーの顔が、さらにひきつった。


「そうですよねーあはは、えっとですね、その、あの……あはははは……」


 後方でグロリアが何やらジェスチャーをしているがシャーリーにとっては邪魔極まりない。ぎくしゃくした四肢の動き。そして。


「……良いのよ、無理しなくて」


 ――その一言。

 シャーリーは敗北した。



「……先輩! やっぱ無理ですッ!!」


 ひそひそ。


「このヘタレッ!!!! せめて一言ぶちかましてきなさい!!!!」


「えぇ~~~~…………」


 そして再び、ミランダに近づく。


 ……彼女の背中。微動だにしない、うら寂しい背中。

 何があったのかは予想もつかない。

 だが、そこに湛えられているものは。


「……」


 自分には想像もつかないほど、重々しいもの。きっとそうだ。そしてそれは、彼女だけではない、のだろう。


 ここに居る誰もが。内側にのっぴきならない事情を抱えながら、共に居るのだ。

 他ならぬ、この自分でさえも。


 ……一緒に居るのなら。共に、戦うことが出来るなら。

 せめて、せめて一瞬だけでも。その傷に共感することが出来たなら。

 ――エスタの時、皆がそうしてくれたように――……。


「……あの」


 そんな思いで、シャーリーは言葉を出した。小さく、自信なさげに。


「抱えてるものを、抱えきれなくなったら。ボク達に相談してください」


 ミランダの背中は動かない。


「その……仲間、なんですから」


「相談? あなた達に……??」


 彼女は振り向いた――……。

 その表情は、陰気な笑みに彩られている。


「そうです、相談です。話を聞くだけでも……きっと違うと思います」


 シャーリーは一瞬後ろに引き下がったが、すぐにそう言った。

 だが。


「あなた達に……私が?」


 ミランダはそう言って笑った。

 その笑みは、シャーリーの発言を悪い冗談と受け取ったような表情だった。


「……っ」


 なおもシャーリーは、何かを言おうとしたが。


「やめときな、シャーリー。もういい」


 グロリアの言葉があった。


「でも、」


「やっぱり駄目ね。そこで誰にも何も言えずに、一人で沈んでいくのがそいつなの。前からそうよ」


 その言葉はあまりにも断定的で……他の何もかもをはねつける剛直さがあった。

 シャーリーはそれに反論しようとしたが……出来なかった。

 ふいにミランダを見る。反応を確かめるために。また一触即発に――……????


 しかし、彼女は何も言い返してこなかった。

 そしてその態度こそが、グロリアを逆撫でた。


「……――ッくっそッ!!!!」


 彼女は唐突に、思い切りソファを蹴りつける。

 シャーリーは驚かなかった。そうするのではないか、と薄々感じていた。

 グロリアは間もなく足を押さえながら痛みのうめき声を出し、片足で数歩歩いた。


 ……ミランダは、そのままじっとしている。

 何の反応も寄越すことなく。


「ミランダさん……」


 雨は降り続いている。いつ止むのかわからない。


 記録的豪雨、とニュースで言っていた。そもそもこんな事自体この地域ではありえないはずなのに、とのことだった。そして警察は、『また』アウトレイスが絡んでいるかもしれない、と調査を進めているとのことだった(気象の領分は警察は関係しないはずだが、アンダーグラウンドさもありなん、というわけである)。


 雨は、降り続いている。


「調子狂う……クソが」


 グロリアが小さく零す。


「……」


 シャーリーはミランダの背中を見つめている。細い背中。すぐにでも手折られてしまいそうな。そこには、翼があるはずなのに。今は、今は。


 ――こういう時、何を伝えるべきなのか。

 シャーリーは考えた。


 そして、苛立った。

 ……答えが出る気がしなかったからである。

 それは結局、うじうじといつものように悩むことと何も変わらないような気がした。


「いい加減……やめにしなきゃ」


 そのシャーリーのつぶやきは、誰にも聞こえなかったに違いない。


 

 まさにその瞬間、外で雷が鳴って、室内を一瞬真っ白に染め上げたからだ。

 グロリアはソファから転倒し、シャーリーは目を瞑った。


 再び目を開けた時、ミランダは変わらずそこに居た。

 ……その時彼女は、ある男の名前を呟いていた。


 その名前をシャーリーが知ることはない。グロリアが知ることはない。

 その後も一生、知ることはない。


 あまりにもありふれていた。

 どこにでも居て、どこにでも消えてしまうような名前。


 ……窓の外を見れば、雨を嫌い、影法師のように路地裏へと逃げ込む者達が見える。それぞれの顔は青色のさざめきで覆われて判別できない。


 ――ミランダが出会い、一緒にコーヒーを飲んだ男というのは、結局のところそういう存在なのだ。



 胸が万力で締め付けられたように痛み、その隙間から汚泥が流れ出ていくような感覚がある。一歩進むたび、それは脅迫的に強まっていく。触れる空気全てが棘のようになって彼を蝕んでいく。それでも彼は歩いていく。地獄のほうが、ここよりはマシだ――次第に膨らんでいくその思いとともに。


 彼は夜の豪雨の中を歩いていく。気持ち悪い。吐き気が止まらない。だが、嘔吐までには至らない。全力で走ったような呼吸が延々と続き、汗が際限なく噴き出し続ける。歩いていく。歩いていく。


「――○○✕✕✕――」


 道に立っているテロドの商売女が、不気味なモザイク模様となった肌を淫らに誇示しながら示してくる。だが彼にはそれにとりあう余裕などない。肩がぶつかり、通り過ぎる。後方から、その女の罵声が聞こえてくる。


 彼は歩く。歩く。

 レインコートを着た無数の異形の影法師たちが傍を通り過ぎていく。そして彼とは二度と出会わない。


 ――お前は祝福された子なのよ。だからその力で、誰かを幸せにしなさい。


 声は残響のように聞こえてくる。彼は一瞬それに耳を傾ける――が。


「へい兄ちゃん、足元がふらついてるぜ、大丈夫か? キメるなら茶色はやめて上物にしな! ……おおっと、身体が勝手に」


 揶揄する声とともに、足を引っ掛けられて転倒する。


 水たまりに全身が突っ込まれてずぶ濡れになる。身体が重い。周囲を嘲笑が包む。だが、背中を撫でるようなそれらを無視しながら彼は進んでいく。あてもなく。傘さえも忘れて。


 ――……その力は正義のために。

 ――……その力は誰かのために。


 違う、違う。

 そんなものじゃない、だって自分は……。


 道を通っていく、醜い姿をした化物ども。傍を通り過ぎていくたびに神経がたかぶり、おかしくなる。自分がどこを歩いているのかまるで分からなくなる。焦燥感は強まっていく。声が聞こえてくる。自らを祝福する声。そして呪う声。それらが交互に彼の頭の中で響く――まるで重金属のように。


 苦しい。苦しい。逃げたい、逃げたい。


 だが、逃げるためには、あれをやらなくては。重たい鉄を持ち上げて、その引き金をひく。相手の頭はざっくりとへしゃげて、中から綺麗なちょうちょが飛び出す、その赤色の鮮やかさといえば筆舌に尽くし難く――…………。


 ――……“イアン”。


 ふいに、女の顔が浮かんだ。その顔を知っている。


 長く黒い髪の、いつも困ったような表情を浮かべた女。

 ……実際に死のうとするわけでもないのに、いつも死について話す女。気づけば、いつも傍に居た女。ああ、鬱陶しい。頭にこびりついて仕方ない。名前はなんだっけ。


 ああ、そうだ。彼女の名は、ミラ――…………。


「やめろ、やめろっ……僕には、耐えられないッ……!!」


 彼は頭を抑えながら叫び、ストリートを曲がった。

 その途中誰かにぶつかった。後ろから非難の声。


 それさえ届かない。

 逃げなくては。光があるから苦しいのだ。祝福も呪いもない、ただ一色の世界に逃げなくては。闇へ、闇の中へ――……。


 だが。開けた視界の中。広がる情景。


 ――彼は見た。猥雑な落書きにまみれた路地裏の壁に、一人の若い女が押し付けられ、その衣服が剥ぎ取られていくのを。


 それを行っているのは、よだれを垂らしながら股間の醜悪なものをいきり立たせている怪物の――モロウ数人だった。鼻水と涙にまみれながら女が叫び、抵抗する。四肢をばたつかせる。だが彼らには効かない。むしろそれが一層彼らを『その気』にさせるらしく、男たちの一人が女を殴りつけた。力が抜け、さらに衣服が引き裂かれていく。その悲鳴は徐々にか細く甲高くなり……雨の中に埋もれて消えていく。誰も意に介さない。誰も、誰も……。


 一人を除いて。



 気づけば彼はその現場へと歩んでいた。

 そして男の一人の肩を叩く。


「おい」


 男は振り返った。濁った目と、半笑いの口。薬物でぼろぼろになった歯。


 

 彼はそのまま、男を殴り倒す。泥だらけの水たまりに突っ込む。一瞬の出来事。驚いた他の数人は、すぐさま懐からナイフを取り出す。

 だが、彼にはそんなもの通じない。全ての攻撃をかわしきった後、腕をへし折る。地面に叩き伏せる。泥まみれの地面に押し付ける。女は解放される。


 ……傷だらけの女と、目が合った。

 しかし、それも一瞬のこと。


 ……男のうち一人が立ち上がり、拳銃を抜いていた。

 女は悲鳴を上げながら、その場から走り去っていく。彼は意に介さなかった。彼には別のものが見えていた。


 銃弾が放たれる。

 だが……彼には当たらなかった。

 その瞬間、雨の大気の中に、何かが舞った。白い何かが。


「……――」


 それは羽根だった。

 彼の身体を包み込むように発言した、巨大な翼の。


 そして銃弾は……彼の手にしっかりと掴まれていた。巨大な鉤爪となった手に。


 男は驚愕する――。

 目の前の若い男が。


 猛禽を象った、異様な鳥人へと成り果てていたからだ。

 それが、その存在がモロウであるとはすぐにわかった。だが、こいつは、こいつは――……こいつはヤバい。


 ……男がそう思った時には。


 すでに、イアンの中の激情ははちきれていた。


 ……男の手を掴み、そのまま握りつぶす。血が吹き出し、骨が折れる。奇妙なまでに崩れていく。まるでりんごのように。男が赤子のような悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちていく。そこへ、腹に何度も蹴りを入れる。何度も、何度も。嘔吐する、嘔吐する。


 ……周囲の男たちは驚愕と恐怖に染まり上がり、その場から逃げ去っていく……明るい雨の中へ。その場にはイアンと男しかいない。男の命はイアンが掌握していた。


 男はもはや抵抗する気力すらなかった。骨組みを失った人形のように、泥と吐瀉物と生ゴミの中に仰向けで崩れ落ちる。

 そこへ……――獣化を解いたイアンの拳が、叩き込まれる。


 ……彼の中に荒れ狂っていた狂気は、制御できない暴力衝動となって解放された。誰も止めることが出来ない。その雨の中では。


「……貴様が」


 殴る。殴る。血が吹き出す。骨が折れる。臓物が崩れる。赤と青のモザイクが撒き散らされる。ぐしゃり、ぐしゃりという音。潰れたトマト。


 何度も、何度も、何度も。


 脳内の光景を全て吹き飛ばすように。背中を駆け巡る悪寒を誤魔化すかのように。何度も何度も何度も何度も何度も何度も、その肉塊を殴り続ける。


「貴様のようなクズが居るから、僕は、僕は……――」


 またがって殴り続ける。もはや相手は息をしていなかった。それでも止まらない。完全に消え失せてはいなかった背中の羽根から、羽毛が飛び散り、それらが赤黒い色に染められていく。


 鮮血。彼女。祈り、呪い。全てが順番になって輪廻して、彼の思考をかき乱す。罵倒し、詰ってくる。そのうえで、死さえ許されないままこの地上に繋ぎ止められている。これを煉獄として何という。加速していく。暴力のイドへ、加速していく――虚無の爆心地へ。どこまでも、どこまでも……。


「失せろ、失せろ……消え失せろ、永遠に、永遠に――……」


 ぐしゃり、ぐしゃり。ぐしゃりぐしゃりぐしゃりぐしゃり――……。


 もはやそこにあるのは潰れたしゃれこうべで、元の顔など分かりはしなかった。只の肉塊、只の背景だ。だがそれでも彼は殴り続ける。


 いつまでも、いつまでも。


 ……だが果たして、永遠に?

 ……――いや、違う。

 永遠など。


「……――イアン?」


 永遠など、ない。


 ……そこに居たのは。

 ミランダだった。


「……――」


 傘を取り落とした彼女が、目を見開いてこちらを見ていた。

 いつもはそんなふうにこちらを見てくることなどないのに。


 ――ああ。なんて顔をしているんだ。

 君はそんなふうに、僕を真っ直ぐ見つめることができるのか。


「ミランダ……」


 立ち上がる。肩に雨粒がのしかかる。羽が周囲に舞い、雨の重さで地面に落ちて散らばる。ブルーの世界の中。世界がゆるやかに静止して、二人は見つめ合う。


「い、アン……」


 彼女は取り憑かれたような力のない動きで、一歩進んだ。


 イアンは全てが抜け落ちたような表情で彼女を見た……いや、彼女のいるあたりをぼんやりと眺めた。


 その顔には血が飛び散って、両拳にも同様の色合いがびっしりとこびりついている。雨の音がテレビのノイズさながらに響き続けるなか、ミランダが近付いてくる。


「……何を、していたの、あなたは」


 ――その身体は濡れている。黒い髪がべったりと白い頬にくっつく。

 ――……決まっているじゃないか。


 何をしていたかなんて、見れば分かるはずなのに。君はなんて愚かなんだろう。

 この、僕の足元に横たわるクズが君には見えないのか。

 いや、その必要はない。君がこれを見る必要はない。ないんだ……――。


 ミランダが、近付いてくる。

 だが、イアンは。


「……来るな。来ないでくれ」


 そう言った。

 ミランダは一度足を止める。

 だが再び歩みを進める。その口を、少し曲げながら。まるで、できの悪いジョークでも聞いたかのように。


「何言ってるのよイアン、あなた……」


 ……ああ、なんて笑うのが下手な女なのだろう。本当に嫌になる。


「あなた、怪我、してるじゃない」


 ――違う。


 違う、違う違う違う。そんなわけがないじゃないか。君には見えていないのか。この血が誰のものであるのかぐらい、君にだって分かるはずだ。


 ……隔意はやがて苛立ちへと変わっていく。ゆっくりと、首をもたげるように。

 ミランダが近付いてくる。


「イアン、……大丈夫…………? あなた――……」


「――来るなって言っただろ、ミランダ」


 はねつけるように、ぴしゃりと低い声音で言った。


「……――ッ」


 ミランダの動きが硬直する。

 それから、哀れなほどその顔から表情が消える。


「どうして――……」


「どうしてもだ。僕と君は……違うんだ。分かるだろ」


 両手を広げて、状況を指し示す。

 死体が転がっている。死がそこにあり、まるで歓迎するかのように雨が降りしきる。


「でも、わた、わた……私は、」


 死体に近付いて、それを乗り越えようとしてくる。


「…………――――ッ」


 イアンは目を見開いた。



 駄目だ。それだけは駄目だ。

 ――……それだけは、彼女にさせてはいけない。


 彼女は、彼女は……――!!


「……来るなと言っているのが、まだわからないのか。ミランダ」


 ……イアンはそう言いながら。

 彼女に、銃口を向けた。


 瞬時に彼女がその場で硬直する。哀れなほどに。


 それから、みるみるうちに表情が崩れていく。絶望に青ざめていく。身体が震えていく。

 ああ、なんて寒そうなんだ。なんて苦しそうなんだ。そばに落ちている傘をさして、彼女に渡してやれる誰かがいないのか。居たとしても、それは自分ではない。ミランダは、喉の奥からうめき声を出しながら、肩を震わせて後退していく、後退していく……。


 ……イアンの心は、血を吐いていた。


「あ、ああ……」


「そのまま後ろを向け。そして……ここから離れろ。君は何も見なかった。いいな」


「そんなこと…………ッ」


 ミランダはそこで、叫んだ。金属に爪を立てるような、ヒステリックな声で。


「そんなことッ……言われなくたって、そうするわよッ!!!!」


 彼女はその場に傘を打ち捨てながら、髪を振り乱して後ろに翻る。そのまま、ばしゃりばしゃりと足音を立てながらそこから去っていく、去っていく。よろめき、転倒しそうになりながら。イアンから遠ざかっていく、遠ざかっていく…………。


「……」


 イアンは銃を下げる。濡れたまま。


 背中をコンクリートに押し付けて、天を仰ぐ。


 そこに、抜けるような空はない。あるのは、天空の大地。逃げ場などない、と宣告するように、常に上空から影を落とし込んでいる。


 視線を外して、死体だったものを見る。


 ……すでに、生の感覚はなくなっており、土気色の背景となりつつある。このままここに遺棄しても、誰も気付かないだろう。


 この街は、そういう街だ。



「ハーッ……ハーッ……――」


 ミランダは駆ける、駆ける。そして逃げていく。

 全てから。

 だが……追いかけてくる。

 追いかけてくる。


 ――血まみれの顔。自分を恨めしげに見つめてくる男。

 彼女はその男のことを誰よりも知っている。


 焼き付いて離れない、その時の光景。

 それが今、この瞬間に……巻き戻し、再生される。


「ハーッ、ハーッ……――」


 涙と、鼻水と、その他のよくわからないものを垂れ流しながら、彼女は走っていく。


 だが、過去はどこまでも彼女の追いすがり、その手を伸ばしてくる。

 血まみれの手を。そして、怨嗟の籠もった言葉を。


 ――“お前がにくい”。

 ――“何もかもを見通す、お前の瞳がにくい”。


 ――“お前はしあわせにはなれない。お前は一生、のろわれたまま。誰に出会ったとしても”。


 その言葉とともに、彼は息絶えた。血だらけで。


「嫌だ、嫌だ……嫌だっ……――」


 だが、それは消えることはない。


 降り続く雨のように。彼女の心を、打ち据え続ける。


「嫌だ……――もう、嫌なのに…………!!!!」


 ――数年前。



 ミランダ・ベイカーは、将来を共に誓い合った男を殺害した。



 血に染まった羽が、水たまりの中で泳ぐ。


「……――畜生」


 吐き捨てる。

 誰に?

 分からない。

 ただ……ひとつ言えることがある。


 自分は今、何かを失った。

 そして、もとの自分に戻ったのだ。



 何のことはない――ただそれだけのことのはずだった。

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