#3 Day2
雨の中、彼は車をパーキングに停めた。
それから、歩く――ひどく全身を濡らしながら。傘もささずに。
周囲の人々は彼のことを一顧だにせず通り過ぎていく。まるで彼など存在しなかったように。この天候で傘もささないような奇特な者は、この街に限ってはありふれているということか。
――そういうわけではない。ただ彼は、影のようだった。
ストリートを歩いていく、歩いていく。
ショーウィンドウの間を抜けて、狭い路地に入る。
「かねヲよこシナ、一億ルーブリだ、オマエらガイジンがイルから、」
ケトルを被ったスラヴ訛りの老婆が彼に向かって罵倒を投げつける。その他にも麻薬中毒者と思われる若者やホームレスが、どろりとした視線を彼に投げつける。
イアンはそれらを全て無視して、汚らしいアパートメントに入った。
羽虫が周囲を舞う電灯の灯り。ひどく青い。
階段を登るたび、空疎な金属の音が響く。
彼はそれに聞き入るようにして、一瞬立ち止まった――踊り場の窓からは、ネオンサインの裏側が見えた。雨粒が電飾と遊び、火花をちらしていた。
……思い直したかのように、階段を登りきる。
そして、薄暗い煤だらけの廊下を渡り、最奥の部屋へ。
――ドアノブを回すと、それは抵抗もなく彼の力を受け入れた。
「……」
眉をひそめることもなく、そのままドアを開ける。
それから電気のスイッチを入れて、暗黒の空間に、僅かばかりの光を投げ入れる――。
「遅かったじゃないか、イアン。夜の鳥でも観てたのか?」
そのがらんどうの部屋の真ん中で椅子に座っていたのは、一人の男だった。
「……」
オールバックに、ダブルのスーツ。広い顎。
顔全体に浮かび上がる皮肉の色。彼は肩をすくめて、部屋の主を迎え入れる姿勢を示した。
イアンはそれを無視して、薄いベッドに上着を投げた。男に背を向ける。
「おいおい、随分と冷たいな。俺たちは親友と言える間柄のはずだが?」
男の撫でるような声。
「……いつ入った」
なるべく無感情に徹しながら、背を向けたまま男に聞く。
「いつでも良いだろう。ひどくつまらないことを聞くんだな……」
男は葉巻を取り出して、吸い始める。
煙ったいコイーバの香気が、一切の遠慮無く室内に満ちる。
外からは、通りを走るオートバイの音が爆音で響いている。
「
「――……」
その言葉と同時に、イアンは懐から自動拳銃を取り出していた。
そして、男の額を狙う。
……イアンはなるべく冷静でいようとした。その表情も。
だが今……頬に汗が垂れる。
「……黙れ。僕の部屋から出て行け」
……男は銃口を向けられても平然としたまま、ただ肩を大袈裟にすくめた。
「そう言うな」
わざとらしいほど軽い口調で、男は窓際に置かれた小さな鉢植えの草を撫でた。
「お前に依頼がある」
イアンは銃を向けたまま。
「依頼……?」
「そう、依頼。仕事だ。ジョブだよ、イアン」
男はそこで再び笑った。イアンは笑っていない。
「そいつをこれから話したいんだが。俺はいつまでそいつを向けられてるんだ?」
男は肩をすくめる。
イアンは何かを言おうとしたが、目をそらした。
それから、銃を下ろす。
「出て行け。僕の仕事は自分で――」
「ターゲットは……――大統領だ」
イアンの訴えを無視して、男は告げた。
明日の天気でも占うような口調で、その言葉を。
「……――何だと?」
問い返す。
「だから言ったろ。プレジデント閣下だよ。今度、ここに来ることになってる」
男は――スーツの内側から一枚のプリントを取り出し、イアンに渡した。
そこには……ぞっとするほど綿密に、『計画』の全貌が書き出されていた。
「……誰の差し金だ」
イアンが問うと、男は愉快そうに眉を寄せて答える。
「ある高名な方からの依頼でね。残念ながら名前は出せない」
「――断る」
一言で、ぴしゃりとはねつける。
外の車のフラッシュが、室内を一瞬ホワイトアウトさせる。
男は数秒黙ってから……小さく言った。
「……ほう? そりゃまた、どうしてだ」
イアンは答える。
「言ったろ。僕の仕事は自分で探す……帰ってくれ」
「ははは。なんだそりゃ――……お前流のジョークか??」
男は……声を低くした。
イアンはそれにも動じない。
「ドアなら開いてる。今すぐ出て行け」
「そうかい。旧知の仲だと思って期待してたが……そいつも無駄だったようだ」
「そういうことだ。僕はもうすぐこの仕事をやめる。新しく生まれ変わるんだ」
「ははは、そうかそうか、そりゃなによりだ」
男は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで椅子から離れる。
そのまま、イアンに背を向けて――。
思い出した、とでも言うように、言った。
「……じゃあそのニュースを、彼女にも伝えてやらなきゃな。お前が懇意にしてる、『おはなし会』のお仲間にも」
……イアンの表情に、明確な動揺が初めて浮かんだ。
そして、その脳裡に……『彼女』の姿があらわれる。
「貴様……――彼女に、」
「……――ああ、そこがお前の『疵』というわけか」
男が振り返った。
次の瞬間に、イアンの頭に衝撃が奔った。
「……――ッ」
殴られた、と思った。
振り返ると、いつの間にかそこにはジャンプスーツを着た黒人の巨漢が居た。いつからそこに居たのだろう、分からなかった。ただ、対応が遅れた。抵抗が間に合わなかった。
「随分と鈍くなったもんだな、イアンよ」
男の声が遠くに聞こえる。
獣のように吠えながらイアンは抵抗した。顔から汗を噴き出しながら、四肢をばたつかせて抵抗した。だが、無口な巨漢は彼の身体をがっちり床におさえつけていた。
そのまま、彼の白い腕があらわになり――。
そこへ、何かが打ち込まれた。
注射された。
「がッ……――」
途端に、頭の中に濁流のごとき激情が流れ込み、全ての思惟が激しく明滅した。
苦しい、苦しい。汗が止まらない。舌の奥がぴりぴりと乾く。そしてレモンの味がする。下半身がしびれて動かない。それ以上に、心臓の鼓動が早まる、早まる、早まる――。
「こいつを味わうのは久しぶり、といったところか」
息も絶え絶えに、床に伏せたまま目だけを動かす。
霞む視界の中で、巨漢が立ち上がる。その手には注射器があった。今しがた、使われたばかりの。
「よく効くだろう……そして恋しいだろう、こいつは」
男はイアンを覗き込んでそう言った。
異様なまでによく聞こえた。声が直接頭の中に響いた。
彼の言っていることは正解だった。
イアンは知っていた――今注射されたものを知っていた。
これは、これはかつて――。
「何をした……」
「オマエが恋しがっていたものを打ったのさ。どうだ? 焼けるように愛おしいだろう。魔法を解いてほしければ……きっちりと仕事をこなすことだな」
「き……さま」
イアンは男に掴みかかろうとした。だが、力が出ない。その手は虚しく宙をかく。
「弱くなったなぁ、イアン。半端仕事ばかりで訛ったか? それともなんだ、色気が出てきたか。――まぁ、どちらでもいい。だがな、イアン」
男は足でイアンを払いのける。
それから、まるで教師が教え子に諭すような口調で、彼の顔を覗き込みながら言った。
「お前の居場所を思い知れ。お前の生は、血に塗れてる」
巨漢がドアを開けたまま立っている。男を待っている。
彼は身を翻し、最後にもう一度振り返って言った。
「お前は、そこでしか生きられん。忘れないことだ……それが分かったら、さっさと彼女に別れを告げてやることだな。巻き込んでやるなよ、可哀想に」
どこか憐れみさえ籠もった口調。
男はそれだけ言い残して、その場を去っていった。
ドアが閉まる。
……途端に、室内が静寂に染まる。
それから、外の音が一斉に流れ込んでくる。
まるで、彼を罵倒するかのように。
「ッ……あああああああ、」
彼は立ち上がろうとしたが、だめだった。膝がもつれてうまく立てない。
そのかわり、身体を壁に執拗に打ち付ける。何度も。それから転倒して、膝を地面に何度も叩き伏せる。ベッドのシーツを剥がして投げる。枕も一緒に。壁を爪でひっかく、何度も、何度も。
それだけやっても、彼の心の空白は埋まらない。
そこに流れ込んでくる記憶を追い払うことが出来ない。
……その記憶とは血の記憶。彼が殺してきた者達の、最後の顔。ひしゃげ、苦悶し、恐怖し、哀願する。
殺した、殺した、殺した、殺した。
女子供例外なく。殺し続けた。
それはいつまで続く?
――まだ続くのか??
「うるせぇぞ!!!! 何時だと思ってやがるッ!!!!」
隣の住人が、壁を叩く音に反応して、ドアの向こうから叫んでいる。だがイアンには聞こえない。
聞こえるのは、過去の残響。
見えるのは、過去の断片。
それら全てが、彼を苦しめる。
「ううううう、ううううう……」
全身を掻きむしってもなお、何一つ満たされない。記憶は流れ込み続ける。
彼は逃避する場所を頭の中に探した。
――だが、だめだ。その先に何があるのかを彼は知っている。
そこまで汚してしまえば、もう戻れなくなる。
駄目だ……だから、駄目だ。
倒れ伏した、まま。
周囲には、僅かな家具が散らばっている。
「……ミランダ…………っ」
苦しみの中、最後に彼は、その名を呟いた――。
まるで祈るように。
小さく、何度も。
雨が降っている。
全てを洗い流すように。
全ての痕跡を、この世から消し去るように。
◇
その日も二人は逢瀬を重ねていた。
だが、いつもとは事情が違う。
映画に誘ったのはミランダだったが、タイトルを選んだのはイアンだった。
彼女には、その選択がひどく恣意的に思えた。何故かわからないが。
古びた小さなミニシアターで、半世紀ほど昔のフランス映画が上映されている。
くすんだ金髪のブリジット・バルドーが、脚本家の夫に対して乾いた言葉を投げかける。それに対して夫は、ひどくうつろな反駁を投げる。現実全てに対して諦めきったように。ドイツ出身の映画監督はアメリカのプロデューサーと挫折し、憔悴していく。そのはざまを縫うように、ギリシャの美しい光景が差し挟まれていく。
すべてが乾いていた。
だのに――美しかった。
「……いい映画、ね」
ミランダが小声で言った。
その監督の映画は色使いが独特で、原色が多かった。
しかし目が眩しくなることはなく、ひとつの無機質さ、薄ら寒さすら感じた。
隣りに座ったイアンはしばらく黙っていた。
だが、やがて言った。
「君は……似ている」
「何に? ……この金髪? だったら嫌よ。私、金髪は――」
「アンナ・カリーナ」
「……ああ、別の」
それから二人は黙り込む。
映画は淡々と、絹を織るように続いていく。
まるで、しとどに降る雨のように。
「……君は」
「――何?」
「一度糸がもつれたら、二度とほどけないと思うか?」
「示唆的ね……何かに影響を受けたの?」
「雨に……降られたのさ」
「わからない。わからないわ……でも」
「――でも?」
「もつれた先にあなたに出会ったのが、私の人生なら」
ミランダは躊躇った。
しかし、ゆっくりと……一文字ずつ、切るように、言った。
「……案外、私は、幸せなの、かも」
「……――――」
その言葉とともに。
イアンは激しく動揺した。
胸が揺さぶられる。脳内で警告音が鳴り響く。
――駄目だ。この感情はだめだ。
彼女を、彼女を。
……こちら側に、引き込んではいけない。
……だが、行動は違っていた。
イアンは一つの酩酊状態に落ち込んでいた。
ミランダは違った。理性の中に居た。
二人はまるで違っていた。
しかし、行動は同じだった。
映画は続く。
薄暗がりの中。周囲には物好きな老人と、偏屈な大学生しか居ない。
その中で……イアンは。
ミランダの細くて青い手の上に、ゆっくりとその手を重ねた。
一瞬、びくりと震えた。
しかし、拒否は起きなかった。
細い指が、重ねられた指に絡まった。まるで蜘蛛の足のように、空間を遊んだ。
それから……静かに、重なった。
「……」
二人の目があった。
後方に映写機の青白い光があった。二人は暗闇の中で影だけになった。
それらがふたつ、緩慢に近づいていく。重ねられていく。
その、唇同士が――。
……次の瞬間。
全ての暗闇が消えて、その場にはクリーム色の灯りが広がった。
目の前に映し出されていた情景は消失し、暗黒の垂れ幕だけがあった。
――ざわつきが、徐々に広がっていく。
周囲の者達が顔を見合わせる。
それから、場内に放送が流れる。
『――ただいま、機材のトラブルが発生いたしました。再開までもう少しお待ち下さい――…………』
現実が戻ってきた。
時は2010年台のLAに戻った。
「……がっかりよね」
ミランダはほんの少しだけ笑いながら、隣を見た。周囲の人びとで、暴動を起こしそうな者は居なかった。そんなありふれた者はここには居ない。居るのは物好きだけだから。
……ミランダは、イアンに笑いかけた。
だが、彼は。
「……――」
ひどくうつろな表情をしたまま、俯いていた。
それはあまりにも、仮面のようだった。
「……イアン……?」
「壊された……――壊された」
彼は呟いた。
それから、弾かれたように席を立って、スクリーンから駆け出していく。周囲が困惑と呆れに包まれる。なにかしら、あの男、風情のない――台無しだ――。
「イアンっ……!!」
ミランダはその後を追った。
「……っ」
イアンは胸部を押さえながら走り、トイレに駆け込んだ。そしてすぐさま、決して綺麗とは言えない洗面台に向かった。割れた鏡。シミだらけの蛇口。ひどい匂い。
すべてが。
すべてが、彼の幻想を叩き壊した。あの、光が満ち溢れた瞬間に、全てが。
――過去が彼の中から蘇り、目の前の鏡に現れた。
もはや影は、誤魔化してくれなかった。
血に塗れた、己の顔を。
彼は嘔吐する。
嘔吐する。
体の中のすべてを吐き出すかのように。喉を締め付けながら、激痛にまみれながら。
ミランダは一瞬躊躇ったが、男子トイレに入った。そしてまもなく、イアンを発見する。
「――イアン……!?」
そこには、洗面台を両手で押さえながら、激しく嘔吐し続けるイアンが居る。
饐えた匂いはしなかった。彼の吐瀉物は水のように何も入っていなかった。何も。
「大丈夫だ、大丈夫――」
譫言のように呟かれる声は、掠れている。
手だけをミランダの方に向けて、首を振る。しかしミランダはそのサインには従わない。
「大丈夫って、そんなわけないでしょう……ええっと医務室、医務室……ファック、そんなのがあるわけない、あるわけないじゃない、畜生……こういう時どうすればいいのかしら……わからない、わからないわ……ごめんなさい、ごめんなさい……――」
滅茶苦茶に取り乱す。イアンの中で感情が蓄積されていく。
「大丈夫、大丈夫だから……離れてくれ」
お願いだから離れてくれ、頼む。
「そんなこと言ったって……大丈夫に見えない……どこか、安全なところへ」
「ただのゲロさ……ひょっとすると二日酔いのたぐいかもな……だから、今の僕には構わないで……映画を――」
「あなたと一緒に来たのよ、放っておけるわけないでしょう、――」
「……離れてくれって言っただろッ!! 分からないのかッ!!!!」
とうとうイアンは、叫んだ。
その瞬間に後悔が押し寄せる。
だが、遅かった。
「……ごめん、なさい」
すっと表情が抜け落ちたミランダが半歩後ろに居て、呆然とそう言った。
イアンは取り繕うように顔を上げた。
もう嘔吐は止まっていた。今は咳き込んでいるだけ。汚いタオルで手を拭く。
沈黙が流れる。
「……すまない」
イアンが言った。ミランダは何かを言おうとしたが、言えなかった。
「…………――――すまない」
イアンは、もう一度深く呼吸をして、そう言った。
「……」
ミランダの中に込み上げてきた不安は、本当に彼の体調についてだけだっただろうか。
その時の彼が、何かもっと大きなものを背負っているように見えたのは、果たして本当に気のせいだったのだろうか?
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