ウィー・アー・ストレンジャー・ライク・エイリアンズ #2

 ノックの音がアトリエ全体に響く。ルーヴィンは当惑した表情で、スバルの狼狽る姿を眺めていた。初めて会った日から、ルーヴィンはここまで何かを恐れるスバルの表情を一度も見たことがなかった。


「開けるな、って……。どうやって代金もらえばいいんだよ?」

『来るな……。来るなってば……』


 スバルは繰り返し呟きながら、ゆっくりとその身を後退させていく。気配を消すかのように姿勢を丸め、何かから身を守ろうと頭を抑えているのだ。

 ノックの音は、未だ止まない。ルーヴィンは溜め息を吐き、ドアチェーン越しに再び来訪者の様子を伺う。ドアを挟んで、目が合った。


『イグナーツ・ルーヴィン先生でいらっしゃいますか? 私、まほろば銀行相談役・斑鳩に作品輸送を委託された、田下と申します。よろしければ、作品の搬出のお手伝いも致しますが……』

「助かるよ。少し大きい絵だ。人手が足りない気がしたんだよ」


 〈田下〉と名乗る男は、肩ほどの長髪をポニーテールにしている。度が入っていないセルフレームの眼鏡に、きっちりと揃えられた顎髭。ジャケットに押し込んではいるが、かなり筋肉質な身体だ。一見して、知性の中にワイルドさを感じさせる風体だ、とルーヴィンは想起する。


 田下は窮屈そうに玄関を潜り、アトリエに置かれた作品に目を遣る。ルーヴィンがスバルをモデルに描いた、蠱惑的な油彩画である。

 モデルの正体に勘付いたのか、田下は部屋の端で縮んでいたスバルを見つめた。顎に手を当てて熟考しながら、スバルをじっと見つめ続ける。

 ルーヴィンが目を遣ると、スバルは潤んだ瞳を静かに伏せた。怯えや恐れを内包したその表情の原因が外的要因でないことに、彼は徐々に気づき始めている。


「スバル、大丈夫か? 気分が悪いなら、外の風を浴び……」

『違う、違うんだ……。スバルは、スバルなんだよ……』


 大きな瞳が、発光している。超自然的な光を放ちながら、スバルは丸めた背中を徐々に正していった。


『ち、がう。すばる、は、かいぶつ、な、のに』


 空気が揺れた。部屋の窓ガラスが振動し、ルーヴィンは足元が覚束なくなる。不規則に輝く光球が部屋全体にまで拡大し、スバルの身体が浮かんでいくのだ。


『……ルーヴィンさん!』


 姿勢を低くした田下がルーヴィンの手を掴もうとするが、それは徒労に終わる。

 引力が捻じ曲がり、天井が壁になった。踏み抜いたガラスが割れ、アトリエ内の無数の家具が雪崩めいて滑り落ちていく。

 気づけば、彼らは地平線と平行に落下していた。


    *    *    *


 頬に感じるのは、アスファルトのざらついた質感だ。意識を取り戻したルーヴィンは、灰色の地面に横たわる自分を知覚する。

 ふらつく視界が正常に戻っていき、刈り揃えられた街路樹の緑が鮮烈に飛び込んでくる。屋外に投げ出されたのだ。


『……目覚められました?』


 声がする方に視線を遣れば、田下が樹の幹に背を沿わせるようにしゃがみ込んでいる。結んだ髪を解き、傍らにチョッパーバイクを携えていた。


「……なんなんだ、あれ。超能力か?」

『まぁ、あながち間違ってもないですね』


 田下は顎を撫で、どこから説明すべきか思案している様子だ。彼は何かを知っている。ルーヴィンはそう考え、彼の言葉を聞き漏らさんとした。


『とりあえず、あれ見てください。だいたい理解できると思いますよ』


 田下の指の先にあるのは、かつて公営住宅だったものだ。その外観は既に見知った物ではなく、奇妙な形に変容している。

 出来の悪い積み木の塔めいて建物の壁面に点在している凹凸の正体は建物から迫り出した部屋で、引き出しを開け放したままのキャビネットを連想させるシルエットだ。引き出しの中身である家具たちは空中に打ち上げられ、星の周囲を漂流する廃棄物デブリのように侵入者を遮る遮蔽物となる。

 重力から解放されたような、神秘性と奇跡的なバランスで成り立つ芸術作品である。ルーヴィンは事態の深刻さを忘れ、その姿を脳裏に刻みつけんと目を凝らす。ここに画材があれば、すぐに創作の糧にしていたところだ。


 視線を動かし、ルーヴィンはこのモニュメントの頂を目視する。否、目視してしまう。

 屋上から伸びた菌糸が、空中に巨大な球状の繭を形作っている。それは空間を上書きするように鎮座し、降り注ぐ柔らかな日光をシャットアウトするかのように飲み込んでいたのだ。

 その厚い鎧の正体を、中に何が居るのかを、ルーヴィンは感覚で掴んでいた。


「……スバルか?」

『あれが事態の原因ですよ。暴走のリスクまでは想定してなかったな……』


 “田下”は溜息を吐くと、度の入っていない眼鏡をポケットに押し込んだ。遮られていた鋭い視線が、白日の下に露わになる。


『ルーヴィンさん、今から言うことを耳に入れてください。与太話だと笑えないかもしれませんが、今後の酒の肴くらいにはなるでしょう』


 ルーヴィンは静かに頷く。現状の超自然的な風景を見てしまえば、どのように荒唐無稽な話でも信じてしまうだろう。


『俺も、あの子も、人間じゃないんですよ。社会に潜む異生物、闇の中で自我を喰らう悪魔……。色んな呼び方がありますが——俺たちは〈ディーク〉だ。ヒトの皮を被り、ヒトに成ろうとする。あの子を迎えに来たんですよ、俺は』

「ディーク……?」

『詳しい話は……してる場合じゃないか。とにかく、俺の仕事はスカウトです。それは完遂しなきゃいけないが、あの状態だと説得も難しい。正気に戻してやらないと……』

「た、頼む……。スバルを元の姿に戻してくれ! いや、元があの姿なのか!? とにかく、正気に……」

『乗ってください。正気に戻すには、俺みたいな部外者じゃ逆効果だ。少なくとも、ルーヴィンさんは俺なんかより、あの子について詳しいでしょ?』


 エンジンに火が入った。ブラックスミス社のファクトリー・チョッパーは、冥府の獣めいた無骨な車体を躍動させる。

 今から、あの不安定な塔へ突入するのだ。タンデム走行をするバイクの座面上で、ルーヴィンは決意を新たにする。

 状況は未だ不明瞭で、彼の理解の範疇を超えていた。それでも、スバルの暴走は止めねばならない。その為なら、何をしてもいい覚悟だった。


 肌を焦がすような衝撃が、ジリジリと身体を突き抜ける。バイクの前輪が浮き上がり、無軌道なウィリー走行を始める。捻じ曲がった引力域に突入するのだ。

 落ちるようにエントランスに突入し、コンクリート橋と化した集合住宅の柱を駆け上がる。吹き抜けは広いトンネルめいて大きな口を開け、何も知らない他の住民は転落防止の鉄柵に寝転がって動かない。


『外傷はなさそうですね。急激な引力軸の変動で脳がシェイクされたくらいでしょう。衝撃でこの出来事を忘れてくれたら、あとの仕事が楽なんですけど……』


 ルーヴィンは適当に相槌を打った。近隣住民との交流すら避けていた彼にとって、倒れている人々の数はスバルの犯した罪に直結する要因でしかない。なるべく事態が穏便に収まることを祈り、静かに手を合わせる。


『あの子とは、どこで出会ったんですか?』

「……スバルは、数ヶ月前に駐車場で倒れていた。その時は衰弱していて、とにかく助けないと命が危うかったんだ。その時は、普通の人間の姿だったよ」

『契約を終えたあと、か。スバルは名付けられたか、宿主の名前だな……』


 ルーヴィンが言葉の意味を考えあぐねていると、運転手は笑いながら言葉を継ぐ。


『俺の名前、“田下”? あれ偽名なんですよ。本名……ってのもおかしいか。“この身体”の名前はタシターン。コードネームみたいですよね』

「その割に、君は寡黙taciturnじゃないんだね……」

『中身は別人ですから。身体も、戸籍も、このバイクも。みんな借り物ですよ。もう返すつもりはないですけど』


 だとすれば、スバルの美しさの源泉はどこだろう、とルーヴィンは思考した。奥ゆかしく、素直な性格が内面由来だとしても、その外見だった人間は過去に存在するのではないか? だとすれば、自分は彼女の何を好んでいたのだ? 堂々巡りの思考は止まず、周囲の時間は止まっているかのようだ。


「なぁ、タシターンくん。君の正体はどんな姿なんだ? スバルのように、ユニークな姿を……」

『俺ですか? オオカミウオですね。ルーヴィンさんが素質持ちなら見えると思うんで、今から戻りますね』


  タシターンはそう言うと、運転席から消失した。バイクは急停止し、ルーヴィンは落下に備え、慌てて体を丸める。しかし、タイヤの両輪は引力によってコンクリート柱に張り付き、進行方向に見えるのは吹き抜けの屋上だ。

 数秒経っても、運転手が戻ってくることはない。ルーヴィンは不安になり、タシターンの名を呼んだ。


『運転席から動いてないですよ、ルーヴィンさん。まぁ、宙に浮くオオカミウオなんて見てて面白い物じゃないですし。サメとかなら映えるんですけどね〜!』


 元の姿に戻ったタシターンは、再びバイクを発進させる。その手には、鉄パイプが握られていた。


「君、それをどこで!?」


 タシターンは壁を這うパイプを指差す。一部が捻れ、切り取られていた。強い力で外されたようだ。


『目視できる物なら、引き寄せられますよ。人間っぽくないから普段は使いたくないんですけど、今回は非常時だ。説得が通じなかった時に、武器は必要でしょ?』

「……荒事は避けてくれよ」

『避けるためにルーヴィンさんを連れてきたんですよ。叩きのめす時は、事前に許可もらいますし』


 前輪が浮き、車体が突如として前へつんのめる。行き場を失った前輪は重力に従うように壁のようなものに吸着し、世界は再び反転した。屋上へたどり着いたのだ。

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