ウェルカム・トゥ・アルカトピア #2

 テーブルの上に置かれたジョッキは、既に半分ほど内容物が減っている。生ビールの肴に串から外した焼き鳥をつまみ、藤宮は頭を垂れた。


「先輩、納得いかないっす」

「おー、どうした?」


 先輩はジョッキを空にし、追加注文したレモンサワーを楽しんでいた最中だった。よく揚がった鶏皮を口に運び、ひと息つく。


「本社の営業マンって、もっと高級な店で飲みに行けるんじゃないんすか!? 料亭とか、レストランとか、そういう所で夜景観ながらワインとか嗜むんじゃないんすかぁ……?」

「バカ、そういうのはもっと偉くなってからやるモノだよ。俺も行ったことねぇわ、そんな店!」


 繁華街の居酒屋チェーンは賑わい、仕事帰りの酔客でごった返している。赤ら顔のサラリーマンがネクタイを外し、女子会と思しき数人の若い女性社員がその様子を怪訝そうに見つめていた。

 田舎育ちの藤宮にとって、それこそよく見慣れた光景だった。ここに集まるのは顔も名前も知らない人々であるが、本質的な行動は地元の酔客と何も変わらない。彼の中で、アルカトピア中央への期待が僅かに瓦解した。


「……仕事には慣れたか?」

「はい! お得意様もできましたし、商品の提案にも慣れました。あとは契約ノルマですね……」

「まぁ、そんなノルマに固執する必要はないよ。満たせなかったからってペナルティは無いし、普通に働いてれば副業やる時間だってある。根詰めずに頑張れよ」

「この仕事、副業しないと生活キツいほど安いんですか……?」

「ん? あぁ、違う違う!! あくまで喩えだよ!」


 遠くでグラスが割れる音が響いた。藤宮はそれを気にすることなく、ジョッキを口に運ぶ。


「先輩は、何のために働いてるんすか?」

「俺は……。家族を守らなきゃいけないし、それが俺の役割だと思ってるから、かな」

「尊敬ですよ。俺なんて、地元のやつら見返すためにやってんすから……」

「お前、初めて会った時からそればっかりだよなぁ」


 地方大学に在籍していた時の就職ガイダンスから、藤宮は先輩と面識があった。ビデオ通話を用いて行った面談で、彼はアルカトピアの中央へ行くことを強く志望していたのだ。


「成功者になる? 人の上に立つ? 野心家だねぇ。否定はしないけど、そうなりたいならやるべき事はあるよなぁ……」

 先輩はレモンサワーで唇を潤し、笑った。

「自分の意思に沿わないプロジェクトだとしても、一度関わったなら最後までやれ。……いや、これは社会人として当然か!」

「わかってますよ、そんなこと……!」

「……そうか、わかってるなら良いんだ」


 鶏皮を強く噛み、先輩はそれきり藤宮の言葉に相槌を打ち続けていた。


    *    *    *


 酩酊。藤宮が目を覚ます頃には、既に先輩は居なかった。彼は慌てて起き上がり、覚醒しきっていない頭で状況を確認する。客足はもうまばらで、店員は片付けを始めていた。

 時刻はAM2:00。完全に悪酔いだ。彼は財布を取り出し、店員に声をかける。


「すいません、お会計——」

「あぁ、同じテーブルのお客様が既に一括でお払いになられましたよ?」

「……本当ですか?」


 やってしまった。先輩に代金を払わせてしまうなど、一生の不覚だ。藤宮は自分を恥じ、テーブルの上の荷物をかき集める。先輩の座っていた椅子の背もたれに掛けられていたコートは、忘れ物だろうか?


「……明日渡すか」


 藤宮はコートを畳み、足元のブリーフケースに丁寧に入れる。今できる最大の埋め合わせは、彼にとってはこれだろう。


 冬の夜風が吹く繁華街の夜は、彼の想像する都会の街そのままだ。猥雑なネオンサインと千鳥足の酔客、遠くに見える高層ビルの対比。藤宮は駅まで向かう足取りを確かに、痛々しいほどカラフルな看板をキョロキョロと眺めた。


〈30分マッサージ〉

〈飲み放題2000円〉

〈無担保・保証人不要で即日融資〉

〈安全・安心の自由恋愛〉


 どれもアルカトピアの夜を彩るたくさんの色で、藤宮はその刺激に瞳を輝かせた。欲望に塗れてギラついたパレットでも、彼にとっては新鮮なコントラストなのだ。


 それでも、彼の欲望は止まらない。酔いの残った全能感で歩を進め、最寄り駅を一つ通り過ぎる。

 脳内に過ぎるのは、アルカトピアへ向かう鉄道で聞いた先輩の忠告だ。『路地裏と廃墟には近づくな』。概ね治安の良いこの街における汚点、治安悪化の種である無法地帯がある、と云うのだ。


 建造物の代謝が激しいこの街では、管理されなくなって数年で朽ちた廃墟が生まれる。本来ならすぐに取り壊されるのだが、路上生活者が時々不法入居するという。

 そうして生まれた廃墟群はウイルスのようにアルカトピア各地を侵食し、民間人は寄り付かないスラムが誕生した。犯罪者と貧民の吹き溜まりと噂される、“ガラクタ街”だ。

 藤宮の足取りは、アルカトピアとガラクタ街の境界にある廃アパートに向かっているのだ。そこには未知の刺激があり、より深く“都会”を知れるはずだ。彼はそう考えていた。


 路地裏に灯るタバコの自販機には、光に魅せられた羽虫が群れを成して張り付いていた。酔った藤宮の心象風景では、彼そのものも羽虫と同類だ。都会の灯に魅せられ、今はそれを背にして闇に向かっている。

 ふらつく視界が捉えたのは、錆びた非常階段の赤だ。三階建ての集合住宅はひび割れたコンクリート製で、付近に打ち捨てられたブラウン管テレビは見るからに不法投棄されたモノである。まるでその一帯が時代に取り残されたような風格に、藤宮は興奮していた。

 今、彼は都会が生み出した歪みに足を踏み入れようとしているのだ。


「おい、そこのお前——」

「…………っ!?」


 頭から水をかけられたように、興奮が鎮まっていく。途端に襲い掛かる徒労感に逆らうように首を動かし、藤宮は声の正体を探った。


「い、良いスーツだな。どこから来た?」


 背後に立つのは、見るからに浮浪者じみた格好の男だ。煤けたコートを着て、乱れた短髪は白髪混じりだ。自販機の光に照らされた顔は表情が伺えず、藤宮は思わず目を凝らした。


「どこから、って……。街からですけ」

「お、おお——俺のこと、覚えてるか?」


 早足で彼に接触する瀬戸際まで接近する男に、藤宮は思わずたじろいだ。男は彼のスーツの襟に留められた草薙製作所の社章バッジを確認し、ニヤリと笑う。視線が合った。目の焦点は合っていない。


「お前を待ってた。か、金も用意してる。だから、くれよ」

「何のことですか!? あなたとはそもそも面識なんて無いですし、会った記憶も……」

「くれよ。もうアレ無しじゃトベないんだよ……。注射もダメだ。煙もダメだ。もう、アレしかないんだよ!!」


 察しが良い方ではない藤宮でも、自らの置かれている状況は理解できた。相手は重篤なヤク中で、自分はクスリの取引相手と間違われている。まともな話は、おそらく通じないだろう。

 藤宮は詰め寄る男を力尽くで傍に退かせると、そのまま全速力で来た道を引き返そうとした。男が足取りをふらつかせた隙を突き、路地裏から大通りへ抜ける。そういった算段だった。


「…………ッ!?」


 瞬間、踏み出した右足を掴まれる。そのままバランスを崩し、藤宮はアスファルトに顔を擦りつける。


「なに、逃げてんだよ……?」


 這いつくばった藤宮の視界には、しゃがみ込む男の姿が映る。やはり焦点の合わない瞳からぎらついた眼光が伸び、地面に転がったブリーフケースを捉えた。

 男は藤宮から視線を外し、ふらついた足取りでその荷物へ手を伸ばした。「探し物は絶対にそこにある」とでも言いたげに鼻を鳴らしながら、一ヶ月ぶりの快楽を万全で味わえるように脳をスイッチさせた、その瞬間である!


「それに触るな、クズ野郎……!!」


 大きなコンクリート片を両腕で抱え、背後に接近した藤宮は、男の後頭部へ目一杯それを振り下ろす。非常時に彼が見せた、咄嗟の応戦である!


「お前が、お前なんかが——その中のモノに触れていいと思うなッ!」


 そこにある憧れた先輩の所有物を触られることが、我慢ならなかった。自身でも驚くほどの感情の揺らぎが彼の体を巡り、怒りとなって鉄槌を無我夢中で振りかざしている。


 それでも、男はまったく意に介さない。後頭部への打撃は何度も届いているはずなのに、平然と荷物を漁り続けているのだ。薬物の中毒症状によって痛覚が麻痺しているのか、それとも別の要因か。

 一方で、藤宮の腕は確実に疲弊していた。何度も繰り返している動きが体力を奪い、彼はコンクリート片を落としてしまう。そのままぜえぜえと肩で息をすると、彼の思考はさらに霞んでいく。


「……ねェなァ。どこに隠してんだ……?」


 足取りが保てない。動悸が止まらず、彼は荒い息を繰り返した。思考が歪んでいく最中、彼は症状の原因を必死に探った。

 極度の酩酊。これは、所謂『急性アルコール中毒』ではないか? 酔いはとっくに覚めたと思っていたはずなのに、時間が経つにつれて悪酔いの症状がぶり返してくるのだ。

 藤宮は地面に転がり、嘔吐した。喉が焼ける。意識が徐々に遠のいていく。最後に浮かんだのは、先輩に対する謝罪だった。


「本当に入ってないのかよ……。ん? なんだこれ?」


 男はブリーフケースに入っているコートの胸ポケットから小さな機械を取り出すと、焦点の合っていない目でそれをしげしげと眺めた。薄いカード状で、小さなLEDランプが明滅している。


「壊すなよ? 高いんだ、それ……」


 男の肩越しからそれを覗き込むように、『先輩』はその場に立っていた。


「……誰だ、お前?」

「心外だなぁ。俺はアンタのこと覚えてたぜ?  1ヶ月ぶりの再会だよ。決着、付けに来たんだ」


 彼は不服そうに手袋を外すと、手首を覆っていた薄い膜を剥がす。タトゥー隠しのシールに覆われていた、ルーン文字めいた意匠は……!


「お前、まさか……!!」

「〈ベルルム〉所属、名前はポーラスター。クソ上司の尻拭いに参上、ってな」

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