デッドエンド・ザ・ロンリーウルフ #1
「ですから、被験体は記憶をほとんど取り戻しつつあります。結果として、初期の衝動のまま〈赤い月〉に接近しようとしているのです。このままでは、また前回と同じ轍を踏むことになるかと……」
『……なるほど。良いだろう、壊させようか。身体が壊れるギリギリまで接近させる』
「ですが、暴走状態では甚大な被害が生まれます! いくらディークノアの起こすトラブルと言えど、隠蔽しきるのは不可能です!」
『“ディークノアの存在を白日に晒す”。君の目的としていることじゃないか』
「ですが——」
『安心したまえ。君の依頼した掃除屋連中が起こした混乱のおかげで、現場は公権力が見張っている。もうじき避難勧告でも出て、市民の被害は最小限だ。平穏が訪れた頃には、「ガス爆発でまたビルが崩れた」なんて噂になる程度だろう』
「……承知しました」
通話が切れると同時に、芦束は大粒のミント菓子を口に含んだ。
今後起きるかもしれない事態を考えると、胃痛が激しい。どこで間違えたんだ、考えろ、考えろ。彼は自問自答を繰り返しながら、茫然とアクリル窓を眺めた。
『社長、機嫌が悪いのか?』
端末内のイルカが芦束に問いかける。彼と契約したディークであり、アシタバ製薬の隆盛に関わる影の立役者であるそのイルカは、窮地に陥った芦束の良き相談相手だった。
「どうすれば良い? どうすれば、この後起こることを回避できる……?」
『今の状態で接近させることを警戒しているなら、止めればいい。単純な話だよ』
「でも、それだと先生の意思に反するんじゃ……」
『先生は被験体の身柄には興味を持っていない。つまり、そういうことだ』
イルカは画面内のタブを中央に引き寄せると、ベルルムの連絡先を表示させた。芦束は真意を理解し、ジャック・ベルルムに連絡を試みる。
「もしもし、依頼を変更したいんだけど——」
* * *
ビル群の屋上を跳び廻るように、一つの影が移動している。矢のように真っ直ぐに、計算されかのごとく最短距離を進む影は、跳躍の予備動作としてコンクリート床に手を着くたびに屋上を崩落させる。能力の制御ができていないのだ。
『止まれ……止まれよ……ッ!!』
ミカオの制止も聞かず、少年は獣めいた背を丸めた姿勢で高層ビルからダイブする! 顔に風を受けながら笑う彼は、それまでの南雲ヨウではない。人格が別の何者かに切り替わったような違和感を、パートナーであるミカオは感じ取っていた。
幹線道路に前傾姿勢で着地すると、少年は周囲を見渡し、
少年は巨大なシルエットをなぞるように腕を伸ばし、目的に触れようとした。脈打つ血管のような模様が揺らぎ、輪郭線が薄くなっていった瞬間、背後から声が響いた。
『はーい、ストップ! それ以上近づくなー?』
少年は背後の声を無視し、さらに手を伸ばそうとする。
『これは警告だ。繰り返す、これは警告だ……。あ~ッ、もう!!』
肩口に鋭い痛みを感じ、少年から笑みが消える。血が噴出し、彼はゆっくりと背後を振り返った。
『あの時助けた事を後悔するわけじゃないけど、目的くらいは聞くべきだったな……』
無人の車道に立つ夕澄ライは、被っていたフードを脱いだ。宵闇に、燃えるようなメッシュの赤髪が映える。
『俺らの三ヶ月前の努力、無駄にしないでもらえる?』
少年の腕に纏わりついた血液が鎖に変わった。ぴしり、と張り巡らされたそれは少年の体を縛り、月から引き剥がすようにライの方向へ引き寄せる! そのままライはくるりと半回転し、鮮やかなローリング・ソバットの予備動作を取った。
少年は自らを縛る鎖を掴み、瞬時に霧散させた。空中に放り出され、咄嗟にバク宙めいた動作を繰り返す。着地と同時に相手の蹴りを回避し、隙を見せた瞬間に獣のような速度で突進する!
何発もの銃声! 二丁のリボルバーが交互に火を吹き、少年の丸めた背中を掠るように連続で命中!
それでも、少年は止まらない。血液が突進の速度に負け、昆虫の羽のように広がる!
『……猛犬かよ!』
数ミリメートル、少年の拳がライに肉薄する距離。何も装着していない、彼の剥き出しの拳は、血に染まっている。張り巡らされたピアノ線が拳圧によって切れ、少年の皮膚を裂いた。
『少年。気合いは充分だったけど、武器を装備してないようじゃダメだよ!』
空中に散布した血をワイヤーに変えながら、ライはニヤリと笑った。
『じゃあな、楽しかったぜ……ッ!?』
ライは目を疑う。ワイヤーを手首に食い込ませながら、少年は立ったままだ。付近に撒き散らした血溜まりが新たな拘束具を生み出し、徐々に彼の自由を奪っていたとしても、少年の闘志は消えていない。
少年は埃を払うように拘束を無効化すると、唖然とするライを再び目標に設定する。手首から滴り落ちる血液を急速な時間経過で
『…………ッ!!』
銃声と共にバックステップを繰り返し、ライは眼前の目標から距離を取る。牽制の射撃が肩、胸、腰に何発か叩き込んだはずだ。それでも少年は止まらない!
乱雑な挙動で振るわれる拳を回避し続けながら、ライは翼を展開する。蝙蝠のような皮膜付きの羽がライごと少年を包むように広がり、少年の視界を遮る。
ライの背後には無人の車道を仕切る規制線! そこを越えてしまえば、無辜の住民の被害は避けられない。三ヶ月前の惨劇から、それだけは避けなくてはならないことはわかっている!
光が遮断された暗闇の中で、ライは焦っていた。観察して理解した敵の能力から推察するに、触れられた時点で彼の敗北は明らかだ。しかしながら、既に囲ってしまった。翼でさえ身体の一部であるので、少年が脱出するために翼に手を触れても終わりである。
ライが現在取れる行動はふたつ。即座に弾丸を叩き込んで決着をつけるか、広げていた翼を畳んで赤い月が壊されていくのを眺めるか、だ。彼は無言で目を瞑り、静寂に身を委ねた。
少年の本能のままの動きは大ぶりで、閉鎖空間での空気の動きから飛んでくる拳の回避は可能だ。ライは目を閉じ、耳を澄まし続ける。風を切る音に交じり、微弱な呼び声が聞こえた。
『止まれ、ライ。止まれよ……』
少年の肩の上で囁くように、相棒のディークが声を出し続けている。その声色には悲壮感がこもり、憔悴していることはすぐに類推できた。今にも消えそうな声である事を考えると、この暴走はディークによるものではないのだ。
獣めいて唸りながら拳を打ち続ける少年の攻撃を回避しながら、ライは自らの記憶を思い起こす。この感覚は、ライ自身も味わったことがある。
初めて対面した時、少年は自らを記憶喪失だと述べた。彼が嘘を吐いているのでなければ、その原因は、おそらく……。
『苦しいよな、辛いよな……。ちょっと落ち着いてくれればそれでいいんだけど……』
ライは少年に哀れみの目を向けるが、この暴走状態への正しい対処は彼自身にもわかっていない。わかることは、ここで倒さなければならないことだけだ。
矢継ぎ早に飛んでくる風切り音を聞き分け、ライは的確に銃身を打ち付ける。近接戦闘さえも可能とする彼の二丁の
風切り音。焦るディークの声。少年の獣めいた吐息。ライの耳に届くパターン化された情報に異物が現れたのは、目を瞑って何分か経った後だ。
広がった翼が生み出した厚いヴェール越しに、排気音が響いている。だが、交通規制によって車道は無人のはずだ。ライはその音の正体を理解し、展開していた翼を瞬時に収束させる。
突如として隔壁を失った少年は、チャンスだとばかりにライに背を向けた。再び目標を赤い月に変えたのだ。
駆け出す少年の背をヘッドライトが照らす。サーチライトのように伸びる光線が汚れたパーカーを際立たせ、獣めいた前傾姿勢を都会の喧騒にくっきりと映し出す。
静寂を切り裂くような排気音は、少年の疾走をわずかに停止させる効果があったようだ。急発進した漆黒のクルーザーバイクが彼の進行方向にドリフトで割り込み、進路を遮るかのように停車させる。
バイクから降りた運転手は、愛機と同じ色のフルフェイスメットを外す。オールバックに固めた前髪が特徴的な、ライダースーツの偉丈夫である。
少年の希薄的な自我は、その正体を思い返すことがない。それでも、自らの進路を断つ邪魔者であることは認識できた。彼は背を丸めて唸り、威嚇を繰り返す。
ライダースーツの男——砂海キミヒトは、少年の背後で笑うライに片手を上げてコミュニケーションを取った。
『……遅くない?』
「邪魔しちゃ悪いかと思ったんだが!」
少年を牽制するように道の中央を闊歩し、砂海はライの隣に立つ。右腕を鉄塊に変え、蒸気を噴出させながらグレネードランチャーに換装する!
『二人居れば、食い止められそうかねー?』
「どうだかな……」
「……いや、僕だけでいいよ」
砂海が立つ位置とは逆側であるライの隣に、フィリップがつかつかと歩み寄る。彼は虚空から白剣を取り出し、臨戦態勢を取った。
「あいつとは戦い慣れてる。僕に任せるのが適任でしょ?」
『……いや、油断するなよ。今のアイツは自我を失ってるし、戦闘スタイルも力任せだ。事前情報と違いすぎるんだよ!』
フィリップは押し黙る。同じ相手となら、二度は負けないと思っていた。ヨウとの交戦経験から実力は拮抗していると判断し、相手の癖も理解したつもりだ。だが、今の相手は、あの夕澄ライが苦戦した相手なのだ。
「じゃあ4対1の変則デスマッチ? レイドバトルみたいですね!」
フィリップの後方から遅れて現れた銀髪の青年は、身の丈を超える大鎌を片手に彼らと合流を図る。灰のパーカーが闇に溶け、12月の冷えた空気を更に冷ました。
『シュウ先輩、患部の冷却ってできます? 攻撃食らうのは何とか避けたんですけど、結構無茶な動きしちゃって……』
「戦闘継続するんでしょ? 任せて!」
銀髪の青年——因幡シュウは、
少年は突然の乱入者を警戒し、衝動のままに拳を握った。唸り声を上げ、たたらを踏むように助走の予備動作を取る。
〈組合〉の四人は、それぞれ互いのルーティンと共に武装を完了する。横並びのポジションから前衛・後衛に別れ、武器を掲げた!
「総力戦だ、油断するなよ?」
「「『了解!!』」」
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