アット・インタートゥワイン・アレイ #2

 灰江は雑踏で立ち止まり、周囲の喧騒を眺めている。刮目した瞳越しに、周囲の有り得ない光景を観察し続けていた。

 今、ここで起こっている事は、ただのチンピラ同士の喧嘩であるはずだ。大柄な男が通りかかったストリートギャング崩れの男に目をつけられ、喧嘩を売られている。この街の裏通りを歩けばよく見かける光景であり、それ自体には何ら特異性はない。

 しかし、喧嘩を買った男が手にしている武器は、明らかに異質である。『止まれ』の白い文字が輝く、巨大な交通標識だ。


「仕事中なんだよォ……。邪魔しないでもらえますかい?」

「ンだお前……。そんなのにビビると思って……!?」


 無残に折られ、引き抜かれた交通標識はギャング男に否応なくプレッシャーを与えたようだ。冷や汗を垂らしながらも虚勢を張る声は上擦っている。

 既に武器は振りかぶられ、ギャング男は反射的に防御姿勢を取る。周囲の野次馬は息を呑み、歩道は静寂に包まれていた。


 灰江もまた息を呑んでいた。標識を折るような馬鹿力を持つのは、間違いなくただの人間ではない。嫌な予感がした。

 次に彼が見据えたのは、標識男の腕だ。派手な柄のシャツから露わになった腕には見覚えのあるタトゥーが刻まれている。身体に刻まれた痛みの記憶が蘇り、灰江は思わず身震いをした。例の男の関係者が、眼前に立っているのだ。

 灰江は携帯端末を構え、無音カメラのシャッターを切る。恐怖と好奇心が混じり合い、タバコを持つ手が震えた。


 静寂を突き破るように、ハンドルを切る音が響いた。車道を横切るシルバーのセダンから、剣呑な表情の男たちが飛び出す。


「警察だ、止まれ。それ以上の狼藉は法が許さない!」


 標識男の動きが止まった。構えていた武器を取り落とし、反射的とも言える動きで一目散に路地裏へ駆ける。

 手帳を掲げたコートの男は部下らしき黒装束の青年にアイコンタクトを図り、ギャング男を取り押さえる。青年はすぐさま駆け出し、逃げた男を追跡にかかった。


 灰江は群がる群衆から静かに離れ、路地裏に侵入する。標識男の行く末に興味が湧いたのも勿論だが、明らかに刑事めいた男から距離を取りたいという欲求もあった。

 自分の知る由もない世界が、ここから先には存在するのだ。灰江は痛みの記憶を頭の隅に置き、ビルの谷間に向かった。


    *    *    *


「先生、センセイ! ポリに見つかったかもしれません!」

『あー、問題ないでしょォ。ベルルムの名前を出せば、立ち去るかと思いますゥ』

「すいませんっス!! つい癖で逃げちまいました!」

『……作戦変更ですね。周囲をよく警戒しなさい』


 ゲイザードッグは目を瞑り、言われた通りに鼻を動かした。対象の痕跡は残ったままで、追跡の気配はない。先ほど追われた時はわずかに危機を感じたが、振り切ったのだろう。彼は脱げかけたシャツを整え、痕跡を追った。

 ゲイザードッグの感知する香りは、先刻より強く彼の鼻腔を揺さぶる。常人にはわからないであろう微弱な香りの変化が、彼におおむねの距離を把握させた。前方数十メートル、もうじき背中が目視できる距離だ。


「所詮は逃げた実験台だろ? 殴れば静かになるよな……」


 ゲイザードッグは拳を握りしめ、手近なコンクリート壁を殴る。簡単にヒビが入り、彼は満足げに笑った。この人智を超えた能力さえあれば、もっと上にのし上がれる。彼はそう考え、足早に走り出した。


 十数メートル前方、なんの特徴もない無地のパーカーの背中。ゲイザードッグの目指す標的が視界に入り、彼は能力を解除する。長時間の使用はエネルギー消費が激しく、嫌でも空腹を実感するのだ。ゲイザードッグは任務終わりの自分への褒美に想いを馳せながら、ゆっくりと対象まで距離を詰めた。


「おい、止まれよ」

「……なに?」


 怪訝な顔で振り向く標的の頰を掴み、ゲイザードッグはコンクリート壁に相手を何度も押し付けた!


「さっきから邪魔入ってイライラしてんだよォ!! 半殺しにして回収してやるよッ!!」


    *    *    *


 他意が無さげに対象の方向から視線を逸らしながら、灰江は尾行を続けていた。グラフィティの描かれた壁沿いに歩き、何処に抜けるのかさえわからない細道を抜ける。

 コンクリート壁から伝わる振動を確認し、灰江は周囲を見渡した。雑居ビルの谷間、無数のケーブルが空を縫うように張り巡らされた日陰に、少年が立ちすくんでいる。


「見失ったか……?」


 灰江は歩調を早め、刺青の男の足跡を追う。立っている少年の肩を叩き、声をかけた。


「君、この辺りにチンピラみたいな男が通らなかったか?」

「チンピラ? あぁ、多分ここ!」


 少年が指差した先、壁沿いに置かれた大きな直方体のダストボックスから、ゴミ袋に混じって例の刺青の腕が飛び出している。灰江は思わずたじろいだ。


「向こうが先に襲ってきたからここに詰めたんだけど、正当防衛だよね?」

「君がやったのか、これを?」


 腕は時折ぴくぴくと動く。死んだわけでも、切り離されたわけでもないようだ。あの大柄な体躯がここに押し込まれているのか、と灰江は一瞬感嘆した。


「いやー……どうも、この刺青の奴らに追われてるんだよね! たぶん気絶してるだけだから、なんか聞き出したいならもうちょっと待ってたらいいんじゃない?」


 言うが早いか、少年は大通りに向けて歩き出す。灰江は咄嗟に少年の腕を掴み、脳内に浮かんでは消える様々な疑問を口に出そうとした。


「君は……。いや、この刺青の男は何者なんだ? 俺は見たんだよ、こいつが標識を引っこ抜くのを! この前同じ刺青のやつに襲われた時は、刺されたり殴られたりした傷がすぐに癒えた! そんな奴らを君は片付けてる!! 一体なんなんだよこれ!?」

『襲われた……? ヨウ、話聞くぞ』


 灰江は虚空から聞こえる声に気づき、周囲の様子を伺った。声を発する者は、彼らの周りには誰もいない。

 少年はどこか一点を見つめ、まるで信頼を置いている相手がいるかのように相槌を打っている。彼が幻覚を見ているわけではなく、おそらく本当に何かがいるのだろう。灰江は最近の非現実的な出来事からそう類推した。


「頼む、教えてくれ……! まさかUMA、なんてことはないよな……?」


 少年は灰江の方を向き、僅かに口元を緩めた。その視線の中に宿る確かな意思に気づいた瞬間、灰江は厄介ごとに巻き込まれたという後悔を頭の外から瞬時に外してしまった。

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