アット・インタートゥワイン・アレイ #1

 流れ続ける退廃的EDMは感覚器官を狂わせ、ある種のトランス状態に追い込ませる仕様があるのだろうか。広いベッドで微睡みながら、灰江はそのような事を考え続ける。

 サイドテーブルに置かれた缶ビールの山は昨夜の酩酊を思い起こさせ、反射的に眉をひそめる。何か忘れたいことがあると度々飲み過ぎるが、決まって効果はない。気休めにもならないことを知っているのに、それでも飲み進めてしまうのだ。


 傍らで眠る女が目を覚まし、起き上がる。白い柔肌がシーツから露わになった。


「おはよ、ナオユキ……」

「よく眠れたか?」

「ぐっすりだよ……」


 大きく欠伸をする女に微笑みながら、灰江はフローリングに落ちたコートのポケットから財布を取り出す。


「楽しかったよ、ありがとうな」

「またよろしくね……?」


 点けっぱなしの液晶テレビから流れてくるニュースは、とある企業の記者会見を放送し続けていた。灰江は何の気なしにそれを眺め、感嘆の声を漏らす。


『トンネル崩落事故に関して、全ては前社長の指示であり……被害者遺族への謝罪および賠償金はすでに……』


 副社長、とテロップの表示された初老の男は、消え入りそうな声でそう繰り返す。左上の株価グラフは、彼が一言発するごとに急降下した。


『なお、当時隠蔽を指示したとされる帝亜建設の社長「伊村宗治」氏は、発覚前に本社前雑居ビルにて転落死を遂げました。警察は自殺と見て捜査を……』


 『社長が自殺』という言葉に、灰江は特異な関心を示した。あの襲撃事件の際、通話相手はクライアントが自殺した、と言っていたのだ。だとすれば、灰江の運ばされたUSBの中には……。


「なぁ、この前渡されたUSBだけどさ……」

「あの事? 忘れてくれない?」

「それは都合良すぎないか? 一応俺も事件記者だぜ?」

「元、でしょ?」


 女はそこでふっ、と真顔になり、床に落とした衣服を手繰り寄せる。何か隠している事は明白だった。


「俺さ、死にかけたんだよ。確かな傷はないが、拷問を受けた。君の知り合いのレコード屋の親父も、俺が発見したときは何者かに襲われて事切れてた。もし俺を囮に使ったなら、その事をとやかく言う気はないさ。何があったかだけ、教えてくれないか?」


 女は目を丸め、訥々と語りはじめる。


「ごめんなさい、囮にするつもりはなかったんです……。あなたに渡したのは本物のデータのはずなの。でも、いつの間にか私たち以外の誰かが真実を公開してた。私、怖くて……」


 移動中にすり替えられた可能性を考え、灰江は血の気が引く感覚を味わう。仮に本物を手にしていたら、俺はあそこまで痛めつけられなかっただろうか。いや、偽物だったからこそ、こうやって真実が明るみになったじゃないか。そう逡巡する思考を遮るように、女から新たな情報がもたらされる。


「この前、店に刑事さんが来たの。USBを誰に運ばせたかって聞かれて、つい……」


 灰江は女を非難しようとして、口を噤んだ。自分も命惜しさに彼女の名前を出そうとしたじゃないか。あの時は誰かの助けがあって喋らなかったものの、あと一秒遅ければ彼女も犠牲になっていたかもしれない。


「面倒くさいことになったな……」


 灰江は頭を掻き、シャワールームに向かった。


    *    *    *


「えっ、いいんスか!?」


 大通りを大股で闊歩する男は、耳に近づけた端末に向けて素頓狂な声を上げた。すれ違うサラリーマンが怪訝な表情で男を一瞥するが、声を掛けることはない。彼が大柄な偉丈夫であり、派手な柄のシャツを着込んだチンピラのような姿をしているからだ。


『えェ、ゲイザードッグさん。これは貴方だけに任せる仕事なのですからァ、当然大金星が期待できます! 昇進のチャンスですよォ!』

「やっとか……。カワード先生、ありがとうございますッス!」


 ゲイザードッグと呼ばれた男は、歓喜のあまり身震いをした。待ち続けていた昇進のチャンスだ。彼が所属している派閥は構成人数が多いゆえに仕事に配属されるチャンスが少ない。入社したての下っ端である彼は、余った取り分の少ない任務を優先的に行なっていた。そのような達成感の少なかった職場は、現在空前の人手不足である。半数が倒れ、幸運にも能力を得た残りの人員に入ることができたゲイザードッグは、自分の地位を固めるチャンスだ、と息巻いている。


 ポケットから取り出した密閉容器を開け、ゲイザードッグはその残り香を嗅ぐ。中に入っている石の欠片は、スカルプチャーが自らの能力で顕現させたゴーレムの残骸だ。それは一時対象を拘束し、確実に接着している。

 目を瞑り、しきりに鼻を動かす。ゲイザードッグが手に入れた超人的な嗅覚は、対象が歩いていた痕跡を明確に指し示す。


「あいつ、妙に落ち込んでたよな……。先生はそこまで苦労する相手じゃない、って言ってたけど」


 カワードは、未だ逃走を続けている対象の捕獲ミッションをゲイザードッグら下っ端に任せるほどの重要度だと考えているのだろう。何人もの人員に任せたが、未だ成功者は出ていない。組織内からは早急な解決を求められていることを、ゲイザードッグは風の噂で知っている。即ち、ここで決めれば注目されることは間違いない。負け犬ルーザードッグなどという不名誉な渾名を返上できるのだ。彼の目に決意が宿る。

 微弱な土の香りが導く目的地までの順路は、急カーブを描いた。対象はここで左折したのだろう。ゲイザードッグは目を開け、威圧的な丸サングラスを胸元に収めた。


    *    *    *


 車内で流れているBGMをディストーションのパンクからウッドベースの響くジャズに切り替え、須藤はコーヒーを啜った。

 後部座席に座る監視役は既に眠っており、昼下がりのパトロールはある種のテンプレートめいた様相を呈す。視界を覆う赤信号とテールライトの群れを一瞥し、須藤は曇り空を仰ぎ見る。雨は降らないだろう。


 帝亜建設に関するニュースは、既に世間を賑わせていた。何者かのリークによってインターネットに流出したトンネル崩落の重要インシデントは、瞬く間にマスコミが嗅ぎつけ、即座に大ニュースとして喧伝する。普段は企業寄りの論壇である眉月新聞でさえ、当時の経営陣に対する批判を記した。にも関わらず、親会社である帝亜グループは、発覚直前に建設部門の売却を発表したため、なんの被害も被っていないのだ。

 須藤はこの騒動で最も利益を得た者を考え、被害者遺族にたどり着いた。謎の変死を遂げたレコード店の店主の調査も継続しつつ、彼はもう一人の遺族である被害作業員の姉から、偶然手に入れたUSBをリークのために運ぼうとした、という証言を手にしたのだ。

 アルカトピア・ジャーナルの灰江という男は、社長や店主の変死に何らかの形で関わっているのだろうか。もし彼が能力者であったなら、それなりの対策を講じなければならない。須藤はそのようなことを考えながら、なかなか切り替わらない赤信号を睨む。


「須藤捜査官。なんか、外うるさくないですか?」

「……そうか?」


 須藤は運転席の窓を開け、通行人が往来する歩道を確認した。普段はスムーズに行き交う人の群れが、今は人集ひとだかりができて停滞している。


「……ンだお前、やんのかァ?」

「いい度胸だよ、コノヤロー……」


 集団から頭一つ抜けた男が眼下の相手に凄む。その度に野次馬の群れは後ろに下がっていき、歩道の隅まで広がった。


「喧嘩ですかねぇ、迷惑だなぁ……」


 間の抜けたメレオの声と同様に須藤もすぐに興味を失くし、正面を向き直した。路上の喧嘩などアルカトピアでは日常茶飯事であり、そのうち通報を受けた警察官が止めに入るだろう。管轄外の自分たちが出ていっても、文句を言われるだけだ。須藤はコーヒーをもう一口飲み、再びの思索に耽ろうとした、その瞬間である!


 巨漢の男が、道路から鉄製標識を引き抜いた。そのままフルスイングめいて振りかぶり、対峙するもう一人の頬を張ろうとする。この膂力は、間違いなくディークノアだ!


「……行くぞ」

「了解でーす」


 須藤とメレオは車から降り、駆け出した。

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