ストレイシープ・イン・メトロポリス #1

 肩に当たる銃床の感覚は、彼女の心にも強いプレッシャーを与えていた。スコープを覗き、心を平静に保つ。屋上に吹く風が、修道服のスカートを静かに揺らした。

 狙撃対象は、周囲を警戒しながら足を進めている。その心臓を撃ち抜けば、子供たちの未来は明るいはずだ。


『ねぇ、本当によかったの?』

 傍らに立つデフォルメされたヒツジが、彼女の不安を見かねて尋ねる。

『他にも方法はあるんじゃないの?』


「もう、時間がないの……!」

 シスター・ルーナは焦燥感を隠せずにそう呟く。

「主よ、罪深き私をお赦しください……。これから旅立つ少年にも、どうか祝福を……!」


 スコープ越しに、オレンジのプルオーバーパーカーを視認する。修道女はゆっくりと息を吐き、引き金にそっと指を掛けた。


    *    *    *


 フィリップが目を覚ますと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。時代を感じさせる木目にはシミが目立ち、周囲にはコンソメの匂いが広がっていた。


「……デジャヴ?」


 何度か知らない場所で目を覚ました経験はある。普段の彼は廃ビルに寝泊まりしているのだが、定住している場所という訳ではないのだ。フィリップは頭を押さえ、昨日のことを思い起こした。


 覚えている限りでは、従者にディークノアの気配を探らせながら夜の街を駆けていた。彼にとっては娯楽の一つであり、〈組合〉からそれに斥候の役を与えられている。

 ディークノアの存在を確認し、低い平屋の建物が特徴的なクライスト通りの屋根を飛び移る。一つだけ突出した教会めいた建物に標的を絞った瞬間、彼は突発的な頭痛に襲われたのだ。雪の降る寒い夜だった。


「風邪か……?」


 悪寒は残っていた。温暖だった彼の故郷に比べると、この国の冬は厳しい。フィリップも対策したつもりだったが、不十分だったようだ。


『だから、もうちょっと厚着すべきだって言ったじゃないですか……』


 傍らに立つ従者のバクは呆れたような目で宿主を諌めながら、彼の頭上を定位置に定める。人間に対して契約の上でビジネス的な関係を結びがちな他のディークと違い、そのディークは宿主に仕えることを善しとしていた。


「ソルグ、服どこ?」


 フィリップは身体を起こし、ライムグリーンの髪を掻く。黒いTシャツは汗で濡れ、特有の不快感があった。


「洗濯しておきました! ご迷惑でしたか……?」


 答えたのは彼の従者ではない。コンソメスープの椀を運んできたシスターが、申し訳なさそうにフィリップの眼の前に現れる。彼女は心配そうに眉根を寄せている。


「いや、迷惑というか、なんで……?」

「雪が降っているのに外でお休みになられていたので……。体調が優れていないようでしたので、中まで運ばせていただいたのですが……」


 頭巾越しの金髪が特徴的なシスターは、フィリップにスープを渡し、困ったように笑う。


「お節介でしたらごめんなさいね。今日みたいな寒い日には、スープが美味しいですよ?」


 フィリップは勧められるままにスープの匂いを嗅ぐ。よく知っている香りだった。


 スプーンで掬って口に運ぶと、舌の上に広がる味がフィリップの記憶を刺激する。彼は憂いを帯びた表情でスプーンを置くと、突発的な頭痛に声を漏らした。


「……これ」

「えぇ、私の故郷の味なんです。お口に合いませんでしたか……?」

「いや……悪くなかったよ……。だけど……ちょっと休ませてくれない?」

「あっ、ごめんなさい! じゃあ、私は子どもたちの様子を見てきますので……。服はここに置いておきますね」


 思い出したくないものを思い出した、とは言えなかった。フィリップは枕に頭を埋め、平常心であろうとする。


『ラン様、大丈夫ですか……?』

「うるさい……静かにして……」

『いや、でも……』


 フィリップは泣いていた。頰に流れる雫を指で拭い、気丈に唇を結んではいるが、肩の震えは止められない。


『ラルフリーズを……。故郷を思い出すんですね?』

「……それだけじゃないんだよ」


 フィリップにとって、故郷の記憶ほど封じておきたいものは無い。彼は過去を捨てるためにアルカトピアに来たのだ。

 領民を搾取する貴族の父に嫌気が差したのか、それによって〈悪魔の子〉と罵られたことが彼の心に影を差したのか、フィリップは孤独であることを望んだ。そんな彼が国を出ていく最後まで信頼していたのは、父親の妻であったルネだ。

 ルネは学校に行かなくなったフィリップに愛を注ぎ、彼はその愛を受け入れていた。荒んで乾いた心に水を注ぎ、彼の傷を優しく癒すルネを、フィリップは今でも聖女と呼ぶ。


「似てるんだ、あの人。顔も、髪型も、スープの味も!!」

『ラン様……』


 ソルグはフィリップの家庭環境を直接視認したわけではない。しかし、時折庭に出てルネと談笑するフィリップの姿はよく見ていた。そこでの面影は今の冷たい眼とは違い、穏やかなローティーンの少年のものだったのだ。

 ルネは彼の血縁上の母親ではない。フィリップはそれを知り、自暴自棄になるかのように家を出た。そんな心が壊れきった少年を放って置けず、ソルグは契約を決心したのである。

 フィリップは、孤高に憧れるただの少年だ。ソルグは宿主の願いをあえて叶えないことで、彼が一線を超えてしまうことを防いでいた。


『ラン様……。あの方が、もしお母様であれば、一つ厄介な問題があるかもしれません』

「……何?」

「えぇ、あの方は……」


 部屋の外から怒声が響く。フィリップは咄嗟にベッド脇に置かれた服に手を伸ばすと、悪寒に身体を小さく震わせる。


「子どもたちがまだ眠っていますので……。今日はお帰りいただけると……」

「期日はとっくに過ぎてるんですよ! ここを引き払うか、借りたものを返すか、今決めてください……」

「あと一週間だけ待ってください……。そうしたら、お金は用意できるんです!」


 シスターは両手を床に付けると、突然の来訪者に何度も頭を下げる。スーツを着崩した来訪者はシルバー製の腕時計をしきりに弄りながら、心底どうでもよさそうに言葉を継いだ。


「立ち退いてくれりゃ、それでいいんですよ。向かいに建てるタワマンから、こんな辛気臭い風景見せたら苦情出るんで。再開発ですよ、再開発!」

「それだけは……! ここは身寄りのない子どもたちの居場所なんです! ここを追い出されたら、どうやって暮らせば……」

「俺に聞くなよ、メンドクセェな……」


 男はポケットから加熱式タバコを取り出し、一口吸う。そのまま睨め付けるような視線でシスターを威圧すると、震えている彼女の肩に手を掛けようとした。


 フィリップは部屋のドアを開け、すぐに飛び出していけるような体勢を取った、その瞬間である。

 玄関のドアが開き、ピエロの仮装をした男がスーツを着崩した男の襟を掴み、外に引きずり出した。


「邪魔しないで頂けますかァ!?」

「ヒッ……ヒィィ……」


 スーツ男は慌てて逃げ出し、教会には再び静寂が訪れる。


「危ないところでしたねェ。顧客に声を張り上げるなんて、ビジネスマンとしては三流ですよ!」


 小柄なピエロ男は丁寧に一礼すると、口を裂いたような笑みをシスターに向ける。彼なりの営業スマイルなのか、仮面の奥の表情は窺い知れない。


「カワードさん、助かりました。ありがとうございます……!」

「いいんですよォ、人材は大切にしないといけませんからね!」


 カワードと呼ばれた男は、シスターの表情をまじまじと観察する。持っていたアタッシュケースを玄関先に置くと、修道服から覗く白い腕を注視し、ニヤリと笑った。


「例のモノは使っていただけましたかァ?」

「……はい。それで、お仕事は本当に……」

「あァ、あァ……! 清廉な神の使いが……素晴らしいですねェ……」


 下卑た笑いを浮かべ、カワードはアタッシュケースの鍵を手渡す。


「受け取ってください。貴方の将来に幸あらんことを!」

「いえ、ですから……」

「当方、子供が好きでしてね。未来や可能性が無数にある存在というものは良いですね、宝ですよォ!」


 カワードは笑うのをやめ、シスターの瞳を真っ直ぐ見据えた。仮面越しの目は、鮮度を失った魚のように濁っている。


「あまり動きたくはないんですよ。……わかりますね?」


 去っていくカワードの背中を見送り、シスターは小さく項垂れる。カワードに渡されたアタッシュケースを持ち、奥の礼拝室に向かって静かに足を進めた。

 フィリップは彼女の姿を目で追い、頭を抱えた。頭痛は未だ収まっていない。むしろ微かに激しくなったように感じ、彼は苦い顔をした。


『……ラン様、首を突っ込む気ですか?』

「うるさいな……。放っておけないだろ?」


 呆れたようにたしなめるソルグを無視し、フィリップはシスターを追う。


 開け放たれた重く古めかしい扉の奥、歴史を感じる小ぶりなステンドグラスが特徴的な礼拝室で、シスターはアタッシュケースを抱えるように祈りを捧げていた。


「主よ、私は罪深く愚かな仔羊です……。どうかお導きを……。私は、どうすれば良いのですか……?」


 さめざめと涙を流しながら、シスターは声を殺している。礼拝客用の机に置かれたクリスタルめいた結晶が窓越しに入る月光を浴び、キラキラと輝いていた。

 フィリップは唇を噛み、小さく息を漏らす。彼女の憂いを帯びた表情は、やはりルネに似ていた。酔った父親になじられていた時の顔だ。胸が焼き付くような不快感を覚える。

 少年は駆け出した。シスターからアタッシュケースを取り上げると、錠を蹴り壊し、こじ開ける。黒く光る銃身が覗いていた。


「えっ、あのっ……なんで……」

「こんな事に関わるべきじゃない。いくら目的があっても、それはダメだ……」

『……もう遅いのよ』


 フィリップの頭上から聞こえた声は、諭すように呟いた。震えているシスターは、縋るような瞳を〈それ〉に向ける。


『子どもたちを守るなら、こうでもしないと陥れられちゃうって……。そう言ったのはアナタじゃない。アタシはただ願いを叶えるだけよ……』


 丸みを帯びた桃色ピンクの羊が空中に浮かんでいる。ディークだ。


「ギャビー、やっぱり私は請け負うべきなのかな……?」

『アナタが本気なら、アタシは何も止めない。主の決定に従うのが従者の務めでしょう?』


 フィリップは順次に状況を理解する。彼女は、既に自分と同じ側に立つ人間だ。

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