スタンド・アップ・グラディエーター! #3

 アスファルトをしとどに濡らす排ガス混じりの雨は、地下闘技場の乾いた熱気とは異なる陰鬱さを湛えていた。

 ライはフードを目深に被り、見晴らしの良い交通標識の上を飛び石のように中継しながら目標を追う。既に目では追えない所にいるだろうが、一度察知したディークノアの気配は的確に居場所を示している。彼は猟犬のように鼻を鳴らした。


 薄暗い地下道にて、カワードは濡れたインパネスコートの雨粒を払う。歴史を語る赤レンガ組みの壁に手をかけ、肩で息をしながら着けていた仮面を外した。いくらか呼吸が楽になった。

 この雨の中、周囲に人は居ない。カワードは顔をまっすぐ上げ、なるべく下を向かないよう努力を始める。下を向けば、所々に点在する水溜まりに自らの素顔を晒してしまうからだ。正視に耐えないのである。

 ここから封鎖された地下鉄の駅を抜ければ、貧民たちが暮らすガラクタ街に辿り着く。いくら隠れるとしても、彼の思う負け組の根城に赴くのは気が引けた。


 銃声が響く。太腿を銃弾が貫き、カワードは嫌悪感に頬を緩めた。


『処刑人から逃げられると思うなよ……?』


 地下道に飛び散った血が脈動し、太い鎖に変わってカワードの脚を拘束した。逃げ場を失った彼の眼前に、赤銅色の銃口が突きつけられる。


 カワードはライの顔をまっすぐ見ることなく、外した仮面を装着する。流れる額の汗を拭い、息を整えて冷静であろうとした。


『答えてもらおうか、あのクローン兵との関係はなんだ?』

「……私が雇いましたァ」

『……質問を変えよう。お前らが最近暗躍してる理由はなんだ?』

「もちろん、市民の幸福のためですよォ。

皆さん、心に秘めた願いが有りますもんね?」

 カワードは銃口を直視し、嘲笑する。

「あなたの願いも当てて差し上げましょうかァ?」


 引き金に掛けた指が少し震えた。ライの動揺を察し、カワードは仮面の奥で勝ち誇った表情を作った。


「ファルファルファル……見えますゥ! あなた、直近で心を許していた人に逃げられましたね?」

『……ノーコメント』

「それで、あなたはその人を探している。……女性ですよねェ?」

『やめろ……』

「久しぶりに、会いたいんじゃないですかァ? ここに呼びましょうよ!」

『やめろッ!!』


 銃口から正確な弾道を描いて飛んだ弾丸は、カワードの脳天を貫くことはなかった。彼に覆いかぶさるように現れた影が、弾丸を弾き飛ばしたからだ。


『おい、どこ行ってたんだよお前……』


 コウモリのモチーフがあしらわれた純黒のドレスに、闇夜に溶けるようなミニハット。錆びたショットガンのような緋銃グリムを握り、決意に満ちたアーモンド型の瞳は揺れずにライを見つめている。

 ショートボブの髪の少女――人間の姿を取り戻す前のライが宿主として選んだ人間、北条ハルカである。


『ハル……俺、寂しかったんだぞ? 急にいなくなるし! 嫌われたのかなってずっと思ってて……それを伝えたくて……探してたのに……』


 ハルと呼ばれた少女は呆れたように頷き、ライに微笑みかける。ライはコウモリの姿に戻り、かつての相棒の元へ飛んだ。


『なぁ、今日はいつもみたいにミューズって呼んでくれないか!? 最近呼ばれてなくて俺も忘れかけててな……あぁ……!?』


 微笑みを絶やさない少女の唇から、ムカデが這い出た。小さな頬を這いずるムカデは、少女の皮膚をボロボロと剥がしていく。


『……おい、やめろよ。悪趣味だぞ? そんな手酷いドッキリ、今までやらなかったじゃん……!?』


 ぽとり、と大きな蛆虫が水溜まりに落ちた。それを契機として彼女の腕の肉が腐り落ち、水死体めいて肌が膨らんでいく。


『……もういい。もう十分だ……。なぁ、何でこんなことになった!? くだらない……くだらないんだよッ!!』


 ライは心のままに二丁拳銃を乱射し、地下道の壁にたくさんの銃創が空いた。射撃音が反響し、周囲に硝煙の匂いが立ち込める。

 それでも、彼女には引き金を引くことができなかった。既に腐り落ち、原型を留めていないにも関わらず、そこに銃弾が貫通することはないのだ。

 ライは項垂れ、慟哭した。全ては悪趣味な幻覚なのだ。だとしても、心の内に巣食う不安と混ざり合った瞬間に、ライの中で何かが決壊した。


『やめろよ……やめてくれよ……あぁああ……!!』


 カワードの姿はもう見えない。たとえ気配を追ったとしても、引き金を引く事は出来ないだろう。完膚なきまでに心が折れているのだ。

 ライは青ざめた顔のまま地下道を歩き続ける。雨音が徐々に強まり、陰鬱なリズムを奏でていた。やがて外に出れば、豪雨に打たれてしまうだろう。


 小さな処刑人は、泣いていた。


    *    *    *


 歓声とともにスピードを増していく巨体は、挑戦者の身体に威力の増した右ストレートを打ち込む度に僅かに静止する。ジョーは既にヨウの身体能力を超越した速度とパワーを保ちながら、正確無比な連打を繰り返していた。


『声援とか期待に反応して能力が向上してやがる……。そろそろ、こっちも能力解放するか?』

「いや、このままの状態で使うのは良くない気がする。僕の予想が正しいなら、逆効果になりそうなんだ……」


 ヨウは、自らの能力を『触れた対象の今後起こる状態を先取りして与える』ものだと仮定していた。そして、歓声はまだピークまで達していない。ここで能力を使ってしまえば、ピーク時の状態にさせてしまうかもしれないのだ。

 すなわち、能力を使うのはピークを凌ぎきった後だ。それまでを耐える体力は、幸いにもまだ残っている!


 歓声の中に一瞬ノイズが混ざった。観客は違和感を感じ、銘々に周囲を見渡す。背後が血溜まりになっていた。

 喧騒が徐々に波及しだす。惨劇を見たある労働者は失神し、ある薬物中毒者は虚脱感に突き動かされるように出口へ駆けた。

 最前列に座る人々はなおも気づかない。放出され続ける脳内麻薬が自家中毒を引き起こし、声が嗄れることさえいとわずに叫び続けている。


 ジョーのパンプアップした筋肉がキラキラと輝き、日焼けした肌が玉のような汗を弾く。

 唸るような拳が猛スピードで身体を打ち、ヨウは衝撃を支えきれない! 彼は吹き飛びながらコーナーポストに背を打ち付け、痛みを凌ぐように咳をした。


「どうした、もうダウンか!?」

「……さすがチャンピオンだ。そんな成長されたら、いつ止まるかなんてずっと分からなかったよ」


 ヨウは会場に起こった違和感を掴んでいた。歓声がボリュームを絞ったかのように減っているのだ。

 最前列に座って歓声をあげていた観客が我に返り、試合結果を待たずに退出した。集団心理に飲まれる母数が徐々に減っていき、点在するいくつかの死体を除けば人影は疎らだ。

 ジョーも歓声が途絶える違和感には気づいたようだ。輝いていた身体は徐々に明度が落ち、パンプアップした筋肉も元に戻っていく。


『おい、今だよ。今のうちに決着つけて金もらおうぜ!』

「いや、無理でしょ。多分運営してる人も逃げたし、それに……」


 金網越しにリングに向かってくる顔に、ヨウは困惑を隠せない。


「……厄介なのが来たし」


 金網を引き裂くように掴む腕は、受けた命令を遂行するためだけに動いているようだ。対象を捕獲するためだけにリングに入ろうと金網をよじ登るクローン兵の姿に、ヨウは生理的な嫌悪感を覚えた。


「おい、なんだよアイツ。お前の知り合いか?」


 ジョーが尋ねると、ヨウは大きく首を横に振った。


「最近追われててさ。どうも嗅ぎつかれたみたいだ」

「そうか。……一旦休戦するか?」


 ヨウは逡巡し、答えに詰まった。これ以上の戦闘に報酬は出ない上に、自分の身に掛かるリスクの方が大きいのである。確実な勝利を引き出すために損をしたのは悔しいが、この誘いに乗るしかない。


 誰もいないはずの客席から、拍手が巻き起こった。リング上の選手を煽るような調子だ。


「さっさと決着つけろよォ、金懸かってんだぞ?」


 最後のクローン兵を金網から引き剥がし、しゃがんでいた男がゆっくりと立ち上がる。右腕を自らの能力で鋼鉄に変え、床に倒れたクローン兵に拳を打ち下ろした!

 立ち上がったライダースジャケットの男――砂海キミヒトは後方を振り返り、自身の身体で弾き続けていたクローン兵の銃弾を拾い上げた。大きな手に余るほどの量になったそれを、拳を握って粉砕する。


「一張羅に穴は空いてねぇな。上々!」


 砂海は拳で金網を破り、リングに乱入した。その背中に渾身のストレートを見舞ったのは、ジョーだ。


「痛ってーな……。お前、試合に集中しろよ!」

「関係ないな。俺はお前にリベンジするためだけにここに立ってきたんだよ! その為ならチャンピオンの座なんか要らねぇ!!」


 ジョーは砂海を睨みつけながらヨウへ向き直ると、降参、とばかりに両手を挙げた。


「俺の願いはあらかた叶ったよ。小僧、礼と言ってはなんだが、俺の控え室から好きなの取っていけ。逃亡生活なら、路銀くらいは必要だろ?」

「……まだ勝負ついてないんだけど?」

「俺の負けでいいんだよ……。ほら、さっさと行け! 俺は次の勝負に集中したいんだよ!」


 既に倒されていたクローン兵が起き上がり、目標を探すために機械的に首を動かした。ヨウは脱兎のごとく駆け、選手控え室に向かった。


 静寂がリングを支配する。ほとんど無人と化した闘技場にて、二人の男が相対した。


「お前が降参してくれたおかげで、俺は賭けに勝った……。ありがとよ、元チャンピオンさん」

「何言ってんだ。これで対等になれたじゃないか……。もう前みたいなダサい結果にはしねぇよ」

「へー、舐められたもんだな……」


 二つの拳が交錯する。


 この勝負に、ゴングは鳴らない。地位も名誉も関係が無い、シンプルな力比べめいた拳闘だ。

 だが、だからこそ、ジョーは高揚していた。互いの信念のぶつかり合いが、拮抗する試合が、こんなにも楽しいとは思っていなかった。


 音速でぶつかる拳が、静かに火花を散らせた。


 男たちの会話は、それだけで事足りたのだ。

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