スタンド・アップ・グラディエーター!#1

 乱雑に打ち放したコンクリート壁は、華美とは程遠い。汗の匂いが残った控え室には剥き出しの蛍光灯が煌々と輝き、純金のインゴットが乱雑に並べられていた。


「ジョーよォ……。これで考え直してくれねぇか?」

「おっさん、悪いな。いくら積もうが俺の意思は変わらねぇよ」


 ジョーと呼ばれた坊主頭の男は使い古されたパイプ椅子に腰掛け、必死に頭を下げる相手を疲れた目で見下ろした。目の前で平伏す男があの鬼セコンドであることなど、信じられなかったのだ。


「誰がなんと言おうと、俺は八百長で負ける。恨むんなら、ここのルールを恨むんだな……」


 アルカトピアの地下には、秘密の地下闘技場が存在する。古代ローマの剣闘士めいた荒くれ者が、自らの命を削って金を稼いでいるのだ。

 客席で試合を観戦する客は、激務に疲れた下層労働者か、前後の区別も付かない薬物中毒者が殆どだ。整然とした都会の清廉さに行き場を見失い、掃き溜めめいた闘技場でストレスを発散する。投げ銭よりも野次の比率が大きいそのような客は、リングに立つ者にはあまり好かれていなかった。

 風の噂によれば、ここの運営はある大きな企業であるらしい。オフィス街を占有する数々の大企業が運営スポンサーに付き、チャンピオンへのファイトマネーは破格だ。もちろん、その金の出処はわからない。


 ジョーは表稼業のボクサーを引退し、ここに流れ着いた。歓声に飢えていたのだ。

 引退したとは言え、何度もベルトを獲得した実績はある。網膜剥離のハンデを加味しても、我流の喧嘩殺法には負けなかった。

 チャンピオンの座を何度も防衛するとともに、投げ銭と歓声は徐々に減っていく。大損したと野次る男がいれば、挑戦者のハンサム男の取り巻きから石を投げられたこともある。鋭利な槍のようなストレートは、徐々に鈍りつつあった。


 ある日やってきた挑戦者に、ジョーはまったく歯が立たなかった。ライダースジャケットを着た、鉄のような肉体の偉丈夫だ。全力を込めた攻撃にも眉一つ動かさず、視認速度を超えて脇腹を抉る一撃はまさしく鉄拳だった。

 瞬殺だ。観客のブーイングが未だに耳に残っている。

 チャンピオンの座を明け渡したジョーは、リベンジマッチを望んだ。数年ぶりにトレーニングを行い、力をつけた頃には、ライダースの男はチャンピオンの座を降りていた。不戦敗で、彼の天下は三日と持たなかったのだ。


 それきり、ジョーはチャンピオンとなってその男を待ち続けた。ファイトマネーは幾度の防衛でアタッシュケースから溢れ、現役時代の貯金と合わせると一生暮らせるほどには稼いでいる。それでも、ジョーは玉座に座り続けた。いつか来るかもしれない挑戦者のために、戦うことをやめなかったのである。

 声援が罵声に変わり、大番狂わせを望む多くの観客からは常勝伝説に落胆された。来るかもわからない男への再戦を待ち続けるジョーにとっては、その一つ一つが着実に精神を蝕んでいた。

 ある時、彼の精神は音を立てて崩れた。毎日退屈な十試合を繰り返し、預金残高は増え続けていた。心ない観客からのブーイングがざわついた胸にトドメを刺し、ジョーは叫び出したい衝動に駆られた。八百長による敗北を決意したのは、その試合の直後だ。


 ベニヤ板製と思しき長机に置かれたペットボトル飲料を拾い上げ、手早く蓋を開ける。見慣れない商品名だった。


「それ、差し入れですゥ!」


 職業病めいた反射神経に突き動かされ、ジョーは背後を振り返る。ピエロの面を被った小男が、口を裂いたような気味の悪い笑みを浮かべていた。


「おい、警備員は何やってるんだよ……」

「ファルファル……。サディスティック・ジョーのファンだと言えば通してくれましたァ!」


 ジョーはペットボトル飲料を口に運びながら、警備の杜撰さに呆れ返る。ここの警備員など、名目上の意味しか持たないのだ。


「当方、カワードと申しますゥ。ベルルムという人材派遣会社で人事を担当させていただいておりますゥ!」

「その格好で出勤してるのか?」

「ええ、自由な社風ですので!」

「で、その人事担当が何の用だ? ファンなら試合前のクールタイムに邪魔するのは無粋だと……」


 カワードと名乗るピエロ男はクスクス笑った。心がざわつくような不快感のある笑い声だ。


「それ、本当に飲んでしまったんですねェ……?」


 喉の奥に引っかかるような異物感を感じ、ジョーは口内の水分を全て吐いた。欠けたタイル床に唾液混じりの液体がこぼれ、剥き出しになった排水溝まで流れていく。

 耳鳴りが止まらない。激しい倦怠感に促されるように、ジョーは目の前の男を睨みつけた。


「……テメェ、何か盛ったな?」

「人聞きが悪いですねェ……。ビジネスマンが取引前に相手に不利益をもたらしますか?」

「ドーピングの脅しってわけかよ……。残念だったな、ここではドーピングなんて皆やってんだよォ!」

「ドーピング、と言えばそうなりますねェ! でも、心配ありません。当方はあなたのスカウトに来たのです。これは面接ですよ」


 ジョーはバンク寸前の意識を集中し、なんとか平常心を保とうとした。眼前の得体の知れない男に対する恐怖が、観客からのブーイングの記憶を呼び起こす。耳にこびりついて離れないそれを、意識の外に追い出そうと必死だ。


「スカウト? 馬鹿言うんじゃねぇよ。金なら死ぬほど余ってんだ……」

「いつ死ぬかわからない危険な職業を道楽で続けるなんて、あなたも相当イカれてますねェ! 安心してください。あなたに支払うのは、機会チャンスだ。リベンジマッチ、望んでるんでしょォ?」

「……悪魔に魂を売れ、と?」

「アットホームな職場なので、未経験者も歓迎です。仕事中に邪魔が入ってくるかもしれませんが、別に殺して構いません。特にあなたの仇敵さんは、当社もいつか障害になると把握していまして……」


 ジョーの瞳孔が開く。耳鳴りは止み、決断的な闘争本能が見る見るうちに湧き出てきた。これが混入していたドラッグの効果なのだろうか。ジョーは初めて経験するドーピングに戸惑いながらも、もう引けないところまで来てしまったと確信する。


 カワードは経過を確認し、成功だ、と笑った。呆然とする彼の手に透明なクリスタルめいた結晶を持たせ、もう片方の手に握手を求める。


「次の面接は、試合ですゥ。対戦相手をなるべく痛めつけてください……! あぁ、これは私の別の仕事も兼ねてまして。新入りの仕損じた仕事の尻拭いですゥ!」


 開戦準備を意味するブザーが鳴った。ジョーはナイロン製のブルゾンを脱ぎ、ドラゴンの刺青が入った筋骨隆々の巨体を晒す。

 対戦相手を痛めつけたあとに、わざと負けてチャンピオンの座を降りる。難しい注文だ。ジョーは怪しまれないようなシナリオを練りながら、リングへ続く階段を登る。


「現在のチャンピオンは、サディスティック・ジョー! 二ヵ月前の復帰戦以来常勝の挑戦者泣かせ、暴虐のスクラッパーが今宵も登場だァァ!!」

 入場コールの後に聞こえる歓声はまばらで、ブーイング混じりの罵声が多数を占めた。ジョーは心の中で観客一人一人に中指を立てると、対角線越しに現れる挑戦者を待つ。

「そして挑戦者ァ! 経歴・実力一切不明! 細身の若獅子か、それとも無謀な命知らずか! 高配当のダークホース、サウスクラウド!!」


 現れた少年に、ジョーは思わず拍子抜けする。オレンジのプルオーバーパーカを着た、眠そうな瞳の少年だ。彼は小柄な体躯を緩慢とした動きでると、覇気のない声色で高々と宣言した。


「挑戦者、サウスクラウド。遊ぶ金欲しさに来ましたー……!」

『なぁ、やっぱりサウスクラウド南雲ってダサくね? ここはもっと洒落たリングネームを名乗るべきじゃねーの?』


    *    *    *


「兄ちゃん、こんな勝負観てもつまんねぇよ? 結果は見えてる。配当金見ろよ、ジョーの倍率が最低だ。みんなチャンピオンに賭けてるのさ。こりゃ、圧勝だ……」


 シンナーのせいで歯が欠けた老人に話しかけられ、ライダースジャケットの男は仏頂面を少しだけ崩した。渡された飲みかけのアルコール缶を突き返し、冷えたスキットルの中の洋酒をあおる。


「悪いな、ジジイ。俺は生粋のギャンブラーでね、金がたくさん貰える方に賭けたくなった……」

「お前、それは金をドブに捨てたようなもんだぞ!? 勿体ねぇ、兄ちゃん稼いでるのかい?」

「稼いでる勝ち組は昼間っからこんな所来ねぇさ。少し暇つぶし、だ……」


 ライダーズの男はリングを注視した。ライからの情報によれば、あれが噂の南雲ヨウなのだろう。本格的にコトを起こす前に、戦い方を知っておくのが得策だと思えた。


『砂海センセイ、警戒は緩めないでくれよ? 南雲くん以外にも、ディークの気配がいくつかあるんだ……』

「お前はそれでいいかも知れないけどよ、その身長で見えるのか? コウモリならチケットも一人分で良かっただろうに……」

『そういうの、なんかズルくない?』


 傍らに立つライは少年の姿を解除し、元のコウモリとしての姿で観客席周辺を浮遊する。羽音も、ライの声も、歓声に混ざれば目立たなくだろう。普通の人間にとって、彼の姿は不可視なのだ。


 ゴングが鳴った。観客のボルテージは最高潮に高まり、熱気が溢れかえる。

 闘技場には、欲望が満ちていた。

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