1-2 邂逅の狼煙

デッドメン・テル・ノー・テイルス #1

『で、オレはここに入ればいいの?』

「あぁ。これでお前の夢は叶うはずなんだ……」


 古びたタングステン灯に照らされた水槽は、ホルマリンに漬けられた男の肢体を収容していた。型落ちした研究機材がそこかしこに積まれた旧研究棟の一室で、根黒ねくろは斜視気味の瞳を輝かせている。


「ハハッ、怖がることはないぞ。息子よ……これが新しい身体なんだ」


 根黒の頭上で輝く陽炎めいた怪光は、青白い軌跡を描きながら水槽に接近する。それはオオカミウオの姿に変容し、円柱形のアクリルを突き抜けた。


「そこまでだ、ドクター根黒!」

「ヒッ、社長!?」


 シミ一つない白衣を翻し、息を切らせて現れた芦束は、監視カメラの映像が映されたタブレット端末を無表情で掲げる。


「オリジナルの素体が1体盗まれたと思えば……。貴方だったんですね」

「社長、ワタクシの研究室によくいらっしゃいました!」


 不健康に笑う根黒を無視し、芦束は水槽の様子を確認する。

「これは、ベルルムの所の……」

「ヒヒッ、その通りです! 試薬の副作用で仮死状態に陥った被験体にディークを憑依させる! ネクロマンス、アンデッド……イモータルゥ……!!」

「実験は中止だ。仮死状態で憑依させるなんて、前代未聞ですよ……!? どんな不具合が起こるかわからない。それに、管理も……」


 根黒は首を横に振り、興奮した面持ちで若き社長の言葉を遮った。


「ワタクシが育ててきたこのディークは謂わば子どもと同じ……。その子に身体が欲しいと請われれば、無下に出来る親がどこに居るのですかッ!?」

「ドクター根黒、モルモットに過度な肩入れは控えてください。研究に支障をきたすので……」


 根黒は骨ばった手でキーボードを操作すると、装置を起動するパスコードを入力した。


「社長、アナタもそうでしょう!? 目の前の良質な研究材料を見逃す研究者などいない! 呪うなら呪うがいい、これがサガでありカルマなのだからァ!!」


 アクリル水槽の中のホルマリン液が遠心分離機めいて撹拌され、青白い蛍火が揺れながら男の体内へ侵入していく。過剰回転する男の身体は厚いアクリルにヒビを入れ、漏れ出た液体が計測機器をショートさせた。


「おぉ……生まれるぞ……!!」


 火花が散った。根黒の歓喜の声と同調するように、自壊したアクリル水槽から這い出た男がくしゃみをする。鍛え上げられた鎧のような肉体だった。


『おっ、成功した?』


 男は生命維持装置の残骸を蹴り、濡れた身体に構わず育ての親に接近する。芦束は頭を抱えた。


『ドクター、服持ってる? 人間の身体って寒いんだな……』

「もちろん用意しているとも。隣にロッカールームがある、着替えてきなさい」


 男は満足そうに笑いながら、人のいない廊下を抜けてロッカールームに向かっていった。


 芦束は根黒を睨みつけながら、小さく溜め息を漏らす。


「これからどうするつもりですか……?」

「当然、逃がしますよ。あの身体の戸籍は残していたはずですから……」

「……ただでさえ被験体が2体逃げてるんですよ?」


 根黒は不敵に笑う。


「もちろん、セーフティロックと監視は欠かしません。それに、3日したらあの子は帰ってきますよォ……」


 タングステン灯が煌々と輝き、フィラメントがぷつりと切れた。根黒の哄笑だけが響く研究室がブラックアウトし、ロッカールームから漏れ聞こえる男の叫びが反響する。


『ドクター! これ囚人服じゃねぇの!?』


    *    *    *


「お嬢ちゃん、ビールお代わりくれ!」

「こっちは芋のロック!」


 赤ら顔のサラリーマンの呂律の怪しい声を背に、アルバイトの少女は引きつった笑みを浮かべ、ぎこちなくお辞儀をした。床の油に足を取られながら、湯切りをしている店主に注文を伝えると、肩で大きく息をする。


 部活動の練習終わりに入るアルバイトは過酷だ。この日が金曜で、疲れたサラリーマンで繁盛するなら尚更である。

 小さなラーメン屋には、何人ものアルバイトを雇う余裕はない。頼りのベテランも体調不良に倒れ、少女の過酷な夜はまだ終わらない。


「なぁ、酒まだかよ!? 遅ぇんだけど!」

「遅せぇぞ~!!」


 酔ったサラリーマンたちが叫んだ。


「す、すいません! すぐにお持ちいたします!」


 ふらついた足取りでジョッキを二つ掴むと、少女は店内を駆けた。

 しかし、溜まった疲労は注意力を散漫にさせる。油に塗れた床に躓き、宙を舞うジョッキはサラリーマンのスーツをひどく濡らした。


「お前!? 何やってんだよ!?」

「先輩に何やってんだよ!?」

「あっ、申し訳ございません! すぐに拭くものを……」

「いいから、ちょっとこっち来い」

「こっち来~い」


 少女は反射的にカウンターを見回した。泡まみれのワイシャツで激昴する一人と、それに便乗して野次る取り巻きの一人。そこから離れて背を丸めながらラーメンを啜る男は、迷惑そうに顔をしかめていた。


「店長、こういう時はどうすれば……!?」


 厨房を振り返るが、店主は席を外していた。面倒くさいことに直面するとトイレに籠る癖があるとは聞いていたが、まさかこのタイミングとは。

 少女は意を決し、クレーム対応のシュミレーションを瞬時に思い返す。


「お客様、この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。クリーニング料金は当店が負担いたしますので……」

「あっ、そういう堅苦しいのはいいよ。俺ら勝ち組だもん、な?」

「高額納税者だぞぉ?」


 アルコールの芳香をワイシャツから漂わせるサラリーマンは、恐らく自身にとって最も自信があるであろう表情で、少女に語りかける。


「それより君さ、可愛い顔してんじゃん。一緒にホテル行かない? 金は出すからさぁ~……」

「私、高校生なので……ッ!」

「なおさら高得点。まさか、断らないよね? こんな時間に働いてる高校生、学校に連絡したら一発アウトだろうな~……」

「そんな……!」


 少女は逡巡し、首を縦に振りかける。酔っ払い二人がざわついた。


「よし、行こう! 善は急げって言うだろ!?」

「先輩流石っス! この色おとギャッ!?」


 木製のカウンターが揺れる。取り巻きの頭は沈み、ひび割れた木粉が一張羅のスーツを汚した。

 ラーメンを食べていた男が立っている。囚人服めいたボーダーのTシャツに引き締まった肉体が浮かび、拘束具が繋がった腕は取り巻きの後頭部を強く握っていた。


『ダメだ、重てぇわコレ……』


 背筋を伸ばした男は、かなりの高身長に見えた。精悍な表情を困ったように歪ませ、黒曜石めいた暗い色の手錠を振り上げる。


『パンピー殴ったら重くなるってマジだったんだ……。筋トレしてるんじゃねぇんだからさぁ!』


 サラリーマンは面食らい、素っ頓狂な声を上げた。


「なんだお前、ナンパの邪魔すんなよ!?」

『なんだお前、メシの邪魔すんなよ』

「お、俺は鍛えてるんだぞ!? ちょっと身体がデカいからって調うわぁ!?」


 囚人服の男の腕がサラリーマンの肩口を掠め、壁に手をつく形になる。拘束具が揺れた。

 言葉を失うサラリーマンに向かって、男は顔を覗き込み、耳元で小さく呟いた。


『アスタ・ラ・ビスタ、ベイビー……』


 サラリーマンは失禁した。彼は取り巻きの肩を叩くと、震える手で財布を取り出し、カウンターに紙幣を叩きつける。


「勘定を、頼む……!!」


 倒れ伏している取り巻きを掴むと、サラリーマンは逃げるように店を出て行った。


 囚人服の男は苦笑すると、懐からシンプルな三つ折り財布を取り出す。クレジットカードやレンタルDVDショップの会員カードが無秩序に入れられていた。


『代金、迷惑料も足しといていい?』

「えっ、そんな……。今回の件の責任は私にもありますので、受け取れませんよ……」

『それもそうか! じゃあ、次来る時に味玉1個増やしといて!』


 男は腕を振り、出入口の戸に手を掛けた。少女は後ろ姿を呼び止める。


「あの、お名前だけ聞かせていただいていいですか?」

『名前? あー、ちょっと待って』


 男は財布から免許証を取り出し、破顔した。


『なんで本名書いてねぇんだよ! OK、わかった。〈タシターン〉でよろしく!』

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