インベスティゲイト・ボーダーライン #3

 足をもつらせながら、伊村は雑居ビルの階段を駆け上がった。携帯端末を握りしめた手には汗が滲み、荒い息がこぼれる。


『頼む……間に合ってくれ……!』


 屋上に辿り着くと、立っていた先客に腰を抜かしそうになる。電話口だけのやりとりでは、心のどこかで冗談であればいいと思っていたからだ。


『上は早急な交渉を求めています。時間通りに来てくださり、ありがとうございました……』

『なんなんだよ、脅迫のつもりか!? 我が社が贈賄をしたなど、明らかな名誉毀損だぞ!? 既に弁護士の用意は出来て……』


 スーツの男は立ち上がり、スラックスのポケットに隠した物を恭しく突き出した。USBメモリだ。


『この場であなたが取れる選択肢は二つだ。贈賄の事実を公表して社会的に死ぬか、かつての被害者に詫びながらここで飛び降りるか、ですよ』


 被害者という言葉で、伊村は肥えた腹を恐怖に震わせた。

 あの件は4年前に解決済みの筈だ。遺族に多額の賠償金を払って公表を食い止め、円満解決に成功した。それきり誰も話題にしない、そんな些事だ。


『掘削中のトンネル落盤事故……作業員二人が死亡……。遺族はレコードショップを経営なさってると聞きましたが?』

『やめろ、不愉快だ……』


 伊村は後ろ手に隠した携帯端末を探りながら、脅迫者の冷たい視線を受ける。

 相手が持っているUSBメモリが本物である保証はどこにもない。それに、捜索を依頼した業者には多額の金を積んでいるのだ。なるべく時間を稼ぎ、問題を解決するほかない。


『上からはここで決着をつけろ、と言われていまして。私自身は貴方になんの恨みも無いのですが……』


 脅迫者は足下に置いた和紙製の灯篭を持ち上げると、ちろちろと燃える紫の炎を伊村に披露する。それは形を変えながら揺れ、伊村の淀んだ網膜に焼き付いた。


『あなたの選択は重要ではないのですよ。ここに入っている情報はすぐに公開されるでしょうし、あなたは5分以内に飛び降り自殺を図るでしょう。沈黙は不利を覆してはくれませんよ……』

『おい、何を言って……』


 紫炎が揺れる。

 伊村は自分が震えていることに気づき、恐怖を掻き消すように毒づいた。しかし、震えは止まらない。

 振動はやがて筋肉の運動に変わり、伊村を後ずさりさせた。そこに彼の意思は介在しない。


 伊村は慌てて携帯端末をフリックすると、業者への通話を始める。


『お客様、どうされました?』

『何をやってるんだ!? 早く例のブツを見つけてくれよ!!』


 電話に出た業者のトップは胡散臭そうに相槌を打つと、畏まって答える。


『それが……仕事を任せたテンダーレイン……。失礼、当社の人間と連絡がつかないのですよ。どうしましょう……?』

『ふざっ、巫山戯るな! 予断を許さないんだよ、今回の依頼は!』


 伊村は自分が無意識的に靴を脱いでいることに気づいた。これは自らの意思ではない。何者かによって行動を操作されているのだ。伊村の額を脂汗が伝う。


『いいな、早く見つけろ! さもないと』

 伊村の指が通話終了の操作を行う。

『えっ?』


 再び紫炎が揺れる。

 伊村の網膜に映った幽かな炎は、身体を支配するかのように彼を包み込んだ。


『やめろ、助けてくれ! なんだ、金か!? 金ならいくらでもあるんだ、言い値で……アガァ!?』

『下衆が……!!』


 伊村はもがき、転落防止柵に衝突する。それでも動きは止まらなかった。


『やめろ、やめろ……やめろォォォーー!!』


 伊村は足を踏み外し、虚空へ一歩踏み出した。既に身体は炎に包まれ、意識は混濁している。

 案山子めいて硬直したまま落下し、伊村の命は急速に燃え尽きていく。身を包む炎は彼の体を焼くまでには至らず、高所から吹く風でいつの間にか消えてしまった。


    *    *    *


「終わった……?」

「社長、後半はちゃんと観てませんでしたね?」


 ベルルムは左眼を塞ぎ、視覚機能のない義眼でモニターを眺めていた。小さく身震いをし、傍らに立つ秘書に苦言を呈する。


「ネビちゃん、俺が炎見るの怖いってインペリウムに伝えてたよね!? 死体見るのはいいんだよ、あんなグロい物見せないでくれないか!?」

「彼は炎にしっかりとモザイク処理を行っていますよ。ちゃんと見てください……」


 彼が観た物は、クライアントの死の一部始終だ。黒甲冑の能力によってその場所の記憶がデータ化され、観やすいように映像編集がなされている。


「さすがインペリウム! ボーナス上げておいて!」

「彼は休暇が欲しいと言っていました。2週間徹夜で出向先のサーバールームを管理しているんです。あちらの社員が様子を見に行ったところ、睡眠薬をエナジードリンクで割って飲んでいたそうです。『寝ながら起きる!』と妄言のように叫んでいたとのこと」

「オーバーヒートしてんなァ……。この追加の仕事終わったら適度に冷却してやらないとな!」


 ベルルムは一頻り腹を抱えたあと、ふっと元の真剣な顔に戻った。


「ネビちゃん、レミニセンス……いや、クロムを招集して。今回の案件は長引きそうだ。円滑なコミュニケーションを取りたい……」

「ですが、彼女は……」

「悪い予感がする。これ以上の理由がいるか?」

「……承知しました」


    *    *    *


 使われていない会議室の外には『特殊犯罪対策課』のボードが置かれていた。

 署内でもよく日が入る立地のいい場所にあるにも関わらず、その場所を気にかける捜査官は少ない。


「つまり、ここからは特対の仕事だと?」

「俺が得た情報によると、だが」


 須藤は手に入れた情報をホワイトボードにまとめると、それを丁寧に眺める。


「問題は、証拠を握っているのが誰かわからない、という事だが……」

「贈賄ですもんねぇ、証拠資料を手に入れないままの捜査は風評被害に繋がるかもしれませんし……」

 メレオはハクトが書いたメモを眺めると、悪戯っぽく笑う。

「別件で狙ってみます? この落盤事故とか!」


 遺族の情報は、大まかに掴めた。レコード店を経営する男と、風俗店で働く女だ。


「男の方に話を聞くのは難しいだろう。例の飛び降り事件の前日、行方不明になったらしい……」

「あのおっちゃん、行方不明になったんですか!?」

「知っているのか?」

「この間のCD、そこで買ったんです。ちょっと厳しそうだったけど、ロックへの愛に溢れたいい人でしたよー!」

「……その時、近くにいた客を覚えているか? 明らかに挙動がおかしい奴とか……」


 メレオは首を捻った。


「いや、僕は見てないですね……。すいません、捜査の協力ができなくて」


 その場を支配していた静寂を破ったのは、机の上に置かれた端末の着信音だ。メレオはタッチパネルに写った登録名を見て、笑う。


「すいません、少し席を外していいですか!?」

「構わないが、君は監視係だろう? 先生からの勅命を……」

「あはは、彼女からなんで!」


 メレオはそう言うと、足早に会議室を出ていった。須藤は思わず背広やカバンを確認するが、盗聴の不安は杞憂だった。彼は謎が多いが、今は安全だろう。


「今のうちに、行くか……」


 目的地は歓楽街だ。遺族の女性から話を聞き、容疑者に目星をつける必要がある。

 須藤は二つのサイコロを指先で弄り、運命を占う。例の素体の件を境に、目が揃わないのだ。

 今日も駄目だった。運は、使い果たしてしまったのかもしれない。


 メレオは深く息を吐くと、端末に外付けされたボイスチェンジャーのスイッチを入れる。


「もしもし、蝙蝠コウモリですが。提供したデータ、活用していただけました?」

『……君か。おおきに、おかげでひとつ切り崩せたわ』

「それはよかった! 私が尽力した甲斐があります」


 電話の向こうの相手は鈴のようにころころと笑い、メレオも釣られて微笑んだ。


『コウモリくん、お礼とかいる? いくらかは用意できるけど……』

「いえいえ、滅相もない! 私自身の目的は充分達成できましたので!」

『そう。じゃあ、今後もまたなんかあったら手伝ってな?』

「ええ、その時は是非!」


 メレオは電話を切ると、レコード店でぶつかった男に想いを馳せる。事件記者と聞いて、例の証拠を託すことに決めたあの男だ。頭の悪そうな男に奪われてしまったが、記者は取り戻そうとした。ディークノアの青年を呼んだ時点であの記者が死ぬことは無いだろうが、証拠を適切に扱ってくれるだろうか。

 メレオは歩きながら端末を放り投げると、それは虚空に消えた。

 事態は今のところつつが無く動いている。一つだけ計算違いは起こったが、結果的には良い方向に転がった。心配はない。

 メレオは虚空に消えた携帯端末を呼び戻す。ボイスチェンジャーは外れていた。


「アシタバ製薬さん? 僕です、先生のところの!」


    *    *    *


 安物のWebカメラを取り付けたPCモニタには、彼女を褒め称えるコメントばかりが並んでいる。

 黒づくめのゴシック・ファッションに身を包んだ少女は、大きな瞳でコメント一つ一つを追い、小さくぺこりと一礼をした。


「それでは、クロムの黒魔術講座! 終了のお時間でーす! あっ、ゆうくんプレゼントありがとう! チョーカーもちゃんとつけてるよー」


 矢継ぎ早に流れるコメントに丁寧に返事をし、クロムは放送を打ち切った。


 レースが目立つ黒のドレスからボーダーのTシャツに着替え、手入れされたロングの黒髪を一つに束ねる。黒目が大きく見えるカラーコンタクトと魔法陣が描かれた白の手袋を外し、大きな黒縁のメガネを掛ける。


「私ってば、オフの格好でも美少女だから困るよねー……」

『あとは性格さえよければねー』

「……うるさい!!」


 空中でその様子を見守っていたウミウシのディークノアは、カラフルなピンクの体を揺らしながら、PCモニタに全身を打ち付ける。


『シノ、メール来てるよ』

「クロムって呼べって言ったよね……」

『はいはい。美少女のクロムちゃん、バイト先から召集のメールですよー』


 クロムはメールの内容を確認し、小さく不平を漏らす。


「これさぁ、シュバルツ君貸すだけじゃ解決しなかったってことじゃん! あのおっさん、渋いわりに口だけだな!」

『スカウトの時のチャットでは風格すごかったもんね』

「まだ引きこもってたいんだよ、私は! まったく……」

『でもさ、信者からの貢ぎじゃ』

「ファンね」

『失礼。ファンからのプレゼントだけじゃ、プライベートな私物とか買えなくない? 貰えたの、衣装とか機材ぐらいじゃん』

「……バイト行くかぁ!」


 床に敷かれたラグには、魔法陣の意匠が描かれている。クロムはそこに細い指を差しながら、「顕現せよサモン」と呟く。

 現れた黒甲冑に「衛せよストーク」と宣言し、彼女は数年ぶりに部屋のドアを開けた。薄暗い部屋を光が包み、黒甲冑が盾になってクロムの目が眩むのを阻止する。


『行ってらっしゃい〜!』

「ワルプルも行くんだよ?」

『えっ』


 彼女、田丸シノ——クロムの腕には、ルーン文字めいたタトゥーシールが貼られている。与えられたコードネームは『追憶Reminiscence』。ウミウシのオリジナル・ディークノアと契約した、ベルルムの幹部の1人だ。

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