ライク・ストーン・イン・ミスト #1
「あァー? うん、わかりましたァ」
眼下を這う霧が低木のような雑居ビル群を包み込む早朝。その様子を見下ろすことができるビルの屋上にて、スカルプチャーはごてごてとした装飾がされた端末から耳を離すと、冷たい鉄筋コンクリートに横たわった。
呼吸音すら染み入るほど静かな空間に、端末から流れ続けるEDMのサウンドが確かに存在を主張する。
「なぁ、めんどくせー仕事だと思わね? 他は企業のアドバイスとか裏切り者の粛清とかで暴れられてんのに、下っ端は良くわかんねー実験体だか何だかの奪還だぜ?」
「でも、こういう仕事の積み重ねが昇進につながるのではないですかね?」
傍らに立つ警備員の
自分の孫ほどの年齢の男が、唐突に社屋の屋上を借りにやって来たのだ。新田は確かに動揺していた。
会社が雇っている人材派遣会社の社員だと名乗り、聞いたことのないその会社の名刺を手渡され、新田は案内を直々に頼まれた。
残されたロスタイムを無為に過ごしていた警備員にとっては、非日常の極地とでも言うべき一大イベントだ。自分も誰かに必要とされている、そう思う新田の頬はわずかに紅潮していた。
スカルプチャーはじわじわと侵食する尻の痛みに舌打ちをすると、爪先でこつこつとコンクリートを叩いた。
そのままゆっくりと足を沈めると、身体を預けられるほど広い空間が出来上がる。
「俺、ちょっと仮眠とるからさ、怪しい奴いたら知らせてくんない?」
「えっ……」
少し素行の悪い孫を相手しているようだ、と新田は思う。頼られているとすれば苦痛ではなく、むしろ心地よかった。
* * *
『なぁ、どこに向かってんのこれ?』
「……月だよ? 見たまま真っ直ぐ向かってる」
『だよな。俺らは、昨日から真っ直ぐ寄り道せずにそこに向かってる……遠いんだよ!!』
オオカミがぶちまけた文句をはぐらかし、ヨウは手近なベンチに腰掛けた。
「電車なりタクシーなり使うのもいいと思うよ、お金があるなら」
『あっ、無一文……』
大企業の社屋が立ち並ぶ最新鋭の高層ビル群を見上げれば、都会の表現にコンクリートジャングルを用いるのは時代錯誤だということがわかる。
ビルの中腹に景観目的で建てられた小さな植物園はさながら森のようで、空調によって厳格に温度管理された観葉植物群がハードワーク中毒に陥りかけたサラリーマンの精神に癒しを与えているからだ。
地上に降りれば、各社が競うように造り上げた美しい庭園がある。けばけばしい原色で塗られた曲線的なモニュメントや中世の騎士を象った灰色の像が、大理石の噴水を警護するように配置されているのだ。
冬にはライトアップされ、デートスポットとしても用いられるこの庭園に人はいない。霧が深いからだ。代わりに、周囲の様子を警戒しながら進む青年の姿があった。
「ここを登ればショートカットできるかな……」
『普通に不法侵入だな! 警備員いるし、ここの社員につまみ出されるぞ……?』
「イヌゥ、どうする?」
『……ん?』
「いや、イヌゥ。どうやったら月まで行けるかな……」
『待て。それ、もしかして、俺?』
「そろそろ名前で呼んだほうがわかりやすいでしょ?」
『俺はオオカミだからな!?』
「えっ、じゃあなんて呼べば……」
『何でもいいよ。ロボでも良いし、フェンリルでも良い』
「そう呼ばれたいんだね……。じゃあミカオ、行くよ」
『……イヌゥよりはマシだよな?』
ミカオは内心、宿主を信用してはいなかった。昨夜助けてもらったディークノアの少年が、名乗った名前に対して明らかに動揺していたからだ。
スーツの集団が追ってきた理由も、宿主のせいではないか。この少年は何らかの罰として記憶を抜かれ、自分も含めて監禁されていた。逃げたことがバレて追われていることは大いにあり得る。ミカオの思考が加速した。
その瞬間、ミカオの視界の端に灰色の影がちらついた。
『今、何かいた?』
「オブジェでしょ。ほら、その辺にいっぱいある」
都市部の喧騒さえ呑み込んでしまう霧の只中に、打ち捨てられたようにオブジェが点在している。
「すごい、まるで展覧会じゃん」
感情をどこかに置き忘れたかのような声で、ヨウは感嘆する。ミカオにとって、その声は不安と疑惑を増幅させるものだ。
『な……なぁ、この道通るのやめて他のルート使おうぜ? なんか寒気してきたんだけど』
鳩を空に放つ少女の像は、立ち上がったまま右脚を叩き折られたようだ。台座に固定された左脚を懸命に伸ばしながら、酸性雨によって半分ほど溶けた顔を涙で濡らしているように見える。ミカオは思わず目を背けた。
立方体を掴み取る手がイメージされた成人男性ほどの背丈のオブジェは、指先が潰されたように崩れている。固めた粘土のような材質なので痛々しさは無かったが、ミカオは思わず自らの肉球を丸めた。
「イタズラ……にしては悪質だね」
『もういやだなにもみたくないおれはこんなとこくるつもりじゃなかった』
「これさぁ、陶芸家が失敗作を叩き割ったみたいなやつじゃない?」
無残に叩き折られた他の像の頭部をサッカーボールのように蹴り転がしながら、ヨウは欠けた破片を拾い上げた。それは触れた瞬間に縮みはじめる。
「作られたのも、割られたのも、かなり最近だと思う」
『お前、祟られても知らないぞ!?』
「あれ、意外とこういうのに弱いタイプ?」
ヨウが頭部を投げ渡すと、ミカオは身を竦めて回避する。頭部はボールのように路面を跳ね、ほかの石像の台座に当たって割れた。
「ストライク!」
『何がだよ……』
* * *
携帯用の双眼鏡をバードウォッチャーのように使いながら、新田は小さく息を漏らした。霧が深すぎて、視界が不明瞭だ。
「何か変わったことあった?」
「……この霧では、何も」
スカルプチャーは目元を覆っていた上着を乱雑に払うと、瞼を擦りながら新田に近づく。脱色して作った金髪が日光に反射し、キラキラと輝いている。
「貸して」
新田から双眼鏡を奪うと、スカルプチャーは周辺を見渡した。
霧の海に浮かぶ岩礁のようなビル群の屋上を観察していると、スカルプチャーは一つの雑居ビルに目を止める。
小太りの中年男が、脂汗を垂らしながら靴を脱いでいるのだ。それなりに良い暮らしをしている。スカルプチャーは一般人だった頃の審美眼が衰えていなかったことを少し喜びながら、その男の様子を伺っていた。
レンズ越しの男の顔が、恐怖に歪んだ。何をやろうとしているかの察しはつく。資本主義社会が生んだ軋轢の巻き添えを喰らい、あの中年男は自殺しようとしているのだろう。
スカルプチャーは何の感傷も抱かず、むしろ高揚感が湧き出ていることに気づく。高い社会基盤に胡座をかいて結局立ち行かなくなる負け犬よりも、下層階級出身で学のない自分が人智を超えた力に適応した、という自負が高笑いとなって漏れる。
ざまぁみろ。親も教師もマトモな人生しか歩んではいけないと言っていたが、受験にも就職にも打ち勝ってきた優等生だって、あぁやってブザマに死ぬんだ。自分の欲望に忠実に生きた方が、楽しい人生を送れるじゃないか。スカルプチャーはニヤニヤと笑いながら、今にも落ちようとしている男の姿を舐めるように見つめていた。
男は最新鋭の携帯端末を耳に当て、通話相手に向かって何かを叫んでいた。その内容までは聞き取れないが、スカルプチャーの想像力が唇の動きを補完した。
「は・や・く・み・つ・け・ろ……?」
何かを探しているのだろうか? スカルプチャーは強烈に好奇心を刺激され、その動向に目を奪われる。男の目が恐怖で見開き、竦んだ足を無理矢理動かされるように落下防止の柵の上に立ち上がっている。金縛りにあったかのように身体を硬直させ、そのまま、ゆっくりと……!
「あの! お仕事をお忘れではないですか!?」
新田の声で我に返ったスカルプチャーは、小さく舌打ちをして索敵を再開する。
霧が僅かに晴れ、同時にスカルプチャーの脳細胞を信号刺激が巡った。
「おっ、捉えたかも」
「えっ……!?」
唖然とする新田に向かって、スカルプチャーは自信に満ちた声で宣言した。
「俺のアトリエの中は、アリ1匹抜け出せないようになってるんだよ……!」
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