テンダーレイン・カラミティ #3
「タシターン……助けてくれよ相棒……」
激痛で発狂寸前になりながら、テンダーレインはかつての相棒の名を呼ぶ。
「お前がいなきゃ……俺はなんにも出来ないんだよ……」
タシターンは寡黙な男だ。彼ら2人がかつて参加した任務において、彼はテンダーレインへの的確な指示以外を口にしなかった。
戦場においては、無言でライフルを構えた。依頼で赴いた債権回収では、ブラックリストに載るほどの債務者を一言も交わさずにマグロ漁船へ売り飛ばした。
そんな有能な男は、1週間前に死んだ。選ばれなかったのだ。呆気なく、眠るように、その生涯を終えたのである。その時から、テンダーレインはドラッグが手放せないでいる。
テンダーレインは自らの切断された右腕を回収し、無我夢中でその場から離れた。何とか辿り着いた地下駐車場跡の打ち捨てられた柱の裏で、彼は涙を流しながら注射器とアンプルを手にした。
普段打つ方の腕は、足元に落ちている。彼は仕方なく、苦心しながら口に咥えた注射器で左腕に薬品を注入した。精悍で落ち着いた相棒の思慮深い横顔がフラッシュバックし、そのまま網膜に焼き付く。
「あー……スッゲェ……イイよ……」
テンダーレインの眼が据わった。極彩色に輝くコンクリート柱を支えに、墓から蘇ったゾンビのように立ち上がる。頭上に発生した雨雲が、彼の痛みや怒りを流し去っていった。どこかでノートパソコンを落としたかもしれないが、すべてどうでもいい事だ。
「……厄介な能力だね」
背後から聞こえる声に振り返れば、青年が瓦礫に腰掛けてテンダーレインの様子を伺っていた。しかし、トリップしている男の眼には、カートゥーン・タッチの死神がけばけばしいほどカラフルな背景に浮いているようにしか見えない。
「雨を降らす能力があれば、体を乗っ取ったディークは日夜関係なく暴れられるもんなぁ……」
テンダーレインの耳にサイケデリックなエフェクト混じりの嘲笑が聞こえた。彼は反射的に鋏を握る。
雨が横殴りに降っていた。テンダーレインがそのように感じたのだ。彼は吹いている追い風を確信し、目の前のサイケデリック死神に鋏を突きつける!
捉えた、彼はそう確信した。死神の腹に穴が開き、排水溝に水が流れていくように消えていくビジョンが見えたのだ。そのまま剣道の残心めいた姿勢を取った瞬間、テンダーレインは何者かに肩を叩かれたことに気づき、振り向く。首筋に衝撃が走った!
「アアアアーッ! 死神!! アーアアーッ!!」
理性のタガが外れたテンダーレインは、嘔吐しながら白線の引かれた駐車場を転げ回る。おびただしい量の血が首を伝っていた。
「武器とか持ってないの……? それで歯向かおうとしてるなら、ちょっと興醒めなんだけど」
青年は床に落ちた鋏を見下ろし、溜め息を吐いた。
「ディークノア反応も薄いし、もしかしてまだ自我を乗っ取られてないの? 盛り上がらないなぁ……!!」
倒れ伏すテンダーレインの背中に小さなカエルが現れ、首の血を舐め取った。そのまま患部に潜行し、カエルは宿主の意識を回復させる。
テンダーレインは白目を剥いた。常用しているドラッグのオーバードースとカエルの注入する脳内麻薬が精神に揺さぶりをかけ、死んだ相棒の声がリフレインし続ける。
雨の色が虹色に変わった。テンダーレインにだけ見えている景色が、周囲に影響を及ぼし始めているのだ。彼は赤白の古びたパイロンを支えに立ち上がり、屋内で降り続く雨を受け続けた。
「……もしかして、キメた? えっ、またヤク中倒さないといけないの!?」
青年は片目を瞑り、相手との距離を見定めた。
「まぁ、勝てない相手ではないよねぇ……」
黒いレインコートが翻る。テンダーレインは喉を鳴らし、脳内で流れるファンファーレに突き動かされるように再び鋏を握った。
「やってやる……畜生、生きてやる……! 俺はテンダーレイン様だぞ……ッ!」
テンダーレインは持っていた武器を投げる。それは鋏だったかもしれないし、一輪の薔薇だったかもしれない。ドラッグが生み出す虚像を信じきる彼にとって、それで相手を刺し殺せるなら武器はなんでもよかった。
「これ以上広がりないな、これ」
青年は苦笑しながら、飛んできた武器を弾き飛ばした。パイロンだ。
「久しぶりの戦闘でテンション上がったのに、ディークノアかどうかさえわからないような相手と戦わされるんだもんなぁ……!」
テンダーレインは悪寒を感じた。虹色の雨が止み始め、足下の水溜まりが徐々に凍っていく。彼の視界には、サイケデリックな死神が大きな口を開けて笑っている姿があった。
大袈裟なヒットエフェクトが実体を伴う痛みに変わり、彼は鼻血をとめどなく流した。トリップの効果が切れた虚脱感に苛まれながら、テンダーレインは自らの体温の急激な低下を感じる。
「カエルって、何度で冬眠するんだろう……?」
例の死神の声が、疲弊した脳細胞に響き渡る。ある種の死刑宣告に聞こえ、彼は失禁した。
* * *
雨が止んだ。灰江は立ち上がり、膝に付いた砂を振り払う。痛みは鈍く
灰江は水溜まりからUSBメモリを拾い上げ、投げ捨てようか逡巡した。恐らく、既に壊れている。何が? あの女との関係が、だ。
これは恐らく偽物で、自分は囮に使われたのだ。彼は脳内に浮かんだ疑問を自ら解決し、嫌なものを忘れるかのようにUSBを振りかぶる姿勢を取る。
その時、灰江は足下に捨てられたノートパソコンに視線を奪われた。襲撃者が持っていたものだ。落とした時に大きな負荷がかかったようで、薄い本体からは想像もできない量の配線が剥き出しになっている。
「壊れてるかどうかの確認くらいしても、罰は当たらねぇよな……」
電源を付ける。液晶が割れているせいで大部分がブラックアウトし、内部では冷却装置がショートしたのか、暖を取るには最適な温度にまで温まっている。パスワードは設定されていなかった。不用心だな。過ぎ去った恐怖に本来の調子を取り戻したのか、灰江は冷笑した。
USBメモリを挿せば、不明瞭な画面にデータリストがポップアップする。目が滑りそうになるほど膨大なデータが乱雑にまとめられていた。カモフラージュだろうか? 賊が奪ったとしても、一目では偽物と気づかないだろう。時間稼ぎとしてはかなり役に立ったのかもしれない。
灰江は自嘲じみた笑みを浮かべながら、『DCCC設立の要旨』や『ヤオビクニ計画出資者リスト』といったデータに目をやる。一瞬興味を惹かれたが、自分とは遠い世界の出来事だ。彼はメモリを抜き取り、投げ捨てようとした。
壊れかけたノートパソコンから、着信音が鳴る。灰江は息を飲み、開いていたアプリケーションを確認した。通話用アプリが起動したままだ。
どうする? 灰江は疲弊した頭を無理に動かし、次に取る手を思案した。
恐らく、自分を襲った相手の仲間だろう。これ以上関わるのは得策じゃない、と理性は囁く。
自分は無関係なのに、殺されかけた。このことに文句をつけたくならないか、と感情は語る。自分を襲った相手に対する興味が、それを後押しした。
「……もしもし」
ノートパソコンに向けて声を発する。画面半分にノイズ混じりの冴えない顔が映り、灰江はとっさに身を隠した。内蔵されている小さなカメラは不具合を起こしてはいたものの、ビデオ通話の機能は死んでいなかった。彼はノートパソコンを最大限まで開き、雨上がりの灰色の空を映した。
『テンダー? ……大丈夫か?』
音質の悪いスピーカーから聞こえる声は、焦っていた。
『さっきからメッセージ送ってるのに、全然見てなかったよな?』
「すいません、少し手こずってしまいまして……」
灰江はなるべく襲ってきた敵の声に似せられるように努力しながら、細心の注意を払って相槌を打つ。
『いつもより呂律回ってるな……。クスリ切れか?』
画面の向こうの声はそう茶化しながら、声をゆっくりと素面に戻す。
『撤退だ。クライアントが自殺したんだよ。これ以上はカネにならないからな……』
「自殺?」
『飛び降りだってよ。社長さん、俺らのことを信用してなかったみたいだわ』
声にわずかな侮蔑の色がこもった。
『本物の地獄を体験してないブルジョワのお大尽は、ハングリー精神に欠けてて参るな。死ねば後ろ暗いことは全部解決すると思ってる』
「はは、かもしれませんね……」
灰江は適当に話を合わせながら、自分の置かれた状況を考え続けている。とにかく、自分は助かったようだ。
『迅速に帰ってこいよ。深追いは禁物だからな!』
饒舌な声はそう言うと、通話をすぐに打ち切った。灰江の頭に焼き付いたのは、最後に映った通話相手の手の甲だ。まるで仲間内の絆を確かめるかのように、追跡者と同じルーン文字めいた刺青が彫られていたのである。
灰江は安堵の息を吐き、ノートパソコンを鞄の中に入れた。万が一でも指紋を取られることを警戒したからだ。
アンタッチャブルな事件に関わった後悔も、喉元を過ぎればけろりと忘れてしまうだろう。灰江は変わらずあの女を抱けることに感謝しながら、雨上がりの虹に向かってとぼとぼと歩きはじめた。
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