テンダーレイン・カラミティ #2
「なんでこんな仕事引き受けちまったかな……」
灰江は缶コーヒーで手を温めながら、人通りの少ない路地を見張っていた。
「確か、アイツだよな……?」
厄災をイメージさせる黒いレインコートに身を包み、小刻みに震えながら歩く男。小型のノートパソコンを小脇に抱え、憎々しげに地面に唾を吐くその背中を、灰江は30分ほど追い続けていた。
雨が降っている。頭上を支配するように建てられた雑居ビル群の隙間からしとしとと漏れ出した雨粒が、灰江の髪を静かに濡らしていた。
黒いレインコートの男が不意に振り向き、斜視気味の視線が落ちぶれたゴシップ記者を捉える。
「あ〜〜ッ! お前か……!?」
男は猫のように背を丸めながら歩き始め、灰江を見上げるように接近した。底の薄いサンダルが水溜まりを横切り、日陰に靴跡を付けている。
レインコートのフードの中で、男が灰江を睨みつける。降り
「おい、これ運んだのお前だろ? これ、何なんだよ?」
ポケットから取り出したUSBメモリを片手に、男が吐き捨てるように呟く。
「なぁ、本物はどこにあるんだよ……ッ!?」
本物? 灰江はやや狼狽しながら、目的の物に手を伸ばす。だが、伸ばした腕は空を切り、そのメモリを掴むことは無かった。男がそれをわざとらしく水溜まりに落とし、憎々しげにサンダルで踏みつけたからだ。
「おい、何やって……」
拾おうと屈んだ灰江の頭に、強い衝撃が走る。風が吹き抜けたような感覚の後、鼻血が噴き出す。激痛は後からやって来た。
「なぁ、本物はどこにあるんだよ?」
焦点の合わない目で灰江を睨みながら、男は脚をぶらぶらと振った。
「次は前歯折るぞ?」
灰江は折れた鼻を抑えながら、必死に状況を整理する。襲ってきた男は、何かを勘違いしている。恐らく、あのUSBはコイツの求めているものではないのだ。
「ふざけんな……俺は何も知らな……がっ!?」
灰江の口に男の不衛生なサンダルが突っ込まれ、髪を掴まれて頭を無理矢理起こされる。レインコートの男は、残忍にくくっと笑った。
「お前が運んだんだろ……? なんで追ってきたかはわかんねぇけど、都合がいいことは確かだな……。ったく、俺らを騙すなんていい度胸してるよ……!」
前歯が折れた。灰江の口内からだらだらと血が垂れ、男の安価なサンダルに彼のニコチンによって黄ばんだ歯が落ちた。
「ひっ、
鉄の味がする。灰江は上手く言葉を紡ぐことが出来ずに、自分は無関係だと弁明しようとした。
「なるほどな、誰に頼まれた?」
男は不格好な灰江の顔を見て、耐えきれずにゲラゲラと笑った。
「知ってるか? 教育に最適なのは反復らしいぜ。……次は目玉、か」
灰江は女の名前を漏らそうとしたが、感情がそれを止める。その代わりに、ぐっと口を
何故だ? 俺はほとんど無関係だし、何なら被害者だ。それに、言わなきゃ殺されてしまう。彼の理性は脳内で必死に喚き散らすが、心は頑として動かなかった。他の奴らなら、たとえ親でも躊躇いなく売っていただろう。だが、自分のせいで彼女に危険が及ぶのは、どうも納得できない。
「あぁ〜〜ッ! もういい、何も言うつもりは無いんだな!?」
男は業を煮やしたように叫ぶ。
「拷問決定な。あのレコード屋の親父みたいにショック死しないでくれよ?」
雨はなおも降り続いている。灰江はある違和感に気付き、鼻を抑えていた手を離した。鼻血が止まり、折れた鼻の骨は何事もないかのように治りきっていたのだ。
「…………!?」
折れた前歯も、気づかないうちに再生している。灰江は鈍い痛みを抱えたまま、その場から立ち去ろうとゆっくりと立ち上がった。
「待てよ……ッ!」
肩を掴まれ、雷を受けたかのような衝撃が走る。背中に鉄の
「ぁ……ぁぁあぁ……」
「腹までブチ抜いてるはずなんだよ。大丈夫か? 喋れる?」
男は倒れ込む灰江を無理矢理起こすと、力いっぱい鋏を引き抜いた。
「このテンダーレインさんの拷問技術があれば、喋れなくてもゲロるだろうけどなッ!」
臓物の赤に染まった鋏が濡れ、雨混じりの血がアスファルトに散る。灰江は悶え苦しみながら、絶望を吐き下すように喀血した。
雨は止まない。背中に当たる雨粒が苦痛を呼び起こすが、灰江の血は止まっていた。背中の傷も癒え、破れた衣服だけがその場に不釣り合いだった。
痛みと倦怠感が同時に襲ってくる。灰江は身を捩りながら、理不尽の渦から抜け出そうともがいた。
「頑固だな……。これでも言う気にならない?」
外気によって凍結しはじめたアスファルトに転がされ、灰江の鳩尾を容赦のないストンピングが襲う。平凡な元事件記者はなるべく身体を丸め、暴力の嵐が過ぎ去るのを待っていた。
灰江にとっての4時間に匹敵するような10分間だった。受けた側から癒えていく傷は、永久に鞭打たれ続けるような拷問に近い苦しみを生んでいた。
レコード屋の主人のように、このまま眠るように死ぬことができないだろうか。朦朧とする意識の中、灰江は漠然とそのような事ばかり考えていた。
4度目に回復した鼻骨に響いた痛みが痛覚に到達する瞬間に、ぼやける視界は男の手の甲に彫られた刺青を捉える。ルーン文字のように記号化されたシンプルな文様を脳に刻みつけ、脳細胞はスパークし続けた。痛みが一瞬だけ止まったが、気休め程度の時間しか稼げない。徐々に痛覚も麻痺しはじめ、灰江の身体は悲鳴すらあげなくなりはじめた。
「喋る気になったかァ? 俺もクライアント待たせてんだよ……。5秒やるからそれまでに吐け、な?」
傷は回復している。喋ることは出来るのだ。灰江は口を開き、アスファルトに赤い唾を吐いた。
「いーち」
口内でもごもごと言葉を紡ぐ。あとはこれを叫ぶだけだ。
「にー」
ふらつきながら立ち上がり、灰江は災厄の塊のような男をまっすぐ見つめる。痛みは抑えきれないが、声を張るだけの体力はわずかに残っている。
「さーん」
女の顔がちらつくが、頭を振って記憶から追い出す。自分は被害者だ。その原因に何が起ころうと、自身のこれからの人生には何の関係もない。自業自得だ。
「よーん」
全ては命あっての物種だ。今後、この事件には関わらない。記憶から消すのに時間がかかるかもしれないが、殺されるよりはマシだ。灰江は逃げる覚悟を決め、ゆっくりと口を開いた。
「ごー…………お?」
雨が止んだ。冷気を帯びた雨粒は雪に変わり、小さな
「視界良好!」
頭上で風が吹き抜けた。灰江の目の前で狼狽えている男に向かって飛んできたのは、
「がッ……!?」
男の肩を鎌が貫き、スプリンクラーのように鮮血が吹き出した。灰江の視界の端で何者かが跳ねた。
「あの、ディークノア……だよね? しかも、一般人に手を出したモグリだ……」
「う、腕が……俺の腕が……」
男の嘆きをバックに、鎌の所有者が伏した灰江の頭上を飛び越えた。薄いグレーのパーカーが翻り、銀髪の青年が灰江の視界に飛び込んでくる。
「雨が雪に変わり、次は血の雨だね!」
青年はレインコートの男に立ち塞がり、にっこりと笑う。
「さぁ、指導を始めようか!」
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