テンダーレイン・カラミティ #1

 平穏の最大の敵は安請け合いだ。特に、惚れた女との約束は始末が悪い。灰江はそう思いながら、早朝の歓楽街を疾走していた。

 夜明けのネオン街は、喧騒や幻想を置き去りにしてきたような風格すら漂う。夢の時間は終わり、皆が現実に帰っていくのである。


 あの女は女王アリだ。孤独に震える子どものように目を潤ませ、裏で男を誑かす。この頼みも、きっと真意があるに違いない。灰江は運んでいるキャリーバッグを路肩に置き、ふぅふぅと息を切らした。

 だが、そんな女に惚れた自分にも落ち度はある。だとすれば、やはりこの約束は遂行すべきなのだ。


 スマートフォンを確認し、小さく溜め息を吐く。未だ既読は付かず、目的地周辺の地図を表すスクリーンショットが鎮座する画面が無機質な印象を与えていた。

 地図は一目見て暗記できたが、彼女の返信はあまりにも雑だ。その事務的なやり取りから垣間見える彼女の虚無に、灰江は愛情を抱きつつあった。


 あの夜、抱き合いながら彼女は涙を流していた。灰江はその柔肌に滑らせようとした指をためらわせ、壊れてしまわないように丁寧に頭を撫でた。彼女は長い睫毛まつげを濡らしながら、ごめんなさい、と繰り返す。

 愛を確かめ終え、女が脱いだコートのポケットに紙幣を普段より多く入れた時、女は縋るような目で灰江を見つめていた。


 目的地は、古いレコードショップだ。灰江は荷物を丁寧に運びながら、閑散とした店内へ入っていく。


「おっちゃん、これ貰ってくね!」


 黒ずくめの服を着た青年がラックに置かれたCDを購入し、財布を出した。ダウンロード全盛期となった現代でも、個人経営のレコードショップでCDを買う若者はいるのだ。灰江は疲労が混じった感嘆の息を吐き、狭い店内のカウンターへ向かった。青年と肩がぶつかり、軽く頭を下げる。


 壁に掛けられた往年のロックスターのレコード・ジャケットは、それだけでインテリアとして成り立つほど美しい。灰江はそれを見ながら、店内BGMについての違和感を言葉にせずにはいられなかった。


「ジュークボックスで流行りの歌を流すなんて、洒落てますね……!」

「このCDはよく売れるんだ。聞いたやつは吸い寄せられるように買っちまう。そんな魔力があるんだよ……」


 中毒性のあるメロディーが特徴的なパンクロックのファスト・チューンは、『ディストーション』の十八番だ。メンバーの饕餮とうてつが魂を込めて叩くドラムが、熱く胸を突き動かす。


「アンタ、テツのファンかい?」

 店主が頬杖をつきながら、なんで流行ったのかねぇ、とぼやく。


「〈white ant〉時代から好きですね……! あのドラムは天才的だ」

「俺もあの頃の無骨な演奏が好きだ。なのに、メジャーデビューの頃から技巧に走りすぎなんだよな」


 店主がバンド名の変更から生まれた方向性のブレに苦言を呈している間に、灰江は背後に置いていたキャリーバッグをカウンターに移動させた。


「これ、ここに届けろって頼まれたんですけど……」


 店主の目の色が変わる。威圧的な声色で小さく唸ると、灰江から奪い取るかのようにキャリーバッグを預かった。


「なぁ、あの女から聞いたことは忘れろよ。いいか、これはお前の身の安全の為だ。死にたくないだろ?」

「待ってください、言ってる意味が……」

「帰れ。ここから先はお前が知る必要の無い世界だ……」


 急かすように店を追い出され、灰江は訝しげに爪を噛んだ。カウンターに置いた時にちらりと見えた荷物の中は、大量の札束とドラッグ入りの小袋で充満していたのである。

 事件記者だった頃の血が騒いだ。灰江は好奇心に身を動かされ、再びレコードショップへの入店を試みる。

 ポケットで震える端末の通知音も無視し、興奮する気分を理性で抑えてガラス戸をくぐる。カウンターには誰もいなかった。


「オヤジさん……?」


 黒いレインコートを着た男がカウンターの奥から現れ、ふらつく足取りで店を出ていく。灰江はそれを目で追いながら、すれ違うようにバックヤードに侵入した。


「オヤジさーん。俺、事件記者やってるんですよ……! なんか非合法なことやってるなら容赦しませんよ……?」


 灰江はハッタリを効かせながら、『関係者以外立ち入り禁止』の貼り紙を無視して進み続ける。

 異変は、すぐ近くにあった。狭いバックヤードの床に散らばった紙幣をシーツ代わりに、店主が死んでいたのである。


「おいおいおいおい……嘘だろ……?」


 外傷は一切なかったが、部屋の争った形跡は激しく、店主の身体とその周辺の紙幣は何故か濡れていた。変死だ。警察を呼ぶことを決意した灰江は、スマートフォンを確認して絶句する。彼女からの返信が来ていた。


『この件は公にしないで』

『USBは店長以外に渡さないで』


 二つだけの簡素なメッセージに、灰江は頭を搔く。「俺、一応ジャーナリストなんだけどな……」と呟きながら、乱雑に置かれたキャリーバッグを確認した。不審に思って辺りを見渡しても、USBメモリは見つからない。

 何が起こったかを推論するための材料は揃っている。店主はここで殺され、USBを奪われた。だとすれば、先ほどのレインコートの男が何らかの形で関わっている、そうに違いない。


「これ、マズイな……」

 灰江はぼやく。これ以上深入りすれば、五体満足ではいられない気がした。

「君子危うきに近寄らず、だろ? はははっ、そうやって生きてきたじゃないか……!」


 正当化するために吐いた言葉に従おうと決めた瞬間、女の顔がフラッシュバックする。男に媚びたような声が海馬に焼き付き、自身を糾弾するかのように荒んだ心を刺激する。女の濡れた髪が、潤んだ瞳が、豊満な乳房が、灰江の脳に焼き付いて離れない。


「何でだよ! 俺はまったく関係ないじゃねぇかよ!!」

 叫ぶ彼の声と裏腹に、指は返信の文字列を打ち込んでいた。

『安心しろ、全部俺がやるから』

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