エスケープ・トゥ・アナザームーン #2
五つの足音が響き、規則的な呼吸音が焦燥を加速させる。ヨウはビルの陰に隠れ、冷たいコンクリート璧に背中を預けた。
息を潜め、そっと機を伺う。追っ手のサーチライトのような眼光を掻い潜り、あの月に近づける可能性は薄い。持久戦だ。気配をなるべく消し、追跡を諦めるまで隠れ続ける。ヨウはそう結論付け、その旨をオオカミに伝える。
『良いけど、今真夜中だぜ? 朝まで隠れるつもりかよ……』
「さっきまでの逃亡劇に比べたら、ずっと楽でしょ……」
タワーマンションから路地裏までの逃走は過酷だった。ヨウは目を瞑り、人を殴った感覚を思い出していた。
* * *
先程までマンションが点在していた景色は、高層ビルが雨後の筍のように繁殖する都会に変わっていく。ヨウは車通りの多い交差点を歩きながら、深夜にも関わらず開き続けている店に視線を奪われていた。
「貨幣経済とかのシステムはわかってるからさ、襟を噛むの、やめてくれないかな」
『交通ルールもわかってくんねぇかな……。ほら、青信号だぞ!』
オレンジのプルオーバー・パーカーの下に着たシャツの襟を引っ張られ、引きずられるように横断歩道を渡る少年は、視界の端に見えたトラックに注目する。
荷台に簡略化された葉のロゴが描かれたトラックは、路肩に横転しそうなほどのドリフト駐車を決める。
「うおっ」
『えっ、何!?』
荷台のハッチが軋む音を立てて開き、統率された軍隊のようにスーツの一団が現れる。それらは一糸乱れぬ動きでコンテナから飛び降り、繋がったマリオネットのように同時に辺りを見渡した。
「フラッシュモブ……?」
『いや、銃を持ってる』
腰に提げたオートマチック拳銃を確認し、オオカミは小さく唸った。
『それに……ダメだ、追ってきてる!』
六体のうちの一体が少年を発見し、スムーズに走行姿勢に移行した。アイロンの折り目が目立つスラックスを履いていることも関係ないかのように、姿勢を低くして追跡対象に接近する。
突き出された腕から飛び出した拳銃がヨウの腹部を捉え、銃床が鳩尾に触れそうになった。
ヨウは手近にあった広告用のブラックボードを追跡者の前にかざし、一瞬の隙を突いて逃走する。今日のおすすめメニューがイラスト付きで書かれた看板が崩れ、追跡者は無表情で再び辺りを見渡す。
『何なんだよあいつ……。銃持ってたぞ?』
「僕を狙ってたとするなら、過去と関係あるのかな……?」
人通りの少ない路地に潜み、少年は周囲を警戒した。三階建ての集合住宅に隣接した非常階段の下に潜り、膝を抱えて座る。錆び付いた鉄の香りが夜の闇に充満していた。
密集する街灯やヘッドライトの眩い光を背に、一人の追跡者が現れる。ジャケットに凶器を詰め込み、暗いサングラスの下の表情は読み取れない。
ヨウは階段の隙間に身を潜め、機会を伺う。このままでは、いつか見つかってしまう。何かを起こさないといけない。
「おい、深夜にウロウロしてんじゃねぇよ……」
集合住宅から出てきた粗暴な男が、警戒心を剥き出しにして追跡者に詰め寄る。時代に逆行するように何十年か前のパンク・ファッションを着こなす彼は、
「お前ら、武器持ってこい! リーダーとかネズミには報告しなくていい!」
鶏冠はそう叫びながら、上目遣いで外敵を睨みつける。二、三人ほどの男たちが、金属バットを手に駆け出してくる。
「……逃げようか」
『……おう』
銃声と悲鳴を背に、少年は駆け出した。冷たいアスファルトに何かが倒れた音がしたが、振り向いている暇はない。壁を蹴って跳躍し、不法投棄されたガラクタが積まれた天然のバリケードを飛び越える!
弾丸が肩の上を通り過ぎていき、山になったブラウン管のモニタが割れる。ヨウは入り組んだ路地に入り、追手を惑わすように駆けた。
錆び付いたアイスクリームの看板は年季を感じさせるほどに変色し、扇情的に横たわる水着女性のメイクは数十年前の流行をなぞるようだ。時代が止まったような雰囲気に驚く暇もなく、ヨウは小道の奥が行き止まりになっている事に気づいた。オオカミもそれに気付き、舌打ちをする。
『畜生ッ……!』
背後の足音は近づいてきている。抜け出そうにも、袋小路に入ったという事実がその望みを打ち砕いた。追いつかれるのは時間の問題だろう。
「あのさ、何か策とかないかな?」
『一応武器なら出せる。けど、お前が強くイメージしないと出ないぞ?』
視界の奥で黒い影が見えた。ヨウは朧気な記憶を便りに自らの武器を想像し、創造する。
返り血を浴びたジャケットを翻し、追跡者が駆ける。指定された任務は捕獲だ。背中を向けた少年に銃を向け、身柄を確保するつもりだった。
手が届く距離まで接近した瞬間、追跡者は衝撃に身悶えする。脇腹を抉るように切り込んできた鉄塊が、内蔵を潰したのである。
「…………ッ!?」
「……捉えたッ!」
コンクリートの壁に背中を打ち付けた追跡者は、追撃の右ストレートを
『隙はできたぞ! 早く逃げろ!』
オオカミの声に突き動かされるように、少年はうずくまる追手を踏み越えて走る。右手に装着した手骨型のナックルダスターを体液に染めながら。
「…………!」
逃げていく獲物を目で追いながら、追手はゆっくりと起き上がる。
飛び散った分の体液が側頭部に充満し、傷を癒していく。移植された細胞が臓器のコピーを作り出し、潰れたものと置き換わった。
クローン警備兵は攻撃を回避しない。時間が経てば傷は癒えていくからだ。
『ヤバイヤバイヤバイ……来てる、来てるって!』
「ちょっと復帰が早すぎない……!?」
路地を逆走しながら、ヨウは敵への対処を考え続けていた。
このまま逃げ続けるのは得策ではない。肉体的な疲労が徐々に溜まってきているからだ。どこかで決着をつける必要があるだろう。
オフィスビルが立ち並ぶエリアに抜け、ヨウはゆっくりと歩みを止めた。建物に囲まれてはいるものの、立ち回れるだけのスペースはある。決着を付けるには、ここしかないだろう。
先ほどと同じように追ってくる敵を見つめ、少年は唾を飲み込む。容赦はするな。倒すなら、全力だ。
警備兵が銃を向け、間髪入れずに発砲する。ヨウは弾丸に向かい合い、正面から銃弾を殴りつける。真っ直ぐに伸びた拳が弾丸に衝突し、弾かれた弾丸が敵の腕を撃ち抜いた!
負傷した腕を抑えながら、警備兵は2発目を放つ。弾道がぶれ、ヨウの背後のガラスが割れた。その隙に、ヨウは敵に密接する距離まで駆ける!
今の少年の視界には、スーツに覆われた鳩尾だけが見える。彼はそこを狙い、突き上げるようなストレートを見舞った!
「からのー……」
ふわりと浮いた警備兵の頭部をストレートで打ち抜くと、無重力状態で僅かな衝撃が伝わった時のように身体ごと吹き飛んでいく! 窪んだ額から血を噴出させながら、キリモミ回転しつつ地面に倒れた。
『うわぁ、やっちゃったよ……』
絶命した警備兵を見下ろしながら、オオカミは呟く。
『もう生き返ってこないよな……?』
ヨウは興奮を抑えようとしながら、自らが仕留めた遺体を眺める。少し老け込んだように見え、彼は何度か目を擦った。
* * *
ヨウは目を瞑りながら、警備兵の足音を聞き漏らさないように集中した。プログラムされたかのように、五つの足音は規則正しく彼の周辺を包囲している。
一人なら対応できるが、これほどの人数は別だ。彼はなるべく気配を消し、嵐が過ぎるのをじっと待った。
『ホントにコピーされてるみたいだな……これ、フィリップの能力?』
「そんなわけないだろ……」
二発、銃声が響いた。ヨウが物陰からわずかに身を乗り出すと、二人の少年がそれに気づく。
『……なるほど、気配の元は君かー! なんで囲まれてんの?』
「とりあえず、追手は倒すべきだよね?」
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