1章 孤狼の逃走と赤い月
1-1 動乱の予感
エスケープ・トゥ・アナザームーン #1
最後まで点灯していた蛍光灯が消え、墓石のようなオフィスビルは闇に包まれる。大通りから届いたテールランプがレーザー光線のように伸びては消えていく路地裏に、少年は座り込んでいた。
ビルの間の細道を肥えたドブネズミが駆け、濡れた側溝に消えていく。少年はその様子を呆けたように見ながら、視点を足下に近づける。冷たいアスファルトに染み込むように、緑の体液がてらてらと輝いていた。
「ねぇ、君。宇宙人を殺した場合は何の罪になるんだろうね……?」
少年は隣で座る小さなオオカミに尋ねるが、返答はない。頭を抱え、溜め息を吐くだけだ。
『俺らが何したって言うんだよ……』
オオカミが呟く。
『前世で大罪犯したのかな? そういうのは、その時代で落とし前付けろよ……』
少年の足下には、スーツを着た男が転がっていた。スキンヘッドの額は窪み、どくどくと体液を撒き散らしながら絶命している。少年が付けているナックルダスターにも、同じ体液が付着していた。
早送りした動画のように、死骸は体液を出す量を増やしていく。三十秒で顔は干からびていき、その肌はシミで覆われるまでになった。
「…………?」
少年が首を傾げた瞬間、男のジャケットが揺れる。『心拍停止! 至急回収セヨ!』と合成音声がポケットの中で叫び、摩天楼の闇に突き抜けるような特大のサイレンが鳴る。
『おい、おいおいおい……ッ!?』
動揺するオオカミの視界には、5体の追っ手が映っていた。
「逃走者を発見、捕獲します」
抑揚のない声で一体が宣言し、それに続くように同じ姿をした残りの追っ手が揃った動きで銃を構える。
『伏せろ、ヨウ……!!』
少年は物陰に隠れ、追跡者をやり過ごそうとする。彼は息を潜め、今日という一日を思い起こした。
* * *
脳細胞が電気回路のスイッチめいて繋がり、スパークする。冷たいフローリングに死体のように転がっていた少年は、起動したロボットのように瞼を開けた。
彼は腰を起こし、頭を搔く。意識が朦朧としているが、何度か
見慣れないフローリングに、見慣れないカーペット。見渡せば、カーテンや時計さえも新鮮に映る。
電源の付いていない薄型テレビに目を向ければ、暗い画面に泣き
少年は何度か手を開き、力を込めて握る。自分が自分であることを証明する材料は、それだけだった。生きている実感がほとんど無い。呼吸の仕方も覚束なくなり、彼は過呼吸気味に息を吸った。
「あぁ……!!」
声を出すことはできた。少年は何度か発声練習をすると、静かな空間で叫ぶ。
視界の端で空間が歪んだような気がして、少年はそこを注視した。だが、何も見えない。そのまま視線を下げると、小さな動物が倒れていた。
仔犬だろうか、シルバーの体毛は綺麗に手入れされていて、ピンと立った耳は気品を感じさせる。先ほどの少年のように、フローリングに腹を着けて眠っていた。
少年は仔犬を起こさないように抜き足でキッチンへと潜り込み、冷蔵庫を開ける。とにかく空腹だった。この部屋が誰かの所有物だとするなら、後で謝っておくだけだ。少年はそう考え、中の食糧を物色する。
冷蔵庫の隅に転がっていた魚肉ソーセージを口に運びながら、少年は自分が置かれている状況について考えを巡らせていた。
ここが自分の家だとは到底考えられない。薄いカーテン越しに見える景色は色とりどりの夜景で、ベランダから見える星空を遮るように向かいに建っているタワーマンションはここと同じ高さだ。すなわち、ここはそれなりの財力を持つ者が住む高層マンションである。
もし自分がそんな場所に住める勝ち組であるなら、家具は高級なものを選ぶはずだ。しかし、カーテンやカーペットは大量生産されたような安い製品で、冷蔵庫の中には魚肉ソーセージしかなかった。
何らかの実験設備だとするなら辻褄が会うかもしれない、と少年は思う。ただ、それにしては急ごしらえで造られたようで、そこかしこに生活感が溢れていた。彼はテーブルに置かれたCDジャケットの山を確認し、見慣れないアーティスト名に困惑する。
昨日のことを思い出せれば状況は好転するのだろうが、記憶がすっぽりと抜け落ちていた。それどころか、彼は自分が何者であるか、今日まで何をしてきたかを全く思い出せない。自分が自分でないようだった。
床に伏せていた仔犬がぴくりと目を開け、背中を伸ばす。そして、困惑した様子で口を開いた。
『えっ、誰……?』
「僕が一番知りたいんだよね、それ」
少年は人語を話す仔犬に笑いかけながら、魚肉ソーセージを手渡す。
「食べる?」
『詰みじゃん』
「だよね」
壁に前脚を掛けて頭を垂れる仔犬に、少年は頭を撫でながら情報交換をする。
『俺自身が何者かはある程度わかってるんだよ。でも、ここが何であるかとか、昨日何をしていたかはわからない』
仔犬は呟く。
『あと、俺は犬じゃなくてオオカミ。わかる?』
しきりに〈おすわり〉をさせようとしていた少年はフリーズし、目を白黒させた。
「マジで?」
『うん、それだけはハッキリ言える。お前も自分が人間であるかぐらいはわかるだろ?』
「ごめん、それすら怪しいかも」
『お前の方が深刻じゃん……』
オオカミは空気を蹴るように浮揚し、玄関を確認すると、戻ってきて溜め息を吐いた。
『デカい南京錠のせいで外に出れない。監禁されてたんだな、俺たち……』
「あのさ、僕がいた世界ってオオカミが言葉を話せたり空飛んだり出来るんだっけ? ごめん、記憶が曖昧で……」
『それすらも!? あー、俺はディークっていう動物……生物で! これぐらいは流石に覚えてるぞ畜生!』
願いを叶える代わりに宿主の精神を乗っ取る物だ、とオオカミは説明する。
『俺もここから出たいんだよ。脱出の手伝いくらいは願いとしてカウントしないぜ?』
「ありがと、考えとくよ」
少年は、ベランダに続く窓を開けた。タワーマンションの中層階にあるベランダから階下を見下ろせば、夜風が吹き抜ける暗闇が広がっている。よく目を凝らせば、地上に浮かぶ朧気な街灯の光が、一筋の希望のようにそこかしこに点在していた。
ここから降りたとして、無事ではいられないだろう。
「ここさ、君なら出れるかもしれないけど……。どうする?」
『飛ぶのにも体力使うからなぁ……。それで落ちる危険性もある。ちょっと現実的じゃないわ』
オオカミが答えるが、少年の返答はない。
『おい、聞いてる?』
呆然とした様子で空を見ていた少年は、オオカミの声に我に返った。
「あぁ、うん、ごめん」
『何見てたんだ?』
「ほら、あの月おかしくない?」
見上げた先には、高層ビルが濫造された都会の景色がある。まるで雑木林のようなビルの群れの隙間に、赤黒い球体があった。
『えっ、あれ月か……? なんかのオブジェみたいなやつじゃねぇの?』
よく見れば、青白い月はさらに上空に鎮座していた。
月の存在を知っているにも関わらず、少年は赤黒の球体を月と認識した。違和感は感じず、強い興味だけが残っている。脳細胞のエンジンがわずかに動き、少年は目を見張った。
「月だ……あの月だよ!!」
『えっ?』
「あの月に向かえば、僕の記憶は戻る気がするんだ!」
『何言ってんのお前……』
少年は居ても立ってもいられず、手すりを乗り越えようとした。
『待て、待てって! ストップ!!』
オオカミが必死に止め、少年はリビングに押し戻される。
『まったく、ヤバイ奴引き当てたよ……』
『な、落ち着けって……。とりあえず出よう。その後に月にでも向かえばいいじゃん!』
「お騒がせしました……」
少年は我に返り、再び脱出の方法を考え始める。カーペットに
「錠前、壊さない?」
『……ごめん、もう一回言って?』
玄関に向かい、ドアチェーンに掛けられた大きな南京錠を見ながら、オオカミは茶化すように尋ねた。
『実は記憶を失くした空手家だったりした?』
「可能性はなくはないじゃん」
『何なら、俺の能力くらいは貸すぞ? 物体をこわ……』
静かに錠前が落ちた。少年が触れた瞬間に錆びついたそれを見つめながら、オオカミはしきりに首を傾げている。
『これ、お前の
「ここ、オートロックじゃないんだ。意外と不便だね」
エレベーターを降り、無人のエントランスに着く。彼らは人の気配がないことを訝しみながら、監禁されていた部屋の郵便受けを注視した。空のポストからはみ出した紙片が、誰でも取れるように挟まっていたのだ。
「『南雲陽を忘れるな』……なぐも、よう?」
少年は再び脳細胞が活性化する感覚を味わいながら、黙考する。
「これ、僕が記憶を失くす前の名前じゃないかな?」
ここに連れ込まれた際に、自分へのヒントとしてメモを投げ込んだ。大いに有りうることだと少年は考える。耳馴染みのある名前であり、自分が何者であるかを知るヒントになるだろう。
『あー、そうかもな……』
オオカミは頷き、楽しそうに尋ねた。
『それじゃ、ヨウ! お前の願いはなんだ?』
『未来を犠牲にしてでも叶えたい願いはあるか……?』
「そうだねぇ……。あの赤い月まで行って、僕が何者かを知る手伝いをしてくれないか?」
『引き受けた! 願いが叶うまでお供するぜ? 一蓮托生ってやつだ!』
* * *
空気の歪みから顔を出し、何者かが少年たちの後ろ姿を見送る。何者かは身体の全てを出現させ、虚空からスマートフォンを取り出した。
「もしもし、アシタバ製薬さん? スポンサーの部下ですけどー。被検体が二体逃げたんでー、社長に今後の方向性を聞いてもらえると嬉しいですー」
電話を切ると、何者かは楽しそうにニコニコと笑った。
「さて、ぶっ壊すぞー! どかーん!」
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