Lazy Moon

プロローグ

 長髪を結んだ男は、デスクの前で腕を組んだ。ミント菓子の容器を重石に、報告書の山に順番にサインをしていく。


『未来の科学の味はどうだい、社長』

 モニターの中のイルカは、茶化すように笑う。

「劇薬ほど人を惹きつける、って感じだね」

 長髪の男は白衣を背もたれに掛け、背伸びをする。

「それにしても、学会は頭が堅い。伯父さんの気持ちがよくわかるよ……」

 男は首に架けた菱形のロケットを手に取り、祈るように手を合わせる。彼なりの礼拝だ。


 伯父が達成できなかった研究を継ぐ。それが彼の夢だった。各地に点在する神話生物やお伽噺に登場する願望器を実在する生物種だと定義した伯父は、学会から異常者として腫れ物扱いをされ、その業績が世間に知られることはなかった。

 この会社が名を上げることで、伯父の汚名は晴らされる。男はそう信じていた。


芦束あしたば社長、緊急事態です」

 バイオ研究部門のバッジを付けた研究者に肩を叩かれ、若き社長は我に返る。大粒のミント菓子をひとつ口に運ぶと、深刻そうな表情を作る。


「被検体が二体、脱走しました」

「その口ぶりから察するに、オリジナルか?」

 デミ・ディークノアなら即座に射殺許可を命じている。

「クローン警備兵を実践投入する。自立思考の準備は?」

「万全を期しています。それと、逃げたうちの一体ですが、破壊衝動が強く……」

「先生に取り合って発砲許可を貰うよ。ノーとは言えないはずだ」

 直立不動で敬礼をする研究者を出て行かせると、男は背もたれに身体を預け、頬を何度か叩いた。


『あの老害を説き伏せるのは難しいか?』

「口が悪いぞ」

 画面上で尾ビレを揺らすイルカを叱りつけながら、彼は呟く。

「損得勘定でしか動かないリアリストには、メリットを提示すればいいだけだ。むしろ楽なんだけど……進捗の報告がなぁ」

『百年後の技術を持ってしても、不可能なことはあるものだ』

「せめて、あの月を暴けたら勝機は見えてくるんだけど」


 男が指差した大きなアクリル製の窓、その奥で鈍く輝く赤黒い月は、建設途中のタワーの成長を遮るように存在していた。


    *    *    *


「だからさァ、UMAだよ……わかるか?」

「はぁ……」


 古びた雑居ビルの奥、灰江は疲れきったような瞳で編集長を見据える。編集長は興奮に打ち震えながら、観光パンフレット並に拡大されたポラロイド写真を前に語り続ける。


「もう一つの月が出た日に現れた怪物だぜ!? アポカリプスを引き起こす黙示録の獣かもしれない……いや、ノストラダムスの恐怖の大王か!?」

「それをピラミッド・パワーで退治するんですか?」

 灰江は編集長のデスクに置かれたスフィンクスの食玩を見ながら、苦笑する。

「今の話、全くUMAと関係ないですよ……」


 灰江がアルカトピア・ジャーナルの記者を始めたのは、赤黒い月が出てから一ヶ月経ったある日のことだ。

 かつて事件記者をしていた彼は、悪を糾弾することを目的に働いていた。ある事件が起こってからは一時筆を置いたが、彼の熱意は未だ枯れずにいた。

 規制や圧力の少なそうなゴシップ誌に所属を移したが、オカルトじみた陰謀論や興味もないタレントの不倫騒ぎなどを追うことに、釈然としない思いを抱えていたのである。


 改めて写真を見ると、深夜のビル群に溶けるように黒い獅子が立っていることがわかる。不明瞭だが、たくさんの眼のような模様で覆われていた。


「ここって、倒壊した証券会社ビルの近くですよね」

「ああ、きっと株価の大暴落とビルの崩落を予言するために現れたんだわ……」

「ビルの崩落はついでなんですね」


 灰江は資料を一瞥し、海馬の奥底の使わない部分にその情報を叩き込んだ。適当に調査を済ませ、駄賃を貰おう。彼はそう思い、寒空の下の街並みを窓から無為に眺めた。


    *    *    *


「監視役に監視役を付けるというのもおかしな話なんだが、あの件での失態は大きい。わかるね?」

 仮面の奥の眼光が揺らめく。

「まぁ、部下は多い方が良いだろう。喜べ、特対課の直属部下だ!」


 須藤は会釈をし、『先生』の傍らに立つ青年に握手を求める。全身黒ずくめの軍服を着た、大きな瞳が特徴的な青年だ。瞳孔が開いており、規則的に瞬きをする。


「赤間メレオです。ごきげんよう、須藤課長!」


 メレオはしなやかに一礼をすると、口角を上げて白い歯を見せた。挙動のすべてがぎこちない。須藤はそう思う。


「あっ、 捜査官の方が良かったかな……。よし、須藤捜査官!」

「赤間君、本題に移っていいかな?」

「大丈夫ですよー」


 仮面の男は少し不快そうに指で机を叩き、手元の注射器を弄ぶ。


「如何せん、この街のディークノアは不穏な輩が多い。特にスラムの連中と『ディストーション・カルト』は無法者ばかりだ。あんな輩が月に近づければ、アルカトピアは大混乱に陥る。わかるね?」

「ディストーションの新譜ってもう出たんですかねー……」

 高いBPMが特徴的な代表曲のギターリフを鼻歌で奏でるメレオを手で制すると、『先生』は一枚の写真を須藤に見せる。目つきの悪い少年が写っていた。


「この少年を見たら、私に報告を頼む。少し、投資相手とトラブルがあってね……」

「承知しました」


 須藤は深々とお辞儀をする。それに追従するようにメレオも『先生』に一礼をすると、くるりと彼に背を向けた。


 部屋から出た瞬間、須藤は『先生』が自らの腕に注射器を打つ瞬間を見届ける。あの薬品が投資の成果なのだろう。須藤は深く考えるのをやめ、監視役と上手く付き合う方法を考えることにした。

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