すいりゅうさん【微睡】

 いやだよ。



 聞き分けの好いあの子が駄々をこねている。それは滅多にないことで、だからこそ私の胸を締めつける。出来ることならその望みを聞いてやりたい。そもそも、こうなることを私は知っていたのだから。

 しかし、はらはらと崩れてゆくからだを私はどうすることも出来ない。ただ風に舞い、地に砕けて消えてゆく。けれど私は知っている。たとえこの身が消えてしまっても命は繋がれるということを。


「生きてさえいれば、いつかまたまみえる日も来よう」


 泣きじゃくるスイレンに私は言った。それは私の望みでもある。


 いつかまた。


 私の声など届かぬようにスイレンは泣きじゃくっている。いつものようにその頬を口髭でなぞってやりたい。涙が止まるまで、溢れるそれを拭ってやりたい。叶うなら、抱きしめて大丈夫だと囁いてやりたい。

 しかし、私にはもう涙を拭う口髭も抱きしめる腕も無い。


 私は小さな光の珠となってスイレンの指の間を滑り落ちた。

 砕けた鱗が滴となって、私の気に入りの松の木の傍に水溜まりを作っている。光の珠はそれに吸い込まれるように落ちてゆき、深く深く水底に沈む。その水溜まりはとても深かった。平たい地面であったはずのそこが一体どのようにしてそうなったのか、私には分からない。分からないまま私は落ちてゆき、やがて水底に辿り着いた。


 すると私を包むように、あぶくがひとつ、ぽこんと生まれた。それは次から次から湧いてきて、私を包んでは水面みなもへと上がってゆく。水面で弾けたその泡は波紋を作り、そこに映る暗い空を歪める。

 真っ黒な嵐。スイレンの嘆き。


 泣くな。


 泡に包まれる度に薄れてゆく意識のなかで私は呟いた。


 泣くな。私はここにいる。その松の木に下りておいで。ずうっと一緒にいよう。


 泣き叫ぶスイレンを愛しいと思う。甚だ不謹慎だと知りつつ、全てを破壊するほどに求められることに悦びを感じる。

 季節の移ろいに瞳を輝かせる姿を、私のたてがみに頬を埋めた温もりを思い出す。私に伸ばされた手。大好きと弾む声。たくさんの笑顔と、忘れ得ぬ涙。



 微睡まどろみと覚醒を繰り返し、烈しい嵐と切り離された穏やかな水底で、私は少しずつ溶けてゆく。あぶくが私の意識をさらってゆく。決して多くはない私の記憶を奪ってゆく。そのなかで、私はスイレンとの思い出を抱きしめた。

 憶えていると私は誓った。他の何を忘れても、お前のことだけは憶えていよう。


 やがて嵐が収まる頃、最後の泡が水面に上がった。

 光の珠は消えてなくなり、水底には硬い殻に包まれた卵がひとつ残された。

 そして私は、永い永い眠りに落ちた。

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