とかげくん【お別れ】

 低く呻るすいりゅうさんの声が周りの空気を圧しつけて、みんな動けないみたいだ。だけど、ぼくは動ける。ずうっとすいりゅうさんの傍にいたからね。欠伸やときどき漏らす笑い声に、すぐ近くで触れていたからね。

 だからぼくは一歩踏み出しておばさんに向き直った。


「ごめんね、おばさん。でもぼくは行くよ」


 それはもしかしたら裏切りなのかもしれない。

 ずっと育ててくれたおばさんに。いつも愛してくれたおばさんに。きっとこれからも、変わらず愛してくれるおばさんに。ぼくはさよならしようと思う。


「今まで育ててくれてありがとう」


 ぼくは被っていたシーツを脱ぎ捨てた。

 目の覚めるような深い藍。そんな色をしたとかげはいない。もちろん、背中に歪な翼を生やしたとかげもね。

 おばさんが息を呑む。周りを囲んだ皆からは引き攣ったような悲鳴が上がる。


「見て。ぼくはこんなだから、ここに居たらきっとみんなを怯えさせちゃうよ」


 ぼくは笑った。うっかり涙がこぼれないように気をつけなきゃ。おばさんは本当に心配性だからね。


「どんなだって、あなたはあなたよ」


 苦しそうにおばさんが言う。苦しいのはきっと、すいりゅうさんの圧に押さえつけられているからってばかリじゃないね。


 ありがとう。おばさんはきっとそう言ってくれるって信じてた。なのに、今まで打ち明けられなくてごめんね。いつかの約束を守れなくてごめんね。


「ぼくはみんなを食べてないよ」


 それだけは言っておかなくちゃ。おばさんはきっとそんなこと思っていないけど、きちんと言っておかなくちゃ。


「でもね。いつか食べたくなっちゃうのかな、って思うとすごく怖いんだ。だからぼくは逃げ出すよ。ここに居るとぼくもみんなもずっと怯えて暮らさなきゃいけなくなるからね」


 無理に引き上げた口の端が痛い。頬が引きつってヒクヒクする。


「グレン。お父さんになってくれてありがとう。ぼくをお兄ちゃんにしてくれてありがとう。もっと赤ちゃんと遊びたかったな」


 おばさんをよろしくね。

 無理に笑うぼくを勇気づけるみたいに、グレンが手を伸ばしてぼくの頭をくしゃりと撫でる。いつもしてくれていた仕草。ぼくがこんなになっても変わらずにいてくれるひとはいるんだね。


「すいりゅうさんがあんなに呻ってるのに動けるなんて。グレンはやっぱり強いなあ」


 ぼくは笑った。心から。

 大好きなひとたちが、ぼくを好きでいてくれる。だからぼくは頑張れるよ。


 集まったひとたちに向き直る。大切なことを伝えておかなくちゃ。


「みなさん。びっくりさせてごめんなさい。怖がらせてごめんなさい。だけど本当に、ぼくはみんなを食べてないよ。それから、おばさんもグレンも、本当に知らなかったんだよ。ぼくは怖くて、ずっと内緒にしていたから。だから、二人を責めないで」


 ぼくはみんなに頭を下げた。


「それから、これからもぼくは絶対にみんなを食べないよ。水神様が、見張ってるって約束してくれたんだ。だから安心してね」


 今みんなを食べてる奴も絶対退治してみせるから、安心してね。

 それは言わなかったけど、ぼくは決めてる。ぼくを育ててくれたこの村を、今度はぼくが守るんだ。


「じゃあね、おばさん、グレン。今まで本当にありがとう。さようなら」


 ぼくは笑って手を振った。ぼくは醜くなっちゃったけど、最後に憶えていてもらうのは笑っている顔がいい。

 ふわりと浮き上がる。空で待っていてくれる、すいりゅうさんのところまで。


「スイレン」


 おばさんが叫んだ。


「あなたはきっと水蜥蜴だと思っていたから、脱皮をしたらその名で呼ぼうと決めていたの。蛟も水の生き物だから、いいわよね?」


 ぼくは頷いた。涙がこぼれる。こんなぼくに、名前を付けてくれた。


「スイレン。きっと遊びに行くわ。だからさよならは言わない。またね!」


 おばさんの目にも涙が光っている。


「うん」


 ぼくも叫んだ。


「うん。待ってる。またね!」


 すいりゅうさんの口ひげが伸びてきてぼくを絡めとる。ぽおんと背に放って、頬を撫でる。

 ぼくはおばさんに手を振った。またね、って。何度も叫んだ。

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