グレン【母子】

 思えばそこが想いを告げるチャンスだったような気もするが、俺はそうしなかった。ヘタレと言われれば返す言葉もない。だがそのときは、つけ込むようで卑怯な気がしたし、せっかく得られた信頼を揺るがしたくなかった。

 結果俺は、今も「近所のお兄さん」だ。

 しかも、もたもたしているうちにフレアは母親になってしまった。


 フレアの変化は劇的だった。

 蓮っ葉だった言葉遣いが優しいものになり、赤ん坊のペースに合わせてゆったりと過ごすようになった。

 俺にとって幸いだったのは、フレアが手助けを必要とするようになったことだ。自分一人のことなら何でも己でこなせたフレアも、目の離せない赤子を抱いて二人分では何かと手が回らない。俺は頼られれば嬉々として手伝った。惚れた女に頼られて、鼻の下伸ばして何が悪い。


 やがて赤ん坊は子供になり、己の足で歩き始める。言葉を話すようになり、愛らしく笑い、益々フレアの心を掴んでゆく。

 俺はその傍らで父親の真似事みたいな役をこなして、僅かにでも繋がりを持とうとする。

 日々は穏やかに過ぎてゆく。

 それは心地好くて、多少の欲を脇に押し遣ってでも守る価値があるように思えた。




 子供は小柄で、ときどき揶揄からかわれるようになった。たちの悪いことを言うやからもいて、酷いことになる前にひと言釘を刺しておこうと俺は思った。その俺の手をフレアが掴む。


「やめてちょうだい」


 放っておけとフレアは言う。あの子はちゃんと乗り越えられると。

 泣いているのを知っていても、知らない振りでフレアは過ごした。上手く出来たことがあれば褒めてやり、悪いことをすれば叱り、頬に触れぎゅっと抱き締めて、可笑しいことがあれば顔を見合わせて声を出して笑った。


 フレアはこれといって特別なことは何もしなかった。ただ、子供を愛し、それを態度で示しただけだ。

 子供は暫く泣いて過ごし、次にいかり、やがて何かを悟ったようだった。

 本当に、一人でちゃんと乗り越えた。


 しかし、独りではないのだと俺には分かる。

 傍らには常にフレアが在った。己を認めてくれるひとが居ることが、愛してくれるひとが居ることが、どれ程あの子の力になっただろうか。


 ふたりが笑う。

 頬を寄せて。瞳を輝かせて。


 紗のかかった、美しい光景。


 それを守りたいと思う。

 あわよくば俺も混ざりたいと望むのは、無理な相談だろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る