コール

世界三大〇〇

しゅんぺいくーん!

 頭の良さと足の速さは、小学生のモテ要素だ。俊平は頭が良い。学校の成績は常に1番だった。俊平は足が速い。伊東中野小学校運動会の100メートル走では、ブッチギリの1等賞を6年続けた。


 だから俊平は、伊中小の児童や保護者なら、誰もが知っている有名人だった。


 俊平は、頑張ることが一番大切なことなんだなどと言っては、いつも周りを励ましていた。頭が良いからといって、足が速いからといって、鼻にかけることもしなかった。そう、俊平は、性格も良く出来たスーパー小学生なのだ。


 だから、俊平の周りはいつも笑顔が絶えなかった。そして、男子より少しだけ早く年頃を迎えた女の子達からも人気があった。


 太田可憐も、俊平に夢中な女子の1人だった。だが、人気者の俊平には近寄り難く、いつも遠くから眺めているだけだった。


 そんな太田に、親友の千葉真琴が極秘情報をもたらした。明日の市民駅伝大会に俊平が出場するというのだ。2人は応援のための下見をすることとなった。


「この辺りが良いんじゃないかしら」

「でも、カーブの外側だとあまり近くを通らないかもしれないわ」

「それもそうね。だけどここからだと走って来るのを正面から見れるはずよ」


 その場所からは、300メートルに渡って走路が見渡せた。実は最も人気のある応援スポットの1つだった。穴場を探し、ひっそりと応援するつもりだった2人だが、選んだ場所は皆と同じ場所だったという訳だ。


 その場所に決めた2人は、次の準備に取り掛かった。


 太田は持ってきたスケッチブックを広げた。その視線の先には、俊平が走ることになる道があった。写真ではなくスケッチを残す。それが太田なりの思い出作りなのだ。


 そして千葉の役割は、太田が絵を描き易いようにすること。得意のダンスで視線を誘導しようというわけだ。踊れる広さに合わせて、何種類かのパフォーマンスをシミュレーションした。


 5時を告げるチャイムが市内全域に鳴り響いても、2人は気付かなかった。6時を過ぎて辺りが真っ暗になり、ようやく2人は帰宅することにした。




 ドン・ドン・ドン・ドン・ドンー


 五段雷が、駅伝大会の開始を告げた。選手達はもちろん、応援のために沿道に集まった市民達の準備も整っていた。優勝候補は海岸北小学校Aチーム。伊東中野小学校は2位候補だった。


『さあ、スタートまで後5分! 提供は、伊東温泉組合です』


 市内のFM局の実況放送も始まった。千葉はダンスの練習をしながら時折、その様子を太田に伝えた。太田は、まだ誰もいない走路のスケッチに夢中だった。だから、素っ気なく返事を返すだけだった。


「3区の敦志ったら、4位だって」

「敦志君、泳ぐの速いけど足遅いもの」


 伊中小チームは大苦戦だった。優勝を争うどころか、どんどん順位を下げていった。このままでは、2位もままならない。折り返した後も調子は上がらず、気が付けばトップの北小との差は40秒にまでなっていた。


「あちゃー、8区は6位。広高のやつ、2人に抜かれたみたい」

「……」


 千葉は、実況を聴いて一喜一憂していた。といっても、一憂の方が断トツに多いのだった。太田も、時々返事をするのだが、基本的にはチームの順位には関心が無かった。最高のスケッチを残すこと。それだけに拘っていた。




 勝負の流れが変わったのは、9区だった。どのチームも女子が走ることになっていた。伊中小からは、5年生の田中が出場していた。


「田中さん、今4位だって!」


 単純に喜ぶ千葉に対して、太田は少し複雑な気持ちでいた。田中は、運動をしているが髪は長く、細身で足が長い。それでいて色白ときている。だから、同級生はもちろん、6年生の男子にも人気が高い。器量の良いお嬢さんなのだ。


 さらに、俊平と同じ野球チームに所属していて、俊平の隣に住んでいる。親も公認の兄妹のような仲なのだ。


 それだけではない。今回の駅伝にも、裏情報がある。


 はじめに広高が田中を誘った時は、田中は断ったというのだ。それでも諦めきれない広高が、敦志を誘い、敦志が俊平を誘った。そして俊平が田中を誘ったところ、あっさり承諾したというのだ。


 人気者の2人がくっついたのでは、引っ込み思案な太田には、到底勝ち目がない。入り込む隙間さえ無いのだ。だから、そんな田中の活躍を、素直に喜べないのだった。


 田中は、一度は2位まで上がったものの、結局3位で俊平に襷を渡した。それでも北小とは20秒差まで追いついていた。


「いよいよ俊平君の出番よ」


 その言葉に、太田の表情も引き締まった。後10分程で目の前を俊平が走ることになる。糸が張り詰めたように緊張した。


 太田は、千葉にしばらくは実況を聞くのをやめようと話した。遠く見えないところのことより、目の前で起こることに集中したいのだ。千葉も了解し、しばらくは黙って走路を見守ることにした。


 それから5分の間に、応援する人がどんどん増えてきた。それまで家の中にいた人や、他の区間で応援していた人が、集まってきたのだ。いつの間にか沿道を人が埋め尽くしていた。そのほとんどが、北小の応援団だった。


「これじゃあ、踊れないわ」


 千葉は、ダンスを披露するのを諦めた。


 北小の応援団は用意が良く、皆でお揃いの旗を持っていた。これなら走者にも応援が目につく。頑張れというメッセージがはっきりと伝わる。さすがは優勝候補である。


 対して伊中小は、皆個人で応援している。組織だった応援というものはないのだ。これだけ見ても、北小の伝統というものが分かる。この1戦にかけた熱い情熱が伝わってくる。


 太田は、なんだか恥ずかしくなった。さわやかなスポーツの一場面を切り取る応援に、恋愛などという邪な感情で参加しているように思えたからだ。


 ー頑張れー


 300メートルも先から大歓声が沸き起こった。選手達が直ぐ近くまで来ている証拠だった。太田からも、誰かが走っているのは分かった。しかし、それが俊平であるという確証がなかった。なんだか違う気もするのだ。


 旗が大きく揺れ動いているからだ。北小の選手に違いないのだ。そして、走る人影が2人に増えた。後ろに控えていた選手が、ここが抜きどころと勝負に出たのだ。一際大きな歓声が、コンマ数秒遅れてやってきた。


 2人が並んでいるようでもあり、後から来た選手が抜いたようでもあり、前を走っていた選手が踏ん張っているようでもあった。まだ距離があり、太田からではその判別がつかなかった。


 しかし、ここまで来て分かったのは、先に見えた右側を走っているのが俊平だということだった。どうやら俊平は、少なくとも一度は先頭に立ったようだ。


「どうしよう。俊平君、抜かれちゃう」


 太田は困惑していた。自分の目の前で俊平が抜かれてしまうことも考えられた。もっと最悪なのが、既に抜かれていることだ。いずれにせよピンチに立たされた俊平に、何をしてあげれば良いのか、太田には分からなかった。


 俊平はどんどん近づいてくる。歓声は声の判別が出来ない程混ざり合って大きくなっていった。


「行け行け!」

「腕を大きく振れー」

「北小、ファイトー」

「伊中小、頑張れー」


 目の前まであと100メートル。そこまで来て優勢なのが北小の選手だということが、はっきりとした。北小の選手は徐々に右側、次の角の内側へと進路を変える。重なる部分がどんどん増えていく。


 遂には俊平の姿が太田からは分からなくなってしまった。


「しゅんぺいくーん!」


 たった一度だけ、太田は思わず叫んでしまった。大きくて澄んだ声だった。頑張れとも、何とも言わず、ただ俊平の名だけを叫んだ。顔から火が出るほど恥ずかしい。だからその後は、ただ祈るようにして俊平のいる方を見つめるだけだった。


 歓声は俊平の耳にはっきりと届いた。自分の名前ほど聞き取り易い音はない。


 勝利という宿命を背負って走る北小の選手にとっては『北小』というキーワードは大きく身を奮い立たせるものである。チームへの帰属意識が高いから。


 俊平にはそれがない。急造チームなのだから当たり前。伊中小と言われても反応は薄かった。だが、俊平という自分の名を叫ばれたことは大きな力となった。俊平は大きく左に体を持って行き、強引に前を行く北小の選手を抜いた。


 そして、太田の目の前を通過したその瞬間、俊平は確かに先頭を走っていた。


(しゅんぺいくん、あんなに頑張って!)


 その後も、俊平と北小の選手とのデッドヒートは続いた。勝負は市民グラウンドまで縺れた。結局俊平は区間賞ながらも、伊中小は2位に甘んじた。地力に勝る北小が優勝したのだ。




 翌日の全校集会では、選手達の活躍が報告された。10人の選手達が壇上に立った。代表して挨拶をしたのは俊平だった。その横には田中がいた。太田は、複雑な気持ちを隠して、2人を見つめた。


 俊平は、全校生徒を前にして、誰かが名前を呼んでくれたことが励みになったのだと話した。本当は太田だと分かっていたが、誰かなどと言った。何だか照れくさかった。太田の名を出しては、太田に迷惑をかけるかもしれない。


 それでも太田はうれしかった。少なくとも自分の応援が無駄ではなかったということが分かったからだ。だから、はじめに思い描いていた構図とは全く異なる絵を描くことに決めた。


 自分が叫び、それに応えるように奮い立つ俊平の姿を描いた。傑作だった。だが太田には、ほんの少しだけ勇気がなかった。いつまで経っても、その絵を俊平に渡すことが出来なかった。


 太田の淡い恋は終わりを遂げた。それは、俊平にとっても同じだった。

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