第2話 蓮の学校生活

「だめだ、先生が来ちゃう。蓮(れん)くんごめんね、あとでわたすね」

 なぜかとても熱心に、きれいに地図を書こうと奮闘していた陽菜(はるな)は、授業開始のチャイムが鳴るとあわてて地図を机の中にしまった。

 そんなにていねいじゃなくてもいいよと言ったのだが、陽菜は蓮くんが迷ったら困るからと、聞かなかった。蓮の持っている携帯が、スマホではなく、子供用の、機能を制限した物だったというのもあるのだろう。

 ただ、宇宙からやってきた文明観察調査員の蓮には、調べる手段が他にあるので、そこまでしてもらわなくてもだいじょうぶだったのだが。でも、それを告げるわけにもいかないので、だまって陽菜の作業を見つめていたのである。

「はい、それでは算数の授業を始めます。今日はこの前の続きで、速さの問題ね。みんな教科書を開いてー」

 先生が教室にもどってきて、授業が始まった。

 蓮の中身はただの子供ではなく宇宙人だ。しかも、高度な専門教育を受けたスペシャリストである。こんな単純な等速直線運動の速さの問題どころか、いくつも重力源がある中で亜光速域でのローレンツ収縮の影響だって、頭の中で概算できるレベルだ。

「じゃあ、いいですか? 川に橋がわたしてあって、橋の長さは五百メートル。電車は一両二十メートルの八両編成。時速七十二キロメートルで走っていたとすると、わたり始めてからわたり切るまでに、何秒かかるでしょう」

 三十三秒。即答である。

 このように蓮にとっては初歩の初歩の授業なのだが、では小学生向けの内容が退屈なのかと言えば、必ずしもそうでもない。

 確かに算数は退屈だ。算数は、宇宙人それぞれの体の構造によって数の数え方が違ったりする。地球人の十進法は、手の指が十本でそれが数えやすいからだ。だが数学的な考え方は宇宙共通だ。論理的に考えていけば必然的に同じ結論にたどり着くのだ。だから今のように、蓮の知っていることの、初歩の初歩しか出てこない。

 だが社会の授業はちがう。国の仕組みはそれぞれ。星がちがえばなおさらだ。蓮にとっても初めて耳にすることが多い。それにまさに、蓮のこの星にいる目的、地球文明の観察という点にも合っている。その基本的知識を学ぶことができるのだから、授業はとても興味深かった。

 国語も、その国に住んでいる人の考え方がわかって面白い。合理的判断が苦手で、感情に流されやすいという、蓮の地球人評は、ここでも裏付けられていた。教科書にはそんな話ばかりのっている。

 理科は、電気や磁石などの物理分野、そして化学の分野は宇宙共通だが、生物は当然その星固有のものとなる。こちらは専門の調査チームがあるのだが、蓮も興味のある分野だった。

 というわけで、蓮は学校の授業をとても熱心に受けていた。

 しかし、まじめに受けているだけに、不満もあった。

 効率がとても悪いのだ。

 そもそも新しいことがらを飲みこむ速さには個人差がある。なのに近所の子供を一ヶ所に集めて授業をする。これは授業をする側の効率のみを考えていて、される側にとってはマイナスだ。

 得意な子にとっては授業はおそすぎ退屈で、苦手な子にとっては速すぎ、飲みこんで理解する前に次に進んでしまう。

 蓮にとって簡単過ぎるのは仕方ない。まさか先生も、生徒の中に宇宙人が混じっているなんて思ってもいないだろう。だが他の地球人の子供たちの間でも差は明らかだった。

 左どなりの陽菜は、問題をすぐ解き終えてしまい、今はひまをもてあましている。

 逆に右どなりの野呂美弥(のろ・みや)にとっては、勉強は難しいものだろう。まじめな子なのだが、理解力に優れているとは言えない。だからいつも完全に理解する前に話が先に進んでしまい、困った顔でそれを見送っているのだった。

 だが美弥はまだがんばっている方だ。もう一つ向こうの加賀茉里香(かが・まりか)は、問題を解いているのかと思いきや、早々にあきらめてノートのすみに落書きをしているし。

 その前の徳田龍也(とくだ・りゅうや)にいたっては、まったく勉強に身が入らず、ひたすらペン回しとペンの分解にはげんでいる。茉里香の落書きは、万が一には将来の仕事につながるかもしれないが、龍也のペン回しはどんなにたくみに熟練しても、彼の将来にはつながらず、社会を救うこともないだろう。

 このように教室中で、大いなる無駄が蔓延しているのだ。教育はその社会の将来に多大な影響をあたえる。この無駄は排除すべきもののはずだ。

 さらに言うと、一ヶ所に集めて一人の先生が勉強を教える場合、その先生の適性が問題になってくる。

 この国の教育制度では、とちゅうから文系と理系に別れ、科学、数学に対する教育を受けるかどうか、本人が選んでいくようだ。担任の橘真穂(たちばな・まほ)先生は文系で、科学、数学の知識が少しあやしい。教科書の内容以外の子供の好奇心に、適切に応えられない。

 さらに言うと、まだ若く経験不足で、本人の性格も気弱なので、ちょっとたよりない。「まほちん先生」などと呼ばれているようでは、悪知恵をつけ始めた子供たちを統率下に置くのは難しい。

 そんなクラスでの授業中、蓮にとって難しいのは、どうふるまうかだった。

 蓮は観察者として地球に派遣されている。だからその観察対象に影響をあたえてはいけない。観察結果が変わってきてしまうからだ。

 つまり、とにかく目立ってはいけない。空気のようにとけこんで、いるのかいないのか、わからないぐらいが望ましい。勉強内容がすべてわかっていても、頭のいい子と目立つのをさけるため、適度にまちがえなくてはいけないのだ。

 蓮は最初のうち、いくどかその判断をまちがえて目立ってしまった。一番ひどかったのは、理科の授業中。

「はい、このように、おイモにヨウ素液をかけると、青紫色になります。これは何でだったかな。えーと、それじゃ、蓮くん」

 先生の期待していた答えは「デンプンがあるから」だ。しかし、蓮が答えたのは。

「イモ類にふくまれるデンプンは、糖が連なる細長い分子でらせん状になっており、そこにヨウ素分子がはまりこむことにより呈色するためです。また、青紫と言いますが、色は分子の長さにしたがっていて……」

 ここまで答えて、先生や周りの子供たちが、あっけに取られているのに気がついた。

「……と、姉が言っていました。そちら方面の仕事なので」

「そ、そう、お姉さん専門家なのね。すごいね。それを覚えてる蓮くんもえらいね。えーとえーとそれじゃ」

 予想外の解答に、先生はしどろもどろ。いつもちらちらノートに視線を走らせているところを見ると、まじめな先生は事前に授業の問答のプランをしっかり立てているらしい。その心がけは立派だが、アドリブに弱いのは教師としては欠点だ。

 しかしその点は蓮もほめられたものではない。今の明らかに人目を引いたあとの言い訳は、いかにも苦しかった。

 最初のうちにはこういうことがちょくちょくあった。頭がいいのかと思いきや、わざと簡単な問題もまちがえるものだから、先ほどの陽菜の「何を考えているのかわからない」という評価につながっている。理想的な目立たないポジションは難しかったが、何とかその範囲に持ちこみ直したいと、蓮は思っていた。

 しかし、目立たないためには、蓮には大きなハンデがあった。その見た目だ。

 とても整った、端正な顔立ち。純和風の美少年なのだ。

 これは蓮の落ち度ではなく、支援スタッフの見こみちがいだった。

 蓮はウラルトリル人だ。ウラルトリル人には一つ、めずらしい特徴がある。他の遺伝子を取り入れて、姿を変えることができるのだ。

 つまり本来は地球人とちがう姿。地球人が見たらぬいぐるみみたいと言うかもしれない、もこもこふわふわした姿だ。ウラルトリル星は弱々しくかがやく赤色矮星の連星で、その周りをめぐるウラルトリル人の住む惑星は地球よりずっと太陽に近く、そのため一年が短い。さらに連星ということもあって季節の変化が激しいので、姿形を変えて、それに対応できるように進化した。それが変身能力である。

 その特徴を応用し、遺伝子を取り入れて、地球人そっくりに変身している。こういう潜入調査にはうってつけで、銀河でも有数のスペシャリストだった。

 ところが今回は、取りこむ遺伝子を準備する段階で、大きなミスを犯した。緊急の調査で準備期間が取れなかったのも痛かった。

 目立たないために、この地域の住民の、一番平均的な姿を再現して作られた。ところがこれに問題があったのだ。

 一番平均的な外見のはずなのに、「顔がいい」と認識されてしまうのだ。

 例えば、目と目の間隔、鼻の高さや長さ、眉の幅など、すべて平均値に基づいて顔を作った。だがこの「その集団における平均値」は、「遺伝的変異の少なさ」、つまりより健全な遺伝子を持っている証ととらえられ、本能的に好ましいと見られてしまうようなのだ。整った顔立ち、つまり顔のつくりに「ずれ」がない、ということは他の遺伝子にも「ずれ」がないはず、とヒトの動物としての本能がささやくらしい。

 いくらでも姿を変えられるウラルトリル人にとっては、外見はさほど重要ではない。なので、「顔がいい」と見なされることが、これほどの騒動を招くと思っていなかった。

「ねえ、どこから来たの?」

「どこに住んでるの?」

 まず興味を抱いた子供たち、特に女の子の質問攻めにあった。

 しかも不思議なもので、顔がいいと、同時に頭もよく身体能力も高いことが期待されるようだ。ぴったり平均的な能力に設定したら、「佐藤くんってもっと頭よさそうなのに」と言われてしまった。ここでも目立たない不自然ではない範囲に収めるのに苦労する。

 地球人調査の予算も無制限ではない。だからその姿が思惑とちがって目立ってしまうとわかっても、新しい遺伝子のセットを作り、新しく潜入する場所を決めて、また一からやり直すことはできなかった。

 さらには、調査のための人員も限られているため、一般的な家族構成にすることもできなかった。ここでも不本意ながら目立つことになってしまった。

「え? お姉ちゃんと二人暮しなの?」

 ここに食いついてきたのが、潮見陽菜だった。明るく人見知りしない性格。男女とも明るく接し、面倒見もよく、自然とクラスで目立つポジションにいる。蓮にも最初から親しげに話しかけてきた。

 正直、陽菜と親しくすると目立つので、あまりありがたくなかったが、親切をむげに断ると、またこれも悪目立ちする。

 なので、先ほどの一件もそのままにはできなかったのだ。このあたりのバランスを取る問題は、なかなかなやましい。

 陽菜は席がとなりということもあって、しょっちゅう話しかけてくる。世話焼きな性格もあるから、なおさらだ。蓮が姉と二人暮しというのも、何か複雑で不幸な生い立ちを連想させるのだろう。彼女の世話焼き根性に火をつけた。

 本当は単なる予算不足で、この地域に二人以上の人員をさけなかったからなのだが、それは言えない秘密なので口をにごす。それがますます想像をかきたてるという悪循環だ。

 どうやら「不幸な生い立ちで、口数も少なく、ひかえめな新しい友人を、クラスに打ち解けられるように面倒を見る」という使命に、陽菜は燃えているようだった。

 次の時間は体育。運動会のリレーの練習だ。

 下駄箱で靴をはき替え校舎から出ようとした蓮は、背中にバーンと強い衝撃を受けた。

「蓮くん元気ないよっ! 気合入れていきなよっ!」

 陽菜だ。リレーで同じチームなのだ。

 陽菜はスキンシップの多いタイプだ。女の子とじゃれあってはよくだきついているし、男の子とはこうして気合を入れるハイタッチやハイクロスをよく行っている。オープンな性格がよく表れている行為だ。

「どうも蓮くんは勝負に淡白なところがあるよね! でもこれはクラス対抗なんだから、がんばってくれないと困るよっ!」

 鼻息荒くまくし立てられた。

 むしろお前が気合入りすぎだろ、と突っこみたくなったが、ひかえておく。

 とにかく蓮は目立つわけにはいかないのだ。だからリレーにも力を入れられないのである。

 変身にともなって、蓮の体も人間と同じようになっている。外見も中身も、ぱっと見にはちがいはない。例えばレントゲン写真をとってもわからないし、何かで手術をしたとしても、執刀した医師が気づくことはないだろう。

 しかし完全に地球人と同じになっているわけではない。一見ふつうの細胞と見分けがつかないように偽装されたバイオチップが、体の各所にしこまれていて、人間以上の能力を発揮することができる。不測の事態におちいった時、自分の身を守ったり、仲間を助けたりできるようにするのが目的だ。実は体力的には、地球人の大人をはるかに上回っているのだ。

 しかし、それを見せつけてしまったら、目立つことこの上ない。

 当然ふだんは常に力をおさえてして暮らしていた。この様子を陽菜は「勝負に淡白」と言っているわけだ。

 なかなかするどい観察眼を持っていると、蓮は感心した。そして、まちがって正体を知られないようにしないといけないと、気を引きしめた。

 正体を知られた場合、記憶を消去する処理をしなくてはいけない。それは成長過程にある子供の脳に影響がないとは言い切れない。つかずはなれず、ほどほどの距離でつきあうのが、おたがいのためだ。

リレーの練習が始まった。力をおさえながら参加している蓮だったが、競技自体には興味を覚えていた。

 リレーは単に走者の走力の足し算ではない。バトンをわたすところでいかにスムーズにつなげるか、そこに妙味があるようだった。静止状態から加速していく次走者が、そのスピードを落とすことなくうまくバトンを受け取れると、そのままスムーズにスピードに乗れる。

 そこで加速が足りなかったり、逆に速すぎて前走者が追いつけずスピードをゆるめることになったりすると、大きなタイムロスになる。

 二人の走者の呼吸の合わせ方が大切で、それが教育現場でこの競技が採用されている理由でもあろう。他者を観察し協調行動をとることは、その社会をよりよく発展させるために必要なことだからだ。

 さっきの算数の授業ではまったくやる気のなかった龍也が、コーナーを全力で回ってくる。勉強にはさっぱり身の入らない龍也だが、こういうみんなでやるイベントには、人一倍やる気を見せる。それも面白いところだ。

 蓮は龍也からバトンを受け取りながら、そんなことを思っていた。

 相変わらず、自分は力をおさえたままだったけれど。

 体育の授業が終わったあと、陽菜にちくりと言われたのは、言うまでもない。


 体育の授業で運動すれば、おなかがすく。

 ちょうどそこにやってくるのが、給食の時間だ。

 学校全体においしそうなにおいが広まる。汁物の入った大きな容器のふたを取ると、ほわりと白い湯気が立ちのぼり、それがまた食欲をそそる。

 かっぽう着を着た給食係が、おわんにその汁物をよそっていく。他のおかずやご飯も次々と盛られ、それをみんな並んで自分のおぼんに受け取っていく。

 地球人そっくりの姿に変身した蓮だが、それは姿だけのことで、体の仕組みから何もかもが同じになったわけではない。特に体の中で起きている反応、代謝は、そう簡単に変えることはできない。そうすると、食べ物には注意しないといけない、ということになる。

 何を食べたらそれが体にとって毒になるのかは、地球上の生物同士でさえちがうことがある。例えばチョコレートの苦味成分テオブロミンは、人間は平気だけれど、それを分解する代謝速度のおそい犬では中毒を起こす。他にも犬にあたえてはいけない食材はいくつもあるし、猫だって同様だ。さらに生まれた星のちがう異星人ともなれば、何が毒なのか、注意して注意しすぎるということはない。

 ただ、幸いなことにウラルトリル人と地球人の間には、そう大きなちがいはなかった。消化器官にうめこんだバイオチップで、いくつかの酵素を作り出せば、それで事足りた。

 それは面倒を起こさないという以上に、うれしいことだった。

 地球の食べ物は、なかなかおいしかったからだ。

 蓮の母星では食料は人工合成したものが基本だ。栄養面では完璧、味も自由にコントロールできる。なので蓮はそれまで特に不満もなくすごしていた。

 ところが地球に来て以来、どうも地球の食事と比べると、合成食料は味が単調な気がしている。

 最初はおくれた星の食べ物に偏見を持っていた。実際の生物を飼育、栽培、採取しているから、生産方法は宇宙人の蓮から見れば不衛生に思えるし、品質も個体差があってばらばらだ。家では母船から運んできた合成食料が食べられるが、外ではそうはいかない。それはがまんしないといけないなと思っていた。

 それが今では逆だ。その品質がばらばらであることが、複雑な味わいを作り出していると感じていた。がまんしなければいけないと思っていた給食の時間が、今や一番の楽しみなのだ。

 今日のメニューは、グリンピースご飯、さつま汁、鮭ののっけ焼き、ほうれん草とじゃこのおひたし、プルーン、牛乳。この国伝来の料理を基本として、ちょっとアクセントがつけてある。

 この国は他国の食文化を取り入れることに抵抗が少なく、そのためとても豊かな食文化が形成されている。他の地域の観察者の話を聞いても、食生活についてはめぐまれているようだ。学校給食もかなりおいしい。

 鮭の上にはポテトとマヨネーズを和えたもの。それをオーブンで焼いて、焼き色がついている。

 一口分ほぐして、口に運ぶ。

 鮭のうまみ、ポテトのほくほく感、マヨネーズのまろやかさ。いくつもの味や食感が口の中で混じりあい、脳にその刺激が伝わる。

 一言で言えばおいしい。

 ご飯を一口食べる。

 よくかむと、ご飯のあまみがじんわり広がり、そこにグリンピースの塩味がアクセントをつける。

 ちりめんじゃことほうれん草のおひたしは、そのグリンピースご飯に合う。なんとも食が進む。

 さつま汁にも口をつける。具だくさんで、そこから染み出たうまみが、じわっと胃の中にまで広まるようだ。

 蓮は一口一口、しっかりと味わった。

「ごちそうさまでした」

 今日も満足して食べ終わり、手を合わせる。

「れんー! 食べ終わったらサッカーしねえ?」

 クラスメイトにおさそいを受ける。

「ああ、いいよ」

 給食の食器を下げようと、トレイを手に取って立ち上がったその時。

「あんた、まだそれっぽっちしか食べてないの。早くしてよね。給食当番、私たちなんだから」

 となりからとげとげしい声がした。

 金井梨花(かない・りか)と安原杏(やすはら・あん)が、野呂美弥のとなりに立っている。美弥の手元を見ると、給食はまだ半分以上残っていた。

 ああ、そう言えばと、蓮は思い出した。

 美弥は野菜が苦手なのだ。それに加えて元々おっとりしていて、食べるのもおそい。

 野菜ぎらいに関しては、蓮にも身に覚えがある。単に好ききらいということではない。野菜は実は毒を持っているのである。

 子供に野菜ぎらいが多いのは、野菜に苦味があるからだが、この苦味は毒の印だ。今日の献立で言えば、ほうれん草のおひたし。ほうれん草の苦味やえぐ味の正体は、シュウ酸だ。日本でも劇薬指定されている本物の毒で、子供だと十グラムほどで死に至る。

 この物質は、植物が虫などに食べられないよう、防御のために作り出しているものだ。実際には、それだけの量を取るためには生のほうれん草を一キロ以上食べなければならないので、ちょっと口にしたぐらいで死ぬことはない。だが、そういう物質がふくまれていることが、「食べるな」というおどしになる。

 だから「野菜は苦いからきらい」というのは、そのおどしを正確に知覚できている、ということなのだ。

 蓮も最初は、毒の成分をふくむものを食べていいのか、ととまどった。合成食料に慣れているので、毒とわかっている成分を口にすることはないからだ。

 しかし、となりの陽菜が「あれ、蓮くん、野菜きらいなの?」などと聞いてくるものだから、食べないわけにはいかなかった。「野菜ぎらいの蓮くん」などという目立つ特徴を持つわけにはいかない。最初は食べるのに覚悟がいったものだ。

 ところが最近では、この苦味がアクセントになって食事の味わいを深めているのではないか、と思うほどになっていた。今日のほうれん草とじゃこのおひたしも、先ほどの通り、ご飯が進むなあと思って食べていた。

 だが、まだ美弥はその境地には達していないようだ。苦しそうにグリンピースご飯を口に運ぶ。グリンピースも、もそもそとして、あまり子供には人気のない食材だ。その様子に、苦々しげに梨花と杏が口を出す。

「ちょっと、わざと? そんなんじゃ、いつまでたっても食べ終わらないでしょうよ。ほら、もっとがばっと行けよ」

「ほんと、あんたはノロ子だよね。かしな、こんぐらい一気に食べなよ」

 杏はスプーンをうばい取り、ざっくりすくうと、それをむりやり美弥の口におしこもうとした。


 これはよく見られる行動パターン。いわゆるいじめである。


 梨花と杏はクラスの中で、ひんぱんにこの行動に出る。対象は、集団の中で弱い立場にある者。性格的におとなしい子、力が弱かったり、気が弱かったりする子だ。

 蓮は観察者として、この行動に大きくマイナスをつけた。

 集団の中で弱い対象を威嚇し、自分の地位を高めようとするのは、群れを作る動物ではよくある行動だ。だからこそ、宇宙文明の担い手としての評価は下がる。動物からぬけ出せていない知性に、その資格はないのだ。

 集団内での地位争いに多くのエネルギーをさけば、当然、その集団の力は弱くなる。全体を見わたせる知性があれば、構成員それぞれの力を最大限に引き出すのが最も重要と、気づいてしかるべきなのだ。

 知性が本能に負けている姿は大きな減点対象で、梨花と杏はその常習者だった。

 さて、今ここには、さらにもう一つ問題があった。

 観察者である蓮は不介入が基本だ。とにかく観察対象に手を出してはいけない。このいじめ行動もそういう観察対象である以上、干渉してはいけない。

 しかし反面、目の前でこれだけあからさまな行為に出られた場合、もう一つの注意事項、目立ってはいけないという項目に引っかかる。

 目の前で起きるいじめに対し、どう対応すれば一番目立たないでいられるかは、大きな問題だ。厳しい抗議も、まったくの黙殺も、どちらも人目を引くだろう。このさじ加減が難しい。

 その辺りの注意事項を確認し、二つの項目の間で落としどころを考えた結果、行動を起こすことに決める。ちなみにいろいろ考えているが、この間に進んだ時間は一秒以下。熟慮の姿勢がとまどっている姿と思われぬよう、瞬時に計算をしていた。

 だから、蓮はおどろいたのだ。

「おい……」

 蓮が声をかけようとした時。

「金井さん、安原さん、給食当番、私が代わるよ。遊びに行っていいよ」

 横から陽菜が入ってきた。

「は?」

「何?」

「だから、給食当番代わるよ。あとは給食室に片づければいいんでしょ。私、美弥ちゃんと図書室行きたいから、食べ終わるの待ってるからさ」

 陽菜はにっこり笑って、そう告げた。

 梨花と杏はそんな陽菜を面白くなさそうに見つめると、「じゃ、任せるわ」と言って、去っていった。明らかにお楽しみをじゃまされて不満げだ。この光景はよく見かける。あの二人がいじめ、陽菜が割って入る。

 それにしても、とっさにあれだけのことが言えるのは、さすがだ。そばにいてすぐに気づいた蓮よりも早かった。梨花、杏の作った地球人の評価のマイナスを、陽菜がプラスをかせいでだいぶうめた感じになった。

「陽菜ちゃん、ごめんね……ありがとう」

 美弥がおずおずと感謝の言葉を述べる。

「いいよ、いいよー。それよりさ、早く食べて、本当に図書室行こうよ。朝読書の時間の本、読み終わっちゃったから、美弥ちゃんにおすすめ教えてほしいんだー。美弥ちゃん、たくさん本読んでるでしょ?」

 陽菜は美弥にもさらりと告げる。

 これが美弥に気をつかわせないためにとっさに出たうそだと、蓮は知っている。美弥は気づいていないようだが、さっきまで、陽菜も外に行こうと準備していたからだ。

 本当にたいしたものだと感心しながら、蓮は校庭に向かった。

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