第六章「ナミ」終章

 バリからの帰国後二ヶ月が過ぎ、日焼けの跡もとうとう消えてしまった。

喜怒哀楽がストレートに出てしまったり、買い物の時の値切り癖がなかなか取れなくて困ったりという、

バリ後遺症も、何とか落ち着いてきた。


 帰国してアパートに帰り着き、びっくりしたこと。

畳の色、曇り空の色、窓の外の人々の服装の色・・・

日本には今まで気づかなかったが、数多くの種類の、決して強烈ではないが、

繊細で豊かな色彩が溢れていることを再発見した。

旅に出る前、いかに自分が身の回りに無関心になっていたか、身に染みてよくわかる。


 スナの作品集出版の契約を無事取り付けたおかげで、

私の、仕事上の待遇は少し変った。正社員登用の話も上がったが、

すっかりバリナイズされてアバウト感覚が楽になってしまった身には、

責任の重い待遇は気が進まないので丁重にお断りをした。

それでもフリーでバリ絵画や民族音楽の解説文執筆の仕事が入り、

何とか食いつないでいけそうな目途がついた。




 時々スナという存在のことを、しみじみ考える。

死んだ恋人の面影を彼に重ねてひと時を過ごした。

そんな現実逃避的な日々でありながら、まったく虚しさを感じさせない。

彼の不思議な力強さと、その力を身につけるまでに模索し続けたであろう

彼の葛藤の日々を思い、何度も励まされた。

 だけど、バリで過ごした時間の証拠が消え始めた今、

例えば何となく名残惜しくて取らずにいたペディキュアの跡が剥げきってしまったり、

毎朝飲み続けた二缶分のバリコーヒーが底をついたり、

そんな時ふと、スナと過ごした日々は幻だったのではないかという気持ちになり、

どうしようもなくさびしくなる。

 そういう時、二人で見た、バリ最後の朝の太陽を思い出す。

スナに抱かれた夜が明けた、あの朝のこと。

 

 夜は必ず朝に続くものだということを、あの夜明けを見るまで忘れていた。

子供の頃、不眠症気味だった私は、度々、夜が永遠に続くような妄想に襲われた。

窓の外の暗闇は得体のしれぬ様々な何かを内包しているようで、恐怖であると同時にひどく魅惑的だった。

星々や、夜風や、いたずらな妖精や、神様とさえも、話せそうな気がした頃もあった。

灯りを消してベッドに入り、眠りに就くまでの時の中で、不可思議な物語やイメージを空想し始めたのはその頃。

私の今の仕事の原点はあの頃見ていたそういう夢たちかもしれない。




 真砂のどこか非現実的な存在感は、あの頃私が見ていた、

あの甘く魅惑的な異世界、そのものだった。

だから、初めて出会った瞬間、胸が痛くなって、息が止まりそうになった。

彼は私が隠し持っていたと同じ種類の甘い孤独を持つ仲間、もう一人の私、だと思った。

でも、本当は、彼が抱えていた孤独は、私の手には決して触れることのできない、

真夜中より深い暗闇の中にあった。私は彼とともに、そこの住人になることはできない。

人は永遠の夜の中で生き続けることはできない。

どんなに辛い思いで泣き通しても、時が来れば陽が昇り、いつもと同じ朝が来て、

無理やりでも明るい化粧をすれば街に何とか出ていける。

そういう強さを、人間は、みんなちゃんと持っている。

そして少しずつ傷は癒えていき、傷の数だけ、強くなって生きていける。それは“忘れる”のとは、ちょっと違う。





 重い菫色の空が、みるみる甘い薔薇色に変わり、

黄金の矢のような太陽光が雲を破って出現する。

揺れながら、ゆっくりと昇る、大きな、大きな、朝陽。

世界中に繰り返し、繰り返し、新しい朝を連れてくる、

生きとし生けるすべての象徴。燃え盛る炎。

スナと二人、浜辺で抱き合ったまま、その一部始終を見つめていた。

 スナは時々、思い出したように、唇と、胸元のアザに交互にキスをくれる。

「朝陽なんて、こんなにちゃんと見たことなかった」

「マサゴも、そう言ってた。でも見るのがしんどいとも言ってた。

いつまで見られるかわからないと思うと、感動が重過ぎるって」

「ふーん」

 そういう根っこの部分って、バリに来ても変れなかったんだなあ真砂。

「マサゴって、そういうふうに過去しか見てなかったから、未来に生きていけなかったし、

ミズエは未来しか見ないから、先が真っ暗になると、もう一歩も動けなくなる」

「スナは今しか見ないのね」

「当たり前だ。

確かなものは目の前にあって、手に触れることの出来るものだけだ。

目に見えないものや、終わってしまったことの中には、

尊いものや美しいものもたくさんあるけど、

生きてそこに存在するものに比べたら、大した意味なんてない」

 ああ、スナはやはり真砂ではない。

真砂はもっと、目に見えない淡い幻覚のような世界に近い存在だった。

サンギャンであるスナが、物凄い量渦巻いている

この島の精霊達に取り込まれずに生きていける秘訣は、

そういう心構えにあるのだ。

「たぶん、スナが一番正しいのね」

 スナは首を横に振った。

「マサゴもミズエも、ほんのちょっと生き方を間違えただけなんだ。

そしてね、間違うことは決して罪悪ではない」

 私は小さく、ありがとう、と笑って、そして思い切って言った。

「今日、やっぱり帰る。日本へ」

 スナは大きな口でにっこり笑い、「送るよ」とあっさり言って私の頭を撫でた。

「あきらめたの? 私のこと」

「じゃ、もし帰るな、と言ったら?」

「帰るわ」

「でしょう? だから今は引き留めない。でも僕は、あきらめない。

ミズエには僕が必要だと、いつか必ずミズエにわかる日が来る。

その時までミズエのことを呼び続ける。君が僕を呼べば、必ず僕は君を迎えに行く。

だから、画集出版の件、引き受けるって社長に伝えて」

「本気なの?」

「お金が欲しいんだ。ミズエをこの島で一生幸せに出来るだけの。

その為に新しい絵をたくさん描く。いい絵を、どんどん描く」

「インチキくさいことばっかり言って! もう!」

でも、スナのホラ吹きは何故こんなに力強いのだろう?

「ありがとう! 楽しかった。インチキでも、

私に、心が帰れる場所を与えてくれてありがとう! きっとまた、ここに来るよ」


 空港まで送ってくれたスナと、黙ったまま、一度だけ長い深いキスをして、別れた。







 地上最後の楽園。あの島に真砂の魂が今も生きている。

あの島は、今も地球のあの場所に存在していて、

スナや、心が通じた人々が、きっと元気に生活しているのだろう。

 そう思えば何故か、真砂の存在していないこの世界でも、何とか大丈夫な気持ちになるのだ。





 ところで今朝、とんでもないことがわかった。

 生理が来ない。

 検査薬を手に「たいへんだ」と独り言を言ってみた。

が、悲壮感がない。ただ、途方に暮れていた。「わー、未婚の母かあ」という実感。

 堕ろそうという発想にはどうしてもならない。

今の仕事の量じゃ自分が生きていくのがやっとでしょうが、とか。

このせちがらい現代の日本で育っていく子供の将来がとか。

いろいろ自問自答してみたが、覚悟はびくりとも動かない。

産むことしか考えない。どうやって育てていこうという建設的な悩みばかりがどんどん増していく。この力強さ、ふてぶてしさ。

これを母性と認識するのは甘いか。


 あの日々が。・・・スナと過ごした日々が、

いや、真砂を愛していた日々、今までの私の人生の、悲しみも喜びも虚しさも、

夢ではなかったという確かな証拠。

 何が何でも、どんな手を使ってでも

、産んで、育てる。きっと、何とかなる。何とかする。


 産婦人科から帰り、ポストをのぞくと、底の方に数枚の桜の花びらに包まれて、

エアメイルが一通落ちている。

 ローマ字で書かれた送り主の名は、手に取って裏返す前からわかった。

アトリエで聞いた海鳴りが、耳に蘇える。

 日本の薄灰色の空の下、窓枠に座り、スナからの手紙を開いた。

 生きている人から届く手紙は、温かい、いい匂いがするものだ。


<END>

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癒しの果実 琥珀 燦(こはく あき) @kohaku3753

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