第五章「ハテ」②
「スナ、サンギャンだったんだね。どうして言ってくれなかったの?」
自分から尋ねなかったとはいえ、私はスナ自身のことを何も知らなかった。何だか無性に悔しい気分。
「・・・さあ、そういえば、どうしてだろうね?」
星空を仰ぎながらスナは溜め息混じりに言う。
「敢えて素性を明かす必要が無かったから・・・かな。それとも、サンギャンっていうものが、口でうまく説明できないから、かな」
「自分がサンギャンであることがイヤっていうのはない?」
「・・・少し、あるかも。どうしてそう思うの?」
「村の人に隠れて、絵を描いてたって言ったから。でも、どうしてサンギャンは絵を描いてはいけないの? 霊媒師の描く絵なんて、私はすごく興味あるけど」
「ああ、それはね。描く作業に熱中することで、霊媒能力が落ちるんじゃないかって、みんなが心配していたから、なんだ。・・・描き始めたきっかけはね、まだとても小さかった頃で、自分がサンギャンであることを忘れたくなったからなんだ。混血で血を薄めないと、憑依した霊に自意識が食われてしまうほど、激しい力が自分の中に潜んでいるという現実が怖かったんだ。絵を描く作業って、ある種、霊媒と似たようなものだと思われてるけど、実は、何かを見て聞いて、出会って、心を揺り動かされて、それを紙やカンバスの上に固定する、その間に存在する自分の心を確認して満足感を得る、とても自意識過剰な作業なんだ。結果的には、絵を本格的に始めてから、制御が可能になった分、僕のサンギャンとしての能力はアップしたけどね」
何となく、わかる気がする。私の場合はそれは「書く」という作業だ。五感から入り込んでくる情報を、言語に変換して文字を並べる、その間にあるフィルターとしての自分を意識している間は不思議と、情緒不安定な自分をコントロールできる。
「マサゴはね、この島で、いつもいつも歌っていた。“水を得た魚ってのはこういうものだね”って自分を笑いながら。オダランの旋律、インドネシアの民謡、日本の歌。伸び伸び、大きな声で、気持ち良さそうに一日中、死ぬまで歌っていたよ」
最期の夜、この浜で「椰子の実」を歌う真砂のイメージが目に浮かぶ。
「マサゴの看病をしながら、コミニュケーションを取るために日本語を教わって、一緒にたくさん歌を歌って。マサゴの隣で日本の歌を歌っていると、彼の悲しみやノスタルジーや、体の痛みがダイレクトに伝わってきて、僕の心の中、僕の知らない闇の部分が深く開かれていったんだ。僕の絵を描くスピードはその頃から急に上がって、アトリエはカンバスでいっぱいになった。マサゴは僕に絵をどんどん描くように勧めてくれた。ある日、マサゴは僕に”スナ”という固有名詞をくれた。自分の名と同じ意味を持つ名を、自分の分身として。サンギャンとしての役割の名ではなく、僕個人の名を」
「真砂は、スナのことをよほど大切に思っていたんだね」
そんなにも打ち解けた人は多分、私が知っている限り、真砂の人生の中で他に存在しなかったはずだ。
「・・・マサゴは僕に命をくれた大事な人だ。ミズエがマサゴを憎まずにいられなかった日々、僕はマサゴを失った空白を塞ぐ為に、近づいてくる女とも男とも、手当たり次第に寝ました。そうでもしなきゃ苦しくて生きていられなかった。そうしてでも生きていたかった。本当に、心から、マサゴの代わりに」
私は胸の前で組まれたスナの両手をそっとほどいて、振り向いた。
「あなた、ホモなの?」
「初めて好きになった人が男だったということです」
「真砂とも寝たの?」
「はい」
「世俗にまみれたサンギャンなのね!」
びっくりしたし、声はかなり震えたけど。バリで過ごした日々は私の心のキャパを大きく広げていた。そうか。彼に感じた親近感の正体は、ある意味それもあったのか。ふーん。
「二人目に心から好きになったのが、ミズエ。マサゴが、心から愛した女の子。マサゴの口から、ずっと大切そうに語られてた、女の子の名前。迫り来る死の恐怖が大きすぎて気が狂いそうになっていたあの頃のマサゴに、本当に必要だったのは、ミズエ、君の温もりだった。でも、彼は二度とミズエを巻き込むまいと心に決めていたから、僕は彼を正気にとどめる為に、もう一人のミズエとして、マサゴに寄り添った」
耳元で、歌うように囁く声があまりにも真砂そのもので、涙が出そうになる。
「ずっと、会いたかった。僕は一人で勝手に死に際のマサゴに誓ったんだ。いつか必ずマサゴの苦しみを、ミズエへの愛を、ミズエに伝える、と」
「それは、でも、真砂の本意ではなかったのでしょう?」
「“困る”って言いながら笑ってた」
クスクス、笑うけど、スナ、少し涙声。
「マサゴは彼なりに、自分の愛し方を通した。そのことに敬意を持って、僕は彼の遺言通り、預かった手紙を五年、送らずに耐えた。でも僕はマサゴはやっぱり間違っていたと、思う。傷つけあうことから逃げて、きれいに別れようとするなんて、本当の思いやりじゃない。ただ楽なだけの残酷な優しさだ」
「もういい。今更真砂を責めても、彼は帰って来ないから」
私はたまらなくなって叫んだ。
「もう充分だよ。ありがとう。あなたと話して、私と同じ悲しみを抱えていた人がもう一人いたってわかって良かった。気持ちを切り替えて、日本に帰って、真砂を忘れるように努力する」
「無理に忘れなくてもいいじゃないか。一生忘れられなくてもいい。僕はそう思う」
「でも私は彼だけを一生思い続けていけるほど強くはない」
「僕がいる。この島で僕と暮らそう」
ちょっと待った。それじゃあ、プロポーズじゃないの。
「彼がどんなに苦しみ、どんなに強く死と戦ったか、どんなに深く君を愛していたか、僕がすべて君に伝える。だから一緒に暮らそう」
「何言ってるのよ、子どものくせに」
「僕の本当の年齢は二十五だ。君やマサゴとほとんど変らない。サンギャンの血の持つ力があまりにも強すぎるから、他民族との混血で血を薄めてはきたけれど、遺伝上の異常で、サンギャンを継ぐ力を持つ者は十代で成長が止まるようになってしまった。でも心はちゃんと成人だし、ミズエを養えるだけの財産はある」
「同じ傷を持つ者同士、傷を舐め合って生きていこうなんて、惨めだわ。お断りよ」
自分が怒っているのか、パニックをおこしているのか、もうわけがわからない。
「この島で今まで何を見てきたんですか? いつまで不自然な価値観に縛られているつもりですか? 一緒に生きていくパートナーとして、こんなに分かり合える人間が他に見つかると思いますか?」
もうダメだ。逃げられない。私はこの浜辺で初めてスナに出会ったあの時から、こうなるまで、ゆっくり罠をかけられていたのだ。
「マサゴには、初めて会った時、僕がミズエに見えたんだって」
泣きじゃくる私の両腕を取り、スナは私を見下ろした。
「マサゴはこんな風にミズエにキスしたかったんだ」
二人の体が砂の上に音もなく崩れていく。つないだ両手の指の間一つ一つにまでキスをくれる、そういう、真砂のクセのすべて、私の一番悦ぶやり方を全部覚えてくれている。真砂の何もかもが、今、私の上にいて、私を包み込んでいる。こんなにも、真砂なのに、それは真砂の体ではない。真砂の魂だけを受け継いだ、真砂ではない何か。激しく、熱い、生きている、物。
悲しみや悔しさではない、そして決して幸せのせいでもない涙が溢れてくる。快さのあまりの涙、これは。
「私は遊びの恋なんてしたことないのよ」
「これは遊びの恋ですか?」
「そう、だって嘘だもん、こんなの」
「では僕をマサゴと呼びなさい」
「真砂、真砂」
愛しい響き。嬉しかった。誰の前でも思う存分口に出来なかった。愛しい人の愛しい名前。抱きすくめ揺すぶられながら吐息のように呼び続けその度に熱く溜め息をつくスナの肩に、頬に、額にくちづけた。果てる瞬間、叫ぶように、その名を呼んだ。黄泉の世界と現世の境目で、波に向かって、真砂を呼んだ。
真砂。冷たくて、無愛想で、ひねくれてて、放っておけなかった。少しでも目を離したら、存在が消えてなくなりそうで、いつも不安で、必死でそばにしがみついていた。私と付き合いだして急に伸びた背、低くなった声・・・生きて成長していた証。すべてが眩しくて、いつも愛しくて涙が出そうだった。
遠ざかる、愛しいあの肩の線。この島で、“永遠”になる。
…そこにいるね、真砂。私、あなたを一生忘れない。
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