第五章「ハテ」①

『今、僕はとても厳粛な気持ちでここにいる。思い出すのは君の無防備な片エクボや、隠そうともしないぐちゃぐちゃな泣き顔や、社会に対する不器用すぎる関わり方ばかりで、やはり一番大切な人は君だったと改めて実感している。君は僕の人生に唯一つ意味をくれた。この敬意と感謝を伝えずに別れてしまったことがどうにもならない心残りだ。

 でも、君の心の中で僕がレアなうちに、この思いを伝えれば、君のことだから一生僕の存在を引きずって孤独に生きてしまう。だからこの心を五年かけて届ける。この手紙は僕の死後五年を経て君に届くようにこの島の友人に託す。その頃には君も僕なんかよりずっとましな男と幸せに暮らしていて、こんな酔狂な手紙も感傷的な思い出話に出来るだろうと思って、僕の本当の心をここに残しておく。

 僕は、君を愛していた。心から。

 どうか、どうか今、君が幸せでいて欲しい。ずっと、もっともっと幸せに生きて欲しい。それだけを祈る。

 さようなら。』


“名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ

ふるさとの岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月”


 悲しい悪夢の余韻の中、遠くの方から歌声が聞こえる。歌っているのは、真砂? スナ?

夢の続きに、夢がまた揺り返してくる。早朝の教室。揺れる白いカーテン・・・ああそうだ。あの歌は、私が真砂と初めて出会ったあの日、彼がハミングしていた歌だ。私が教室のドアを開けたあの時、物凄く不機嫌な顔で睨みつけられたっけ。






 目が覚めたら、枕もとの壁の『iyashi』の巨大なカンバスに見下ろされていた。スナのアトリエ。スナの掠れた歌声はキッチンの方から聞こえる。

 窓から差し込んでくる月光が眩しい。誘われるように立ち上がると、夢の余韻と微かな頭痛で頭がぼんやりする。

 大きな満月が、水平線の少し上にぽっかりと浮かんでいる。

 泳ごう。そうだ、海で泳ぐのなんて久しぶりだ。子どもの頃、近所の海水浴場で浮き輪で浮かんだ位。

  Tシャツを脱ぎ、腰に巻いたバティックの結び目をのろのろと解き、下着も全部脱いで、浜辺へ出た。

 真夜中の海の水は、ぬるりと冷たく肌にまとわりつく。ちゃぷ、ちゃぷ。耳をくすぐる波音しか聞こえない。仰向けに浮かんで、星空を見上げながら、「子宮の中の羊水とはこういうものだろうか」などと有りがちな連想をした。

・・・そうだ。真砂の遺灰も、この海には溶けているのだ。

「何やってるんですか?!」

呆れたようなスナの大声が、波打ち際の方から聞こえた。

「沐浴(マンディ)は川でするものですよ。海はランダのものだから。そんなだからランダに付け入られるんだ」

「だって、満月が呼ぶんだもん」

「完璧に毒されてるなあ、ランダに。いいからあがっておいで」

「やだ」

 水着も着けていない上半身を腕で隠すのを見て、スナは溜め息をつくと自分の着ているシャツを脱いで浜辺に置き、後ろを向いた。私は慌てて水から上がり、スナのシャツを身に付けた。

「まさか外国人の観光客にまで憑くとは思わなかった。あいつら節操無いなあ」

 タオルでごしごし私の髪を拭きながら、スナはのどかに言った。

「私にとり憑いてたのはランダなの?」

「ランダはこんな簡単に憑依したりしない。君に憑いたのは下級レベルの霊」

「なーんだ。どうせ憑かれるならランダが良かったなあ」

「罰当たりな発言だなあ」

 スナ、苦笑している。

「ミズエ、死にたかったんだね。マサゴが死の綺麗な部分しか見せないで行っちゃったから、君、ずっと死に憧れてたんだろ。そういう弱みに付け込まれたんだ」

「嘘―! 私、自殺するほどの勇気持ってたら、手紙受け取った時点で実行してたわ」

「自殺に必要なのは勇気じゃなくてタイミングですよ」

 笑いながら私のシャツの胸元をつつく。右胸に、聖剣でわずかに突いてしまった痕が、小さな内出血になっている。私はスナの手を強くはたいてから、言った。

「でも、もうよくわかった。真砂は私が絶対に行けない場所に行っちゃったって」

 現実を口に出してみると、やっぱり辛い。

スナが背中越しにそっと私を抱きしめてくれた。さっき、トランスが解けて気絶する瞬間にも感じた懐かしい匂い。あれは、真砂への懐かしさではない。かつての真砂が持っていた、そして今のスナが持っている、生きている者の腕が持つ、温もり。

「真砂は何故死ななければならなかったのかな。あんなに早く。私、彼の病名さえ教えてもらえなかった」

「難しいことはよくわからないけど、人間にはみんな同じ量の、生きる為のエネルギーが与えられていて、彼はそれを普通の人の何倍もの早さで使い切ってしまったんだと思う。そりゃ、彼だって、自分の生き方をゆっくり選んで生きたかったろうけど。何かきっかけがあって・・・例えば前世での業とか、そういう理由で生き急がずにはいられなかったんだろう。でもその分、彼の人生は、ゆるやかに生きている人々の何倍も濃縮されていたと思う」

「私に関わらなかったら、運命が変わって、もっとゆっくり生きられたの?」

 スナは、首を横に振って、私の頭を撫でた。

「巻き込まれたのはミズエの方だよ。マサゴってさ、誰とも関わりたがらないくせに、いるだけで周りに影響を与えずにいられない人だったでしょう?自分を知る人のいない所で死にたいなんて口では言いながら、僕の村の人を巻き込んで、僕の人生観もひっくり返して」

 そうか、ここにも真砂の強烈な個性の犠牲者がいたのか。

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